第37話.陥落
「レイシーは戻らないのか」
俺とベルナールしか居ない執務室に、そんな自分の言葉が反響する。
あの賑やかでいて、目が離せない仔猫のような存在が居ないと思いのほか時間が長く感じられてしまう。
いつもの癖で彼女の分まで焼き菓子を用意させたせいか、皿の上で冷え切ったそれが酷く勿体ないように思われる。
「三日ほど前に一度戻ったばかりじゃないですか」
「そうか、そうだったな」
将軍の副官……レオニートと言ったか? そいつが作成した報告書を携えて定期的に戻って来てはいる。
今のところ順調に状況は進んでいるようだが、それでも長い距離を往復しながら偽妃と暗部の両立は相当な負担になる筈だ。
少しばかり休んで行けと言ってもレイシーはなんだかんだ言って固辞してしまう。あれは最初こそ働きたくないなど言うが、いざ仕事が始まるときちんと責任感を持って最後までやり遂げようとする。
おそらくそういう教育を受けて来たのであろうが、自分に甘えてくれないのは少しばかり面白くない気もする。
「レイシーはまだ戻らないのか」
「戦況が気になるのでしたら、コチラからも送りますか?」
「……いや、よそう。将軍を信頼していないと軍部に思われかねん」
ほんの一瞬だけ考えて、そして即座に却下する。
きちんと定期的に、それも短い間隔で報告を寄越しているのに、何の理由もなくまるで詰問するかのようにコチラ側から使者を送れば余計な不信感を生むだろう。
将軍は気にしないどころか、それを理由に俺を揶揄うかも知れない。だが将軍に心酔している部下や、将軍に恩のある者たちが反発心を抱く可能性がある。
それに戦況を気にするあまり、現場の負担も考えずに何度も使者を送るというのも、戦上手の皇帝としてのイメージとは反する。
器の小さい小心者であると思われては堪らないし、ここはドッシリと鷹揚に構えているべきだろう。
暗部の黒猫として、レイシーが持って来た報告書に目を通すだけで良い。
「レイシーはまだ戻らないのか」
「今頃は州都攻略で忙しいのではありませんか?」
「将軍の進軍速度が速いからな」
定期的に送られてくる報告書には必ず何処を陥落させて、そしてどのくらいの捕虜を解放したという情報が含まれている。
ただ進んだ、包囲したでは終わらない。次の報告書を送る前にもう他の拠点や都市を落としているのだ。
そして解放した捕虜を軍勢に加える事で、帝都を出発した時よりも人員が増えている。その増えた人員を幾つかの部隊に分けて、次の攻略目標へと現地集合させる事で人が増えた事で落ちる筈の進軍速度を保っている。
そのため凄まじい勢いで属州の攻略が進み、つい三日前には『これかワレンティア州都の攻略に入る』と書かれていた。
おそらくレイシーも工作員として内部に潜入したり、情報を集めたりと忙しいのだろう。
「レイシーはまだ戻らないのか」
「……陛下、先ほどから同じ事ばかり仰ってますよ」
「……そうだったか?」
「はァ」
疲れたように溜め息を吐かれてしまっては、自らを顧みて反省するしかあるまい。
確かに彼女の行方が気になり、何度か呟いてしまったかも知れない。自信はないが、ベルナールの奴が言うのであればそうなのだろう。
「すまん、以後気を付ける」
「……少し入れ込み過ぎですよ」
「忠告、覚えておこう」
まだ何か言いたげであったが、ベルナールは少し逡巡した後にそっと書類へと視線を戻した。
あまり強く言っても仕方がないと思ったのか、それともまだ許容範囲だと思ったのか……少なくとも釘は刺されたのだから気を付けねばなるまい。
しかしながら、俺はレイシーの何がそんなに気になっているのだろうか。偽妃として演技で接する相手に本気になるほど愚かでもないつもりだが、やはり彼女があの子に似ているから――
「へいか〜、報告書ですよ〜」
「っと、レイシーか!」
