第1章③ 曇天の洗礼

 「鎮静剤は打った。しばらくは眠っているだろう」

ビューラーはそう言ってベッドに横たわる少女からエッカートへ目線を移す。

エッカートが少女を抱きしめている間に悲鳴を聞いた誰かがビューラーを呼んだらしく、彼女はすぐに飛んできた。

そして暴れていた少女を三人がかりで抑えて注射を打ったのが数分前。

火事場の馬鹿力か調律によるものか、ともかく少女とは思えぬ暴れようだった。

静かに寝息を立てている彼女を横目に、エッカート達は椅子に座り、ビューラーは壁に寄りかかって向き合った。

彼女は足元に立てかけられた銃を見ながら問う。

「銃を見た途端こうなったと?」

「ええ、銃を撃つ話をしていた時はなにもありませんでした。やはりあの日のことが関わっているんでしょうか」

ビューラーは口元に手をやりながら「ありえる」と答えた。

「しかし調律で記憶を封じたわけですよね?」

「いの一番にやったさ。だが調律でできるのは記憶に蓋をすることであって消すことではない。深層心理に眠っていた記憶が銃を見たことで呼び戻されたということだろう。まだ人間の心には未解明の部分も多いんだ」

神妙な面持ちで聞いているエッカートに「心当たりは」と問いかけがある。

「あの日の出来事と銃を見せた時、なにか共通点はないか?」

記憶の糸を辿っていると、なにかがつながっていく感覚があった。

「協力者の大半がモーゼルを持っていました。K44とは多少形が違いますが、素人が見れば同じような大きさの木製ストックを持つボルトアクションライフルです。家族の死と、その時近くにあった銃が結びついたということも」

「可能性はある。もう一度調律を施して、その記憶を埋めるようにしよう。だが最も重要なのは彼女の信頼を勝ち取ることだ」

そう言いながらビューラーは立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。

しきりにポケットをまさぐっているあたり、煙草を吸いたい気持ちを紛らせているのだろう。

そんな調子のまま彼女は続ける。

「銃を見るたびに調律を施していたら、使い物になる前に彼女の心身は壊れてしまう。だから銃を持って戦う覚悟を持たせろ。調律で与えられたものじゃない。本当の意味の信頼だ」

エッカートは静かに頷く。

だが自信があるわけではない。

そしてその資格があると断言することもできない。

そのまま壁伝いに歩いているビューラーを見つめていることしかできないでいた。

そんなエッカートにビューラーも向き直る。

「名を与え、戦いを教え、共に時間を過ごせ。それが演者をただのかわいそうな少女から武器に変える」

素直にその言葉を飲み込めぬまま、時間だけが過ぎていった。


 小さな声が静寂を破った。

立ち上がったエッカートがベッドの脇へと駆け寄ると、少女はうっすらと目を開け、天井を見つめていた。

そんな彼女はエッカートに気付くと、申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「エッカートさま、ごめんなさい……」

そう言いながら伸ばした手をエッカートは握る。

「いいんだ」と繰り返しながら。

それを握り返す力は頼りない。

先ほどエッカートの背中に食い込んだ爪の感覚が思い出された。

しばらく手を握り合っていた二人を見ていたビューラーは足元を指さしながら口を開く。

「しばらくコレの訓練は後回しだ。あと外の空気でも吸ってくるといい。支配人には私から話を通しておく」

不思議な顔をしながら頷くエッカートの脇に立ったビューラーは聴診器を取り出している。

それを見てエッカートは少女からドアの方へ顔の向きを変えた。

そんな彼の背中にビューラーが声をかける。

「出かけてきていい、って意味だからな?」

背後から聞こえたその声に、エッカートは驚きの表情を浮かべていた。

だがそれが彼女のためになるかもしれない。

そんな淡い期待を抱いていた。


* * *


 ハンドルを握るエッカートは右側からの視線を感じていた。

目線をそちらに向けると、不思議そうな顔をしながらこちらを見る少女がいる。

「気分はどうだ?」

交差点で停まったところで、エッカートは少女にそう問うた。

すぐに「大丈夫です」と返事があるが、他に言いたいことがあるらしく、ぐっと身を寄せてきた。

「出掛けるって言ってましたけど、今日はお休みじゃないですよね」

少し不満げな声を聞いて合点がいった。

訓練や座学をするつもりでいたのだろう。

「これからベルリンに行く。それも君の任務のうちだ」

その言葉に納得したようで、エッカートの方に寄せていた体を座席に戻す。

「いずれ君も任務に参加する。その時に戦う場所はベルリンだ。どんな街か知っておくに越したことはない」

「そう……ですね」

前をしっかり見据えながら彼女はそう呟く。

あくまで演者としての責務が心の中にあるらしい。

真面目な気質は元からなのか調律によるものなのか。

ただ指揮者の指示に積極的に従うような暗示が調律で施されているということはビューラーから聞いていた。

しかし今日は違う目的も持っているのだ。

「慣れない中で疲れただろう。少し息抜きもしよう」

少し考え込んでから少女は頷く。

その顔が楽しげなものに変わったような気がしたことは、エッカートの気持ちも和らげてくれるようだった。


 まもなく夏本番という日差しが照らす中、車は南へと向かっている。

運転するエッカートや後ろへと流れていく風景。

少女の目線はその一つ一つを確かめるようにあちこちへと動いていた。

それがエッカートの方で止まる。

「エッカートさま、この車は?」

「中……支配人が貸してくれた。合唱団のものだ。俺は持ってないよ」

返事を聞くと少女は車内を見まわし始める。

エッカートが合唱団へ来たときに乗ってきたものと違う四人乗りの小型車。

戦前からほとんど変わらぬデザインのそれを含め、合唱団は数台の車を保有している。

偵察や人員輸送に使う乗用車のほかにトラックや西ドイツ製のバンなどもあった。

任務に応じて使い分けているのだという。

その中の一台が今日の二人の足である。


 車は一時間ほどかけて南へと走った。

すると右手に大きな看板が立っているのが見えてくる。

Berlin-Hauptstadt der DDR、ドイツ民主共和国首都ベルリン。

少女達が守るべき、その街へと入ったのだ。

そのまま進む車は路面電車と時折すれ違いながらパンコウ区に入った。

行きかう車は少ない静かな町である。

その街区にはところどころに人民警察官が立っており、ジルケは嫌そうに顔をしかめた。

「なんだか重苦しいですね」

彼女の目には人民警察官だけでなく、似た制服の国境警察が見えているのだろう。

隣のエッカートがそれを着ていたとは知らずに。

エッカートは曇る表情に気付かないふりをしながら彼女の方を向いた。

「ここは党や政府のお偉いさんの邸宅が並んでいるから、の警備だろう。この先に国家評議会もある」

「国家評議会?」

そう尋ねる少女の顔を見返す。

政治教育もいずれは必要だろうが、それは今ではないだろう。

「この国の行き先を決める、つまるところ俺達の究極の上司だな。その角を右に曲がるとある」

短くまとめると、彼女は窓の外を眺めた。

しかしそこにはシュロス大通りと書かれた看板と警備に立つ人民警察官が見えるのみで、それらしき建物は見当たらない。

窓に張り付いたままの少女を乗せ、車は南へと進み続けた。


 プレンツラウアー通りを南下し都市鉄道の線路を跨ぐ頃には、車窓の風景が住宅地から首都らしい姿へと変わっていた。

ビルの背が高くなり、行きかう車の数も増えている。

そんな中でエッカートは少女の方を向いた。

「ベルリンを回るのはこの街を知るためだが他にも目的はある。戦う前に君が必ずやらなければならないこと、分かるか?」

「戦い方を知ることでしょうか?」

答えるまで少し間があったのは、他になにも浮かばなかったからだろう。

「もちろん戦えなければならないが、戦うだけなら君や他の少女でなくとも普通の兵士で構わない。あえてそうするのは、君達が兵士には見えないからだ」

こういった話をするとき、少女の顔は真剣なものに変わる。

調律によるものなのだろうが、吸い込まれそうなほどまっすぐな瞳をしている。

演者が普通の少女と違うと思わされるときだった。

小さく息を吐くと、エッカートはハンドルを握りなおして話を続けた。

「越境協力者はこの国の公安組織、人民警察や国境警察を撃つことへのためらいをなくしつつある。だが少女となれば話は違ってくる。容易に近付けるだろう。銃を抜く瞬間まで気付かれずにな」

