Last Train Home

棗颯介

Last Train Home ~故郷行き最終列車~

 僕は激怒した。

 人生であれほどまで親という生き物に怒りを覚えたことは生まれて十年の間一度だってなかったと思う。どう考えたって悪いのは僕じゃなくて父さんだ。なのにどうして僕が怒られなくちゃいけないんだ。約束を破ったのは向こうなのに。

 理不尽だ。

 そして大人は嘘つきだ。

 あんなのが僕の親だなんて信じられない。

 僕はひとしきり父の罵声を聞いた後、自室に戻って静かに荷物をまとめ、ひっそりとベランダから外へ抜け出した。

 人生で初めての家出。

 どこに行こう。どこへだって行ける。僕はもう自由なんだから。


 ———疲れた。


 家を飛び出して数時間。宛てもなく彷徨ううちに僕の足はすっかり悲鳴を上げていた。小学校のマラソンの授業でだってここまでふくらはぎが痛んだことはない。どこかで休みたいとは思うけれどあいにくショッピングセンターや公園なんて都合のいいスポットは見渡す限り見当たらない。

 というか、ここはどこなんだろう。

 家を出た頃には明るかった空には夜の帳が降り、道沿いに続く街灯は年季が入っているのかどこか光が頼りなく見える。視界の端にぽつぽつと民家は映っているが概ね絵に描いたような田園風景の中を自分は歩いている。疲労のせいで気付かなかったがお腹も空いてきた。

 ふと、視界の先に目立つ建物が見えてきた。何やら看板に大きな文字で漢字が書かれているがここからだと夜の闇のせいでよく見えない。僅かに残った体力で建物に向かって走る。もしかしたら腰を落ち着けられるところかもしれない。藁にも縋る思いだった。


 ———駅?


 建物の正体は電車の無人駅だった。駅名が描かれていると思われる看板の文字は年季が入って掠れているのでよく見えない。だが待合室と思われるスペースには明かりがついていて、ベンチに座っている客の姿も見当たらなかった。


「……ちょうどいいや。ここで休ませてもらおう」


 待合所のベンチに鞄を下ろし、倒れ込むように座った瞬間、それまで蓄積された疲労が一気に押し寄せてくるのが分かった。思わず欠伸でもするかのようなだらしない声が漏れてしまう。


「くぅ……っあぁ」


 ———まぁ誰もいないし気にすることもないか。


「坊や、ちょっといいかな?」

「ふぇ!?」


 突然後ろから声をかけられて思わず飛び上がる。振り返るとそこには見慣れない制服を着こんだ男性が立っていた。歳は見た目からしてだいたい父さんと同じくらいだろうか。なんというかすごく親しみやすそうな優しい顔立ちをしている。


「あぁ、驚かせてごめんね。おじさんは怪しいものじゃないよ。ここの駅員だから」

「……ここ、無人駅じゃなかったんですね」

「見た目がボロボロだからみんな勘違いするんだよ、気にしないで」

「……それで、なんですか?」

「こんな時間に一人で旅行にでも行くのかい?」

「……そうです」

「そかそか、ならいいんだ。この駅、昔からちょくちょく家出してきた子供が迷い込むもんだからねぇ」

「家出してきた子がですか?」

「そう。昔は家出してきた子を電車に乗せて近くの駅まで送り届けたりもしてねぇ」


 そう言う駅員さんはどこか懐かしそうに目を細める。最初に見たときもそう思ったけどどことなく親近感を覚える人だ。初めて会った気がしないというかなんというか。


「僕はそういうのじゃないので大丈夫です」

「ふーん。じゃあお父さんやお母さんとは仲が良いのかい?」

「……普通です」

「そっか、普通か。普通が結局は一番だよねぇ」


 嘘だ。仲が良いわけじゃない。というか旅行に行くわけでもない。僕はこの駅員さんが言うように家出してきたんだ。

 駅員さんは僕の隣のベンチに座るとさらに話しかけてくる。もしかして嘘が見抜かれているんだろうか。


「お父さんとお母さんのこと、好きかい?」

「……好きじゃない」

「えぇどうして?」

「…………嘘つくし、約束破るし、子供の僕は悪くないのに言いがかりつけて僕のこと叱るし。大人がそんなことするなんて思わなかった」


 そう言葉に出すと、疲労で忘れかけていた怒りの炎が再び燃え上がってくる。悔しくて、泣きそうになるくらい。

 駅員さんはフッと優しい笑みを浮かべて言った。


「そうかぁ、大人はそんなことすると思わなかったかぁ。でもね、それが大人になるってことだよ坊や」

「え?」

「子供っていうのは疑うことを知らない。小さい頃は親の背中を見て、親の言うことを聞いて育つもんだから、親がやることなすこと基本すべて正しいって思いがちだ。坊やが“大人がそんなことするなんて思わなかった”って思うってことは、逆に言えばそれまではお父さんとお母さんは正しい大人だって信じていたってことだろう?」

