空に溶けた歯車

ねこK・T

空に溶けた歯車

 ち、かち、かち。彼の視線の先では、歯車が回り続けていた。


 ただ、その歯車は爪先ほどの大きさしかないために、回っているといっても、その動きは目でしかと捉えられるものではない。耳に微かに響く、かち、かち、という音。そして、隣り合う別の歯車が回り続けているということ。ただその二つが、小さな歯車の動きを証明しているに過ぎない。


 ち、ち、かち、かち。小さな歯車は音を刻み続ける。

 

 彼の瞳は、その動きを見つめ続けている。瞬きもせずに。開き放しの瞳は、普通ならば渇きを訴え、痛みをもたらしている筈だった。しかし、彼はとうに痛覚など忘れてしまっている。目の辺りに小さな違和感がある――瞳の上げる悲鳴は、彼にとってはせいぜいその程度のものでしかなかった。


 ち、ちち。かち、かち。かたたた。小さな歯車が回り続ける。


 止まらないその音。小さな歯車の動きは噛み合う隣の歯車へと繋がり、一回り大きな歯車を動かす力となる。一回り大きいその歯車が動くことで、もう一回り大きな歯車へと動きが伝わる。小さい筈の動きが、段々と大きく、大きくなり――どこかにある何かを動かし続けていた。


 ち、かた――た。小さな歯車の音が止まる。


 というのも、手を伸ばした彼が歯車を抜き取ったからだった。指先に乗ったそれは、薄く、小さく、頼りなく。風に乗って飛んで行ってしまう、桜の花びらを思わせた。彼は盛大に舌打ちをする。あの大きな動きを作り出していたのは。こんな、こんなちっぽけなものでしかないのか、と。落胆を隠すことが出来なかったのだ。

 もう一度彼は舌打ちをすると、指先を見つめ返した。こんなものを手に取っていても仕方がない、さっさと戻してしまおう。彼はそう結論付けると、歯車の乗ったままの指先をそっと伸ばす。小さな歯車一つ分、ちょうどぴったり空いているその場所へと嵌め込もうとする。歯車の噛み合わせもぴったりだった。

 彼の指先から離れ、そして歯車は嵌め込まれる。


 しかし歯車は元の場所には嵌りきらずに。

 かちん! と。軽い音を立てて弾け飛んだ。


 彼の唇からは思わず驚きの声が漏れた。何故? 場所も噛み合わせも元のままの筈、動き出す筈じゃないか、と。困惑した頭を必死で落ち着かせながら、彼は飛び跳ねていった歯車を探す。そうだきっと、さっきは噛み合わせがどこか違っていたのだろう。だから、もう一度。落ち着いて嵌め直せば大丈夫だ。だから早く。だから早く。早く。歯車を見つけ出そう。もう一度。――早く。大丈夫、一旦欠けてしまったとしても、元に戻らないなんてことは。

 落ち着け、落ち着け、と彼は呟き瞳を凝らす。だが、爪先ほどのそれが、彼の目に飛び込んでくることは無い。どこかに飛んで行ってしまった花びらが、もう見つけられないように。

 思わず息を呑んだ彼の喉がひゅう、と音を立てたその時、耳にはもう一つ音が飛び込んで来る。つい先ほどまで聞こえ続けていた、規則的な歯車の音とは全く違う音だ。けらけらけら。それは明らかに、彼のことを嘲り馬鹿にした笑い声で、むっとしながら彼は振り返った。


 けらけらけら。ああ、やってしまったね。

 そう笑い声を上げていたのは、歯車を欠いた、空っぽのその場所だった。


 たとえ、どんなに小さな歯車であっても。目に留まらないようなそれであっても。それがあるからこそ、他の歯車は回り、動き続けることが出来る。その関係性は微妙で、一旦崩してしまったならもう、元に戻すことは出来ないんだよ。さっき君が、歯車を戻せなかったようにね。

 動きを止めた歯車達は言葉を紡ぎ続ける。流れるような、笑みを含んだ声は歌声のようでもあり。彼は口を挟むことが出来ない。そんなことにも気付かなかったのかい?


 ああ、気付かなかったから、そこに、そんなものが転がっているんだね。


 歯車の言葉に、彼は視線を落とす。その足元には、物言わぬ、冷たくなった――既に単なる肉と骨に成り下がったものが横たわっていた。それは他ならぬ彼自身の身体。


 そして彼は声にならない悲鳴を上げた。

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