マジックミラー
しゃくさんしん
マジックミラー
14歳を過ぎた写真は、家のどこにもない。他の家でもそうなのかは知らない。
アルバムはリビングのテレビ台に収納してあって、恐らく100円の、とても分厚いプラスチック製のもの、四冊。
生まれたばかりの頃はフィルムで、ある時期からはデジタルで写されている。夥しい枚数。
カメラを向ける母を鮮明に覚えている。父にはカメラを渡さず、執拗に自分で撮りたがった。
*
14歳までのすがたしか写っていないアルバムを、母はある頃から一日中眺めているようになった。どこまでも無表情に似た微笑みをたたえて。
母の髪は真昼の雪のように白い。
夜、母はアルバムを開いたまま眠りにつき、朝、目覚めると開いたままのアルバムをまた眺めはじめる。
*
マジックミラーのむこうで、自慰に似た姿態をする女を見る。1時間8000円。それ以上長くは入らない。小さく暗い箱は息がつまる。
*
マジックミラーのむこう、女を下から照らすライトが設置してあり、個室の箱の中、ミラーだけが明るい。私を見ることはない女を、私は一方的に見つめ、機械的な動作で、射精をする。
蚊が飛ぶ。頭上高く浮かび、ミラーのむこうへゆく。
行方が知れなくなる。
性交における相手の温度も、自慰においてわきあがる憂鬱な夢もない、乾いたおこない。目線の交わらない、透明な壁をはさんだ、二つの自慰。私は不能だった。
母は私の前に一人孕んだと言った。子どもの頃のことで理解が及ばなかった。それを告げられたのは一度きりだ。私の後に孕んだことがあるかは知らない。
古い写真によく写っている、幼い女の子に、どこか似た女だった。どこが似ているとは分からないが、決定的に似ているように見えた。写真で見知っているだけで、おぼえもない。写真はファイルから取り出すと、時期によって違う匂いを纏っていた。古くなるにつれ、植物のように香り立つ。
私の手を代行するように、女の手が身体をゆっくりと撫でる。かえって、掌に心が向き、触れるもののない空白をおぼえる。
*
自分の親指で掌の真ん中の辺りをなんとなく撫でた。ミラーに触れようとすることさえ、おそれた。女の視線を前にすると不能だった。自慰を試みる時にも女の視線がよぎった。マジックミラーのむこうにある身体へ、見返されることのない視線をそそぐことでしか夜を越えられない体質の、私は不能だった。フィルムで写された古い写真。枚数が夥しいから無意味の記録も多い。私の身体の各部。足首、腕のつけ根、上唇、抜け落ちた小さな歯。あるいは日々を取り囲んだ風景。給水塔、駐輪場の錆びた青いトタン屋根。
夕刻の赤い公園、少女、象のオブジェ。女が股を指でなぞる。演技が熱を帯びる。広い団地群の、誰の家にあがっても、自分の家と同じ間取りだった。誰かが転出すると、誰かが転入してきた。同じ間取りに。
*
身体をこちらへ近付けてよがる。ミラーの軋む音が鳴る。女の白い肌がミラーに吸いつく。光がすくなくなり、箱の暗がりが深まる。やがて射精を済ませる。
*
女もひとしきり作業を終えると、服を整え、ミラーの前に居住まいを正した。薄い壁を隔てた隣、皮膚を掻く音がする。店の中のいくつかの個室に、幾人かの男の身体がある。
その身体たちが、日の下に立てば、足から影が伸びる。
女が改めて名前を言い、ありきたりな挨拶をする。見えていないはずのこちらへざらついた明るい声を投げる。写真に写る女の子の影はとても遠くまで伸びていた。
女の目と、目が合った。
私の足下からも影が伸びる。暗い箱の中で、影は失せる。
*
あわてて身をよじり、女の視線の先から外れた。
女の目は微動だにしない。先までと同じ点へまなざしを据え、なにごとかを言っている。視線と視線の位置が重なったに過ぎなかったのだ。喉元に滞っていた息がゆるむ。
斜めから女のなにも見ていない視線を、眺めた。
やはりいつか見たはずのようだった。しかし、なに一つとして、思い出せはしなかった。
むなしい記憶を探りながら、曖昧な心地で、虚空へ投げっぱなしの女の視線を見つめていた。
見返すことからゆるされている女の目と、等しくいま見返されることから逃れている私の目とは、はたして似通ってくるだろうか。なにもかもを無防備に見つめる幼児の、二つの眼球のように。
ふたたびこみあげるものがあった。
*
母の寝息が低くよどむリビングで、そっとアルバムのページをめくる。清潔な新生児室。画面の中央、いくつも並ぶ新生児のうちの一つが、ベッドのネームプレートから自分とわかるが、とても自分のようには思えない。
自分の子どものようにさえ思う。
母の出産した年齢を超えて、更にいくらか齢を重ねているからだろうか。
若い母が窓ガラスに薄らと反射している。眼と鼻は構えた使い捨てカメラに隠れて、髪が黒い。
マジックミラー しゃくさんしん @tanibayashi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます