煙滅する残像

皆尾雪猫

煙滅する残像

こんな夢を見た。


 ***


お前さん、まずは落ち着いて。

そんなに私達、神のことをめちゃくちゃに悪く罵らないで下さいな。

とりあえずこの飴を舐めてください。

……落ち着きました? それはよかったです。はぁ……。


……ん? 何だか私の顔色が優れないって?

そりゃ、私は昨日ようやく八百万やおよろずの神の一人に就任出来たんですよ。その就任後初めての見回りで「よっしゃこれから神様業務を頑張るぞ」と思っていたときに、私に届く強い祈りを見つけたと思って行ってみたら、どうにもネガティブな神への呪詛だった、ってなったら、どうですか。どう思いますか?


……神になったことがないから分からない?

まぁそうだろうけど。試しに想像してみてくださいよ。ガッカリしません? 


まぁでも良いですよ、祈りが届いたってことで、何でも1つだけ願いを叶えてあげます。

就任直後で仕事もなくて暇だし。何でも言ってみてください。


……ふむふむ。

なるほど。それを消すんですね。

かなり抽象的な願いですが出来ますよ、神ですからね。

なんだってお茶の子さいさいです。

それじゃ、あなたの世界から○○を消しますね。


ちちんぷいぷい。


 ***


俺は目が覚めた。先程までの奇妙な夢のためか、何となしに寝不足のようで軽く頭痛がした。

――それにしても、さっきの夢は何だったんだ? 夢にしては、やけに現実的だったけれど……。本当に何か消えたのか?

ベッドから上半身を起こして周りを見てみたが、よく分からなかった。


見慣れた四畳半のワンルームが目の前に広がる。

パソコン、テーブル、落ち着いた緑の絨毯、ふわふわクッション、黒の出社用カバン、濃紺のスーツ、本棚にミステリ小説や少年漫画、趣味の雑誌から結婚式関連の雑誌まで、さらには彼女に昔もらった観葉植物、簡素なキッチンに置かれた調理用品などなど。昨日の記憶と照らしてみても全てそのままだったし、何かがなくなったとも特に思われなかった。


そのままベッドから抜け出て、壁をチラリと見つつ、テレビを付けて今日のニュースを確認すると、既に出社するべき時間だった。

朝食はとらずに、俺はパジャマから昨日と同じ濃紺のスーツに着替え、鏡の前で身だしなみを整えた。


――うーん、鏡で自分の顔を見ても、クマは出てるけどその他に特に変化はなさそうだし……。さっき見た奇天烈な夢は本当に何なんだ……。ってか夢で何かを消えるよう願ったのは俺自身なんだし、どうしてその中身を忘れてるんだ?


先ほど起床した瞬間からちょっとした浮遊感や喪失感をどこか覚えつつも、その感覚がはっきりした実像を結ぶことは無かった。

その変な感覚を辿り様々に考え込みそうになったが、出社時刻が間近ということにすぐに気付き、兎にも角にも出社準備を続けることにした。


通勤用カバンにスマホや鍵、マネークリップなど、必要なものをルーチン的に放り込むと、唐突に『喪失感』の根源らしき変化に気づく。

――さっき時間を確認するとき、どうしてチラリと壁を見たんだろうか。俺が時間を確認するときの癖なんだろうが、そこの壁に何か……?

と思ってその壁を確認すると、先ほど目線を向けたところに金属で出来たフックが取り付けられており、その先端部分が中空へと曲げられ、何とも手持ち無沙汰な状況だった。


――何が消えたのだろうか?

と俺は思うと同時に、

――そんな些末なものを俺は消してと願ったのか?

との疑念が同時に湧き起こった。


しかし、何にせよ出社時刻になったため、俺は自転車で職場へと向かうことにした。

自転車を漕ぎながらも、今朝の夢について気になって仕方がなく、思考がふわふわと右往左往し続けた


そうしてようやく就業時刻ギリギリに出社すると、既に同僚の上田がデスクで新聞を読みつつ優雅に紅茶を飲み進める様子が見られた。

「おはよう、上田」

「おはよう。……ってなんだお前、寝不足か、風邪にでもなったか? 目の下のクマがはっきり出てるし、こんな出社直後から既に疲労感がダダ漏れしてんぞ」


さすがに長年同じ部署で切磋琢磨してきた戦友たる上田だけに、すぐに俺の変化に気がつくようだった。

「やっぱりわかるか。正直なところ……、うーん、悩みなのかな」

「何だよ、同期だろうに、そんな遠慮すんなって」

「でも、もし話をしちゃうと、なんつーかな、ほぼ確実に俺の脳味噌がおかしくなったって思われるだろうからな……」

「んん……? メンタル的な悩み?」

「メンタル……なのかな……」


俺は少しだけ逡巡したが、現状最も気心の知れた友人は上田で、相談をするなら彼だろうと考え直し、俺は「笑うなよ」と上田に断った上で、今朝の夢を全て話してみることにした。

上田は本当に笑うことなく、真面目に俺の話を受け止めてくれたようだった。


「なるほど……。その神様の言葉が真実だとすると、お前自身が何を願って何が消えたのか。それが分からなくてモヤモヤすると。そんな感じか」

上田は上手く俺の悩みを言語化してくれた。


「そうなんだよ、上田。今朝からここまで、お前何か『消えたな』と思うものとか、変な感触とか感覚とか、本能的に変だなと思うこととか、とにかく何か感じてたりする?」

俺は相談をして気が楽になったのか、上田に単刀直入に尋ねた。


「確かにこうして今朝からの出来事を考えると、漠然としたチグハグ感はしたかもな。でもそれが何か、とかまでは何も認識出来なかったな」

「だよな。俺も部屋の中をしっかりと見て回って、ようやく何か掛けられるべき壁のフックを発見して『消えた』ものを見つけたんだけど……。でも俺は多分それを消えるようには願ってなかったと思うんだよ。この消滅は単に副次的な効果で、俺の直接の願望そのものではなかったと思うんだ……」


「でもお前が何かを願ったのは事実なんだろ? しかも神様が『俺のことを罵った』とか『呪詛』とか語ってたなら、きっとそれに関連するんじゃ? お前は昨日何て神様を罵ったんだよ」

「……昨日……何か起きたっけ。ちょっと神様の夢の衝撃で、どうにも昨日より前のことが忘却の彼方に……」

俺は自分の言葉に何とも情けなくなり、語尾が萎んでしまった。

しかし徹頭徹尾どこまでも真剣に悩みを聞く上田に、俺は感謝しかなかった。


「そっか……。でもやっぱり何かを願ったとすると、何か直近で事件が起きたからだろ? だって、神様のことを罵って呪うような出来事が起きて、それで神様が思わず出てきて、お前が何かを願った。それなら罵倒と願望の中身が多少なりとも関連すると思うんだよ」

「確かに……と、おっと、もう時間みたいだ」

俺はそのまま雑談を続けようとしたが、既に周りでは皆が働き出しており就業時間に突入したようだったため、上田との相談を終えて俺も仕事に取りかかることにした。


俺の職場は都心の小規模の出版社だった。

実用書や雑誌を編集・出版するのが俺の仕事だ。

小規模出版社の悩みとして、どうにも働き手が少数のため、大手だったら分業される仕事も一人でこなさなければならず残業も多くなりがちな職場だったが、俺としては満足感を得られる素敵な仕事だとも思う。


俺は午前中、しばらく各種タスクを消化し続け、ようやく次号の特集記事に関する稟議書を編集し終え、それを上司に見てもらおうと思ったとき、スマホの振動音がスーツの内ポケットから聞こえた。メールが来たようだった。


