第1章① 再会

一九六〇年七月 ドイツ民主共和国西部 マグデブルグ県


 月が改まって少し経った頃だった。

男が数年を過ごした建物を後にしようとしていた。

振り返ったそこには戦前からある石造りの庁舎、そしてドイツ民主共和国国境警察オッシャースレーベン兵営と書かれた門が目に映る。

男はここで働いていた中尉だった。

だがその階級を置いていくことに決めたのだ。

もう中尉ではない。

ここで経験した時間を思い出しながら、男は目を閉じていた。

兵士達と寝食を共にした。

命令を受け銃を手にした。

そして兵士が、人民が銃弾に斃れた。

特に最後の一か月間は良いとは言えぬ記憶ばかりである。

それでも離れることへの寂しさのようなものはあった。

小さく息を吐く。

そうしてから門に背を向けようとしたところで声がかかった。

声の主は門衛だった。

「ルンゲ中尉。今までお世話になりました」

その言葉に男、エッカート・ルンゲがわずかに頷くと、門衛は続ける。

「あの時の中尉の命令は正しかったと自分は思います」

真剣そのものといった顔でそう言った彼にエッカートは「そうか」と答え、歩き始めた。

もうやってくることはないであろう国境という世界から離れていく。



 第二次世界大戦の終結

それはドイツに平和以外のものをもたらした。

戦勝四ヶ国による分割占領。

そして冷戦とよばれる新たな対立構造によってドイツは二つに分かれることとなった。

ソヴィエト連邦の指導下で建国されたドイツ民主共和国、東ドイツの状況はあまりに厳しく、故郷を後にする人々は少なからずいた。

彼らの流出は労働力、すなわち国力の流出であり、西側に勝利しなければならない東ドイツにおいて亡命阻止は喫緊の課題となっていた。

そのため建国から四年後の一九五三年には東西の国境に鉄条網を設け、物理的に行き来を封じることとなる。


 エッカートがその国境の守り手となったのはこの頃だった。

西側での豊かな生活を夢見て国境を越えんとする人々に手錠をかける。

将校として、それがこの国のためになると信じて任務にあたった。

だがそんな彼も銃と階級章を置くことを決断した。

耳に残る悲鳴と、瞼に染み付いた恨みのこもった視線。

そんな出来事の責任を取って職を辞する決断をしたエッカートだったが、行く当てがあるわけでもなかった。

あるとすれば故郷へ帰ることだったが、引っかかることがあった。


 それは彼の家族だった。

エッカートの父親は戦前からの共産党員だった。

そのことは彼が生まれてしばらく、国家社会主義ドイツ労働者党、ナチ党が政権を取ったことによってルンゲ家へ暗い影を落とすこととなる。

非合法となった元共産党員は社会から迫害されることとなり、第二次世界大戦が始まってからは一層苦労が増えた。

それでも懸命に耐えたことは無駄ではなく、ソ連軍によって"解放"された地域では元党員達が新たなドイツの国づくりを担うこととなり、エッカートの父親もそれに携わった。

東ドイツ建国を前に社会民主党と合併して結党された社会主義統一党へ籍を移してからも地域の党委員として社会主義建設に邁進してきた父親。

そんな彼の息子が国境の守り手となったことを喜ばぬわけはなく、エッカートは彼の自慢だった。

それだけに故郷へ戻ることは気が引けた。

社会主義防衛の最前線。

そう故郷で呼ばれていた場所から落伍しようとしているエッカート。

汽車に揺られる彼は、故郷に戻った先を思い描けずにいた。



* * *


 車窓に広がる森と平原、そしてたまに現れる町々。

そのどこにも戦争の傷跡がいまだに残っている。

終戦からすでに十五年が経過し、新たな国づくりが進んでいるはずなのに。

東ドイツは貧しかった。

戦前、ドイツの重工業を支えた良質の鉄鉱や炭鉱の多くは西側にあり、それを扱う工場も今は西ドイツと呼ばれる地域に存在している。

自力での重工業の確立のために様々な努力が重ねられたが、その結果が車窓に示されていた。

それを見ながらエッカートはため息をついた。

誰もいないコンパートメントにそれが響く。

これからは一労働者としてこの国を支えるのも悪くないかもしれない。

そう思っていると、汽車はある駅に停まった。

デッキが慌ただしくなるのを感じながら、エッカートは脇に置いていた鞄を探り始めた。

東ドイツの西の国境から東へ移動していた汽車は次の国境に差し掛かっていた。

「切符と身分証を」

