第1章② 二人の過去

一ヶ月前 マグデブルグ県オッシャースレーベン


 机に置かれたランプだけが灯った部屋。

エッカートはそこで電話を前にしていた。

普段であれば鳴らない赤い直通電話。

それが鳴ったのは深夜一時を回ったころだった。

短い報告を受けて受話器を置くと、隣の黒い電話を手に取る。

「第二小隊を叩き起こせ!緊急配備だ‼」

そう怒鳴ったエッカートは部屋の隅に置かれた帽子掛けに吊るしていたベルトを素早く身に着ける。

そこには拳銃の入ったホルスターがつながっている。

彼らは戦いに行くのだ。

同胞を撃つために……。

机の上から地図をつかみ、部屋を飛び出していった。


 角張った軍用自動車に乗ったエッカートは、後部座席に座った無線手の方を見ていた。

彼の「どうだ」という問いに無線手は頷いて答える。

「この方向で合っています。ヘッセンの北すぐです」

その答えにエッカートは奥歯をグッと噛みこんだ。

気の進まない任務。

その情報をもたらしたのは国家保安省の県管理局国境安全対策室だった。

越境しようとしている一団がいるというのだ。

彼らを止め、場合によっては銃を向けなければならない。

それがエッカート達、国境警察の任務なのだ。


 しばらく車に揺られていると、無線機がエッカートを呼んだ。

「越境者を発見。ヘッセンの手前、ローアスハイムとの中間です」

エッカートの眉間にしわが寄った。

国境線には人の背をはるかに超えるフェンスが並び、数百メートルおきに監視塔とサーチライトが置かれている。

しかし今向かっている場所はその数が少ないためにサーチライトで照らしきれない部分があったのだ。

それを探られてしまったのだろう。

監視に穴があることは過去に報告をしていたが、対応が遅れていた。

しかしそのことを恨んでも遅い。

とにかく現場へ急がなければならなかった。


 双眼鏡を覗いて暗がりに目を凝らす。

丸い視界のが左右に動くと、背の高いフェンスの下になにかが動いているのが見えた。

人だ。

何者かがフェンスを切っているらしい。

数は六人ほどだろうか。

その傍らにカバンのような四角いものが置かれているのも見える。

越境の現行犯だ。

エッカートは静かに頷くと、彼の車に続いていたトラックに乗っていた兵士を左右に展開させた。

静かに包囲して逮捕しようという考えだった。

それが完了するまでの間、エッカートは双眼鏡を覗き続けた。

どうか途中でやめてほしい。

そうすれば君達を捕えなくて済む。

ほとんど無意味な願いは実ることなく、彼らはフェンスにとりついている。

そして無線に配備完了の連絡が入ったのを聞き、エッカートは右手を振り上げた。

トラックの上に置かれたライトがまぶしく光る。

「こちら国境警察だ。諸君はドイツ民主共和国の法令に違反している。今すぐ国境を離れ……」

拡声器でそう叫んでいたエッカートの周りが突然暗くなった。

わずかに遅れて何かが弾ける音が響く。

銃声だ。

割れたライトを一睨みしてから前を見ると、残されたライトに向けて発砲しているのか、フェンスの周りがチカチカと光っている。

国境の管理が厳しくなるにつれて、越境者の方も対策を強化していた。

管理の穴を探るのがうまくなるだけでなく、西側に協力者も得ている。

そして彼らは武器すら持っていた。

銃で威嚇し、越境者を助ける。

そうしている彼らからしてみれば、国境という牢獄に囚われた哀れな人々を看守の手から助け出す解放者のつもりなのだろう。

しかしエッカートの側にしてみれば正規の手段で国境を越えない上に銃での暴力にすら訴えて人民を連れ出す犯罪者である。

容赦の必要はない。

「発砲を許可する。ただし威嚇のみ、人民は撃つな!」

無線機にそう吹き込むと、エッカートも現場へ駆け出していった。



* *


 銃撃戦は開けた場所にいる側が不利なものである。

越境者を助ける西側の協力者は車を盾にして発砲しているが、こちらは草地に伏せつつの応射。

うまく距離を詰められずにいた。

しかも狙うべき相手との間にはフェンスがあり、その前には越境者がいる。

伏せながら進むエッカートの顔が曇った。

拳銃を握る彼の手に力が入っているのがわかる。

そんな時だった。


 「デッセルがやられた‼」

左翼側から接近していた分隊の分隊長の声だった。