そう話していたエッカートは「だが」と付け加える。

「今君が着ている服ではダメだ。それは合唱団に来て渡されたものだろう?」

その問いに少女は青いシャツの胸元を引っ張りながら「はい」と答える。

表情が急に沈み込むのを横目に見て、エッカートは慌てて「責めているわけじゃない」と付け加えた。

「青いシャツに黒のスカート、自由ドイツ青年団の制服なんてこの国じゃどこでも見る。だがそれだけに目立ってしまうんだ。特に越境協力者からすればその服は“体制派”の若者が着ているものだ。警戒されるだろう」

先ほどまでなんの疑問もなく着ていた服。

それが急に違和感のあるものに変わっていく感覚が少女の中にあった。

不満そうな顔をしている彼女を見て、エッカートは一段高いトーンで話を続けた。

「だから新しい服を買いに行こう。選ぶのは手伝うから」

それを聞くとパッと表情が明るくなった。

こうしている間は彼女もどこにでもいる少女に見える。

先ほどとの対比がエッカートの胸につかえるようだった。

それぞれの想いを乗せた車はベルリン中心部、ミッテ区へと入っていった。


 ミッテ区はベルリン市のほぼ中央にあり、西ベルリン側へ大きく突き出している。

その中央という名が示す通り、東ドイツの政治や経済の中心地である。

エッカートの運転する車はアレクサンダー広場へと到着した。

大きな円形交差点とそれを横切る路面電車の線路。

そしてそれを囲むように立ち並ぶビルの向こうにはレンガ造りの塔も見える。

レークラーと会ったオストクロイツ駅が東ドイツ各地と結ばれる鉄道の中心であるのに対し、ここは市内交通の中心である。

路面電車や都市鉄道、地下鉄が行きかう中を人々がせわしなく歩いている。

そんな街の一角に車を停めると、エッカートは車を降りて少女の側へと回った。

前側から後ろへドアを開いて少女に降車を促す。

外へ顔を出した少女のウェーブがかかった髪を風が揺らした。

夏の日差しが白い肌を照らす。

その光の中を二人歩いていった。


 二人がやってきたアレクサンダー広場は戦争の爪痕とその復興がせめぎ合う場所だった。

いまだに窓ガラスの割れたまま放置された建物があったかと思えば、そのすぐそばにあるビルには“ドイツ民主共和国が強くなればなるほどドイツの平和は確固たるものとなる”と書かれた横断幕が掲げられている。

