第3話

 その朝、小十郎は仰向けで熟睡していた。

 人間たち――とりわけ犬好きな――は、この姿勢を「へそ天」と呼ぶ。


 腹は急所だ。毛も薄く、後ろ足の内側は無毛で柔らかな肌が剥き出しになっている。

 頭や首、背中のようにもさもさとした毛にびっしりと覆われている箇所と違い、腹は無闇にさらせば命に関わる。

 犬同士の争いにおいて、劣勢になった側が腹を見せるのは、急所をあえて晒す降参の証だ。

 小十郎の横で、太一郎が体を丸くして目を閉じている。

 体を丸くして尻尾で鼻先を隠している犬は、どんなに深く眠っているように見えても半ば覚醒している。

 不審な物音や気配を察知するとぱっと瞼をあげ、耳をピクピクと動かして注意深く辺りの様子を伺う。危険が去ったなと判断するまで警戒を怠らない。


『……』


 塀の向こうに一台の車が止まった音を聞き止め、太一郎はぱっと目を開いた。

 隣で仰向けになった小十郎は、すぴすぴと鼻を鳴らして眠ったままだ。

 太一郎はふうと息をつく。

 小十郎も執事としてこの堀之内家の平和を守る役目があるのだが、いかんせん幼い。

 何しろまだ見回りに出たこともないのだ。

 いくつかの試練を乗り越えなければ家から出してもらうことはできず。

 家を出られなければ、見回りの任をまっとうすることもできないのである。

 呼び出しベルの音が響いた。かなり大きな、人間の来訪を告げる合図だ。

 階段を降りてくる足音がする。

 太一郎は立ち上がった。

 何者かがこの堀之内家に侵入しようとしている。そして堀之内の者がそれを迎え討とうとしている。

 太一郎は堀之内家の執事。主人たちよりも先に侵入を試みている賊の前に立ちはだかって阻止しなければならない。

 太一郎が寝床であるクレートが設置された居間を出て行く。

 小十郎はやはり仰向けのまま、すぴすぴと寝息を立てていた。



 

「はいはい、っと……」


 廊下を進む太一郎の前に堀之内宗高が出てきた。2階と1階をつなぐ階段を降りてきたのはこの宗高だ。


『宗高様、ここは私が!』


 三和土の前に陣取って唸る太一郎をまたいで、宗高は玄関のドアを開ける。


「お疲れ様です」

「堀之内さん、こちら、お間違えないですね?」

「はい、どうも」


 宗高はお馴染みのユニフォームに身を包んだセールスドライバーの差し出す伝票にサインをして荷物を受け取る。

 セールスドライバーは、宗高の足元で警戒心をむき出しにしている太一郎に笑いかけた。


「おはようわんちゃん。今日もちゃーんとご主人を守ってて偉いねぇ。では」

「ははは、ありがとうございます」


 苦笑しながら応じた宗高は、ドアを閉めるとかがんで太一郎と目を合わせた。


「いつもの人だよ、いい加減覚えろ」

『お言葉ですが宗高様、何者かを確かめもせずに開けるのは不用心です』

「二階から宅配のトラックが見えたんだって」

『見慣れたトラック。それもまた油断を誘うための敵の罠かもしれません』


 傍目にはわうわうわうわう、と太一郎が唸っているようにしか見えないだろうが、宗高の耳には人と同じ言葉として聞こえている。

 受け取った荷物を居間に運ぶ宗高の横に太一郎はぴたりとついていく。見回りの際もこうして主人の左足にぴたりとついて、時々主人の目を見て危険はないと伝えるのが太一郎の役割だ。

