サカナ
作倉
サカナ
僕と彼女の出会いは、偶然的なものだったのか、それとも必然的なものだったのか。いずれにせよ僕の中にある記憶は何故かおぼろげなもので、彼女との日々は本当に実在したのだろうか、なんて考えが浮かんだりもする。
幼少期の頃の僕は動物がとても好きで、親に何度も犬が欲しいとか猫が欲しいとかそうねだったものだ。実家は一戸建てでペットを飼うこと自体に問題はなかったのだが、両親は共に動物が好きではなくむしろ嫌いなほうで、僕のお願いは幾度となく却下された。だったらせめて動物園に行きたい、そう思いお小遣いを貯めては何度も近所の小さな動物園に足を運んでいた。
「将来の夢は動物のお医者さん!」
なんて思ったりもしていた。しかし現実は甘くなくただ好きという感情だけでは通用しない。恥ずかしながら学力が足りず、動物について学べる志望大学はことごとく落ちた。浪人生の道を選びたかったが親の猛反対を喰らい、滑り止めの普通の大学に入学することになった。ふわり、ふわり。生きている心地がしなかった。
気落ちしていた僕だったが進学先の大学に通うには実家からでは遠い。僕は地元を離れ一人暮らしを始めることになった。ということは、「ようやく念願のペットを飼える!」そう期待に胸を膨らませたが大学近辺にはペット可のマンションやアパートはあまりなく、あったとしてもとても家賃が予算範囲内に収まらなかった。
こっそり内緒で飼えるとしたら、ハムスターやウサギ、魚あたりだろうか。そういえば近くにアクアショップがあったな。部屋探しで大学近辺を散策した時に見つけたことをふと思い出し、僕は休講になった時間を使いふらりと立ち寄った。
……そこで僕は彼女と出会うことになる。いや、彼女を知ることになる。
店はそれ程広くなかったが、清掃がちゃんと行き渡っており水槽や床も綺麗に磨かれている。魚達も僕が見る限り皆健康そうだ。僕が訪れた時、店員は男女一人ずつおり、片方の男性店員が僕に声をかけてきた。
「どういった子をお探しですか」
魚を「子」と表現する様子に、何故か僕は少しドキリとした。
「あー、えっと、狭い水槽でも飼えるのが……」
人付き合いが下手な僕はどもりながら要望を伝える。僕の住む部屋は至って普通の1Kで居住スペース自体は六畳程なのであまり大きな水槽は置けない。
「でしたら、この子とかいかがでしょうか」
そう言って店員は、棚に並べられている小さな丸い水槽を手で示した。その水槽の中には、カーテンのようにひらひらとした特徴的なヒレを持つベタが泳いでいた。
「ベタ、ですか」
「えぇ。よくご存じですね」
水槽と水槽の間には仕切りがされていた。ベタは闘う魚と書いて闘魚とも呼ばれ、雄同士を同じ水槽に入れるとどちらかが死ぬまで戦い続けることもあると聞いたことがある。仕切りがあるのは、水槽越しに威嚇するのを防ぐ為なのだろう。
「この子達は肺で呼吸することもできるので、うまく飼育するとコップで飼うこともできるんですよ」
「へぇ……面白いですね」
「まぁそれはあくまで可能という話でして、上級者向きかもしれません。最初はこれぐらいのサイズの水槽で飼ってあげることがこの子の為かと思います。あとは、水草などで綺麗にレイアウトすると、癒しにもなって良いですよ」
店員に説明を受けながら、大きな青いヒレを持つベタに目を奪われる。グラデーションがかった青く美しいヒレが揺れ動く度、心が高鳴る。
「……この子、気になりますか?」
「そう、ですね。……ちょっと、他も見ていいですか」
「えぇ勿論。どうぞごゆっくり」
そう言って店員は僕の元から離れた。僕はしばらくその青いベタを眺め、他の水槽へと視線を移す。色んな水槽を見て回るうちに子どもの頃をふと思い出した。実家から少し離れたところにある大型のショッピングモールにはペットショップも存在し、金魚やメダカ、幾種類かの熱帯魚もおりそこが僕の水族館だった。親が買い物をしている間、ずっと子犬や子猫を眺めたり水槽にへばりついたりしていた。買い物を終えた母親がそんな僕を見て、「また見ているの」と、少し呆れた声を出したのを今でもよく覚えている。