「……多分」

「でもね坊や、大人を信じるなとまでは言わないけど、大人に夢を見ちゃいけないよ。大人だからなんでも正しいなんていうのは子供の幻想だ。大人だって平気で間違えるし知らないこともたくさんあるしできないことや思うようにならないこと、自分の子供の願いを叶えられないことなんて星の数ほどある」


 あれくらいね、と駅員さんは待合室の窓の外に広がる夜空を指さした。古ぼけてくすんだ色に変色しているガラス越しじゃ、夜空に浮かぶ星々はこれっぽっちも見えなかったけど。


「大人だって完璧じゃない。それを知ることが大人になる第一歩だとおじさんは思うよ」

「……別に僕は大人になりたいわけじゃないですけど」

「そうだろうなぁ。大人っていうのは本当に大変だからね。自分一人分の食い扶持を稼ぐために一生懸命自分の時間を無駄にして、好きでもない会社の人に頭を下げて、家族のために朝から晩まで必死になって働いて、子供がいる親は子育てしたり休みの日に遊んであげたり、学校行事に行くために時間を作って、誕生日にはプレゼントとケーキを用意して、時々家族を旅行に連れて行って。おじさんだったらその中のどれか一つでも満足にできないと思うよ」

「……」

「だからね坊や。お父さんとお母さんに、たまには優しくしてあげるんだ。“ありがとう”と“ごめんね”っていう二言を言ってあげるだけで、親っていうのはそれだけで嬉しいものだからねぇ」

「……」


 ふと、今まで見てきた父さんの姿が思い浮かんだ。

 いつも僕と母さんが夕飯を食べ終わった後に帰ってくる父さんを玄関に迎えに行ったとき。玄関で靴を脱ぐときは疲れ切った表情の父さんが、僕の顔を見て「ただいま」と笑顔を見せてくれていたこと。時々コンビニで買ってくるお酒のおつまみを、母さんに内緒でこっそり二人で食べて笑っていたこと。僕を連れて近所の銭湯に行ったとき、小さな僕の背中を洗ってくれたこと。休みの日、父さんにねだって近所の公園に行って日が暮れるまでキャッチボールに明け暮れていたこと。僕が学校で熱を出した時、会社を早退してまで僕を迎えに来てくれたこと。

 いつだって父さんは優しくて、いつも父さんは僕に温かな笑顔を見せてくれていた。

 

 ———父さんも母さんも、今頃僕がいなくなって心配しているのかな。


 先程まで煮えたぎっていた怒りは静かに鎮火していき、代わりにだんだんと、二人のことが心配になり始めた。

 そんな僕の感情がもしかしたら顔に出ていたのかもしれない。話を切り上げるように隣に座っていた駅員さんが立ち上がった。


「さて、坊や。旅行に行くっていうことだったけど、行き先はどこかな?当駅はこう見えて世界一のターミナル駅だからね。どこへだって運んでみせるよ?」


 こんな田舎のど真ん中にこんなボロボロの駅舎のターミナル駅なんてあるわけがない。小学生の僕にもそれくらいのことは分かる。

 でも、自然と口は行き先を告げていた。


「……家に、帰りたいです」

「ん?どこだって?」

「………家に、帰りたい、です……うっ、うぅぅ……」


 家に帰りたい。そう言った瞬間、目から熱いものがとめどなく溢れてきた。それは後悔の涙だった。


 ———父さん、母さん、ごめん……。


 涙で歪む視界の中に、ふとピンク色の何かが差し出されていることに気付いた。涙を拭って改めてそれを確認する。切符だった。駅員さんがピンク色の小さな切符をこちらに差し出していた。


「これは……?」

「我が家行きの片道切符。お代はサービスしておくよ」


 ほとんど縋るようにその切符を受け取った。切符の表面には手書きのマジックで【我が家行き】と書かれ、その下に小さな字で今いると思われるこの駅の名前と到着駅名が書かれている。駅名を見たとき、ふと疑問が浮かんだ。


「これ、僕の名前……?」


 そこには僕の名前付きで「○○君の家行」と書かれている。この駅員さんに僕の名前を言った覚えはないのに。


「駅員さん、どうして僕の名前———」

「おっ、もう電車が来たみたいだ。さ、早く鞄背負って」

「え?えぇ?」


 見ると駅のホームにはいつの間にか見慣れない電車が到着していた。いつの間に来たのだろう、電車が近づく走行音や停車する音もまったく耳に届いていなかった。群青色の車体に一本の白いラインが伸びた車体はいかにも小さな男の子が好きそうなデザインだと思う。電車の名前はどこにも書いていないから分からないけれど。

 僕が待合室から駅のホームに出たのを見計らったかのように、目の前の車両のドアが開いた。オレンジ色のライトに照らされた車内は夜の闇も相まってどこか暖かみを感じさせる。

 確認するように隣に立っている駅員さんを見るが、駅員さんはただニコニコと笑うだけで何も語りはしない。その優しい瞳は、「遅れないうちに早く乗りなさい」と暗に告げているようにも見えた。

 いろいろと腑に落ちないことばかりだけれど、不思議とこれに乗れば家に帰れるような気がしている自分がいた。

 僕が意を決して車両のドアに向かって一歩を踏み出した時、背後の駅員さんから声をかけられた。


「坊や」


 ニッコリと笑う駅員さんの顔を見て、僕は気付いた。


 ———そっか、この人お父さんに似てるんだ。


「いろいろ言ったけど、いつか坊やが大人になったときは、坊やの子供に恥ずかしくないような大人になりなさい。大人は間違いもするけれど、でも子供の期待に応えてあげられるように頑張るのも大人の仕事だからね」

「……はい!」


 僕が車両に乗るのと同時にドアが閉まる。動き出す電車の窓から、こちらに向かって笑顔で手を振る駅員さんを、僕は駅員さんが見えなくなるまで見つめていた。


 ***


 家出した息子が見つかったのは、息子がいなくなった翌日の早朝だった。自宅からほど近い駅のホームで眠っているのを駅員さんが見つけたんだそうだ。息子がいなくなって完全にパニックになっていた妻を連れて私達は急いで搬送先の病院に車を飛ばした。


「お父さん、お母さん、心配かけてごめんなさい」

「いいのよ、無事でいてくれて本当によかった……」

「ごめんな、父さんもあの時言い過ぎた」


 息子は大きな怪我もなくその日のうちに退院したが、事情聴取した警察によると家出した後の行動についていろいろと不可解なところがあるらしい。


「息子さんは家を出た後に見知らぬ電車の駅で知らない電車に乗って帰ってきたそうなんです」

「見知らぬ駅?」

「はい、暗かったので息子さんも駅名は見えなかったそうですが」

「朝に見つかった駅から行ける範囲のどこかではないんですか?」

「そうかもしれないんですが、息子さんが見つかった時間にあの駅に到着する電車はないんです。それと、その駅にいた駅員さんから、【我が家行き】の切符を受け取ったと言っているんですが、そのような切符は息子さんの衣服や鞄のどこにも見当たらなくて。乗車したという電車についても、乗っている間の記憶はないそうです」

「【我が家行き】の切符?」


 その言葉の響きに、私は聞き覚えがあった。

 だがそれは、今から三十年以上前の話だ。それに、“あの駅”はもう———。

 退院した息子に私はそれとなく聞いてみた。


「なぁ、——。その駅員さんってどんな人だったんだ?」

「んーと、父さんに似た顔の人だったよ。あと、“大人だって間違えることはある”とか、“いつか大人になったら子供に恥ずかしくない大人になりなさい”とか、そんなこと言ってた」


 やっぱり覚えがある。

 でも、そんなことあるはずがない。

 私は妻と息子に無理を言って、車の進路を我が家から一転とある場所に向けた。

 

 ———確か、“あの駅”はまだあったはずだ。


 私達の住む町からおよそ二時間弱ほど車を走らせた場所に、その駅はあった。


「父さん、ここだよ!僕が昨日の夜にいたの!」

「でも、この駅ってもう……」

「あぁ、もうとっくの昔に廃線になってるはずだ」


 息子が昨晩訪れた駅は、私が子供の頃に廃線になった駅だった。建物自体はまだ残っているが、もう誰も使っていないし人が寄り付くはずもない場所。ましてや待合室で明かりがついたり駅員がいたりするはずがない。


「実はな、——。父さんも昔、お前と同じようにこの駅によく家出してたんだ」

「え?」

「父さんの叔父さんが、この駅で働いていたんだよ。まだ父さんが小さかった頃にね」

「でもあなた、叔父さんって確か……」

「うん、二十年以上前に病気で亡くなってる。そのすぐ後だったはずだよ、この駅が廃線になったのは」


 脳裏に浮かぶのは、もうほとんど忘れかけていた遠い日の記憶。まだ私が子供で、何者でもなかった頃。まだ大人の何たるかを何もわかっていなかった頃だ。


 ~~~


「で、今日はどういう理由で家出してきたんだ?」

「お父さんが釣りに行く約束破ったから」

「あっはっは、それで家からひと駅のここに家出か!随分賢いというか楽な家出だなぁ」


 夏。すっかり日が落ちて、周りの田んぼに蛍の光が見えるようなそんな時間。普段はそれなりに賑わっている駅の待合室には自分と叔父さんの二人しかいない。人が少ない時間を見計らってここに来たから当然かもしれないけれど。 


「ねぇ叔父さんはどう思う?大人のくせに約束破るなんてありえないと思わない?」

「ん~?まぁ確かにねぇ、約束破るのは良くないことだよ、うん」

「でしょ?叔父さんからもお父さん叱ってよ、良くないことだって」

「でもね、大人だっていろいろ大変なんだよ」

「え?」

「家族のために一生懸命働いて、子供にご飯を食べさせて、学校に行かせてあげて、休みの日には一緒に遊んであげて。他にもいろいろあるけれど、子供の前では常に正しく優しくいなくちゃいけない。子供の期待に応えられないと駄々をこねられるし、子供の気持ちがわからなくて悩むこともある。叔父さんは駅員の仕事だけでいっぱいいっぱいなのに、仕事に加えて子供の面倒も見ている兄さんはすごく大変だと思うよ」

「……」

「だから、たまにはお父さんに優しくしてあげな?大人だって間違えることや嘘をついちゃうときだってある。でもお父さんは君のためにいつも一生懸命頑張ってるはずだ。たまには労ってあげないと、お父さんも辛くて君みたいに家出しちゃうかもしれないからね」

「……わかったよ」

「偉い!もしいつか親になる時が来たら、お前にも分かると思うからさ。その時は自分の子供に恥ずかしくないような大人になるんだよ?」

「恥ずかしくないような大人ってどんな大人さ?」


 そう聞くと、叔父さんはお父さんそっくりの笑顔を浮かべて言った。


「間違うときがあっても、子供のために一生懸命正しく優しく頑張れってこと」


 直後、ホームに電車がやってくるアナウンスが鳴り響いた。


「さ、お父さんとお母さんも心配してるからもう帰りな?これが最終便だよ」

「うん……」

「ん?どうしたの?」

「いや、帰りの分のお金なくて」

「仕方ないなぁ、今回だけだぞ?」


 そう言って叔父さんは最寄り駅までのピンク色の切符を私に手渡した。

 切符の上からご丁寧にマジックで【我が家行き】と書いたものを。


 ~~~


 ———そういえば、そんなこと言ってたっけ。

 ———子供のために一生懸命正しく優しく頑張れか。

 ———今の自分は、この子に対して正しく優しく頑張れてるんだろうか。


「父さん?」


 不安げな表情でこちらを覗き込む息子を見て、私はハッと我に返った。子供の頃の自分の面影があるその顔を見て、私はフッと顔を綻ばせてしまう。


「父さんの顔、やっぱりあの駅員さんにそっくりだね」

「そっか。そっくりか」


 ———そっくりだってさ叔父さん。

 ———俺も、ちょっとは大人になったかな。


「きっと、叔父さんがお前のことを助けてくれたんだな」

「え?」

「よし、帰ろうか。お腹空いただろうから今夜はお前の好きなもの食べていいぞ」

「本当?やった!」


 去り際、駅舎から感じるどこか懐かしい感覚に見送られ、私達は最終電車ではなく車に乗って賑やかな家路についた。

 きっと私はこれから先も何度も間違え、時に息子の失望を買うこともあるだろう。でも、それでも私はこの子にとって良き父親であり、良き大人でありたいと、そう願いながら。

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