竜頭に手を添えながら

雨竜大樹

序章 銃を奏でる少女

一九六〇年十一月二十日深夜 ドイツ民主共和国首都ベルリン


 人気が途絶え、オレンジ色の頼りない街灯の光が照らす道を、一人の少女が駆けていく。

石畳を叩く靴音に混じって聞こえる短い息遣い。

それを残して走る少女は鞄を抱え、まっすぐ前を見つめている。

そんな彼女はとあるアパートに飛び込んだ。

階段を駆け上がると、五階にある一室の前までやってきた。

一呼吸おいてドアを叩くと、しばらくして怪訝な表情をした男が顔をのぞかせる。

男は少女の足元から顔まで視線を移した。

十代半ばくらいで、それほど高くない背丈。

長いスカートに暖色のコート姿。

何かを訴えようとする青い瞳。

ブロンドの長い髪が乱れているのはここまで走ってきたからだろう。

それなりにいい暮らしをしているようにも見える。

そんな彼女が息を整え最初に口にしたのは「助けて」という一言だった。

「お父さんが捕まっちゃったの。ここに来れば西に行かせてくれるって本当?あたしも西に連れていって」

必死の表情で話す少女を男は迎え入れた。

この街にはこういった願いを持つ人々が大勢いる。

“アカ”どもの圧政に耐え兼ね、西ドイツへ移住したい。

そう願う人々の数は年々増えているのだ。

ロシア人に支配されたソ連占領地域ツォーネでは暮らせない。

豊かな西ドイツに移りたい。

そう決意して故郷を捨てた市民を西へ逃がすのが男の役目であり、ここはそのための拠点の一つだった。

同じような拠点は街のいたるところにあり、自由のために戦う人々がいる。

彼らは自分達を解放者と呼んでいた。


 解放者としての役目を果たさんと、男は少女を部屋の中へと迎え入れた。

ところどころ革の破けたソファに少女を座らせると、彼はその前に立つ。

「名前はを教えてくれるかな、お嬢さん?」

少し間をおいて少女はアメリアと名乗った。

それを聞いて男はいくらか表情を緩ませると、ゆっくりと腰を下ろす。

「お父さんが捕まったと言っていたね。お父さんは何をしていた人なのかな?」

「お医者さん、あたし達を西のギムナジウムに入れようって。だから西に行こうとしたらお巡りさんが家に……」

「それは大変だったね。おじさんも助けてあげたいと思うんだけど、持ち合わせはあるかな?もちろんこっちのマルクじゃダメだ」

ニッと歯を見せながら男は笑みを浮かべる。

正直言えば彼の目的はこちらだった。

市民を助けることへの使命感は彼の心にも間違いなく存在している。

しかしそのためには金がかかるし危険も伴う。

であるならば、適切な報酬が必要なのだ。

それを用意できないのであれば、少女に対して男ができるのは同情だけである。

しばらく逡巡していた彼女が顔を上げると、彼の望み通りの答えが返ってきた。

「ここに来るまでにはぐれちゃったけど、お姉ちゃんも逃げてるんです。お姉ちゃんにお金預けたってお父さんが……」

口角が上がるのが分かった。

報酬があるのなら仕事にかかってもいいだろう。

そう思ったのか男は立ち上がると、「わかった」と言った。

「おじさん達が君らを助けてあげよう。なぁ?」

彼の問いに答えるように、ドアの向こうから三人の男達が顔をのぞかせた。

聞き耳を立てていたらしい。

そんな彼らの登場に、アメリアが驚いたような顔をしていた。

「悪いね。今は人民警察フォーポーがそこら中にいるから、助けられない人には仲間に会う前にすぐに帰ってもらうことにしてるんだ。だけど君とお姉さんは大丈夫。安心していい」