そんなことを思い出しながら水槽を眺めていたもので前方に注意が行き渡っていなかった。気付いた時には、ある水槽の前でしゃがみ込んでいる人にぶつかりそうになった。
「うわっ」
思わず声を上げる。バックヤードへ向かう女性店員がこちらを見たが、僕が慌てて頭を少し下げると向こうも頭を下げ店の奥へ消えた。足元にいたのは自分と年が変わらなさそうな女性だった。パーマをかけているのか少しうねった長い黒髪に、白いワンピース、青色のカーディガン。何故か、先程見たベタを思い出した。
「す、すみません」
「……」
女性はしゃがみ込んだまま顔だけ上げた。……妙な目力のある人だ。何となしに言葉を待ったが、女性は何も言わず微かに頷いてまた水槽へと視線を戻す。これが僕と彼女の出会いになるのだが……正直、奇妙な人だと思ってしまった。その日僕は再び大学に戻り、講義をすべて受け終わってからまた店に向かいベタを購入した。帰宅後、僕は短い廊下を進んだ先の部屋に入ってすぐ脇のところに腰ぐらいの高さのテーブルを置き、その上に水槽を設置した。
「……初めてのペットだな」
そう呟き、ぼんやりとベタを眺める。少々警戒しながらも優雅に泳ぐベタを見ていると心が洗われていく気がした。そして、今日見かけた女性のことを思い出す。変な人だと思ってしまったが……僕こそ驚かせてしまったかもしれない。そういえば、視線の先には大きなアロワナがいたなぁ。見てみたかったがその女性が水槽の前をずっと占拠していたので見ようにも見られなかった。明日もちょっと覗きに行こう。
翌日の昼休み、適当に昼食を取ってから僕は足早に店に向かった。昨日と同じ男性店員がいた。声を掛けてきたので少し話をしてからアロワナのいる水槽の元へ向かう。僕はあの女性のようにしゃがみ込み、その魚を見つめる。随分と立派なアロワナだ。ちゃんと飼育されている様子がヒシヒシと伝わってくる。体長は100センチといったところだろうか。だとしたらもう成魚だな。買い手がつかないと少し可哀想な気もするが……。
ふと、背後に気配を感じた。その主は僕の存在など気にもしないようで、スッと隣にしゃがみ込んだ。あぁ……昨日の。花柄のワンピースに、昨日と同じような淡い青色のカーディガン。すぐ隣にいる僕のことなど見向きもせず、ただ、じっと、アロワナを見つめる。……昨日僕を見た時とは違う目つきだ。どう説明していいか分からないが、とても優しい目をしていた。そんな女性を見つめる僕。妙な空間だったかもしれない。何故か女性から目を離せないでいると、女性はゆっくりとこちらに顔を向けた。
「あ、すみません。じろじろ見て……」
慌てて立ち上がる。視線を下げると、女性は既にまたアロワナを見ていた。
「……」
やっぱり変な人だ。向こうからしたらじろじろ見てくる僕も十分に変な人かもしれないけど。そろそろ昼の講義が始まるのでまた大学へ戻った。もうすぐ学期試験が始まり夏休みがくるというのに未だ友人は一人もできず、これからの大学生活の雲行きが不安になる。周りが友人や恋人らと楽しそうに話している中、自分だけがこの風景から切り取られているような感覚を憶えた。……それが、堪らなく恐ろしかった。
狭いアパートに帰宅し、一目散にベタの様子を見に行く。ゆったりと泳いでいる姿に僕は頬をゆるめる。そういえば、鏡を見せてあげると映った自分を敵だと勘違いし威嚇を始めると聞いた。これをフレアリングと言う。やり過ぎは良くないが、時々させてあげないとヒレが癒着してしまうそうだ。
引き出しの中から手鏡を取り出し、ベタの前に置いてみる。すると興味を示したのかすぐに寄って来た。そしてヒレを大きく広げ、僕の前でフレアリングを始めたのだ。その姿は、カーテンが風に煽られ開かれたように見えた。数分経ったところで手鏡を伏せた。ベタが不思議そうな顔をして僕を見た。「今のは何?」とでも聞きたそうに。そう思うのは気のせいだろうか。
