1章④ 手にしたもの
ベルリンから戻った翌日から数日をかけ、ジルケと名付けられた少女にもう一度調律が施された。
与えられた名前を彼女の心に定着させるのが目的だという。
それが行われている間にエッカートはギーゼン達への報告を行い、彼女の信頼を勝ち取りつつあるという認識を共有した。
その席で本省からの連絡員がジルケに早く銃を持たせるよう言ったことでエッカートと言い合いになったが、割って入ったレークラーが「兵士の訓練と一緒にしないでほしい」と断じたために、彼は発言を撤回した。
身内だけになったところで、エッカートはレークラーに声をかける。
「割って入ってもらえて助かった」
「いえ、ああいう粗野な人間が嫌いなだけです」
普段通りきれいに固めた自分の髪を撫でながらそう言うと、会議室を後にする。
残されたエッカートも部屋を後にし、三階へ続く階段へと向かっていった。
階段を上がった先を閉ざすドアを開くと、廊下の先にあるホールに人影を見かけた。
遠目に見える楽しげに笑う顔。
揺れる銀色の髪。
ジルケである。
話をする相手はカーヤのようだった。
二人の会話に割って入るのも悪いと遠目に眺めていると、カーヤが椅子から立ち上がった。
そして左手を胸に当てると歌を歌い始めた。
聞き覚えのある美しい歌声。
エッカートがここに来た日、聞こえてきたものである。
その見事な歌声に耳を傾けていると、元来た階段の方から気配がしてきた。
振り返ると、腕を組んだツェッテルがこちらを見ていた。
優しげな笑みを浮かべながらエッカートとともに少女達を見つめる。
「ここに来た頃はああして歌うような子じゃなくてね。ずっと部屋に閉じこもっていたわ」
「そうなのか?」
ツェッテルは深く頷いてからカーヤの方を見なおす。
「ジルケちゃん、だっけ?あの子と同じように家族と西に行こうとしていたの。だけど決行前に国家保安省が踏み込んできたわ。越境の話を漏らしたのはあの子自身だった。友達にお別れを言ってしまったそうよ」
驚いた顔をしているエッカートにツェッテルは「あの子は覚えていないけど」と付け加えた。
「他の演者もそんな境遇なのか?」
「そうね。多かれ少なかれこの国では生きにくい過去を持っているわ。だからここで使い潰されちゃう方が幸せに死んでいけるかもしれないわね」
思ってもみない彼女の言葉にエッカートはぎょっとした。
カーヤと二人でいるとき、まるで姉のように彼女と接していたツェッテルのものとは思えない言葉である。
目を丸くしているエッカートを見るツェッテルの視線は冷たかった。
「あの子達は演者。妹でも娘でもないの。どちらかと言えば武器の方に近いわ。そう思っていなきゃ、最期が来たときつらいわよ」
そう言い残すと、ツェッテルはホールの方に歩いていく。
そんな彼女に気付いたカーヤが嬉しそうに駆け寄り、ツェッテルに抱き着いた。
愛おしそうに顔を寄せるカーヤを撫でるツェッテルの顔には先ほど見せた冷たさはなく、カーヤの望む“お姉さま”そのものの姿をしている。
そう切り替えなければ、調律で心を蝕まれるのは指揮者も同じなのかもしれない。
しかし自分にはそんな割り切りができるのだろうか。
こちらを見て嬉しげに笑みを浮かべるジルケの顔。
それを見たエッカートには簡単に結論を出すことはできなかった。
ホールに置かれた丸テーブルには中身のわずかに残ったグラスとサイダーの瓶が置かれていた。
それなりに長い時間を二人で過ごしていたようである。
「ここでの暮らしには慣れたか?」
その問いにジルケは「はい」と答える。
「カーヤやリーゼさんがいろいろ教えてくれました」
彼女の言うリーゼとはビューラーのことだとツェッテルが付け加えた。
アンネリーゼの略らしい。
「ここの子にはそう呼ばせているらしいわ。子供嫌いって顔しているけど意外よね」
煙草を吸いながら気怠そうにするビューラーの顔が思い浮かぶ。
そんな彼女も少女達に親しみを持って接しているらしかった。
「他になにかあったか?」
