自分のための贈り物

 「貴方の素顔が見たい」「一緒に暮らしましょう」なんて意味合いを持つ婚約リップがプロポーズの定番アイテムになって久しい。

 僕ら獣人も知っているくらいの常識だ。

 でも常識だからって気軽に手を出せるかと聞かれたらそんなことはない。

 人間と獣人のカップルなんて組み合わせが普通になってきたのもここ10年くらいの話で、人間と獣人にはまだまだ大きな隔たりがある。

 一目惚れした人間の彼女と出会って6年、付き合い始めて3年、同棲して10ヶ月。もうそろそろ結婚を考えたい頃だ。

 だけど獣人にプロポーズなんてされたら困らせるんじゃないかと不安はずっと消えない。

 婚約リップの力を借りれば、この耳も尻尾も気にならなくなるだろうか。


 金曜日の夜、料理当番だった僕に代わって彼女が皿洗いをしてくれている。音痴な彼女の鼻歌も一緒に暮らし始めてから毎日聴いていれば、慣れてきて何の曲を歌っているかもわかるようになった。

 きっと彼女は皿洗いが終わればソファに座る僕の隣に座ってくれるだろう。その時クッションの下に隠した婚約リップを渡す予定だ。

 流水の音が消えた、彼女がやってくる。

「今日も良い毛並みですねえ」

案の定、彼女は僕の隣に座っていつも通りに僕の尻尾を撫でだした。多くの人間が奇妙な目で見る銀色の狼の尻尾も彼女にかかれば子犬のぬいぐるみと変わらないようだ。

 いつもはブラッシングを頼んだりその日にあったことを話したりするけれど、今日はそんな気も回らないほど緊張している。頭に回るはずの血液が全部心臓で止まっているんじゃないかと錯覚するほど頭は真っ白で心臓の音ばかり大きい。

「あのさ、」

意を決して発した第一声は思いのほか大きくて硬かった。うん?と彼女はスマホを見る手を休めてこちらを向いてくれる。

「これを、貴方に着けてほしいです。これからずっと」

 白い小さな長方形の箱を彼女の前にずいっと押し付ける。顔なんて上げられなくて頭は下げたままだ。

 彼女の声は聞こえない。いきなりのことで言葉を失っているらしい。だけど、僕の手から箱が抜けていく感触がした。

「これ、婚約リップ……?」

顔を上げれば、白い円筒に金色の模様が綺麗なリップが彼女の手の中にあった。

 6年も一緒にいたら彼女の好みくらいわかる。好きそうな見た目と色のリップを夜な夜なネットで探してやっと理想の物を見つけたのだ。

 彼女の顔を見ると呆けた表情だけれど頬は赤くて、少なくとも嫌悪感は無いようだった。

「つけてもいい?」

もちろん!と首が取れそうなくらい縦に振る、ついでに尻尾も。

 彼女はスマホのインカメラで器用に唇に色を乗せる。オレンジはデートでいつも着けている色だ。彼女に一番似合う色だと思う。

 紅を引いた彼女がこちらを向く。めっちゃ可愛くて抱きしめたい気持ちが募る。

「世界一可愛い」

「ありがとう、一緒に住んでるんだから素顔なんて見慣れてるのに」

クスクスと笑いが止まらない彼女を見て、婚約リップを贈る意味を思い出して耳の先まで真っ赤になるのを感じる。失敗した、安直にリップを渡すんじゃなかった。

 さっきまで興奮でバタバタしていた尻尾が急に元気を無くす。昔みたいに婚約指輪の方が喜んでくれたかな。

「私からもね、渡したいものがあるんだ」

 彼女が仕事の鞄から出してきたのは高級感のある青い小さな袋。

「開けてみてよ」

言われるがままに包装を解いて小さなケースを開ければそこには、銀色の輪が2つ。

「これ指輪?」

「違う違う、これはねえ」

 彼女がケースから取り出すと、指輪の輪は途中で2つに分かれていてピアスなのだと知る。

「これね、内側にイニシャル入れられるの。婚約指輪みたいでしょ?」

ピアスを一つ手に取って内側を覗き込むと、小さく彫られたM to Rの文字。

「あなたの1番目立つところつけて欲しくて」

 そう言って彼女は膝立ちになって僕の耳を撫でた。そこでハッと思いだした。彼女に一目惚れした日のことを。周囲の人間が狼男の僕を避ける中、一人だけ輝く笑顔で「素敵な耳と尻尾ですね!」と声をかけてくれたあの日の彼女を。

「指輪はお仕事で手袋するから見えないだろうけど、ピアスならどこでも着けていられるしみんな一度は見るだろうから」

僕は奥さんいますよーってアピールするんだよ!とおどけた口調の彼女を思いきり抱き締める。

「僕の奥さんになってください」

これは潰してしまいそうな小さな彼女を一生大切にするという誓いだ。

「はい、喜んで」

耳元で返答が聞こえて彼女の腕が僕の背中に回る。

 今はまだ、獣人である自分を完全に肯定できる気はしないけど、彼女とは全く違うけむくじゃらの耳も彼女には生えていない尻尾もリップが擦り切れる頃には大切に思える日が来るかもしれない。



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