黒い顔

怜 一

黒い顔


 埼玉にある、とあるアパートの一室に引っ越してきた大学生のA君がいた。

 A君は、生真面目かつ勉強熱心で、今年、第一志望であった大学に合格したばかりの新入生だった。元々、東北の方に住んでおり、両親から心配されつつも、大学生なのだから一人暮らしも良いだろうと言われ、単身、大学から近場にある格安のアパートに引っ越すことになった。


 木造の二階建てのアパートで、八畳程度ある自室は二階の一番奥であった。築四十年のアパートらしいが、十年前にリフォームをした部屋らしく、そこそこ綺麗な内装で、実家と同じ和室だったため、A君は気に入っていた。

 A君が入学してから暫くして、コートが手放せなくなった頃。慣れない生活に疲れ切っていたA君は、布団に潜り、深い眠りへとついていた。

 いきなり、A君の目蓋がパチッと開いた。


 なんだか、奇妙な夢を見てしまった。


 A君は、足元の方にある押入れへ視線を向ける。

 布団で寝ている自分。その姿を、押入れの襖の隙間から誰かがジッと覗いているという、なんとも気持ちの悪い夢だった。

 部屋の明かりを点けて、気を紛らわせたくなったが、しかし、明日も朝早くから授業があるため、気にしない気にしないと自分に言い聞かせて、再び、眠りについた。


 翌日。一緒の授業を取っていた友達に、昨晩見た夢の話をすると、大学生にもなって怖がることではないと一蹴されてしまった。A君は納得したと同時に、なんだか恥ずかしくなってしまったため、それ以上、夢の話をすることはなかった。


 その日も、ヘトヘトになって帰宅したA君は、食事や風呂もそこそこに床についた。夢のことは気掛かりであったが、睡魔には勝てず、A君はすぐに寝息を立てた。


 また、同じ夢だ。


 誰かが、こちらを襖の隙間からジッと覗いている。

 眠りにつくため、当然、部屋の明かりは一つも点いておらず、隙間の奥も真っ暗で、誰が覗いているかは分からなかった。しかし、薄気味悪い視線は強烈に感じていた。


 ガタッガタッ────


 急に、襖が揺れ、隙間からゆっくりと何かが這い出してきた。その得体の知れない何かは、ぐねぐねと動き、徐々に隙間を広げていく。

 

 〜♪


 目覚ましのアラーム音が鳴り響き、夢から現実へと戻ってくる。喧しいアラームを止め、布団を剥ぐ。すると、全身が大量の汗でびっしょりと濡れており、冬だというのに、真夏日のように暑苦しかった。


 スッキリするためシャワーを浴び、朝食を済ませ、学校へ行こうと玄関に向かおう。すると、そこであることに気がついてしまった。

 押し入れの襖が、少し空いている。

 押し入れの中は上段と下段に分かれており、あまり荷物を持っていなかったため、下段は空っぽのまま持て余していた。奇妙な夢では、その空っぽの下段から視線を感じていた。


 まさか、そんなはずはない。


 自分にそう言い聞かせながら、恐る恐る、視線を下げていく。すると、襖の下の方には、身に覚えのない黒い灰のような汚れが、薄らと付着していた。



+



 あれから、一年が経った。

 あの日以来、奇妙な夢を見ることは無くなった。A君も、溜まった疲れとストレスのせいだったということにして、なるべく忘れようとしていた。勿論、夢のことは誰にも話していない。また、馬鹿にされるのが目に見えていたからだ。


 その日は、同じゼミのメンバーで企画した忘年会に出席していた。お酒が飲める歳になったということもあり、ハメを外してしまった結果、帰宅する頃には歩くのがやっとという状態まで酔い潰れていた。


 帰宅したA君は、部屋の明かりを点け、定まらない足取りでキッチンに向かう。洗いっぱなしのコップを手に取り、水道の蛇口を捻った。勢いよく流れ出した水は、あっという間にコップの許容量を超えてしまい、冷水が手に掛かる。その水の冷たさに軽く悲鳴を上げながら、急いで蛇口を閉じた。

 少し冷静になったA君は、水を半分ほど飲むと、そのまま、コップをキッチンのシンクに放置して、敷かれたままの布団へ倒れ込んだ。


 誰かの視線を感じる。

 これは…そうか。

 また、あの夢か。


 大学一年生の頃に見た、奇妙な夢のことを思い出す。あの時も、寒い時期だった。すると、あれから一年が経ったのかと、A君は、思わず感慨に耽る。


 あれ。でも、ちょっと待てよ。

 今回は、あの時と違うな。


 ふと、A君は気がつく。

 真っ暗でなにも見えなかった前回とは違い、今回は、部屋の明かりが点いている。もしかしたら、視線の主が見られるかも知れない。そんな風に、A君は呑気に考えていると────


 ガタッガタッ────


 あの日のように、襖が揺れた。そして、あの時のように隙間からヌッと何かが出てきた。明かりに照らされたその正体は、炭のように真っ暗になった右腕だった。肌は無数にひび割れており、手と思わしき部分の指は幾つか繋がっていた。それはまるで、激しい炎で焼かれたような腕だった。その異様な右手を見た瞬間、呑気な考えは何処かへ飛んでいってしまった。

 その恐ろしい光景に圧倒されていると、隙間の奥から細い唸り声が聞こえてきた。


 いうぅ…いうぅ…


 右腕を左右に振り、徐々に襖を開いていく。そして、ついに襖が大きく開いてしまった。


 ずる…ずる…ずる…


 その何者かは、右腕と同じような真っ暗な左腕を突き出し、身体を引き摺って、外に

出ようとする。


 これ以上は、マズいっ!!


 本能で危機感を感じたA君は、なんとか目覚めようと意識を集中させる。


 起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起き────


 次の瞬間、いつもの見慣れた天井が視界に映っていた。いつの間にか、目を覚ましていた。

 窓から夕焼けにも似た朝焼けが差し込んでおり、それは不自然なほど、部屋は赤い色に染まっていた。


 猛烈に熱くなった身体を起こし、滝のように流れる汗を拭う。ハッと、正面にある襖に視線を向ける。しかし、襖は開いておらず、普段となんら変わりなかった。

 ほっと、胸を撫で下ろす。

 あんな悪夢を見たのは、きっと、お酒を飲み過ぎてしまったせいだろうと、とりあえず、自分を納得させる。だが、夢にしては、真に迫り過ぎていた。


 喉が渇いたな…。


 A君は立ち上がって、台所へ向かう。すると、出入り口辺りの畳が濡れていることに気がついた。よく見ると、キッチンと和室を繋ぐ短いフローリングもなにかで濡れていた。酔っぱらいながら水を飲んだ記憶が残っていたため、そのせいかと思い、近くにあったテッシュペーパーで水を拭いた。そして、なんとなく、テッシュペーパーの汚れた部分を見てしまった。


 ッ!?


 なんと、そこには、黒くザラザラとした灰のような汚れが付着していた。夢のことを思い出し、慌ててキッチンへ駆け込む。

 昨日、水を飲みかけたままシンクに置いたはずのコップが、地面に落ちて割れていた。

 A君は、しっかりとシンクに置いた覚えがあり、溝の深いシンクからコップが地面に落ちることは、絶対に有り得ない。


 訳がわからなくなったA君は、そのまま部屋を飛び出し、近所にある一人暮らしの友達の家まで走った。A君は、チャイムで叩き起こした友達に事情を説明するも、酔っ払いの戯言だと相手にされなかったが、A君の必死さに気圧された友達は、渋々、A君を部屋に上げた。


 朝日が昇り、明るくなった頃。覚悟を決めたA君は、自室へ戻り、身支度を整えた。それから近所にある神社へ行き、事情を話して、簡単なお払いと数枚のお札を購入した。

 帰宅後、すぐにお札を押し入れの襖に貼り付け、ついでに、小皿いっぱいによそった盛り塩も置いておいた。


 準備は、万全だ。


 そして、夜がやってきた。

 部屋の明かりは点けたまま、布団に入り、眠ろうとする。しかし、気が張っているせいか、なかなか寝付けない。

 ネットで調べた念仏を心の中で唱え続けて、数時間経った頃には、流石に疲れてしまい、眠りに落ちていた。


 バンッ!バンッバンッ!バンッ!


 襖を激しく叩く音に驚き、飛び起きる。そして、A君は、咄嗟に浮かんだ疑問に恐怖する。


 今、自分は起きた。ということは、これは現実なのか?それとも、夢なのか?


 混乱するA君を追い詰めるかのように、襖を叩く音は、次第に強くなっていく。さらに、追い討ちを掛けるように、今までにないほど大きな唸り声も聞こえてきた。


 ああぁぁぁぁあ!!ああぁぁあ!!あぁぁぁぁあああぁぁぁ!!


 突如、A君の全身が、まるで業火に焼かれているかのように熱くなる。


 あぁぁぁぁ!熱いぃ!?熱いよぉ!熱いっ!あぁぁぁぁ!!熱いっ!熱いよぉぉぉ!!


 あまりの熱さに、A君は、その場で服を脱ぎ、のたうち回る。全身の皮膚は、みるみるうちに赤くなり、爪先から水膨れのように腫れ上がっていった。


 水っ!水っ!


 A君は、なんとか這いずりながら浴室を目指す。しかし、身体は思うように動かず、山積みになった教科書や、盛り塩を蹴散らしていく。そして、ついには襖に身体をぶつけて、貼っていたお札の数枚を破ってしまった。


 スッ────


 僅かに、襖が開いた。

 そのことに気が付いたA君は、熱さと痛みを忘れたかのように、恐怖で固まってしまった。


 スパンッ────


 勢いよく襖が開き、全開になる。

 本来、全開になれば、部屋の明かりで中を確認できるのだが、墨汁で黒く塗り潰されたようになっており、一切の光を通さなかった。

 暗闇から、昨晩、夢で見た真っ暗な両腕がバンと畳を打つ。


 ずる…ずる…ずる…


 両腕は畳を掴み、暗闇から身体を這いずり出そうとしていた。

 すると、突然、なんとも言えない異臭が鼻を突いた。強いて例えるならば、炎天下に放置して腐らせた生肉を炭になるまで焦がしたような、そんな臭いだった。


 いうぅ…いうぅ…


 呻き声と共に、所々、どろどろになった黒い頭が這い出てきた。

 A君は、絶叫しながら、出来るだけ遠ざかろうとするも、海老のようにクネクネと身体をよじることしかできなかった。


 到底、人間とは思えないほど歪な凹凸をした右手は、A君の足首を掴んだ。A君は、必死に対抗するも、しっかりと強い力で握られてしまっている。

 そして、ついにそれは顔を上げた。その顔は、爛れ、焼き焦げており、もはや顔と呼べるパーツは一つもなく、真っ黒に潰れていた。そして、その顔は、焼けた皮膚で塞がった口から激しい雄叫びを上げた。


 いうぅ…いうぅ…いうぅぅぅぅ…!!


 そこで、A君は意識は途切れた。



+



 気がつくと、A君は、病院のベッドに寝かされていた。看護師から事情を聞くと、どうやら、A君の絶叫に異変を感じた隣人がA君の部屋を訪ねたものの、返事が返ってこなかったため、警察と救急へ連絡したということらしい。

 A君は、原因不明の軽度の全身火傷で一週間の入院になった。


 入院中、大家がお見舞いに来てくれて、申し訳なさそうに、あの部屋の事情を説明してくれた。あの部屋は、十一年前に火災が起きた部屋で、火災の原因は、住人が始末を怠ったタバコの吸い殻だった。住人は、押し入れの下段を寝床にしており、寝ていた住人は火災に気付かず、そのまま炎に巻かれて亡くなってしまった。その事件があったため、リフォームを行ったが、なかなかあの部屋が埋まらず、そこに偶々A君が入居したということだった。


 A君は退院後、早々に引越し、その後は、悪い夢は見ていないらしい。しかし、新居の襖の方からも、あの呻き声のような音が、度々、聞こえてくるそうだ。



end

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