第2話

 堀之内家の犬は、朝と晩の二回、主人の住む街に異常がないか見回りをする。


 伝え聞く話によれば、昔は自由に街を歩けたという。

 しかしいまは人間たちのルールが変わり、犬は主人と行動することを義務付けられたとかで、首輪に手綱をつけられて、主人とともに街を歩くのだ。

 そういう時代だからと言ってしまえばそれまでだが、職務のために主人を付き合わせなければならないのである。

 なんとも悩ましいことだ。



 しかし、黒柴の小十郎はまだ、見回りに出たことがない。

 毎朝毎晩、宗高と彩羽が太一郎を供に見回りに行くのを見送り、帰ってくるのを出迎える日々だ。

 耳を立て胸を張って玄関から出て行く赤虎毛も凛々しい太一郎を、小十郎はいつも憧れの眼差しで見つめている。

 自分も早くあんな風に堂々と胸を張って見回りに出たい。



 今朝は雨だった。

 風邪気味だという彩羽は残り、宗高がひとりで太一郎を供に見回りに出かけた。

 雨の日、堀之内家の犬は雨よけのコートを着るのが決まりなのだそうだ。

 太一郎は、擦れるとがさがさ音がする、ちょっとうるさい雨よけコートを着せられていた。

 あれは太一郎のためにあつらえられたものだという。

 ならばいつか自分も、自分のためだけの雨よけコートをもらえるはずだ。

 そう思うとわくわくする小十郎だった。


 天から落ちてくる水の粒を、雨と呼ぶ。

 そう教えてくれたのは彩羽だった。

 小十郎にとって、雨が降る音は不思議な響きだ。

 風の音とも、木の葉が擦れあう音とも、人々がかわす声音とも違う。


 飽きることなく窓の外を眺めていると、隣に座った彩羽が口を開いた。


「小十郎も早く散歩に行きたいねぇ」


 彩羽に撫でられた小十郎は、くるんと巻いた尻尾をブンブン振って応える。


『はいっ! 先輩のようにしっかり見回りをして、彩羽さまや宗高さまを必ずお守りします!』


 元気よくワンワンと吠える小十郎の声は、まだまだ幼い子犬のそれだ。

 彩羽は苦笑気味に頷く。


「うん、ありがとう。太一郎と小十郎がいれば、わたしもお兄ちゃんも安心」

『任せてください!』


 さらに激しく尻尾を振っていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。


 ただいま、という宗高の声に、ワンという太一郎の低い鳴き声が重なる。


『戻りました』


 だが、彼らの姿はすぐには居間に現れない。

 太一郎の雨よけコートを宗高が脱がせ、四本の足を洗い、コートから出ている頭、首、お腹、尻尾、つまり全身を拭いてからでないと、家に上がってはいけない決まりになっているからだ。

 ちなみに雨の日以外は濡れタオルで足を拭くだけである。


 小十郎は待ちきれず居間を出て玄関に向かった。


『宗高さま、先輩、お帰りなさい!』


 雨の日はいつもと何が違うのか。

 今日はどんなものを見て、何と遭遇したのか。

 同族たちは毎日同じ場所に特別な手紙を残して情報を交換し合うという。雨の日は、それが消えてしまったりしないだろうか。


 太一郎に教わりたいことは、数限りない。

 たくさんのことを教わって、はやく一人前になりたい。

 太一郎とともに見回りに出たい。


 いまはまだ月が満ちていないとかで、家から出してもらえないのだけれど。

 執事見習いの小十郎はそれが歯がゆい。


 実は、一人前になるためには、恐ろしい試練を乗り越えなければならないのだという。

 太一郎もそれを勇敢に乗り越えていまがあるのだそうだ。

 しかも、その試練は生涯に一度ではない。

 年に一度、必ず訪れるらしいのだ。


 少し前、どのような試練なのかを、小十郎は太一郎に恐る恐る問うた。

 すると太一郎は、苦渋に満ちた顔でひとこと、こう告げた。


『……堀之内家への忠心を試されるようなものだ』

『え…そんなに…?』


 生涯仕えることになんの疑いもためらいもないはずの、堀之内への忠心が揺らぐほどの試練。

 想像することすら恐ろしく、小十郎は言葉を失ってすくんだ。

 そしてそれを乗り越えてきた太一郎を、心の底から尊敬した。



 堀之内家の玄関は、三和土が広く作られている。壁に物掛けがあって、雨よけコートやリード、ハーネスなどをかけられる仕様になっている。


「彩羽、お湯くれ」

「はーい」


 宗高が居間のほうに声をかけると、洗面所から返事があった。

 湯気のたつ洗面器を両手で持ってきた彩羽は、それを三和土に置いた。

 上がり框に腰かけた宗高が、太一郎を抱えるようにして、前足を片方ずつお湯につけて泥汚れを洗い落とす。

 太一郎はじっとしているが、小十郎にはわかる。耐えているのだ。

 目が険しい。顔がこわばって、口を少し開けて浅く速い呼吸をしている。

 宗高の手を払いのけ、全身をぶるぶると大きく振るわせて気持ちを落ち着けたい衝動を、全力で抑え込んでいる。


 太一郎先輩、すごい!


 きっと自分なら大暴れしてしまう。

 小十郎の胸の中にある太一郎への尊敬の念が、また一段と大きくなった。


 宗高の横にしゃがんだ彩羽が言った。


「ねぇお兄ちゃん」

「ん?」

「小十郎はいつから散歩に行けるの?」


 太一郎の後ろ足を両方洗い終え、あらかじめ玄関先に置いておいたタオルで拭いながら、宗高は考える顔になった。


「うちにきてから大体一ヶ月か?」

「うん。生まれて二ヶ月でもらってきたから、もうすぐ三ヶ月」

「そうだった。そろそろワクチン打ったほうがいいな」


 ワクチン、という単語に太一郎の目がくわっと開く。

 小十郎は驚いた。太一郎のこんな顔を見るのは初めて……いや、違う。

 一度だけ見た。

 試練についてを口にしたときだ。


「太一郎の狂犬病のワクチンもそろそろだよな。そのとき小十郎も一緒に連れていくか」


 小十郎ははたと気づいた。

 もしや、宗高が口にした『わくちん』というのが、一人前になるための試練なのでは。


 彩羽が笑って小十郎の頭を撫でる。


「小十郎、与四郎先生のところにいこうねー。えっと、狂犬病と……」

「パルボとコロナと、レプトスピラも一応いるか。8種混合かな? お前もだぞ、太一郎」


 抱えた太一郎の首元をわしわしと撫でる宗高が優しく目を細める。


『……かしこまりました』


 一度目を閉じて、絞り出すように応えた太一郎は、瞼を開くと小十郎を一瞥した。


『……耐えろよ、小十郎』


 小十郎は、やがておのれに迫るであろう『わくちん』という名の試練の恐ろしさに、ただただ震えた。








次回

執事見習い小十郎、与四郎先生とセドリックと初対面!

……たぶん






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