ジルケにそう問うと、彼女は頷いて答える。
「カーヤのほかに仲良くなった子がいます。アメリアっていうの」
それを聞いてエッカートはツェッテルの方を向き、「アメリアっていうのは?」と尋ねる。
「今日までベルリンで指揮者と一緒に任務中の子よ。素直だけど指揮者の方がちょっと、ね」
腕を組んでそう言った彼女の顔には不快感のようなものが見えた。
* *
翌日の朝食の席でエッカートはツェッテルの言葉を思い出していた。
今回の任務がいかに成功し、合唱団やこの国のためになったのか雄弁に語る男。
イザーク・ライヒ大尉は身振り手振りを交えながら、長テーブルの中央に座るギーゼンへ話しかけている。
彼の隣の椅子は空いており、そこに座っているはずの演者の姿は見当たらない。
そのことをギーゼンが問うと、彼女は昨夜遅くに戻ってきたために疲れて寝ているとライヒは答えた。
それを聞いて、エッカートの隣に座るジルケは少し残念そうな表情を浮かべる。
彼女のことを紹介したかったのだろう。
その間もライヒは話を続けていたが、ツェッテルがため息交じりに割って入った。
「朝食くらい静かに食べられないのかしら」
彼女の言葉にライヒは自信満々という風だった表情を歪ませる。
睨まれたツェッテルの方はどこ吹く風といった風に口元をナプキンで拭いており、むしろ隣に座るカーヤの方がライヒの挑戦に受けて立とうと言わんばかりの顔をしていた。
そんな状況を変えたのは食堂の端の方から聞こえてきた「やめたまえ」という深みのある声だった。
エッカートがそちらへ目を向けると、すでに食事を済ませ、パイプから煙をくゆらす白髪の男が座っていた。
向かい合って座るライヒとツェッテルを見つめる丸い眼鏡の向こうに見える穏やかな瞳からは、騒ぎを許さぬという強い意志が感じられる。
そんな彼の一言で静まった食堂の空気をギーゼンが破った。
「ノヴァック君の言われるとおりだ。騒ぎたければよそへ行け」
さすがに全員が矛を引っ込め、静かな朝食が再開される。
そんな中、エッカートはノヴァックと呼ばれていた男の方を見ていた。
少しゆったりとした作りの背広に身を包んだギーゼンよりもずっと年上の男。
階級はギーゼンより下なのだろうが、それでも敬意をもって接しているように感じられる。
そんな彼の隣にはぼんやりとテーブルの上を見つめる少女がいた。
ノヴァックの演者なのだろう。
茶色い髪を頭の後ろで結った彼女は、まるで今までの騒ぎなど一切耳に入っていないといった様子である。
その眠たげな眼は、この世界の出来事など全く興味がないと言わんばかりに熱の感じられないものだった。
会った頃のジルケとはまた違う、現状を見た結果そうなったような冷めた瞳。
エッカートはそれが妙に気にかかったが、目が合った彼女はすぐに別の方へ視線を向けてしまう。
声をかけるわけにもいかず前を向きなおると、ジルケが彼をに声をかけた。
皿の上は片付いている。
朝食を済ませたら座学をやると昨晩話していたため、早く行こうというのだろう。
二人同時に立ち上がり、「失礼」と残して食堂を後にした。
ジルケにカーヤ、アメリア。
そしてあの冷めた目の少女。
一口に演者とくくることのできない違いがそれぞれあるらしい。
階段を上りながら、エッカートはそんなことを考えていた。
* *
昼過ぎ、エッカートのやってきた射撃場には先客がいた。
カール・ノヴァック少佐と、彼の演者リディアである。
小銃を分解整備していた二人はエッカートに気付いて顔を上げるが、リディアの方はすぐに銃へ視線を戻した。
一方ノヴァックは「一人かね」と問う。
エッカートが頷くと、彼は納得したというような表情を浮かべた。
「まだここには来たがらないかね」
「ええ。前のように暴れることはありませんが。まだ」
午前中の座学が終わる頃、エッカートはジルケに銃に触れられるかを問うていた。
しかし返ってきた答えは「ごめんなさい」の一言。
自分でもなぜそう思うかは分からないが、とにかく銃を見たくはない。