ドアが開ききる前にそう言ったのは、エッカートが今日の朝まで着ていたのと同じ服を着た男だった。

国境を越える前には国境警察によって身分照会が行われる。

そうしなければならない国を、この汽車は通るのだ。


 エッカートが手渡した書類をひったくるように受け取った仏頂面の国境警察官はすぐに姿勢を正す。

「失礼いたしました。同志中尉!」

敬礼する国境警察官を、エッカートは小さく手を振ってなだめた。

「もう中尉じゃないんだ。敬礼はやめてくれ」

その言葉を聞いて、彼が嫌そうな顔をしたような気がした。

身分証をつき返し、乱暴にドアを開けた国境警察官は「裏切り者が」という言葉を残して去っていく。

その足音が小さくなるのを聞きながら、エッカートは不思議そうな顔をしていた。


 コンパートメントに静寂が訪れてしばらくののち、汽車は動き始めた。

車窓に続いていた森が切れ、急に建物の背が高くなる。

ここは異国だった。

鮮やかな色彩に彩られた建物、道路を行きかう数多の自動車、商店のショーケースを覗き込む人々。

高架線を走る列車から見える光景。

それは東ドイツに囲まれた西側、西ベルリンの街並みである。

建前上、戦勝四ヶ国の共同占領下にあるベルリンのうち、西側占領地域は西ドイツの飛び地として東ドイツの中にありながら独自の政治と経済を持っている。

そこへは西側の資本が次々と投下され、瓦礫の山は消費社会の象徴へと姿を変えた。

さながら資本主義のショールームのようである。

しかしエッカートの目にはその世界が心地よいものとは映っていなかった。

きっとあの賑やかさの裏にあるであろう弱い立場の人々の労苦。

彼らをこき使い、甘い汁を吸っている資本家。

そういった資本主義の華美な世界より、清貧な社会主義の世界を彼は好んだ。


* *


ベルリン オストクロイツ駅


 エッカートは再び清貧な世界へと戻っていた。

西ベルリンを越えて再び検問を受けたのち、やってきたのはベルリンの玄関口であるオストクロイツ駅。

ここからは東ドイツ各地へ走る鉄道が伸びている。

エッカートもそうであるが、東ドイツ人民は東西に分かれたこの街の東半分を単にドイツ民主共和国首都ベルリンや民主都市ベルリン、もしくは単にベルリンと呼ぶ。

西側の市民が自分の住む街を西ベルリンと称するのとは正反対だ。

あくまでベルリンはひとつであるというのが東ドイツ側の言い分だった。

そんなベルリンの中心にある駅で、エッカートは故郷ノイブランデンブルクへ向かう汽車を待っていた。

案内板に示された時間はとうに過ぎているが、汽車がやってくる気配はない。

腕時計と案内板を交互に見比べていたエッカートは彼を呼ぶ声に意識を呼び戻された。

「同志中尉」とエッカートを呼ぶ声に、彼は振り返る。

立っていたのは背広姿の男だった。

年齢はエッカートよりいくらか若いだろうか。

きれいに固めたブロンドの髪に青い瞳、いわゆるゲルマン的な見た目の男としばらく見合っていると、彼は何かを思い出したように「あっ」と口に出した。

「失礼、今はヘア・ルンゲとお呼びした方がよろしいでしょうか?」

気取った物言いにエッカートは眉を顰める。

「あんたは?」

そう問うと、男は「これは失礼」と言って右手を差し出した。

「ローザ・ルクセンブルク名称 記念合唱団のパウル・レークラーと申します。以後よろしく」

エッカートにとって、全く縁のない世界からの人物だった。

怪訝な表情を浮かべる彼をよそに、レークラーと名乗った男は続ける。

「突然のことで驚いたでしょう。再就職先のお話をしようかと思いまして」

不敵な笑みを浮かべるレークラーを見るエッカートの表情が曇る。

なぜ彼はエッカートが職を辞したことを知っているのか。

想像がつかないわけではなかった。

だがこの場でそれを問うても答えてはくれないだろう。

エッカートはため息をついてから口を開く。

「あいにく、俺は音楽には疎くてね。号令のラッパがせいぜいだよ」

こう言って引き下がらないなら予想は当たっている。

そんな確信があった。

「まぁまぁ。ヘア・ルンゲにも気に入っていただけるような曲目を用意していますから」

レークラーの言葉をエッカートは頷きながら聞いていた。

そして表に待たせているという車へと向かっていった。


 駅前は首都の玄関口とあって賑わいを見せていた。

広い道路を行きかうトロリーバスと、その間を縫う乗用車たち。

西ベルリンに負けぬよう発展を続ける東ドイツの姿があった。

そんな一角に停まっていたベージュに塗られた中型の乗用車。

ソヴィエト連邦で作られたそれは独特の存在感を放っていた。

威圧感というものだろう。

長く伸びた車体の後部ドアをレークラーが開け、エッカートに乗り込むよう促す。

持っていた鞄を運転手に預け、エッカートはドアをくぐった。


 アイボリーを基調にした広い車内。

その後部座席で腕を組んでいたエッカートはしばらく窓の外を見つめていた。

破壊から立ち直りつつある街並みにいまだ残る戦争の傷跡。

スローガンの書かれた横断幕が目立つビル。

つい先ほど汽車の車窓に見えた西ベルリンのそれとはずいぶんと違って見える。

そんな風景を見る中でエッカートが気になったのは人民警察官の数の多さだった。

折り襟の制服に制帽を被り、短機関銃で武装した彼らを大きな交差点を通るたびに見かけるのだ。

必ず二人一組で周囲に視線を向け、人々はそれから少し距離を取って歩いている。

マグデブルグとはずいぶん様子が違うらしい。

エッカートは後ろへ流れていく建物から車内に目を戻し、レークラーの方を向いた。

「合唱団とか言っていたが、どうせあるのはやかましい楽器ばかりだろう?PPSch41マンドリンとかな」

我ながら思い切った発言だと思った。

だがエッカートは彼らがただの合唱団などではないという確信があった。

国家保安省。

東ドイツ建国を前にソビエト占領軍が作らせた秘密警察は、建国後に改組されその名を名乗っている。

社会主義建設を妨害する反革命分子を摘発し、国家の治安を守ることを任務とするが、その中には国外逃亡を防ぐことも含まれていた。

国境警察官であったエッカートも彼らが何をしているか知らないわけではなく、むしろ密接にかかわっていた側である。

辞めても逃がさないという意思が働いているのだろう。

だったらむやみに抵抗しないのがこの国で生きていく上での処世術である。

それは青年期で敗戦を迎え、ソビエト占領下から建国を経た彼の学んだことだった。

そんなことを考えていた彼の問いへの答えは意外なものだった。

「鋭いですね。半分正解です。でもあるんですよ。ちゃんと楽器の方のマンドリンも」

ニヤリと笑うレークラーを、エッカートは不思議そうに見つめていた。


* *


車は北へと走っていた。

三十分も進んでいくと建物の数がぐっと少なくなる。

畑や森が広がり始める郊外の景色。

のどかな風景の中を一時間ほど走ると、車は森の中へと入っていった。

住宅地から離れ、人通りが消える。

レークラー達が物騒な手段を取っても誰も気付かないだろう。

そんな考えがエッカートの脳裏をよぎるが、表情に出さぬようにしながら窓の外を見つめていると、前方に鉄柵が並んでいるのが見えた。

まるで兵営にあるような柵と門。

だがそこにはレークラーの言っていたローザ・ルクセンブルク名称記念合唱団の名前が書かれている。

方便ではなかったのかと意外に思っていたエッカートの目に、レンガ造りの建物が映った。

中央に塔を持つ三階建てのそれは古くからある城のようだった。

その塔の下に正面玄関があり、車はそこで停止した。

降車するよう促され外に出ると、森の中らしい涼やかな風が流れてきた。

道路を挟んで城の反対側には湖が広がり、その奥にさらに森がある。

城と相まって風光明媚な場所だ。

そんな喧騒から離れ、風の通る音だけが聞こえていたエッカートの耳に美しい歌声が聞こえてきた。

見上げると、城の三階の窓が開いていて、そこに立った女性が歌っているのが目に留まった。

清らかな歌声だが、観劇の趣味を持たないエッカートには何の曲か分かりかねた。

ぼんやりとその歌声を聞いていたエッカートをレークラーは呼んだ。

ついて来いというのだろう。

しかしその前に聞きたいことはいくらでもあった。

「ここは……一体なんだ?」

「だから言ったでしょう。どちらもあると」

含みのある物言いを残し、レークラーは城へと入っていく。

エッカートは慌ててついて行った


 城の玄関をくぐると、高い天井のホールが広がっていた。

シャンデリアが吊られ、正面に広い階段。

プロイセン時代に建てられたものだろうか。

あちこち見上げながらエッカートはレークラーに続いて階段を上る。

同じように戦前に建てられた兵舎で過ごしたエッカートだったが、その趣はずいぶん違うようだった。


 二階も同様に美しい装飾がなされている。

戦災を免れたのかそれとも修復したのか。