その日の晩、僕は水槽の前に椅子を置きずっとベタを眺めていた。自分がこうも寂しがり屋な人間だとは思わなかった。何だか、ようやく仲間ができた気がしたのだ。地元を離れ家族や数少ない友人とも離れ離れになった。そして興味の無い分野の大学に進学し早くも周りから浮いてしまった。どうせ浮くのなら、この水槽の中にたゆたう水草になってしまいたい。眼鏡を水槽の横に置くとベタがひらひらとそれに近寄った。僕は膝を抱え、息を長く吐いた。
翌日は休日だったので昼過ぎまで眠った。予定もないしこのまま眠り続けていたかったが、体にまとわりつく寝汗がとてもそんな気にさせてくれなかった。もう、世界はこんなにも暑くなっていたのか。体を起こし眼鏡をかける。じっとりとべたつく汗が鬱陶しい。シャワーでも浴びよう。そう思い浴室に向かった。ふと鏡を見てみれば、そこには生気を失った顔をしている男が一人。
「髪伸びたなぁ……髭も剃らないと」
熱いシャワーを浴びると不思議にも気分が晴れていくようだった。スッキリした心身で水槽を覗くと、今日もまたベタは優雅に泳いでいた。餌を少し与える。うん、元気そうで何より。さて、自分も何か食べなくては。冷蔵庫にある少しの野菜と卵で炒飯を作ってみた。中々いける。腹も満たされたところで時計を見た。時刻は一時半……。部屋に居てもすることがない。まぁ、外に出る用事もないが……。思いつくままにスマホと財布を鞄に放り込みアパートを出る。アクアショップに行きたかったが流石に毎日行くのも気が引けて大学とは反対方向のちょっと大きい公園までやって来た。野球をしている中学生ぐらいの男の子達と、それを眺める人が何人かいる。
「……」
特に興味もないが自分も眺める側に混じってみようかと思いベンチに腰を下ろそうとした。すると、何かが腰に触れた。
「? ……あっ」
驚いた。ベンチには女性が横たわっていた。それにすら気が付かないなんて、ぼんやりしているにも程がある……。
「すっ、すみません!」
女性は少し頭を上げ僕を見た。この人、アクアショップで会った……。
「……」
女性は今日も無言だ。言葉を発することなく起き上がり、枕代わりに置かれていた鞄を膝に乗せた。ひょっとして、座る場所を空けてくれた? 恐る恐る、僕は女性の隣に腰を掛けた。
「あ、あの。人違いだったらすみません。この近くのアクアショップによくいますよね……?」
女性は軽く頷く。
「あの、もしかして、声……」
「……出ますよ」
その声色に思わずドキリとした。少しハスキーがかった特徴的な声だ。思えば僕は、この時から彼女の虜になっていたのかもしれない。……いや、違う。アクアショップで会った時、既に僕は彼女に恋をしていたのだ。
「そ、そうでしたか。すみません」
「アロワナを見てる時は、それだけに集中していたいんです」
なるほど。と一瞬思ったが、いやいや、とその思考を否定した。僕も動物や魚が好きだが、それだけに集中したいが為に喋りたくないなんて思ったことはないからだ。やっぱり変な人だ。
「アロワナ、好きなんですか」
「……はい」
目尻が下がり、口角は少し上がる。あぁ、余程好きなんだな。
「ベタの子は、元気ですか」
「えっ、知っているんですか?」
「はい」
「元気にしていますよ」
「……可愛がってあげてくださいね」
そう言うと女性は立ち上がった。またあの店に行くのだろうか。だとしたら、もう声が聞けなくなる。喋れなくなる。妙な焦燥感に駆られ自分も立ち上がった。
「あ、あの。えっと、どう言って良いか分からないんですけど……。お、お友達に、なりませんか」
「……私と?」
女性は少し驚いたような表情を見せた。それもそうだろう。ほぼ初対面の人間に、何の脈絡もなく友達になろうと言われたのだから。
「そ、そう」
それにしても、自分が何故あんなことが言えたのか今でも不思議に思う。だって、友達になろうなんて一度も言ったことがない。ましてや女性なんかに。したことはないが、多分告白より緊張する行為じゃないだろうか。そう思えるほど緊張した瞬間だった。