暗がりにうずくまった兵士を介抱する人影が見える。

すぐにでも駆け寄りたいエッカートだったが、銃弾が飛び交う中であり、彼は指揮官なのだ。

今彼ができることはこの状況を早く終わらせることだった。

すぐ後ろを這う無線手から送話機をひったくると、前進のペースを速めるよう命じる。

そして彼自身も前へ前へと進む。

柵までの距離が無限に遠く感じられた。


 百メートルほど先に柵が見える。

ここまで来る間にも何度も頭上を銃弾がとびぬけていった。

当たらずに済んだのは相手が暗がりでめくら撃ちしているからだろう。

壊されずに残っているライトは協力者の方を向いており、逆光になっていることも幸いしていた。

そんな中でエッカートは双眼鏡を睨む。

まだ越境者が柵の前で伏せているのが見える。

どうかそのまま動かないでいてくれとエッカートは願った。

その間にも銃撃は続く。

応射しようにも越境者が間にあって、協力者だけに当てることは難しい。

距離を詰めて越境者を確保するよりなかった。

だが、その願いはかなわなかった。


 越境者の一団にいた子供が飛び出したのだ。

それを追う親らしき人影が宙を舞う。

どちらの放った弾によるものかはわからない。

だが民間人が撃たれたという事実は変わらなかった。


 あとはもう警察活動とはいえぬ戦闘そのものとなった。

人数も火力も圧倒的に多いエッカート達が残ったことは言うまでもない。

だがそれを勝利と呼ぶことはできなかった。

越境者、人民に死者を出した。

そして自国へ向けて銃を撃つ侵略者に等しき越境協力者は斃れるか逃げるかしてしまった。

捕えて背後関係を吐かせることはできない。

エッカートはこれを敗北と呼んだ。

彼は怒りに任せて地面を強く蹴った。

乾いた土がパラパラと宙を舞う。

それが落ちる様を睨んでいたエッカートを下士官が呼んだ。

彼の「生存者が」という声に弾かれるように走り出したエッカートが見たのは、泣きながら斃れた女性の肩をゆする少女だった。

彼女の母親だろうか。

Muttiママ!Muttiママ!」

そう叫ぶ少女を見つめていたエッカートはその場にいた兵士に命じて彼女の顔を上げさせた。

サスペンダーに吊ったライトがそれを照らす。

涙を浮かべた灰色の瞳がエッカートを睨む。

その恨みのこもった目が彼の脳裏に強く焼き付いていた。


* * *


 天井から吊られた電灯が見える。

知らぬ間に朝が来ていたらしい。

ラッパの聞こえない朝はいつ以来だろうかと、慣れぬベッドから身を起こしながらエッカートは思った。

ずいぶんと長い時間寝ていたようである。

そしてその間夢を見ていた。

忘れようとしていたあの日のことを。

嫌でも思い出さずにはいられなかった。

十五人が死んだ。

一団から飛び出してしまった幼い少女と両親、その隣人夫婦の五人。

エッカートの部下である国境警察隊員が四人。

そして越境協力者が六人。

その責を取って職を辞し、国境という世界から離れたつもりだった。

だが国境は、ドイツ民主共和国の国境は彼を離しはしなかった。


 ぼんやりと天井を見つめていたエッカートは視線を落とした。

机の上に置かれた書類が目に留まる。

顔写真が留められた少女の調査資料。

それをまとめたのは先月のエッカート自身だった。

越境しようとしていた者の中で残ったのはあの少女だけだった。

その資料と身柄を国家保安省へ引き渡したのち、彼女がどうなるのか。

エッカートの興味の外だったが、こうして再び巡り会うこととなるとは夢にも思わなかった。

自身の運命を呪うべきか否か、今のエッカートには答えを出すことはできないでいる。


 しばし思案にふける。

昨日一日でいろいろなことが起きすぎていた。

記憶を整理し、これからやるべきことを考え直さねばならない。

そして思い出したのは、少女に名前を付けろと言われていたことだった。

任務に投入する以上、過去の記憶はその障害となる。

そのためにここへ来る前のこと、特に彼女の場合は越境しようとしていたことや家族を目の前で失ったことは調律によって厳重に封じられているらしい。

どのように封じているのかはエッカートの理解の外だが、ここで生きていくうえで名前は大切なものである。

それを指揮者が与えることで少女との絆が生まれる。