その対比は異質なものであるが、この国ではどこでも見られるものだった。

遠目にそんな光景を見ながら、二人はHO、国営商店と書かれたビルへと入っていく。

買い物をするならここだとツェッテルから聞いていたのだった。


 婦人服の並ぶフロアへやってくると、少女は左右を見まわしてからエッカートの方を見た。

その表情は車の中で見た沈みこんだものから明るいものへと変わっている。

「選り取り見取りとはいかないかもしれないが、ここなら好みのものが見つかるだろう」

それを聞いて嬉しそうに歩き出す少女に続いてエッカートも店の奥へと進んでいった。


 店の品揃えは多く、それを少女は楽しげに眺めていた。

吊られているワンピースを取って首元に持ってきてエッカートに「どうですか」と問う。

小さく頷いている彼を見て、少女は不満そうな顔をした。

「さっきからその返事ばっかりです。手伝ってくれるっておっしゃってたのに」

口をとがらせる彼女にエッカートはすまないと声をかける。

独身の上に先日まで軍服を着ていた身である。

正直なところ、彼はファッションについて理解がある方ではなかった。

先ほどの姿勢のままの少女を見ていたエッカートは、しばらくしてから周囲を見回した。

そして遠目に何かを見つけると、正面を向きなおる。

「パンツスタイルってのはどうだ?」

そう言って指さす先には長袖の黒いシャツに青基調のチェックが入ったズボンを履いたマネキンが立っている。

少女はしばらくそれを見つめると、持っていたワンピースをハンガーラックへ戻した。

「エッカートさまはああいう服がお好きなんですか?」

「どうだろうな。動きやすい服が気になるのは仕事柄かもしれん」

その言葉に納得したように頷きながら、少女はマネキンの方へと歩いていった。

先ほど見ていたものより大人びた雰囲気のそれを少女はジッと眺める。

少しの間を置いて、彼女はマネキンから目をそらした。

好みとは違ったのかと残念そうな顔をしたエッカートをよそに、彼女は隣のラックに吊られていたズボンを手に取った。

緑色の細身なそれを腰に持ってきてエッカートの方を向く。

「これだったら似合いますかね?」

その問いに今度は自信を持って「いいな」と答えると、少女は嬉しそうな顔をしていた。


* * *


 先ほどのズボンに加えて白地に柄の入ったシャツを買い足して少女は満足げだった。

国営商店に入っていた喫茶店で一服したのち、再び車で移動を始めた。

助手席に座る少女は買ってもらった服の入った紙袋を抱きながらエッカートの方を見ている。

「エッカートさま、ありがとうございます」

礼を言う少女に頷いて答えると、彼女はもう一度紙袋を抱きなおした。

「これからどこへ行くんですか?お買い物して、お茶もしました」

「そうだな、もう少し区内を回ってみよう。近くに博物館なんかもあるが、興味はあるか?」

その問いに少女は首をかしげていた。

記憶を封じられているのだ。

自分が何を好きだったのかすら分からないのかもしれない。

そう思うと酷な質問である。

エッカートは「すまない」と短く言うと、行く当てもなく車を西へと走らせた。


 悩んだ末にやってきたのは映画館だった。

エッカート自身、特別映画が好きなわけではないが、ここであれば外れはないと踏んだのだ。

ミッテ区中心部、ウンター・デン・リンデン通りにあるそこでは、しばらく前に公開されたものがリバイバル上映されていた。

これでいいかとエッカートが問うと、少女は一瞬間を置いて頷く。

十八世紀に建てられた建物の一角に入った小さな映画館。

その小さな入り口をくぐった二人は長くつながる跳ね上げ式の椅子をそれぞれ倒して座った。


 少しの間を置いてブザーが鳴り、照明が落とされる。

その暗闇に照らされた白黒の映像は待っていたものではなかった。

とある家の中で男が幼い子供を抱える女性を外へ無理やり連れ出そうとするその映像。

ニュース映画との二本立てだったらしい。

そこにナレーションが加わる。

『……西のファシストは人民を誘拐し金を得ている。平和な民主都市ベルリンに土足で押し入り、戦争なき戦争を仕掛けているのだ』

さらに家の中に警官が踏み込んでくる。

そして男を捕えると、親子は笑顔を浮かべて喜んだ。

『内務省は警戒を強化し、人民を悪しきファシストの手から守るべくその能力を高めている。我々は党と政府とともにこの美しき町を守らなければならないのだ』

この映画を作った者と同じ立場にあるエッカートにとっては食傷気味な内容である。

スクリーンの白い光に照らされて、そんな映像を食い入るように見つめている少女が隣に見えた。

自身や本省から来る教官役の教えている内容と一致する映像。

それを合唱団を離れた場所で見ることは、教えられた内容が事実であるとより印象付けるものだろう。

彼女の顔を見ながらエッカートは小さく息を吐いた。


 続いて始まった本編は楽しいものだった。

一九世紀に作られたオペラを映画化したもので、二人のペーターという人物が主軸となる。

オランダの造船所で働く二人は親友であり、ともにロシアから来ている。

だがそれぞれが隠していたことが恋人や役人も巻き込んだ大事になるといった物語。

色とりどりの衣装を着た人々が歌い踊る様を少女も楽しそうに眺めていた。

その表情を見ながら、エッカートは先ほどの少女の顔を思い出した。

どちらが本物の彼女なのだろうか。

そして一方が偽りであるならば、その一面を覆い隠すべきなのだろうか。


 映画館を出ると、空には雲がかかりつつあった。

夏の太陽はまだ高くにあるが、少し薄暗くなっている。

そんな中をエッカートの運転する車はウンター・デン・リンデン通りを西へ走っていた。

一七世紀に造られた通りは戦争による破壊から立ち直りつつあり、その名の由来となった菩提樹も植えなおされている。

その道を進んだ先にあるのがベルリンの象徴、ブランデンブルク門である。

茶色の石で作られた巨大な門。

それを少女はしげしげと眺めている。

「立派な門ですね」

「ベルリン旧市街地の正門だったらしい。王宮の真正面だしな」

エッカートの答えを聞いて少女は首をかしげる。

「王宮?そんな建物ありましたっけ?」

この通りの左右には立派な建物がいくつも並んでいた。

しかし王宮らしきものは見当たらなかったし、そもそもこの国に国王はいないのだ。

彼女にとって分からないことだらけである。

「皇帝も王宮もこの国にはもうない。跡地だけは映画を見る前に通ってるよ」

その言葉を聞いて記憶をたどってみるが、それらしきものは出てこない。

はっきりしない記憶を手繰る少女を乗せた車はブランデンブルク門をくぐり、南へと進路を変えた。

まだその先に道が続いているのにも関わらずである。

なぜかと少女が問うと、意外な答えが返ってきた。

「そこから先へ俺達は行くことはできないんだ」

「行き来している車がたくさんありますよ」

彼女が指さす先には西へ東へ走る車が何台もある。

それを指で追っていると、車がゆっくりと速度を落として道路脇に停まった。

不思議そうな顔をした少女をよそに、ハンドルから手を離したエッカートが少女の側の車窓を指し示す。

そこには白い大きな看板が立っている。

-注意!これより先 西ベルリン-

「このエーベルト通りの先は西ベルリン。西ドイツ。ここから先は別世界なんだ」

それを聞いた少女の顔は複雑な感情に覆われていた。

敵である越境協力者のいどころ。

そして本当の彼女が危険を賭して行こうとしていた場所。

それが看板ひとつあるだけで隔たれることなく自分達の世界とつながっている。

強烈な違和感が彼女を襲った。

「ベルリンってひとつの町なんですよね。なぜわたし達に行けない場所があるんですか?なぜそこから悪い人達は来るんですか?」

立て続けに投げられた問いに答えるように、エッカートは先ほどとは違う看板を指さした。

ブランデンブルク門より西に続く通りの名が記されている。

「俺の持っている地図にはシャルロッテンブルク街道とあるが、実際には何と書いてある」

少し暗くなった中で目を凝らすとアルファベートと数字が浮かび上がってきた。

「……六月十七日通り……?あれ?」

「この街はひとつの都市だが、四ヶ国によって占領され、二つの体制に分かれている。その象徴があの通りの名前だ」

「二つの体制……ドイツ民主共和国と西ドイツのことですね」

「そう。そしてその背景にある東西という全く異なる社会体制が、この街には境界なくつながっているんだ。あくまで戦勝四ヶ国がひとつの都市を共同管理しているというのが建前だからな」

いまいち飲み込めないといった顔のまま、少女は話を聞いていた。

「第二次世界大戦を共に戦った連合国も一枚岩ではなかったんだ。だからファシストという共通の敵を失い、隠れていた対立が表面化した。それがドイツを名乗る国が二つあるという現状につながってくる」

「それでもベルリンはひとつなんですね」

「そうだ。他の国境は鉄条網で遮断できても、あくまで共同占領下にあるベルリンには手が付けられない。だからそれぞれの街に住んで別の方へ働きに出る者もいれば、この街を抜け穴にして西へ移り住む者、それを武器を持って手助けする者もいる」

エッカートの言葉が心の中でつながっていく感覚があった。

それが少しずつ文字から文へと変わっていく。

「違う考えの人が同じ町を見るから、通りに別の名前がつく。そういうことでしょうか」

「そういうことだ。これが俺達の住む世界なんだ」

そう言うとエッカートは元来た道を戻り始めた。

車は東へと進んでいく。


* * *


 ウンター・デン・リンデン通りの東にはシュプレーという川が流れ、その中に広い中洲がある。

博物館がいくつも並んでいるため博物館ムゼーウムス島と呼ばれている。

二人はその一角にある広場にいた。

コンクリートが敷かれた二百メートル四方の空間。

その東端に置かれた演壇がついた観覧席の隅に座っていた少女はエッカートの顔を覗き込んだ。

「エッカートさま、ここは?」

「マルクス・エンゲルス広場。さっき話した王宮の跡地だ」

それを聞いて少女は周囲を見回す。

全て均されて王宮の面影は一切ない。

通っていても気付かないわけである。

そう思っていると、エッカートは空を見上げながら口を開いた。

「ここは不思議な国だ。戦争で破壊されていまだに修復されていない建物がいくらでもある中で、修理できた王宮は取り壊す。国を離れる人民がいる世の中を改善するのではなく、君のような少女に銃を持たせ戦わせる。そんな国だ」

エッカートは話を静かに聞いていた少女の顔を見ながら「だが」と付け加えた。

「そんな国でも祖国で、俺は国に服すると宣誓した。だから命令を受ければ戦う。けれど君まで戦うべきなのだろうか。そう命じる資格が俺にあるだろうか」

そう問うたのは、彼女に「いいえナイン」と答えてほしかったからなのかもしれない。

だがその答えは返ってこない。

「わたしはエッカートさまの演者です。指揮者の命令に従う以外のことをわたしは知りません」

分かっていてもあまりに悲しい返事である。

調律によって過去を失い、戦うこともままならない今の彼女。

ただの少女でもなければ兵士でもない。

彼女は一体どんな存在なのだろうか。

そう思っていたエッカートを少女の言葉が突き動かす。

「だから他のことを、買い物や映画、そしてこの街のことを教えてくださってとても嬉しいんです。今日はとても楽しかった」

そう言って空を見上げた少女と一緒にエッカートも顔を上げた。

西へ傾いた太陽が雲の向こうにうっすら見えている。

本来の輝きを失った光。

それを見ながらエッカートの唇がわずかに動く。

「ジルケ」

「……え?」

首をかしげる少女の顔を見つめながら、エッカートはもう一度同じ名を口にした。

「ジルケ。それが君の名前だ」

彼の言葉がうまく飲み込めない。

そんな様子で彼女は目を白黒させる。

「ジルケ……。わたしの……名前……」

小さな声で呟いていた少女の目に涙が浮かぶ。

頬を伝うそれに気付いた少女は「あれ?」と呟きながら拭おうとするが、涙は止まることなくあふれ続ける。

「嫌だったか?」

そう問うエッカートに少女は首を横に振って答えた。

「嬉しいんです。でもなんでだろう。止まらないんです。涙……」

困ったように笑みを浮かべる彼女の頭にエッカートはそっと手を置いた。

「無理に止めようとしなくていい。落ち着くまでこうしているから」

そう言い終わる前に少女はエッカートに抱き着き、彼の胸を借りて泣いた。

涙という形で彼女の過去の一切を流し出してしまうかのように。


 どれほど時間がたっただろうか。

泣き止んだ後も少女はしばらくの間エッカートに抱き着いていた。

そんな彼女が顔を上げる。

涙の痕は残っていたが、そこには穏やかな笑顔が覗いていた。

「気分はどうだ?」

その問いに頷いて答えるのを見て、エッカートは少女を立ち上がらせた。

「じゃあ帰ろうか。ジルケ」

「はい。エッカートさん」

こちらを見上げながらそう答えた彼女とともに緩やかな階段を下っていく。

儚い太陽の光がそんな二人を照らしていた。

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