女性は一瞬視線を地に落としてから、再び僕をじっと見据えた。初めて会ったあの時の妙な目力を感じた。何と表現したらいいのだろう。軽蔑の目ではない。魚を思う時の優しい眼差しでもなかったが。……サカナ。脳裏にその三文字が過ぎった。魚のような目。こっちを見ていることは確かなのだが、本当にその目は僕を見ているのか、分からなくなる。
――魚。
その時、風が強く吹き彼女の長い髪が靡いた。
「……いいですよ」
彼女が僕の部屋へ訪れるようになったのは、その日からそう時間はかからなかった。分かったことは、彼女は僕の一つ年上であること。少し病弱であること。僕とちがう大学に通っていること。一人暮らしをしていること。進学に伴う環境の変化で体調が悪化し、今は休学していること……。
しかし本人はもう大学に戻る気はなく、毎日をうとうとと過ごしているそうだ。それなら実家に戻った方が良いと僕は思った。それとなくそう提案してみたが、親と反りが合わないようで、一人でいた方が精神的に楽だと言っていた。
「一人が楽なようでしたら、僕といたら疲れちゃいませんか」
「……もし疲れてきたら、また一人になります」
それも何だか寂しい返事だ。
友達だった時も、その線を越えても、僕と彼女は敬語から抜け出せずにいる。別に僕はこのままでも良いと思う。苦に思ったことはないし、むしろ楽だと思うほど。彼女はアイスコーヒーが好きみたいで、いつの間にやら僕の部屋の冷蔵庫には大きなペットボトルのアイスコーヒーが入っていた。今まで僕はあまりコーヒーは飲まなかったが、彼女の影響で飲むようになっていた。最初は苦さに顔を歪めていたがその内慣れ、その苦みが癖になっていた。
僕と彼女の付き合い方は非常に淡白で、特殊なんだと思う。僕にとっては初めての彼女で、彼女も多分僕が初めてだと思うのだが……何て言ったら良いのだろう、きっと恋人らしくない。彼女はふらりと僕の部屋を訪れてはベタを眺め、アイスコーヒーを飲み、本を読み、時々掃除をしてくれたり料理を作ってくれる。その間僕は、水槽の中にいる魚を目で追うかのように、彼女をじっと見る。
「……何でしょう?」
最初は見られることに首を傾げていたが今ではすっかり慣れたようで、時々目が合えばそっと微笑んでくれるようになった。それに対して僕は特にこれといった反応もせず、ひたすら彼女を眺める。彼女の仕草や所作は非常に落ち着いていて、優雅と言ったら少々褒めすぎかもしれないが美しかった。そして、どこかやはり魚に見える。そうだ。あのアロワナの様子は見に行っているのだろうか。
「最近、アクアショップには行ってますか?」
「えぇ、行ってますよ。ここに来る途中に」
「元気にしてました?」
「はい。相変わらず」
僕も覗きに行ってみようかなぁ。しかし、何故彼女はアロワナが好きなのだろう? 他の魚を見ている様子もなく、何度か理由を聞こうとした。なのに、何故だ。触れてはいけない気がする。妙な胸のざわめき。僕はそれが怖くていつまで経っても聞けずにいた。その内夏休みは終盤に差し掛かったが僕と彼女の関係は平行線だった。
ちょっとした用事で大学へ行ったその帰り、僕は久々にアクアショップを訪れた。例の男性店員と目が合い、ベタのその後の話をちょっとした。店員は他の客に呼ばれ僕の前から立ち去る。僕の足は自然と、あのアロワナの元へ向かった。少し驚いた。あの巨大がない。名前と値段が書かれてあったプレートもない。売れたのか? そう思った時、背中に視線を感じた。彼女だ。
「……アロワナ、売れたみたいだね」
そんな声は届いてないようで、彼女は隣にしゃがみ込み空になった水槽を呆然と見ていた。あの姿を捜しているようだ。先程の店員が近付いてくる。
「こちらの水槽に入っていたアロワナ、昨晩可愛がってくださるご主人が見つかったんですよ」
彼女は……案の定、と言ったところだろうか、店員の声にも反応しない。ただ無表情で水槽を見つめる。その目にはあの優しさもなく、怒りもなく、ただ、濁っていた。店員は困ったように僕を見た。僕はしばらくそっとしてあげたかったが、店員も困っているし、もし万が一他の客から変に思われ好奇の目に晒されるのは嫌だ。僕は彼女の腕を掴み、水槽から引き剥がした。