ギーゼンがそう言っていたのを思い出すが、エッカートは半信半疑だった。


 帰郷するつもりで荷造りし、そのままここへ持ち込んだ鞄から着替えを探す。

毎日同じ制服を身に着けていた昨日までがいかに楽だったのか。

そんなことを考えながら、きれいに畳まれていたワイシャツに袖を通した。

背広姿になったエッカートは鏡の中の自分に目を向ける。

国家保安省に籍を移したとはいえ、新たな制服を着る機会はほぼない。

ここで活動する間は背広が仕事着となるのだろう。

足元まできちんと整えられたのを確認し、エッカートは部屋の外へと出ていった。


 向かう先は一つ下、一階の医務室だった。

階段を降り、右奥へと歩く。

この階には食堂にも使われるホールや屋内運動場などが配置されており、医務室はその一番奥にあった。

そこはちょうど指揮者の部屋の真下にあたる。

そのドアを叩くと、すぐに返事があった。

中で待っていたのは白衣姿の女性である。

彼女は「来たか」と言って、エッカートの前に置かれた丸椅子を指さした。

それに座り、女医の方を見る。

少女と会ったのち、彼女を連れ帰ったのがこの女医だった。

アンネリーゼ・ビューラー少佐、この施設でギーゼンに次ぐナンバーツー。

また調律に関する責任者でもある。

ビューラーはエッカートをじっと見ると、「決めたか?」と問うた。

「えっ?」

「えっじゃない。名前だよ。話しただろう?」

呆れたようにそう言いながら、ビューラーは組んでいた足を入れ替える。

そして背もたれに体を預けて腕を組んだ。

「まっ、昨日の今日じゃ思いつかんわな。しかも自分の赤ん坊でもないのに。子供は?大尉」

首を振って答えるエッカートを見ながらビューラーは頷く。

「あぁ、独身だっけ。面倒くさいぞ子供は。旦那もだけどな」

そう話す彼女だったが、本心から言っているようには見えなかった。

「ともかく、名前をつけないことには科学的社会教育は進まない。早く考えた方がいい。まだここに来る前の記憶を封じた程度だ。」

そう言うとビューラーは立ち上がり、窓際へと歩いていく。

エッカートはそれを見ながら、彼女の言った科学的社会教育という言葉を繰り返していた。

調律の本来の呼び名だが、そう呼ぶものはそれほど多くない。

いわゆるお役所言葉の類である。

しばし考え込んでいたエッカートは顔を上げると、ビューラーの方を向いた。

「名前の件もありますし、彼女に会わせてもらえますか?」

ビューラーはそれを聞いて頷くと、医務室を出ていった。

一人残された中でエッカートは思った。

記憶を封じる。

そんなことが本当に可能なのだろうか。

であるならば、自分が持つあの日の記憶を消してはくれないか、と。


 待っていたのは数分ほどだった。

ドアが開かれ入ってきたビューラーの後ろに昨日の少女がいた。

ビューラーは部屋の隅に置かれていた丸椅子を持ってくると、そこに少女を座らせる。

行儀よく座る少女の顔をジッと見つめるエッカートは思った。

今目の前にいるのはあの日見た少女なのだろうか。

ウェーブのかかった肩にかかる銀色の髪。

灰色のツンとした目。

全く同じであるにもかかわらず、本当にそうであるとはにわかに信じがたかったのだ。

あの夜の彼女がエッカートに向けていた表情。

それと全く違う眠たげな視線。

エッカートは不思議な感覚を覚えていた。

その感覚に折り合いがつかない間に、ビューラーは「出てくる」と言ってドアの向こうへ消えていく。

医務室に静寂が訪れた。


 しばしの間悩んでいたエッカートはやっと口を開いた。

お嬢さんフロイライン、変な質問をするが……君がなぜここにいるか分かるかい?」

腰を浮かし、少し近付いてそう問うエッカートを、少女はぼんやりと見つめている。

やはりあの日の少女とは信じがたい。

そう思っていると彼女の唇が動いた。

「……よく分かりません。でも先生がみんなの役に立つことをするって言ってました。みんなって誰のことでしょうか……?」

要領を得ない返答だった。

ビューラー達はこの施設についてどう教えているのだろうか。

その答えを探るためにも質問を続ける。

「先生、女医ドクトリンの言っていたことはその通りだな。そのために君にも協力してもらう。だからここで生活をしているわけだが……どうだろう、ここに来る前のことで何か覚えているか?」