聞き出せたのはそういった答えだった。
先日のことを思えば無理強いするわけにもいかず、一人ここへ来ることにしたのだ。
状況によってはエッカートも銃を取ることになる。
腕を鈍らせてはいけなかった。
ホルスターから取り出したマカロフ拳銃。
国境警察で使っていたものは退官時に返納していたため、新たな個体との付き合い直しである。
マガジンに銃弾を装填し、スライドを引く。
そして右半身を前に向け左手を腰に当てて構えた。
乾いた音が数回続く。
それがやむと、標的の中心近くに音と同じ数だけ穴が開いていた。
整備を終えて銃弾の準備をしていたノヴァックが目を丸くするのが隣に見える。
そして「いい腕だね」と言いながら近づいてきた。
「これだけが特技ですから。知っている限りこの国で二番目です」
ノヴァックはさらに驚いた顔をする。
「それだけの腕でも二番目なのか」
「ええ。一番のヤツは今ローマにいます」
エッカートの言葉を聞いてノヴァックは「オリンピックか」と呟いた。
まもなく行われるローマオリンピックに東ドイツも選手を送っていた。
まだ国際オリンピック委員会には加盟できていないが、西ドイツと合同チームを作って前回のメルボルンに引き続いて参加している。
冷戦の最前線にあって対立する東西ドイツは、平和の祭典、オリンピックでは辛うじて手を取り合おうとしているのだった。
一方リディアの方も準備を済ませたらしく、MPi-KSを標的に向けて構えていた。
折り畳み式のストックをしっかりと肩に当てる様を見てエッカートは思い出した。
ジルケより少し高い背丈、結われた髪の風に揺れる様。
彼がここへ来た日、ギーゼンの部屋から見えた銃を撃つ少女。
それはリディアだった。
あの時と変わらぬ乱れのない動きで、短く指切り連射された弾丸が標的へと吸い込まれていく。
これを少女がやっているのだから驚きである。
そして朝食の際に見たものとは違う、兵士の瞳。
狙いは絶対に外さないと訴えているようだった。
「これだけ腕がいいんだ。オリンピックでもいい成績が出せそうだな。次が狙えそうだ」
冗談めかしてそう言うと、リディアは怪訝そうにこちらを見る。
「平和の祭典とやらは人工的に強化された体で出ていいものなのか?」
まるで興味はないが、一応は聞いてやろう。
そう言わんばかりのぶっきらぼうな問いかけ。
「まぁ、難しいだろうな」
そう答えるのがせいぜいだった。
エッカートの返事に満足したのか興味をなくしたのか、リディアはもう一度標的に向き直る。
それを見ていたエッカートをノヴァックが呼んだ。
射場から少し離れた場所でノヴァックは「いいかい」と話を始める。
「遅かれ早かれ彼女には限界が来てしまう。科学の限界ってやつだね。そんな子供達に将来の希望を持たせろというのは酷な話だ。調律を受けた者が最期にどうなるか。ボクは大戦中から見てきた。そして彼女はそのことを理解している。あまりそういう話はしないでやってくれ」
それだけ言うと、ノヴァックはリディアのもとへ向かっていった。
大戦中からという言葉。
それがエッカートの心に引っかかった。
ノヴァックに対して敬意をもって接していたギーゼンの口ぶり。
それは彼が大戦中の処置の時代から調律に関わっていたからなのだろう。
彼が見てきたもの。
それはエッカートには想像できないものだった。
射撃場を離れたエッカート達は、城の前に置かれた丸テーブルを囲んでいた。
一見すると午後のひと時を過ごしているだけに見える。
そこに銃器が置かれていなければの話であるが。
そんな光景に違和感を抱くエッカートのものを含め、三筋の紫煙が揺らめいている。
ノヴァックのパイプ、そしてリディアの紙巻き煙草。
親指と人差し指で挟み、火を手で覆うように煙を味わう彼女の目。
銃を構えていた時のそれから冷めたものへと戻っている。
そんな彼女をエッカートは不思議そうに眺めていた。
