憧像

伊島糸雨

憧像


 放課後になると、教室はあっという間に閑散として、沈み行く日の光が窓際を緩やかに染め上げていく。白とも黄ともつかない輝きは、次第に色相を変えて茜に近づいて、床には墨汁を垂らしたように暗い影が滲む。

 わずかに残った生徒の声は、密やかな静けさを帯びて空気に溶ける。遠くどこかから、吹奏楽部が奏でる色とりどりの音の騒めきと、運動部の掛け声が響いていた。

 時が進むにつれて、生徒はいっそう数を減らし、やがて私だけが取り残される。そうしてようやく、あの人は私の元を訪れてくれる。

「まだ残ってたの? まったく……」

「先生」

 視線を上げた先、教壇には一人の女性が立っている。まだ若い。切れ長の瞳で、髪は肩のあたりで切り揃えていて、スーツが似合う大人の女性。

「来てくれたんですね」

「私はただの見回り。いつも通り、ただの偶然」

「会いに来てくれたんだ」

「違うって言いました」

 先生は呆れたように腕を組んでため息を吐くけれど、私は思わず笑ってしまう。

 心地よい温度だった。黄昏時、移りゆくもののあわいを、浮遊しながら揺らぐ心地がする。空気と水と半分ずつ、プールで浮かんでいる感覚。夢心地に近いかもしれない。

 先生はくすくすと声を漏らす私を一瞥すると、腕を下ろして教壇を降りた。

「楽しそうで何より……」

 先生は目の前までやってくると、一つ前の席の椅子を引いてそこに腰掛けた。ちょうど私と向かい合う形で、生徒たちが休み時間に談笑するみたいに、親密さを伴って接近する。

「昨日教えたメイク、早速やってみたんだね」

 先生は人差し指を立てると、私の顔の輪郭をぐるりとなぞって、柔和に微笑んだ。

 私は照れくささに頬を熱くしながら、

「早く見せたくて。……どうですか、似合ってますか?」

 先生は、うん、と頷いて、

「似合ってるよ。とても」

 また一歩前進したね、と楽しげに口にした。

 私はほっとして、「よかった」と呟いた。

 先生。私の師。憧れの姿。

 私がなりたい私になるための術を、先生は授けてくれる。私が求めていることを理解して、応えてくれる。

 これまでの短い逢瀬の中で、先生からはたくさんのことを教わってきた。そしてこれからもきっと、暗闇に煌めく星のように、行き先を示してくれるのだと、私は信じている。

 先生と一緒にいられる時間はそう長くはない。誰もいなくなってから、誰かが来るまで。その朧げな存在を、煙のようだと思う。

 いつだって、時の流れは残酷だ。何を願っても、時計の針が回り、夜の藍色が燃え盛る色に混じり行けば、別れの時はやってくる。

「もうすぐ、時間かな」

 憂いをたたえた表情で、先生は窓の外に目を向けた。それから、「もし、なりたい自分があるのなら……」と、私の目を見据えて、真剣な面持ちで言った。

「自分との対話を重ねること。それを忘れちゃ、ダメだからね」

「大丈夫ですよ。だって……」

 先生がいるじゃないですか、と口を開きかけるのを、先生はそのほっそりとした指先で、静かに制した。

「私じゃない、あなた自身と、ね」

 わかるでしょ? と言われれば、私は頷く他に道はない。先生の言葉の正しさを、私はおそらく誰よりも理解しているのだ。

 廊下を駆ける足音が軽快に響いてくる。私も先生もその音の正体をよく知っていて、それゆえに示し合わせたように顔を見合わせる。

「それじゃ、またね」

「はい。また」

 微笑みを交わすと、先生は席を立った。ドアが開け放たれ、友人が息を切らして入ってくるのと同時だった。

「ごめん! 遅くなった!」

 はぁ、と呼吸を整えながら、彼女は私を見つめる。私は「大丈夫だよ」と答えてから、前の席の椅子を机の中に押し込んだ。

 それを人の痕跡と思ったのか、彼女は小首を傾げて、

「誰かと話してたの?」

「ううん、誰とも」

 教室を見渡して、存在しない幻の残り香を探す。けれどもそんなものはどこにもなくて、私は友人の顔を見て、にこりと笑ってみせる。

「ちょっと、独り言」

 帰ろ、と言って鞄を掴む。「ならいいけど」と頷いた彼女の後を追って、夕焼けに沈む教室を後にする。

 最後、振り返ってもそこには誰もいない。 憧れの姿は過去にはなく、私が描く未来にのみ、先生は存在するのだと私は知っている。

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憧像 伊島糸雨 @shiu_itoh

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