便所の個室に籠りそのメールを開くと、こんな文面だった。

『昨日はごめんね。これが私からの最後のメールだから許してね。私の勝手で別れることになって本当にごめん。これまでの約4年半とってもとっても楽しかったよ。これからはそれぞれ別々の道を進むけど、君の道の先にさちの多からんことを願っております。

岡田菊代』


俺はこれを見た瞬間、昨日の出来事が唐突にフラッシュバックした。

昨日、九州で働く彼女から唐突に、二人で初めてデートをした都心の公園に呼び出され、これまで約2年半遠距離を頑張ってきたけど先が見えなくなってしまったこと、そんな時に地元で遠距離の悩みを相談した中学校の頃の友人から結婚を見据えた告白を受けたこと、彼氏の俺のことがネックとなり告白の返事を保留したことを伝えられ、ちゃんとその地元の人と彼氏彼女として始めるためにも「別れてくれ」と伝えられてしまったのだった。

――そうだ。昨日俺は彼女と別れたんだ。でもどうしてここまで忘れたままだったんだろうか……?


正直なところ、俺は彼女に「好き」との気持ちは全く無かった。

文学部を卒業直前にこちらから告白をして、昨日までの約4年半の期間、様々な出来事が起きた。2年間彼女は学びつつ俺は働きつつデートを重ね、その後おおよそ2年半前に彼女が地元九州の企業に就職したために遠距離になってしまったのだった。

彼女との煌びやかな過去の記憶は脳裏に様々に去就するものの、きっと俺も遠距離に疲れたのだろう、現状の彼女には未練や心残りのような感情は全く湧き出てこなかった。

そのため昨日の別れ話も、動揺することは特に無かったはずだ。

――まったく、俺も薄情なもんだな……。


お昼休みになると、俺は上田をランチへと誘った。

馴染みのパスタ屋でテーブルを挟んで座り、先程のメールの件を上田に話してみた。

すると上田は思ったよりも興味を示してきた。


「え! お前、くだんの遠距離だった彼女と別れたのか? それじゃ昨日起きた事件ってそれだろ」

「……そうか? 『好き』って感情は彼女に無かったし、とうに別れることが決まってたようなもんだよ」

「……お前、それ本気か? フラれた負け惜しみとかではなく? 彼女のこと、この前のランチの時とかでもめちゃくちゃ自慢してたじゃねーか」

「……そうだったか?」


――何だか記憶がぼんやりする……。

「そうだよ。どうしちゃったんだよお前」

「……どうしたんだろう……」


この現実と記憶がチグハグする感覚。何かが心の奥に引っかかるようなチクチクする感触。

――本当にどうしたのだろうか……。

俺は今日の記憶を遡ってみると、ふと起床時に見たものが脳裏に蘇ってきた。


――部屋の本棚に結婚式の雑誌が……?

心の水面にさざなみが立つような、全身の毛が逆立つような、不気味な感覚が身体中を駆け抜けた。

俺は彼女との結婚も検討中だったのか。

結婚雑誌は自分で買ったのか、彼女が買ってくれたのか……。多分自分で買ったようなおぼろげな記憶が僅かに……でもどうして……?

彼女への「好き」との気持ちはとうに持って無かったはずなのに……。


俺が神様に頼んで消してもらったのも彼女に関連することなのだろうか。そんな気も徐々にしてきたが……、果たして何を願ったのだろうか。それは壁掛けフックの『消失』とも関連することなのか……?