十七歳の少女に似合わぬそれは、穏やかな日差しを受けて鈍い光を放つ銃器と同じくらいに違和感のあるものだった。
「吐き気がしたまま銃持つよりよっぽどいいだろ?」
視線に気付いたリディアが不満げにそう言った。
エッカートは「すまない」と返すとノヴァックの方へ顔を向ける。
「気にしないでやってくれるかな。ボクもいいとは思わないが、もっと体のためにならないことをやっているわけだしね」
調律で行われる投薬の副作用。
それはエッカートの想像できないほどに負担のあるものだろう。
彼と会うときはつとめて笑顔のジルケもその裏で苦しさに耐えているのかもしれない。
それを思うと胸が痛むが、その負担を和らげる努力をするのが指揮者の役目である。
その結論にノヴァックも至っているらしい。
「ビューラー君ともずいぶん相談したんだがね、結局これが一番マシということになったんだ。正直なところを言えば、ボクと同じ嗜好品ならコーヒーの方を選んでほしかったが」
「毎日のように生理痛みたいな痛みに襲われるんだ。ワタシの好きにさせてくれよ」
リディアはそう言いながら下腹部に手をやった。
そして小さく「もう役に立たない場所なのに」と呟く。
その寂しげな言葉にエッカートは何も言うことができなかった。
* *
リディア達と別れたエッカートはジルケと話をしようと城の中へと足を踏み入れていた。
すると入れ替わりに出て行こうとするライヒが階段を下りてくるのが見える。
その傍らを歩く少女。
長い黄金色の髪と大きな青い瞳。
暖かい色合いのワンピースの裾を揺らしながら、楽器ケースを抱く彼女がアメリアなのだろう。
階段を下りながら時折ライヒの方へ楽し気に笑みを向けている。
隣を歩くライヒもエッカートに気付いたらしく、「おや」と声をかけた。
「こんな時間にお一人で?」
ジルケを気に掛けるノヴァックのそれとは違う、演者と寄り添っていないことを遠回しに非難するような問いかけ。
「俺も銃の訓練くらいしなきゃならないんでね」
そう言ってエッカートは二人とすれ違うように階段を上っていく。
そんな彼の背中に声がかかった。
「演者が指揮者の指示を聞けないなんて、ひょっとして彼女は貴方のことを信じてないんじゃないですか?」
強い言い方に言い返そうかと思ったエッカートだったが、彼の言は耳の痛いものである。
嫌な顔をするのがせいぜいだった。
一方のライヒは言いたいことを言って満足げといった風だったが、隣に立つアメリアは彼の方を見て「せんせぇ」と声をかける。
「ジルケちゃんのことそう言ったらかわいそうだよ。あの子困ってたもん」
それを聞いてライヒは「フン」と鼻を鳴らして去っていく。
アメリアもケースを抱えながら彼に続いて歩いていった。
残されたエッカートにとって、彼女の言葉は少し意外なものだった。
カーヤほどとは言わないものの、指揮者に対して強い好意を持っている印象を持っているように思えた。
しかしライヒの言を完全になぞっているわけではなく、彼女なりにジルケを見ているらしい。
当のエッカートはどうだろうか。
ジルケと向き合うことができているだろうか。
自問自答しつつ、階段を上った。
彼女の待つ部屋に向けて。
ノックへの返事はすぐだった。
ドアを開いたジルケはエッカートの顔を見て一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに暗い色が差し込めてしまう。
そして一歩二歩と下がった彼女は「鉄砲の臭い」と呟いた。
彼女の言うのは火薬のものだろう。
そう察したエッカートは部屋に入るのをやめ、ドアの前で立ち止まった。
彼にとって火薬の臭いなど気になるものではなかったが、彼女はそれに慣れていない上に、もしかすると調律の影響で感覚が鋭くなっているのかもしれない。
しばし逡巡したエッカートは「上に行こう」と言ってジルケを連れ出すことにした。
三階奥のホール。
そこに置かれた丸テーブルに二人は向かい合うように座った。
正面に見るジルケの顔。