「……窓から入って来るんじゃありません!」
「オカン許して」
思考を遮る可愛らしい声にハッと振り返ってみれば、そこには窓枠に足を掛けたままベルナールに雷を落とされている仔猫が居た。
窓からの侵入という刺客と勘違いされてもおかしくない入室方法だった上に、その直後の苦言におふざけで返したのが原因だろうな。
その様子に、二人のやり取りに思わず自然と笑みが浮かぶ。皇帝として国家の歯車となってから笑う事など滅多になくなったというのに、彼女が居るだけでこんなにも簡単に笑ってしまうのだから、冷酷無慈悲の魔王などと呼ばれている俺にもまだまだ人間の血が通っているらしい。
「うっ、うっ……馬車馬の如く働くレイシーちゃんに対する労いが無い」
「よしよし、優秀な暗部には焼き菓子をやろう……焼き立てではないがな」
「わーい! 陛下大好きー!」
「甘やかさないで下さい!」
少しくらい良いではないか、どうせレイシーの為に用意させた焼き菓子なのだから。
「それで? 報告書は?」
「もごもごっ……これです、今回は将軍からのお手紙らしいですよ」
「ほう?」
通常であれば将軍自らが書いたという事は、何かしらの進展があったか、もしくは緊急事態が発生したかのどちらかだ。
ただあの将軍の事だからな、特に大した用もなく、ただ何となくで意味不明な内容が書き連ねられていても不思議ではない。
少しばかり嫌な顔をしつつ、封を開けてみればごく短い文章のみが書かれていた。
〝やったぜ! ワレンティア陥落!〟
こんな雑に書き殴って良い内容ではない気がするが、あの将軍には何を言っても無駄だろう。
手紙をベルナールに手渡しつつ、詳しい状況を知ってそうなレイシーへと視線を向ける。
「反乱は鎮圧できたそうだな?」
「むぐっ、はい、これから反乱を扇動したと見られる二カ国に逆侵攻するんですが、どちらから攻めるか議論しています」
「二正面作戦は避けたいな」
「片方は私が時間稼ぎするので大丈夫ですよ」
焼き菓子を頬張りながらサラッと言ってのけたレイシーに驚き、彼女を凝視する。
「一人でか?」
「そりゃ、何人か人員は借りますけど、基本的には一人ですかね? その方が動きやすいですし」
「危なくはないか?」
「危なくない任務なんてありませんよ」
「そうではなく、あまりにもリスクが高すぎないか?」
危険ではない任務など無いという言葉はその通りだが、その前提を分かった上でなるべく危険を排除していくものではないのか?
今の戦勝ムードであれば諸侯から援軍を募る事も出来る。軍勢を二つに分けたり、レイシーがわざわざ身体を張って危険に飛び込む必要性を感じられない。
「うーん、そっちの方が楽っていうか、早く終わるので……」
「どういう事だ?」
訝しむ俺の執務机に将軍の手紙を置きながら、ベルナールが口を開く。
「彼女がそっちの方が良いと判断したのでしたら、そうなのでしょう。彼女は普通の人間とは違いますから」
「しかし、流石にリスクが高過ぎないか?」
「大丈夫ですよ、この程度では彼女は死にません」
「信頼しているのだな」
「私が育てましたので」
「育てられました」
ベルナールを指差して「生産者表示」などと言って怒られるレイシーを観察し、特に気負っている様子が無いことを確認する。
どうやら本気で援軍を待つよりも楽で確実な方法と思っているらしい。
「だが一応追加の軍は募っておくぞ?」
「え? あぁ、はい。将軍やレオニート様からも占領する時に人員が必要なので、追加を要請しろとは言われてたのでお願いします」
「それを先に言いなさい」
「いひゃいれふ」
目の前で頬を引っ張られる少女を見ながら思う――レイシーはいったい何度ベルナールを怒らせれば気が済むのだろうかと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます