第38話.挑発
ある晩――獣人達の国家ロムルス連邦の遠征軍を率いていた赤獅子氏族のジュルチャガは、騒がしい叫び声と鼻を刺激する焦げ臭さに目を覚ました。
彼が目を開けると同時に、天幕へと飛び込んで来たのは直属の部下である。
「旦那! 大変でさぁ! 食糧が燃やされてやがる!」
「あんだと!?」
只人よりも優れた身体能力を維持する為に、獣人達はより多くの食事を必要とする事から食糧が燃やされる事は帝国や将国のそれとは比較にならない程に致命的なダメージとなる。
だからこそ警備は厳重にしているし、油など燃えやすい物は別個に保管され、篝火からも遠ざけられていた。盗み食いなど発見されようものなら即座に死罪となるほど徹底していたのだ。
それにも関わらず、獣人達の優れた嗅覚や聴覚、夜目を掻い潜って食糧に直接火を付けた者が居るという。
「消火はしてんだろうなぁ!?」
「すぐに火は消し止められましたが、被害は出ています! また消火活動の隙を突かれて幾つかの騎乗動物が逃がされてます! 縄を何者かに切断されており――」
その後も続く被害報告にジュルチャガは思わず頭痛を堪えるように頭を抑え、立ち止まってしまう。
食糧の三割が消失し、数十匹の騎乗動物が逃走するなど、その後の作戦行動に大きな支障が出てしまうからだ。
帝国軍が驚異的なスピードで反乱を鎮圧してしまったが為に、次は連邦か将国が逆侵攻を受けるだろうと予想されているだけに頭の痛い問題だった。
幸いな事に国境が近いため補充をしようと思えば出来る。だが破壊工作の対策を立てなければいくら補充しても、その度に燃やされるだろう。
そして破壊工作の魔の手が自国内に伸びないように、ここで食い止める必要があった。
「現場指揮官共を招集しろ! 何故まだ俺のところに一人も来ていない!?」
「恐らく対応に追われているものと思われます、すぐに呼んで来ます」
そうして苛立ちながら待つこと数分――ジュルチャガの耳に届けられたのは、現場指揮官の半数が両腕両脚の腱を斬られ行動不能になっているというものだった。
「な、に……?」
「猿轡を噛まされており、悲鳴を上げて助けを呼ぶ事も出来ず、ご丁寧に止血などの処置までオマケにされている始末で……」
「いったいどれだけの工作員が紛れ込みやがったんだ……?」
只人の奴らが五感に優れた獣人の警戒網を突破する事は容易ではない。それなのに十数人の人間が一斉に行動を起こしたとしか言いようがない被害が出ている。
それほどの数の人間が紛れ込んで、誰一人として気付かないなんて有り得ない。そして敵国の領土内で気を抜くほど、自分の部下は間抜けではなかった筈だと。
「とりあえず消火も重傷者の把握も済んでいます。工作員の捜索と、追加の警戒人員の選定は運の良かった現場指揮官達が行っておりました」
「そうか……暫く寝不足の日が続くな」
やはり初期対応が早い。自分の部下達は優秀であると確信したジュルチャガは、だからこそ彼らの目を欺いた帝国の工作員の正体が分からず思い悩む。
連邦だって帝国に諜報員を潜り込ませている。だがここまで短時間の内に破壊工作を行えるような精鋭を、それこそ一つの戦場に何十人と投入できる程の余裕は無かった筈だと。
「それとも本気か? 本気で連邦に攻め入ろうと?」
だとしたら本国にも警戒を呼び掛ける必要がある。
そんな事を考えながら、装備を整える為に自らの天幕に戻ったジュルチャガは我が目を疑う事になった。
〝軍を退け――黒猫より〟
いったいいつの間に侵入したのか、そんな言葉が血で描かれた布が天井から垂れ下がっていたのだ。
「く、黒猫だァ?!」
「我が国の裏切り者という意味でしょうか?」
「違ぇわ! コイツはウチの諜報員を何人も狩りやがった帝国の飼い猫だ!」
しかもそれだけではない。自分の天幕に保管していた地図や機密書類など、今回の遠征で必要な物が盗み出されていたのだ。
金庫は初めから合鍵を持っていたかのように開けらており、中には『まぬけ』とだけ書かれたペラ紙が一枚。
ここまでコケにされたのはジュルチャガの人生で初めてだった。彼は怒りに震え、不相応にも自分への〝命令〟が書かれた布を破り捨てる。
「人を集めろォ! まだそう遠くには行ってねぇ筈だ! 残り香を追え! 絶対に捕まえろッ!!」
「了解です!」
天幕に用意された椅子にドカりと座り、ジュルチャガは苛立ちを抑えるように爪を噛む。
「冷静になれ……だが怒りは忘れるな、それは俺の原動力になる……」
ブツブツと自らに言い聞かせるように呟き、そして視線を上げる。
そこには無事だった現場指揮官が勢揃いしていた。
「半数は俺と共に黒猫狩りだ! 奴を捕まえれば帝国の諜報能力は大きく下がり、また幾つもの機密を吐かせる事が出来る。残りはアノンの指揮の下で拠点防衛! いいな!?」
「「「「「「はっ!」」」」」」
「いやぁ、連邦の連中は挑発に弱くて助かるね」
小声でそれだけを呟き、一連の流れを見ていた新人工作員はその場を後にした。
暗部所属の新人工作員です。初任務として皇帝陛下の偽妃を演じていたら溺愛されてしまいました。……これっておかしくないですか? たけのこ @h120521
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