どちらか分かりかねるエッカートを、レークラーはある部屋の前まで連れてきた。

「“支配人”がお待ちです。こちらへ」

そう言ってレークラーは厚みのあるドアを開いた。

中に入ると奥に机が置かれ、左右の壁にまたドアがある。

秘書官室といったところだろう。

ここの主がレークラーで、支配人とやらはその上司。

つまりこの施設の指揮官だろうとエッカートは検討をつけていた。

意を決して左側のドアを叩くと、すぐに「入れ」と返ってくる。

足を踏み入れたエッカートの視線の先に一人の男が待っていた。

ダブルの背広を着た恰幅のいい男。

エッカートよりいくらか年上。

四〇歳手前といったところだろうか。

少し白髪の混じった髪を指ですくと、机に置かれていた書類を手に取った。

「エッカート・ルンゲ元国境警察中尉。一九五五年に入営し、マグデブルグ県管区にて小隊を指揮。先月の越境阻止活動において双方に死者を出した責任を取って辞職。合っているな?」

エッカートは頷きはしたものの、怪訝そうな表情を崩すことはなかった。

それを見ていた男は何か気付いたように小さく声を上げた。

「すまない。まだ名乗っていなかったな。グスタフ・ギーゼン。合唱団の支配人を務めている」

それを聞いてもさほど表情の変わらないエッカートを見て、ギーゼンは「ああ」と声を漏らす。

「こう言った方がいいな。国家保安省第八局渉外第二班指揮官、ギーゼン中佐だ」

書類を机に置き差し出したギーゼンの右手を、エッカートは少し間をおいて握った。

もう後戻りができないと理解しながら。


* *



 戻れない道を歩き始めたエッカートだったが、聞きたいことはいくらでもあった。

そもそもこの合唱団が本物なのかすら分からないのだ。

彼のそんな疑問を察したのか、ギーゼンは「見たまえ」と言って背後のカーテンを開ける。

その向こうには木立を挟んですぐ向こう側に開けた場所が見えた。

縦に長い均された土の空間の奥に何かが並んでいる。

標的。

そこは射撃場だった。

二人が射場に立ち、銃を構えている。

左側の一人は兵士のようだが、右側のもう一人に目を向け、エッカートは驚いた。

隣の男に比べると明らかに小さな体格。

揺れるまとめられた長い髪。

少女のようである。

さらに驚かされたのは、その少女が自動小銃を軽々と扱っていることだった。

まっすぐに立った彼女は体勢を崩すことなく射撃を行っている。

その乱れのなさは国境警察の若い兵士と比べても遜色ないどころか、選抜射手を任せられるほどに見えた。

目を丸くしているエッカートに、ギーゼンは向き直した。

「昔話をしよう。第二次世界大戦中のことだ。戦況が悪化する中でファシスト達は悩んだ。武器は工場で作り戦場へ送り出している。だが兵士はそうはいかない。勇敢で命令に服従し、高い能力を持った兵士を一朝一夕で生み出すことはできないからな」

前線で失われた兵士のかわりに送られたのは経験の乏しい少年兵。

そして本土を守るのは第一次世界大戦に参加した老兵たちだった。

どちらも満足な訓練も武器もなく、悲惨な最期を遂げた者も多い。

そういう“質”の悪い兵士に頼ることなく戦争をしたいと考えるのは自明だろう。

「そうして奴らは投薬や心理治療によって兵士を強化する方法を生み出した。筋力を強化し、従順で命を惜しまない兵士を作る方法をな。奴らは処置Behandlungと呼んだ」

「しかしそんなことをされた兵士の話なんて……」

エッカートの問いにギーゼンは「聞いたことがないと?」と重ねる。

頷くエッカートを見てさらに続ける。

「そう。使えなかったんだ。成人男性に対しては処置の効果が見られなかった。奴らは肉体や精神が成長しきっているからだと結論付けた。一九四五年の五月頃のことだそうだ」

敗戦とほぼ同時期。

そんな頃でも科学者達は戦争勝利のために力を注いでいたらしい。

戦局になんの影響も与えることなく消えるはずだった技術。

それが今どうなっているのか、答えは窓の向こうにあった。

「まさかそれを子供に?」

そう問うエッカートの目には驚きとともに侮蔑の色があった。

明らかに非人道的な行いである。

彼を見るギーゼンはその心情を理解しているようだった。

「君がどう考えているかは分かる。だがこの処置は未成年、特に女性にしか効果が得られないものだった。そしてこの技術は我々にとってあまりに有用なのだ。だから研究を続けた。ここでは科学的社会教育。それを施すことを調律と呼んでいる。」