 小十郎は変わらずに仰向けですぴすぴと寝息を立てている。

 それを一瞥した宗高は、届いた荷物の封を開けた。


『宗高様、それは?』

「あいつのハーネスとリード。首輪とお揃いのを彩羽が注文したんだ」


 太一郎が軽く目を見張る。


『では、いよいよ…』

「うん。その前にワクチン打ちにいくけどな」


 主人の言葉に太一郎は顔色を変えた。

 ついに小十郎もあの恐ろしい試練を受けるときが来たのである。

 自分がこの家に来た時のことを思い出し、太一郎は苦渋をはらんだ面持ちでうつむいた。

 その時、仰向けの小十郎が鼻をぴくぴく動かして、瞼をゆっくりとあけた。


『……なんだか、いいにおいが…』


 ころんと転がってうつ伏せになり、ふがふが鼻を鳴らしてあちこちに目を配る。

 太一郎はすとんと尻を落とし、背すじをのばして、きりりとした面持ちで主人を見上げた。

 宗高の手にあるものが小十郎を目覚めさせた。太一郎はあのセールスドライバーがトラックから降り立ったときからそれに気づいていたが、抗いがたい誘惑に全力で打ち勝って主人を守る役目を果たしていたのである。


『宗高様、それは…?』


 小十郎の目がキラキラ輝く。黒い眼が見つめているのは、焦茶色の小さな賽の目状のものがたくさん入った透明な袋だ。密封されていても犬の嗅覚はごまかせない。

 肉だ。


「鹿キューブ。今日お前が頑張ったら、あとでご褒美に食べさせてやるよ」


 しかきゅーぶ。初めて聞く言葉だったが、小十郎の胸は生まれて初めてというくらい弾んだ。

 小十郎はすっくと立ち上がって尻尾をぶんぶん振った。


『はいっ! 頑張ります!』

「よく言った。じゃあ行くぞ」

『はいっ!』


 間髪を容れず応えてから、小十郎は怪訝そうな顔で太一郎を見やった。


『ええと、宗高さま、どこに…?』


 その問いに重々しく答えたのは太一郎だ。


『見回りの許可証を得るために、必要な試練だ』


 小十郎ははっとした。以前太一郎が話してくれた、あの恐ろしい試練が、ついに自分に課せられる時が来たのか。

 廊下の奥にあるクローゼットから、子犬がすっぽり入る大きさのソフトキャリーバッグを宗高が出してきた。

 太一郎は目を細めた。あれは、太一郎がまだまだ小さな子犬だった頃にも活躍した、自身の足で歩かなくてもあちこちに移動できる、とても優れた柔らかい箱だ。

 成犬となったいまではもう、体があちこちつかえてしまって入ることはできない。あれに入ると、ふわっと浮き上がるような感覚の後に一定の振動で足場が不安定になるのだ。

 宗高と彩羽が昔交わしていた、かるくてりゅっくにもしょるだーばっぐにもなってべんり、りゅっくならいろはでもせおえる、という会話が太一郎の脳裏を懐かしくよぎる。


「よし。小十郎、これはキャリーバッグというものだ。出かけるからここに入れ」

『え……』


 宗高に命じられた小十郎は、躊躇して思わず太一郎を見た。

 赤虎の甲斐犬は重々しく告げた。


『試練はもう始まっているのだ、小十郎』


 小十郎ははっと目を瞠ると、緊張の面持ちで頷いた。


『は、はいっ』


 ボストンバッグ型のソフトキャリーはファスナーで横が開閉する作りだ。横面がメッシュになっていて通気性がよく、外も見える。

 宗高がキャリーバッグの片側についているファスナーを開く。キャリーの三方向をぐるっと囲むようにつけられたファスナーを全開にすると、側面が縦に開く。

 パタンと倒れた側面を踏みながらそろそろとキャリーバッグの中に入った小十郎は、そのまま伏せの姿勢を取った。


「お、偉いな小十郎」


 宗高の褒め言葉に、じっという音が重なった。何事かと振り返ると、側面が閉じられていた。


『……っ』


 小十郎は震えた。閉じ込められた。

 しかし、これが試練なのだ騒いではならない、と己れに懸命に言い聞かせる。

 キャリーバッグがぐんっと宙に浮いた。


『……っっっ』


 小十郎は耐えた。怖くてひゃんひゃんと鳴いてしまいたかったが、全力でその衝動と戦い、抑え込んだ。


「さて、行くぞ太一郎」


 財布とスマホをポケットに入れて促す主人に、太一郎は感情を押し殺した無表情で従った。







 

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犬執事・小十郎 結城光流 @yukimitsuru

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