そんなことを考えつつパスタを食べ進め、上田との雑談は上の空になってしまって、そのままランチが終わってしまった。

俺はスマホの電子マネーで支払ったが、上田は小銭をジャラジャラとスーツのポケットから直接出してきた。

「上田……、お前、小銭をポケットに直接しまう人だっけ?」

「うん……? そうだと……思う。何か変か?」

俺は上田の表情に混乱が浮かぶ様子を見て取ったが、わざわざ相談に乗ってくれた上田まで下手に困惑させたくなかったため、ここでは深く詮索せずに放っておくことにした。

「そうだったな……、すまん。気にするな」


午後の仕事は全く捗らなかった。

一人で行う事務作業ばかりだったため、誰かの邪魔になることはなく、考えようによっては好都合だった。


俺は考えをまとめようと試みた。

昨日、彼女にフラれた。

彼女からのメールによれば、どうやらそのようだ。

神様の夢を真実だと考えると、昨日俺は神様への呪詛を吐きまくった果てに、神様に頼んで何かを消してもらった。

そして上田の話や結婚式の雑誌に鑑みると、どうやら俺は彼女、岡田のことが結婚を考えるほどに好きだったようだが、今日に限っては彼女への未練や執着の気持ちは全く無かった。

そうだとすると、神様に消してもらったのは、彼女を「好き」だと思う気持ちなのだろうか?


――フラれた結果、願ったとすると筋は通る。だが……、今日様々な場面で感じる変な感覚はどう考えれば……。

壁掛けフックの件や、ランチの上田の小銭の件を俺は想起した。


――上田がスーツのポケットから小銭を直接出してきたのは、恐らく小銭を収納するものが消失したからだろう。ってことは、彼女への「好き」と言う感情を消してもらったら、壁掛けするモノと、小銭を収納するモノと共に消滅した。これらに何か共通点があるのだろうか……?

俺は暫く考え続けたが答えは出なかった。


俺は思わず机の上の国語辞典に手を伸ばした。なにかしらで詰まった時の俺の癖だった。

上司の中には、仕事に詰まった現実逃避のためにネットでニュース記事巡りをする人も見られるが、俺としては国語辞典を広げる方が「仕事をしてますよ」感が強く出るし、正しく言葉を使うのは、出版社に勤める上で重要なスキルのため、実利を兼ねた習慣だった。


そうして俺は国語辞典を手に持つと、奇妙な感覚が俺を襲った。

――ん? どこか普段と違う……?

机に国語辞典をがばっと広げると、パッと見ただけでは分からないものの、ますます「変だ」という引っ掛かりが心のしこりとして残った。


真鶴まなづる、愛弟子、マナト、マナド……

『マナド』:スラウェシ島北東部のミナハサ半島先端部の港湾都市。


読もうとしても、目が文字の上辺だけを滑っており、中身がほとんど脳に浸透してこなかった。

――マナド……、これはどこの国なんだろうか。

と思っても、なぜかぼーっとして何も考えることができなかった。


ぺらっ、ぺらっとページを適当に繰り戻る。

戻り続けると、国語辞典の先頭に立つ項目に辿り着く。

こんな項目だった。


『う』:助動詞「む」の音変化。勧誘や婉曲、当然、適当などを示す。


俺はクラクラした。何も考えられなかった。

何が起きたのか、全く思考すらできなかった。


その時、俺は電話の取り継ぎをしてくれる事務スタッフから声を掛けられた。


「繧「繧、沢さん、お電話です」


瞬間、夢の神様の声が俺の脳に直接語りかけるように大きく鳴り響いた。


――なんと、お前さんもこの世から消滅すべきだったようですね。すっかり失念しておりました。

――ちちんぷ縺ぷ縺。


その声が聞こえた瞬間、俺は自分の身体が急速に内側へ内側へ折り込まれる感覚を受けた。

この世の三次元空間から、どこかの四次元空間の彼方へと自分の臓腑が押し出され、骨と肉がそれに続く形で縮小し続けた。全く痛覚はなかった。

そのまま体の中心へと体の各パーツが細かく折り込まれ、シワシワと縮小し、果てに球状になり、さらに点になり、


この世から消えた。


「お電話……はて、誰に向けての電話でしょうか、うちにそんな人は勤務してなかったですよね?」

と事務スタッフが電話の子機を片手に、呆然と立ち尽くしたまま、誰に伝えるでもなく、そう独り言を呟く。

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煙滅する残像 皆尾雪猫 @minaoyukineko

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