「では子供たちをどこから。ここには彼女以外にもいるんでしょう?まさか……」

「多くの子供は孤児だ。理由は様々だが……。少なくとも君が考えているような誘拐などではない」

苦虫を嚙み潰したような顔は変えぬまま、エッカートは話を聞いていた。

「親が犯罪等で収監されていたり、西へ逃走した際に置いて行ったり。君も国境警察官だったのだから覚えがあるだろう」

エッカートは頷きはするが納得したという風ではない。

「そういった子供たちは我が第八局にとって大きな意味を持つ。越境対策が局の任務のひとつだからな」

「しかし、だからといって子供達にそんなことをしていいわけが」

食って掛かるエッカートをギーゼンがなだめた。

分かっていると言いたげに右手を振っていた彼は、ゆっくりと椅子に腰かける。

「無論、少女達の人権を軽んじているという批判はその通りだ。だが、今ここで彼女達を解放してどうなる?昔のように市民生活を送れると思うか?」

その問いにエッカートは答えられなかった。

投薬などで体には負担もかかっているだろうし、なによりこの施設の秘密を知られるわけにはいかない。

普通の生活を送ることはかなわないだろう。

であるならば、ここで衣食住を保証されている方が幸せなのかもしれない。

そんな風に自分を納得させようとしているエッカートに、ギーゼンは「それにな」と重ねる。

「調律に関して莫大な金と時間がかかっている。我々はそれだけの投資を彼女達に行っているのだ。それをフイにして、なお同じだけの効果の得られる方法があるなら言ってくれ」

エッカートには答えることができなかった。

ギーゼンはそんな彼を見ながら頷いていた。

「今のベルリンは越境を試みる者とそれを支援する協力者にとって数少ない通り道になっている。我々も対策を強化してはいるが、彼らもそれに対抗するように武装化の一途をたどっている。その結果、制服を着ていれば国境と関係ない職務についている者ならお構いなしに殺傷するような輩までいる始末だ。我々はやつらを叩かなければならない」

それを聞いてエッカートは汽車の中で会った国境警察官を思い出した。

吐き棄てた言葉はこの街の現状を意味していたのだ。

自国の首都がこんな有様だとは思ってもみなかった。

「君にはここで少女達を監督・教育し、越境対策のための工作員を養成してもらう。つまり、越境を試みる連中やそれを支援する西側の協力者の情報を探って逃亡を未然に防ぐ、ということだ」

それを聞きながらエッカートは目を閉じる。

瞼の裏に焼き付く闇夜を割く曳光弾の光。

耳に残る悲鳴。

そんな光景に出くわすことは二度とあってはならない。

そのために役に立てるのならば……。

エッカートは決意した。

「自分にできることがあれば」

そう答えた彼を見て、ギーゼンは満足げに頷いた。

「ではよろしく頼む。大尉」

「大尉?」

「入隊祝いと思ってくれ」

ギーゼンの言葉に不思議そうな顔をしていたエッカートをよそに、彼の背後に立っていたレークラーが「では」と口にして、ギーゼンは頷いて答えた。

ドアの向こうに去っていくレークラーの方を見ていたエッカートが前に向き直る。

「ここでは指揮者、君のような立場の者のことだが、それ一人と少女、演者がペアを組んでいる。早速ですまないが、君が担当する演者に会ってもらわねば始まらんからな」

理解の及ばない世界に足を踏み込みつつあるエッカートは少しずつ後戻りできないところへ進んでいる気がする。

自分で進むと決めたのだと無理矢理納得しようとしていたエッカートだったが、再び開かれたドアの方を見てその覚悟を揺らがせた。

「……今月初めにここへ来たばかりでまだ指揮者が決まっていない。最低限の処置を済ませただけだから、今後については君の裁量に任せようと思う」

ギーゼンの言葉は頭に入ってこなかった。

目の前に立つ少女。


エッカートは彼女を、彼女の家族を撃っていた。

耳から消そうとしていた悲鳴が、再び蘇ってきた。

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