しばらく考え込んでいた少女の口から「分かりません」という言葉がこぼれる。

「一週間前なのか一ヶ月前なのか、あまり覚えていません。少し前に誰かがここに連れてきてくれました。それより前のことはあまり。夜……強い光……」

「過去のことはもういい。ここに来てから不自由はないか?」

エッカートが思わず遮った言葉。

それはきっとあの日の出来事につながっている。

だがそれを強く覚えているとしたら、こうして向き合うことを彼女は許さないだろう。

調律によって記憶を封じたというのは本当らしい。

ここに来るより前のことは忘れされられているようだった。

そのことに驚いているのが表情に出ていないかエッカートは心配だったが、少女は気付いていないようだった。

「ここの人はみんな優しくしてくれます。ここを家だと思っていいって言われました」

ぽつぽつと綴られる言葉。

それがどの程度真実を含んでいるのか、エッカートにはわかりかねた。

記憶を封じることができるのだ。

与えることも容易なのではないか。

そんな疑問が頭をよぎるが、疑ってもキリがない。

そう断じて少女の方を向きなおす。

「ともかく、ここで過ごしながら、聞いていたように人の役に立つことをするための訓練……勉強をする。俺はその教官といったところだな」

「教官、先生が二人……?」

不思議そうな顔をしている少女にエッカートは「ともかく」と言葉を続ける。

「ともかくこれから俺は君と行動を共にする時間が増える。だから、よろしくな。エッカート・ルンゲだ」

そう言って差し出した右手を、少女は頼りなさげに握り返す。

少しひんやりした指先。

それが掴もうとしていた西側という世界を、エッカートはこれからも遠ざけ続けることになる。

その罪の意識が握手の時間を短くさせた。


 ビューラーが戻ってきたのはその少し後だった。

もう一人医官を連れ、また白衣に煙草のにおいを染み付けながら。

「どうだ“初”の対面は?」

含みのある言い方に気付かないふりをしながら、エッカートは頷いて答える。

それをどう受け取ったのか彼には分かりかねるが、ビューラーは満足げだった。

「ルンゲ君には支配人から話があるそうだから行きたまえ。フロイラインは私達と少し話をしよう」

ビューラーはそう言って退室を促した。

少女達の前で階級は使わないというのがここでのルールなのだろう。

少しずつこの施設の作法を学んでいかなければならない。

そう考えながらエッカートはドアをくぐる。

閉まるドアの隙間から見えた少女は、なにやら名残惜しそうにこちらを見つめていた。


* *


 二階のギーゼンの部屋に向かうと、彼は机に向かっているところだった。

書類を脇に寄せ、エッカートの方を見る。

「会ってきたそうだが、どうだった?」

エッカートは顎に手をやり、考え込むような姿勢をとる。

「不思議な気分ですね。見た目は十五歳の少女ですが、心はもっと幼い……というより半分空っぽ、抜け殻のような感じに思えました」

ギーゼンは背もたれに体を預けると、「ふむ」と呟いた。

「君の見立ては正しい。調律が始まったばかりだ。心のもう半分をどうするか、それは君次第といったところだな」

ギーゼンは言葉を黙って聞いていたエッカートの顔を覗き込んだ。

「聞きたいことがあるようだな」

「はい。なぜ自分の担当が彼女なのでしょうか」

そう問うたエッカートをギーゼンはジッと見つめている。

驚くでもなく当然と言わんばかりの表情をしながら、ギーゼンは口を開いた。

「話した通り我々の任務は越境対策。しかも表に出ない特殊なものだ。従事する人間が簡単に集まるものでもない。そんな中で身寄りをなくした少女と越境対策に従事した経験を持ち、しかも今は現場を離れた将校がほぼ同時に現れた。これは“買い”だと思わないかね?」

引っかかる物言いだった。

買いや投資、ギーゼンはこの国では聞かない表現をすることが多いらしい。

「ともかく、絶好のタイミングで演者と指揮者がともに現れたんだ。しかも少女のまわりの出来事に自責の念を抱く責任感の強い人間だ。悪いようにはすまい」

「買い被りすぎです。もちろん命令とあらば少女を守って任務にあたります。しかし記憶を封じているとはいえ、彼女の家族を撃つ命令を下した事実は変わりません。その封じられた記憶が彼女に悪影響を及ぼすことは考えられませんか?」

エッカートの問いへの答えは「わからない」だった。

眉を顰めているエッカートを見ながらギーゼンは続ける。

「君の懸念は尤もだし、我々も気にしている。だからしばらくはドクトリンに調律や経過観察をきめ細やかに行ってもらう。君もその間にここでの任務について学びたまえ」

あまり納得できていないエッカートだったが、無理にでも現状を飲み込もうとしていた。


 ギーゼンの部屋を後にしたエッカートが移ったのは、二つ隣の会議室だった。

窓をカーテンで閉め切り、暗くした部屋の中でスライド映写機の光だけが灯っている。

映っているのはベルリンの地図。

そしてその隣には国家保安省の本省から来た大尉が立っていた。

第八局から来た彼は記念合唱団との連絡係が本来の務めだが、今回は教官役といったところである。

「元国境警察官であるあなたには今更ですが、建国より約十年、我が国を離れて西ドイツへ向かう、共和国からの逃亡行為に及ぶ越境者は増え続けています。特に一九五三年のベルリンに端を発する暴動に前後して、その数は増加傾向にあります。時期を同じくして行われた国境封鎖以来、越境者が抜け道として選ぶことが増えているのがベルリンです。その特殊な地位が、我々に対策を難しくさせています」

つい先日まで教壇に立っていた側のエッカートだったが、今はその内容を聞く側に回っている。

ここでは新人であり、またベルリンという街には不慣れである彼にとっては、聞くべき価値のあるものかもしれない。

そう思いながらスクリーンに目を向けた。

ベルリンの地図は東西を分ける線が引かれ、さらに西側は三つに分けられている。

東ドイツの首都でありながら戦勝国の占領下にあり、西半分は施政下にない。

そんな不思議な都市がベルリンだった。

国境の鉄条網に隔てられることなく東西がつながる場所は、世界中でここだけである。

「この街の特殊性が越境者の通過点、そしてその協力者の活動拠点となりうる理由です。西ベルリンからこちら側へ行き来して越境者を西へ連れ出している。ベルリンはそんな街なのです」

そう話していた大尉は次のスライドに切り替えた。

ベルリンの東半分、ドイツ民主共和国首都ベルリンの数か所に赤い点が置かれている。

「これは摘発した越境協力者の拠点です。前大戦の後も回収から逃れた銃器で武装し、これをためらうことなく使ってくる。まだ市内にはこのような場所がいくつもあり、我々はこれを叩かねばなりません。彼らは自分達を解放者と思っているのでしょうが思い違いです。人民を西側に売り渡し、我々の清潔な街を土足で汚す階級の敵です」

大尉の目は真剣そのものだった。

己の発言が真実であると信じてやまない、そんな目だった。


* *


 自室に戻ったエッカートは机に並べた資料を睨んでいた。

自身でまとめた少女についてのものと、渡されたこの合唱団のもの。

その二つを見ながら彼は考えていた。

少女にどう調律を施すべきなのか。

そう考えながら合唱団の資料に目を向ける。

それは驚くべきものだった。

少女をほとんど自由に兵士へと作り変えてしまう。

記憶を変え、意識を作り、体も強化する。

まるで魔法のようだが、それは事実である。

その様をエッカートは見ているのだ。

信じがたいが事実であるが、それは揺るがなかった。


 少女を市街地での戦闘に投入する。

そのためになにが必要だろうか。

そんなことを考えながら、エッカートはベルリンの地図を取り出す。

五階建てや十階建てのビルやアパートの立ち並ぶ市街地。

そこに踏み込むのだから、取り回しの良い拳銃や自動火器が扱えなければならないだろう。

さらにはナイフなどを使った近距離戦闘や徒手格闘なども求められるかもしれない。

となれば教えることはたくさんある。

エッカートは指揮官の顔を取り戻しつつあった。


* *


 少女に施す訓練について考えをまとめてきたエッカートだったが、翌日からすぐというわけにはいかなかった。

この日一日が調律にあてられるのだという。

調律が行われるのは城から少し離れた場所にある医療棟。

エッカートもそこにいた。

半世紀以上前に建てられた石造りの城とは違う、二階建てで鉄筋コンクリート造のシンプルな建物。

足を踏み入れると、そこは普通の病院と何ら変わりない空気が満ちている。

ここで行われていることを除けば、であるが。


 一見すればただの診察室といった佇まいの中に異質な存在がある。

それは部屋の中央に置かれた椅子だ。

左右のひじ掛けには手首を固定する器具がついており、腰の部分にも拘束具がある。

そして半分倒した背もたれに体を預けて眠る少女にはパイロットがするようなマスクがかけられ、ホースは機械を介して壁に並んだ数本のボンベとつながっている。

これから心の調律が行われるのだ。

少女を囲んで準備にあたっていた数人の医官が離れると、作業を見守っていたビューラーが彼女に近づいた。

「導入剤遮断」

短く命じたビューラーの声を聞き、機械の操作担当がスイッチの一つをはじく。

それから少しすると、少女の目がうっすらと開かれた。

「聞こえるかい?」

そう問いながら、ビューラーは少女の顔を覗き込む。

少し間をおいて、少女も「はい」と答えた。

「私が誰だかわかるか?」

「……ビューラー先生です」

「そうだ。君がいるこの場所はどこかな?」

「病院……ローザ・ルクセンブルク名称……記念合唱団の……」

たどたどしい返事。

それは昨日の会話以上に頼りないものだった。

意識は眠っており、夢を見ているような状態らしい。

演者をこの催眠状態に入れることで、さまざまな暗示を与えることができる。

そう説明を受けてはいたが、エッカートにはにわかに信じがたかった。

しかしやはりこれも現実のことなのである。

虚ろな目をした少女にビューラーが顔を近づけ、再び質問した。

「君は何者で、何のためにここにいる?」

「わたしは演者です。演者として武器を取り……指揮者、エッカート・ルンゲ様に従い、ドイツ民主共和国のためにこの身を捧げます」

表情を変えずに紡がれた言葉は、およそ少女のものとは思えない。

まるで兵士の宣誓のようだった。

驚いていたエッカートをよそに、ビューラーは彼を手招きした。

怪訝な表情のまま、エッカートは少女の前に立つ。

光を失った眠たげな眼がぼんやりと見つめている。

あの日の少女なのか疑ってしまうほどだが、もし違うのならばその方がいい。

エッカートはそう思っていた。

そんな彼の肩に手をやりながら、ビューラーは少女の目を見る。

「わかるか?彼がエッカート・ルンゲ。君の指揮者だ」

彼女の言葉から少し間をおいて、少女が唇を動かす。

「ルンゲ……様。わたしの指揮者。わたしが従い、お守りする人。忠誠を誓う人……」

そう話す少女は催眠下にあるはずだが、うっすらと笑みを浮かべているように見える。

笑いかけられる資格など、彼にはないはずなのに。


* *


「どうだった?」

少女が眠っている部屋の隣、小さな会議室のような場所でビューラーがそう問うてきた。

その指先には煙草がゆらゆらと煙を上らせている。

煙の流れる先を見ていたエッカートはビューラーの方を向きなおす。

「正直言って嫌な気持ちです。まだ十五歳、総合技術学校の九年生の子供が迷うことなく兵士の宣誓まがいのことを口にしている。ましてや武器を取ることや自分へ忠誠を誓うなんて。自分は……」