気まずさのような色が見て取れる彼女の顔をエッカートは覗き込んだ。
「この臭いが好きじゃないことは分かった。だがここにいる以上は避けられないものだ。銃もそうだ。率直に聞くが、これを持つことはできるか?」
ジャケットの内に入れた拳銃を外から叩いてみせる。
エッカートの手の先にあるものを見つめていたジルケは少し間を置いて「わかりません」と答えた。
「わたしにも理由がわからないんです。でもこの前に鉄砲を見たときみたいになりそうで怖いんです。だけどエッカートさんはそれを持ってほしいんですよね?わたしに」
「そうなるな」
静かにそう答えたエッカートから顔を下ろしたジルケはズボンの布を掴んだ。
先日二人で選んだ緑色のそれにシワが寄る。
「鉄砲は怖いです。だけど、それでエッカートさんに嫌われるのはもっと怖いんです。どうすればいいんでしょう……」
「なにを馬鹿なことを」
そう言いながらゆっくりと立ち上がると、エッカートはひとつ隣の椅子に座った。
本来ならば抱き寄せてでもやりたいところである。
しかし火薬の臭い、過去の記憶の染み付いたまま、そうすることはできなかったのだ。
エッカートが冗談にも思っていないことを、ジルケは本気で悩んでいるようだった。
その感情は銃に対する記憶以上に彼女の心を揺さぶっている。
思いつめた表情の彼女を見て、エッカートはそう感じていた。
そんな二人の耳に足音が聞こえてくる。
音のする方、階段に近い側に座っていたエッカートが目を向けると、リディアがこちらへ向かってきていた。
その肩にはストックが折りたたまれたMPi-KS小銃が提がっている。
カチャカチャという金属音を遠くに聞いていたエッカートは思わず立ち上がった。
銃をジルケに見せたくない。
そう思ってのことだったが、逆に彼女の気を引いたらしくエッカートの背中から顔を覗かせてしまった。
ぎょっとしながら彼女の顔を見るが、意外にも大きな反応はない。
少し嫌そうな顔を浮かべるものの、それ以上のことは起こらなかった。
そのまま眠たげな顔のリディアが通り過ぎるまでジルケの顔を見ていたエッカートは、彼女の顔を覗き込む。
「なんともないか?」
その問いを聞いて、ジルケは一瞬天井を見上げてからエッカートの方を向いた。
「好きじゃないですけど、そこまで嫌じゃないです」
少し困ったような、自分の感情に整理のついていないような表情。
それを見ながらエッカートは思った。
やはり彼女が銃を拒絶するのは、あの日の出来事と強く結びついているからだと。
その推測を確かめよう。
見上げたままのジルケに「少し待ってろ」と言うと、エッカートは武器庫へ向かっていった。
鉄と油の臭い。
並べられた多種多様な銃の数々。
複雑な顔をしながら、エッカートはその一つ一つを見ていく。
そして拳銃の置かれた棚から小さな一丁を手に取った。
しばらくそれを眺め、エッカートは頷く。
これならば、という気持ちがなんとなくだがあったのだ。
鉄の扉を固く閉じ、ジルケの下へと向かう。
戻ってきたエッカートを見るジルケの顔には二つの感情が見て取れた。
銃を目にしなければならないことへの不快感と、エッカートがそれを解決してくれるという期待感。
どちらが強く出るか、ほとんど賭けのようなものである。
もう一度彼女の向かいに座り、その顔をジッと見た。
「嫌なら嫌と正直に言ってほしい。その時は支配人達と相談しよう」
そう言って革製のホルスターに包まれた小さな拳銃をテーブルに置いた。
そのままジルケの方へ押し出す。
近付いてくるそれを見つめていたジルケはしばらくの間そのまま動かずにいたが、やがてゆっくりと手を伸ばした。
留め金を外し、中に入るものに指先が触れる。
冷たい感覚が伝わってくる。
思わず目をつぶりながら、彼女は銃把を掴んでそのままホルスターから引き抜いた。
目を開くと、彼女の手には冷たい鉄の塊が握られていた。
手からほんの少し溢れる程度の小さな拳銃。
見たことのないそれ。
エッカートが選んだそれ。