「嫌」
「……嫌じゃないです」
「離して」
「帰りましょう」
「帰らない」
「今日は帰りましょう」
「どうして、ねぇ」
店員が手を貸そうとしたが、僕は目でそれを制した。喚く彼女を無理やり外へ連れ出し自分の住むアパートへ向かう。その間彼女は僕の手の平に爪を立て、容赦なく後頭部を睨みつけていた。それでも構わなかった。……聞くべき時が来たのかもしれない。
部屋に着くとベッドに座らせ、アイスコーヒーをコップに注いであげた。取り敢えず落ち着かせなくては。僕は水槽の前の椅子に座り、同じくアイスコーヒーを飲む。最初は苛立っていた彼女だがコーヒーを三杯飲みほしたところで少し落ち着いたのか、また濁った目で僕を見据えた。
「……聞いてもいいですか。どうして、あのアロワナにこだわっていたのか」
「……」
ベタが心配そうに僕らを見ていた。
しばらく待ってみたが彼女は閉口したままだ。やはり触れちゃいけないことか……。そう思い立ち上がろうとしたその時、彼女が、薄く口を開いた。
「……子どもの頃の話です」
ぽつり。彼女が言葉を溢す。
「父が、浴室で死んだのです」
「……浴室で?」
「正確には、浴槽の中で。飼っていたアロワナを抱えて。……溺死でした」
脳裏にその映像が送り込まれた気がした。
―― 一人の男が、狭い浴槽の中で体を少し折り畳み、大事そうにアロワナを抱えて死んでいる。
僕はそれにゾッとする。髪は頬に纏わりつき、皮膚はふやけている。アロワナもきっと同じように息絶えているのだろう。
「私が、最初に見つけたんです。その体を」
「……ショック、でしたよね」
彼女は少し首を傾げる。
「何だか、不思議でした。ただ眠っているだけに見えて」
僕には何だか不可解な点があった。そんな経験があるのならば普通はトラウマを抱いて苦手意識が芽生えるのではないのだろうか? 特に幼少期に起きたショックな出来事は、いつまで経っても心のうちから消えない。
「……アロワナが好きなのは、どうして」
「好きっていうか、懐かしいんです。父が水槽の中を漂うアロワナを眺めながら、お酒を飲んでいたこととか思い出して」
「トラウマになってないんですか」
「えぇ。……だって、アロワナを見ているだけで、あの頃へ戻れた感じがするから」
彼女はアロワナを通して遠い過去を見ていたのだろうか。だから、あのような優しい眼差しを水槽に投げかけていた……。声も出さず、ただ、ひたすらに。
「そう、だったんですか……」
そしてまた、ゆっくりと時間は流れ始める。彼女はそれっきり何も喋らなかった。僕ももう、何も聞かなかった。
その日以降、彼女は僕の前に姿を現すことはなかった。寂しいと言えば寂しいが、本当に彼女という人は実在していたのだろうか。そんな考えすら頭をもたげる。ずっと夢を見ていた気がしてならない。アクアショップの店員にでも話を伺いに行きたいところだったが、身内に不幸があり僕は店に行く暇もなく1週間程帰省した。再びこっちに戻ってきたときその足で直接アクアショップに行ってみたが、どういう訳か閉業になっていた。客足はあったし、常に清掃がきちんと行き届き客も魚も大事にしていた店が、何故……。
忽然と、彼女とアクアショップは僕の前から姿を消した。まるで、あのアロワナがいなくなった後の寂しい水槽のように僕の心にはぽっかりと穴が空いてしまった。
重たい足取りで部屋に戻ると、玄関やら廊下、部屋が水浸しになっていた。僕は何事かと驚き目を見開いた。……水槽が割られている。床に叩きつけられたベタは既に息絶えていて、哀しそうな目で僕を見ていた。
一体何故。誰がこんなこと……。
「おかえりなさい」
どこからかそんな声が聞こえたような気がした。浴室を覗く。
そこで僕は、彼女と再会した。
サカナ 作倉 @skr007
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