「そんな資格はないと?」

頷くエッカートをビューラーはじっと見つめる。

表情からは真剣にそう思っていることが窺えた。

煙草を咥え直し、一度深く吸う。

そうしてからもう再びエッカートの方を向いた。

「彼女との間にあったことは聞いている。だが調律はすでに始まっているんだ。一度調律を受けて指揮者を認識した演者にとってそれは全てになる。ひな鳥のようにな」

後戻りはできないということだろう。

覚悟を決めて少女とともに歩まねばならない。

自分を納得させようとするエッカートにビューラーは続ける。

「演者は指揮者を変えられない。そして演者以外の生き方を失う。いいか」

そう言ってビューラーは机の上に置かれた分厚い小説ほどの大きさの鞄を開いた。

中にはホルダーに収まったアンプルがびっしりと並んでいる。

「ただのビタミン剤じゃないぞ。すべて調律で使うものだ。これだけの薬剤が午後には空になる。少女二人の体にこれが入ること、その意味が分かるな?」

エッカートはゆっくり頷く。

心や体を変えるための薬。

それを日常的に摂取させられるのだ。

負担は想像を絶する。

「演者は指揮者に従う。だが指揮者も演者に縛られる。それが調律なんだ」

息をのむエッカートを見ながらビューラーは続けた。

「あの子を守ることができるのは大尉だけだ。あの子に自責の念を抱いているのなら、その命を無駄にしないようにしてやることだな」

その言葉に頷くべきか、エッカートにはわからなかった。


 しばらくエッカートはビューラーの話を聞いていた。

調律やそれに使う薬品のこと。

聞けば聞くほど背筋が寒くなった。

これが大人にも使えたら戦争はどうなっていただろうか。

そしてこの国はそれをどう使うだろうか。

少数の少女にのみ使われている現状がある意味で幸せなのかもしれない。

残酷ともいえる考えがエッカートの中にはあった。

無言で座るエッカートの前に、ビューラーは小箱を差し出した。

煙草のものである。

「長話も疲れた。一服といこうじゃないか」

残り少ない中の一本を取り出すと、エッカートはポケットからマッチを取り出した。

二筋目の煙が上ると、濃い味が口の中に広がる。

驚いたような表情をしていると、ビューラーは笑い出した。

「高いのは吸い慣れないか?人生は短いんだ。安い煙草にかけている時間はないぞ」

困ったようにエッカートも笑みを浮かべるが、代わりにビューラーの笑みが消える。

「短いったって彼女達ほどではないがな」

それを聞いて笑みの消えたエッカートはビューラーの顔を見た。

真剣な表情に変わっている。

「……具体的には」

「調律の深さに反比例するが、今のところ最長で三年。時計の針がもうすぐ止まってしまう演者もいるよ」

「……三年」

「少しずつ調律で与えられたこと以外を忘れていく。それが始まりになる。そのうち感情が抑えられなくなったり、全身の筋肉が悲鳴を上げ始める。そして最後には心か体か、もしくはその両方が耐えられなくなり機能を停止する。つまりは死ぬ」

唾を飲み込む音が部屋に響くようだった。

二十年と生きられぬまま、少女達は命の火を燃やし尽くしてしまう。

やはりここは異質な場所だった。

表情が沈んでいくエッカートにビューラーは声をかけた。

「確かに彼女達の命は短い。だがその残された時間を懸命に生きている。その姿を実際に見た方がいいな」

それを聞いてエッカートは顔を上げる。

「少女達がどう生きているかを見て、それであの子をどうするのか考えるといい」


* *


 心の調律では暗示を与えた後、それが演者の意識に定着するまで時間がかかるらしい。

今日は少女に会えないと言われたエッカートは医療棟を後にして城へと戻っていった。

湖を右目に見ながら、エッカートはビューラーの言っていたことを思い出す。

少女達がどう生きているかを見ろ。

それを思い出し、エッカートが向かったのは城の一階、運動場として使われている部屋だった。

中に入ると学校の教室ほどの空間が広がっており、その半分はマットが敷かれている。

そのマットの上で二人の女性が組み合っていた。

正確には組み合っているというよりも、一方的に攻めているという方が正しい。

矢継ぎ早に突きや蹴りが繰り出す長身の女性と、それを受けるジルケほどの背の少女。

指揮者と演者だろう。

長い手足から繰り出される攻撃もすさまじいが、そのすべてを避けている演者の方にも驚かされる。

最小限の動きで四方八方から飛んでくる攻撃を一つ残らずかわしているのだ。

その一連の動きは一分ほどの時間だったが、エッカートにはもっと長く感じられた。


 二人が動きを止め、足音と短い息遣いが響いていた運動場に静寂が訪れる。

そして指揮者らしき人物がこちらに向かってきた。

肩の上ほどの長さの黒い髪を揺らして近付いてくる女性。

その青い目がエッカートを見つめている。

「最近来た指揮者、だっけ?ヴィルマ・ツェッテル。あの子、カーヤの指揮者よ。」

彼女が指し示した手の先に立っていた少女に目を向けると、サッとツェッテルの陰に隠れてしまう。

背中の向こうから覗き込む緑色の目はこちらを警戒しているように見えた。

「カーヤってのは?」

「もちろんここでつけた名前よ。この子らしいでしょ?」

そう言ってツェッテルはカーヤを抱き寄せる。

カーヤ、純粋さといった意味だっただろうか。

その名通りの見た目をしている。

しかしツェッテルの攻撃を軽々と避けていたのも同じ彼女なのだ。

それも調律の効果なのだろう。

エッカートはもう一度カーヤを見る。

今は眠っている少女と背格好や年齢はそれほど変わらないか、少し下くらいの見た目。

短く切りそろえたダークブロンドの髪。

動きやすさを重視したのか細身のパンツ姿。

本当に戦うことができるのだろうかと不思議に思うほどに普通の少女と変わりなかった。

「この子は実戦には?」

その問いにツェッテルは「もちろん」と答えた。

「何度か参加しているわ。バックアップとしてが多いけど」

「バックアップというと?」

「狙撃なんかがそうね。荒事は私やほかの演者の方が得意だし、狙撃でこの子を越える演者はいないもの」

ツェッテルの答えにエッカートは驚いた。

先ほどの動きを見る限り、確かにツェッテルの体術は相当高い技術を持っているようだった。

しかしそれをすべてかわしていたカーヤも尋常でない運動神経を持っているはずだ。

それすら上回る演者がいるらしい。

そんなことを考えていたエッカートをよそに、ツェッテルはカーヤを撫でた。

「最近よく動けるようになったわね。偉いわ」

カーヤは愛おしそうに頬に触れる手を握っている。

そして安心しきった表情をしている彼女の口から驚くべき言葉が飛び出してきた。

「お姉さまに殴られるのならわたし、全然かまわないですよ。それなのに避けなくちゃいけない?」

「ダメよ。実際に殴りかかってくるのは私じゃないんだから」

驚くこともなく、ツェッテルはそう返す。

信頼感とはまた別種の、崇拝ともいうべき感情を抱いているようにエッカートは感じていた。

それが調律によって与えられたものか、それとも二人の間で築き上げたものなのか、それは彼には分からなかった。


 どこからかツェッテルが持ってきた椅子に腰かけ、エッカートは二人と話を続けた。

その間もカーヤはツェッテルにべったりと寄り添っていて、椅子に座っているよりも彼女の背中に抱き着いている時間の方が長いほどだった。

その中で理解したのは、調律と実際の訓練が車の両輪のような関係であるということだった。

調律だけで体を動かせるようになったり銃が扱えるようになったりは決してなく、指揮者が寄り添って指導しなければならない。

まず指揮者と演者が信頼関係を築くことが必要だという。

そしてその第一歩が名前である。

ツェッテルはそう言った。

「名前はこの子たちへの最初の贈り物。早く考えることね。ねぇ、カーヤ?」

撫でながら問うたツェッテルを、カーヤは愛おしそうに見つめていた。

そんな二人を見ながら、エッカートは自分がそうできるのか考えていた。


* *


 暗示が行われた翌日、エッカートは少女を運動場に連れていった。

そこで簡単なテストをしてみたが、普通の少女と比べても十分な体力を持っているらしいということが分かった。

これも調律によるものなのだろう。

徴兵前に軍事訓練を施すスポーツ技術協会GSTに所属する少年少女の監督をしたこともあるエッカートだったが、彼女はその時見た子供たちとそう変わりない。

むしろ細身ですらある。

カーヤもそうだったが、その華奢な体に力を秘めさせているようだった。


 体力の心配がそれほどないと分かると、次にかかったのは座学だった。

調律によって合唱団での任務についての知識を多少与えてはいるが、催眠下に置き続けて暗示によって指導することは演者への負担も大きく、また視覚的な情報を与えることが難しいという問題がある。

そこで普通の子供達と同じように勉学に励むのだ。

数日前にエッカートが講習を受けた会議室で、その時と似た内容が説明されている。

エッカートの話す言葉を一言一句逃さぬよう、少女は彼の顔や指さす先をジッと見つめていた。

その集中力にはエッカートも驚かされたが、これも調律の結果なのかと彼は思っていた。


 それから数日たった後、エッカートは少女の部屋にいた。

三階で集団生活を送る他の演者と違い、まだ調律の完全でない彼女は指揮者と同じ二階の個室で生活している。

生活と言ってもベッドと机、それにクローゼットがあるくらいで、およそ少女の部屋という雰囲気ではない。

そんな殺風景な部屋で椅子に腰かけたエッカートはベッドに座る少女を見つめていた。

「フロイライン、ここでの生活には慣れたか?」

「はい。ルンゲ様や皆さんが優しくしてくださるので」

微笑みながらそう返事をした少女を見ながら、エッカートは複雑な表情を浮かべる。

小さくため息をつくと彼女の方に向きなおす。

「そのヘァンっていうのをやめよう。君は従者ではないし、俺も主人じゃない。それに封建的で社会主義のあり方と違う」

そういえば納得するかと思ったが、少女は「ほう……けん?」と呟いて不思議そうにこちらを見ているだけだった。

そして少し間をおいて、その顔は不満そうなものに変わる。

「でもわたしはルンゲ様の演者です。演者は指揮者に従うものです」

「ともかくだ。エッカートでもルンゲでもいい。俺は様をつけて呼ばれるような人間じゃないんだ」

「はい……エッカート……さま」

無意識に敬称を付けたらしく、少女はハッと顔を上げた。

調律の与える影響の深さに驚かされてしまう。

暗示がそこまで深いものなら、強く言うのは彼女にとって負担だろう。

背もたれに体を預け、エッカートは「まぁいい」と呟いた。

「いずれ慣れていけばいい。今日は訓練を一歩進めようと思って来たんだ」

その言葉を少女は興味深そうに聞いている。

座学の時の同じような、エッカートの与えるすべてを吸収しようというという表情だった。

「前にも話した通り、越境協力者は武装をしている。それと戦うためには、君も銃を正しく扱わなければならないんだ。わかるな?」

「はい。そうしてエッカートさまを守るんですね?」

「俺もそうだが、君の行動がこの国や人民を守るんだ。そういった大切な仕事だ」

首をかしげている少女を見るエッカートには、言葉の意味を彼女が正しく理解できているか分かりかねた。

そんな彼女を見ながらエッカートは立ち上がった。

ついてこようとするのを制止し、彼は三階へと向かっていった。


 階段を上がると、鍵のかかったドアが二つある。

一つは部屋に続き、もう一つは廊下をふさぐように後付けされたものだ。

前者が武器庫、後者が演者の部屋につながっている。

夜には演者たちはドアの向こうに囚われる。

そうしたくなるほどに、演者は危うい存在だった。

エッカートはそんな扉のうち、武器庫のドアノブに手をかける。

分厚い鉄扉が開くと、鉄と油の臭いが鼻を突く。

手探りで明かりをつけて中に入ると、驚きの光景が広がっていた。

びっしりと並べられた銃器。

その量と種類はエッカートの想像を超えている。

軍でも使われ、いついぞレークラーの言っていたPPSh41はもちろん、前大戦で使われたドイツ軍のものや同盟国ワルシャワ条約機構のもの、果ては少ないながら西側の銃器すら置かれていた。

それを見て半分呆れたような表情を浮かべていたエッカートは一丁の小銃を手に取った。

モシンナガンM1891/44騎兵銃。

東ドイツの軍隊、国家人民軍ではK44と呼ばれるソヴィエト連邦で作られた全長の短い小銃だ。

これを選んだのは、初心者である少女でも扱えるのではと思ったからだった。

本当は新兵の訓練で使う22口径の小型の銃を探していたが、それが見当たらなかったため選んだのだ。

短く取り回しがよい銃に弱装弾を使えば銃に不慣れな彼女でも撃てるだろう。

そう考えながら、エッカートは小銃のボルトを引く。

弾は装填されていない。

それを確認すると、階下へと向かっていった。


 肩にかけた小銃の重さを感じつつエッカートは階段を下りた。

少女の部屋の前に立ち、二度三度ドアを叩く。

そうしてからドアを開くと、少女はベッドに座ったままこちらを見つめていた。

その表情はエッカートの顔を見て明るくなる。

「銃を借りてきた。射撃場に行こう」

そう言いながら肩にかけていた小銃を少女に見せた、その時だった。

「イヤ!!」

悲鳴のような声が響いたかと思うと、少女はベッドの上を後ずさりして壁にぶつかる。

それでも奥へ奥へと進もうとする足の動きが整えられていたシーツに波紋を作った。

そんな彼女に近づこうとするエッカートの顔に何かがぶつかる。

遮られた視界が回復してすぐにとらえたのは、足元に転がる枕だった。

来るな、と言いたいらしい。

だが来てほしくないのはエッカート自身ではなく、彼の手にある小銃だった。

それに気づいたエッカートは小銃をドアの方に転がし、少女のもとに駆け寄る。

目を見開き、短く浅い呼吸をしている少女を、エッカートは抱きしめた。

早鐘のように打つ鼓動が伝わってくる。

抱き返してくる彼女の爪が背中に食い込む鋭いものがエッカートの痛覚を刺激するが、こらえるよりほかない。

鉄砲シーサイゼンなんて、鉄砲シーサイゼンなんて……!」

呼吸の合間を縫うように聞こえたのは、調律から漏れた不協和音だった。

それに蓋をするように、エッカートの声が響く。

「大丈夫、大丈夫」と。

その二つの単語が小さな部屋を支配していた。

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