不思議なことに嫌だという感情はなかった。
「これは……?」
小さく問うた声にエッカートが静かに答える。
「Cz45。チェコスロヴァキアの小型拳銃だ。弾も小さいから君でも撃てるだろう」
そう言いながら彼は紙箱に並べられた銃弾をテーブルに置く。
銃弾を初めて見た彼女にとって、それが大きいのか小さいのか分からない。
だがエッカートが自分のためにこれを選んでくれたという事実が、彼女にとって大きなものだった。
無意識にそれを胸元へと持ってきていた。
「いけるか?」
そう問うたエッカートにジルケは小さく頷く。
進むべき道を進み始めた。
そんな気がしていた。
射場に立つ少女を見てエッカートは良い感情を持つことはなかった。
しかし彼女が銃を持つことを覚悟したのだ。
自分も受け入れなければならない。
ゆっくりと銃口が持ち上がり、標的の方へ向いていく。
エッカートは頼りない姿勢で銃を構えるジルケの腕にそっと手を伸ばした。
「もう少し肩の力を抜くんだ。そう。的をよく見て……」
右腕や腰に手を触れるエッカートの手。
その感覚を嫌がることはなく、ジルケは指導を受け入れていく。
そしてゆっくりと人差し指に力を込めた。
乾いた音が何度か続いた。
その音に驚いて細めていた目を見開くと、的に小さな穴が開いているのが見える。
しかしその数は聞こえた音とは合わない。
そして開いた穴も標的の端の方にあるだけ。
ジルケはがっくりと肩を落としながらエッカートの方を見た。
意外にも彼は優しげな顔をしている。
「心配することはない。これから少しずつやっていこう」
耳元でエッカートがそう言うのを聞き、ジルケは小さく頷く。
その時の彼女は頬が緩んでいるような気がした。
* * *
物静かな倉庫に数人の人影があった。
若い夫婦とその子供。
そして彼らと向かい合う男達の手には銃が握られている。
その中の一人がMP40を肩に乗せてニヤリと笑った。
「代金は受け取った。これから自由の世界にお連れしよう」
「……頼む」
消え入りそうな声でそう言った若い男は震える右手で子供の肩を抱く。
どうにかしてこの子だけでも西へ連れ出したい。
それが彼の願いだったが、叶うことはなかった。
何かが弾けるような音が彼の耳を貫く。
その直後、目の前にいた男が力なく倒れこみ、床に銃が投げ出された。
ぎょっとしながら音のした方を見ると、暗がりから強い光が点滅し、先ほど倒れた男の仲間がなぎ倒されていく。
わずかな時間だったはずだが、それが若い男にはとても長く感じられた。
倉庫が取り戻した静寂を破ったのは子供の泣き声だった。
それを宥めようと、夫婦は子供を抱きしめる。
しかし周りに広がる血だまりを前にして、声を上げたいのは彼らも同じだった。
早鐘のように鼓動を打つ心臓の音が耳に響く中、もう一つ規則的な音が二人の耳に入ってきた。
その源に男は目線を向ける。
立っていたのは一人の少女だった。
その手に似合わぬ大きな銃を抱え、こちらへ近づいてくる。
説明のつかない状況に、夫婦は目を白黒させた。
血だまり、死体、そして怯える人々。
それらを冷たく見下ろす少女の心が揺らぐことはない。
何度見たか分からない光景を、今更どう感じればいいというのだろうか。
窓からの光が喪服のように黒い髪に差して、うっすらと反射している。
その天使の輪のような光に似合わぬ光景。
死をもたらした天使はゆっくりと口を開いた。
「君達はドイツ民主共和国の国境に関する法律に抵触している。逮捕されたくなければすぐにここを去るといい」
機械的にそう呟いた彼女はその場を離れていく。
気付かぬうちに歌を口ずさみながら。
1章 -終-
竜頭に手を添えながら 雨竜大樹 @Uryu-Taiki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。竜頭に手を添えながらの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます