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月並海

言葉がなくとも伝わる思い

 マスクをつけることが日常になってきた今でも、大勢の前でマスクを外す機会は意外とある。

 舞台上や公衆浴場、レストランやプール、そして接待だ。


 一昨年医療機器メーカーに新卒で入社した私は病院への営業が主な業務だ。

 新規顧客の開拓とか営業ノルマとか足で稼ぐ!みたいな古臭くて汗臭いことはほとんどないのが医療機器メーカーの営業の良いところ。

 お医者様の接待が月に何度もあるのが医療機器メーカーの営業の悪いところだ。

「ほら、しゃんとしろ!今日の相手はお得意様だぞ」

いまいち張り切れない私を注意するこの人は私の直属の上司。新入社員時代からOJTしてくれている先輩であり、本日の接待にも同行してくれる優しい人だ。

「大体なあ、俺の3年目って言ったら接待も1人で行ってたぞ?」

「お言葉を返すようですが、女の子1人で接待をさせるのは会社的にもよろしくないのでは?」

20代そこそこで自分を女の子、なんて呼ぶのは恥ずかしいけれど1人で接待は絶対無理だし嫌だ。コミュ力カンスト先輩には末長く一緒に接待してもらわなければならない。

 しばらく考えるフリをした先輩は

「それもそうか」

と笑顔を溢した。この笑顔に私は勝てないのだ。


 今日の接待の相手はお得意様だった。だけど私は初対面でいつも緊張するけど今日は割増である。

「本日はよろしくお願いします」

大人数で集まる際は基本マスクを取らないが、ここは接待の場。マナー的にも印象の為にも取らないわけにはいかず、マスクを取ってにっこり挨拶する。

 上座に座るおじ様が何故かじいーっと私の顔を見てきた。

 無礼があったかと冷や汗をかいていた私に対しておじ様の口から出た言葉は

「彼女すっぴん?」

 しまった、リップが薄すぎた。


 お得意様に化粧の薄さを指摘されて数日、私はリップを探し求めていた。

「まだ探してんのか…」

呆れた口調で隣の席に座る先輩を他所に私はコスメレビューを読み漁っている。

「営業として社会人として女としての自尊心を回復させるにはこれしかないんです」

大体マスクのせいで一瞬でとれるリップをつける意味があるのだろうか、いや無い。

だけど失礼にも程があるじじいをぎゃふんと言わせてやりたい。

 適当に流し見していた商品一覧の中に特別目を引くものがあった。

「最近婚約リップって流行ってますよね」

婚約リップ。マスクをすることが日常になった昨今、結婚を望む男性が女性にプロポーズの意味で贈るアイテムだ。なんでも「あなたの素顔を見たい」「一緒に暮らしたい」という意味があるらしい。

「あれかー?結構値が張るだろ」

心臓が大きくドキリと鳴った。

 なんで値段知ってるんですか?とは聞けなかった。だって聞いたら、リップを渡す相手も知らなきゃいけなくなるから。

「そうですよね、くれる相手もいませんし見るだけにしておきますー」

戯けた返答に先輩が笑ってくれたことだけが幸いだった。


 婚約リップの衝撃から数日後、次の接待が決まった。初めて先輩以外の人と行う接待だ。

「大丈夫か?俺がいなくてもしっかりやれよ」

 先輩は出張で北海道に向かう。前日は有給を取っており、接待の日は休日だ。

彼女と前泊でもするのかな、とか考えたらとても笑顔ではいられなかった。

「任せてください」

マスクがあって良かったと初めて思った。


 接待当日、一緒に向かう上司とは会社の前で待ち合わせをすることになり私はそれまで残業だ。

 結局メイクはそれほど改善せず、申し訳程度に濃い目のアイシャドウと悪目立ちしないピンクのリップで仕上げた。過去最大に気乗りしないが行かねばならない。仕事だ。

 フロアの電気を切ってエレベーターに向かおうとしたその時、


「間に合った…!」

なんでいるんだ。

 目の前には北海道に出張してるはずの先輩が、息を切らして立っている。いつもきちんと着ている背広はなくワイシャツに汗がしみている始末だ。

「出張はどうしたんですか!?」

ぜいぜいと息を吐く先輩に駆け寄る。頭の整理はまだまだ全然ついてない。

「俺以外と接待行かせるのに、渡し忘れたものがあって」

手出して?と言われて素直に両手を出すと乗せられたのは

「婚約リップ…?」

キラキラと美しい装飾の施されたリップだった。

「え、え、え、え」

これはもう脳がキャパオーバーを起こしている。言葉が何も出てこなくて、目頭が熱い。なんで、彼女いるんじゃないんですか。なんで、ただの後輩にこんなの渡すんですか。

「これつけて接待行けばさ、お前が予約済みって誰でも分かるから。つけてってよ」

これはだめだ。涙でる。メイク崩れるから泣かないように唇を噛んで、首だけ縦に振る。

 すると、ほっとした顔の先輩がいつものように頭を撫でてくれて、なんとも言えない安心感と実感を得た。

もっともっと話したいことも聞きたいこともいっぱいあるけれど、時間は許してくれなかった。さっきからポケットのスマホのバイブが鳴りっぱなし。時計は集合時間を指していた。

「先輩、ありがとうございます。これつけて、行ってきます」

「おう、行ってこい」

 いつも一緒にいたこの人がいないのは不安だけど、さっきよりも確実に心は強くなった。

 リップを塗ったらビジネスの時間だ。

 トイレに寄って早速リップを塗れば、顔色がパッと明るくなった気がして華やかに見えた。

 私の勝負リップだ。


『出張から帰ったら俺の家に引越ししよう』

接待が大成功に終わった帰り道、こんな連絡が来ていたのを今の私はまだ知らない。



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