アメリアの表情がパッと明るくなる。

そんな彼女に男は問うた。

「お姉さんの名前は?」

「……ジルケ」


 ジルケという少女は程なくして現れた。

アメリアより一回り大きな鞄を手に持ち、肩で息をしている。

そんな彼女をアパートの廊下で男は出迎えた。

アメリアより背丈は十センチほど高く、彼女より短い肩ほどまでの髪は白に近い銀色。

瞳は灰色で、まるで彼女の周りだけ鮮やかさが消えたように見える。

幼さの残るアメリアと比べると、年の差を含んでも大人びて見える。

そして顔立ちがそれほど似ていないことが気になった。

だがこんな少女が人民警察官なわけがないだろうし、シュタージでもこんな工作員を使うことはないだろう。

男はそう思っていた。

シュタージ、この国で市民を監視する公安組織を人々はそう呼んで蔑んだ。

密告や相互監視によって人民の敵とやらを探し出す秘密警察、国家保安省MfS

それは解放者にとっての最大の敵である。

連中から少女達を守らなければという使命感が男を駆り立てていた。

「シュタージが追って来るんだろ。俺達が西へ送り届けてやるから」

そう話していた男はジルケの視線が気になった。

生返事で頷きながら、先ほど上がってきた階段のを気にしているように見えたのだ。

「誰かいるのか?」

その問いに驚きの表情を浮かべながら、ジルケは首を横に振る。

否定しているようだが、なにかを隠しているのは明らかだった。

眉間にしわを寄せながら男は少女を押しのけ歩きだす。

階下へつながる階段が見える角まで数歩というところへ来たときだった。

背中に何かが押し当てられるような感覚があった。

鞄、それもジルケの持っていたものである。

そしてそれを押し当てているのはジルケ自身。

驚きのあまり声の出ない男の視線の先には、彼の予想していないものがあった。

鞄を支える左手と男に押し付ける右手。

その右手に握られているのは小さな拳銃だった。

「お前まさか、シュ……!」

彼の言葉は最後まで綴られることなく小さな破裂音がかき消した。

どっと力なく倒れた男を見下ろすジルケの表情に驚きの色はない。

単にそこに死体がある。

ただそれだけの認識だった。

それはあまりに自然で、初めて人を撃ったとは思えぬほどである。

表情を崩すことなく、彼女は持っていた鞄を落とす。

コツンという音を立てて床に転がる穴の開いた鞄からなにかの破片が飛び出し舞い上がった。

ところどころ焦げた茶色い紙と布の切れ端。

それが再び地面に落ちていく様を見つめていると、階下から声がかかる。

「なぜ撃った?銃を出すのは中に入ってからのはずだ。マークしていた連中だという証拠を掴んでからと言っただろう」

怒るというよりも諭すといった口ぶりだった。

階段の途中からそう話す三十歳ほどの男の目はジルケを心配するように彼女を見上げている。

彼の言葉を黙って聞いていたジルケの目が急に泳ぎだす。

そして銃を持っていない左手で口元を押さえた。

「で、でもこのままじゃエッカートさんが見つかっちゃうと思って……。わたし、エッカートさんを守らないと……“演者”だから……」

おろおろと要領を得ない口ぶりにエッカートと呼ばれた男はため息をつく。

そして肩に手をやると、顔を彼女のもとへ寄せた。

「とにかく行こう。出たとこ勝負でやるしかない」

こくこくと頷きながら、ジルケは拳銃を握りなおしていた。


 一方アパートでは出迎えに出た男が戻ってこないことに、解放者達はざわつき始めていた。

向かい合って二三言葉を交わすと、一人がアメリアの向かいに置かれたクローゼットの前に立つ。

重い音を立てて扉が開くと、中から現れたのは鈍い光を放つ銃器だった。

それを見て驚くアメリアを見て、一人が彼女の前で腰を落とす。

「俺達は前大戦のあとに回収を逃れた武器を集めてシュタージどもと戦ってるんだ。だから心配はいらないよ」

そう言った彼も短機関銃を受け取ると、銃弾の入った弾倉を押し込もうと試みた。

しかし奥まで入らないらしく、差し込みなおしたりボルトを引いたりを繰り返している。

もともと兵士なわけではないらしい。

その様を見ていたアメリアは意を決すると、鞄の口を力いっぱい開き手を突っ込んだ。

中から現れた男達のものより一回り小さな短機関銃。

それを片手で目の前の男に向けると、そのまま引き金を引き続けた。


 銃声が鳴りやんだ直後、ドアを蹴破ったエッカートが見たのは惨劇といってよい光景だった。

固まって準備をしていた男達の胴体はズタズタになっており、その返り血を浴びた少女がぼんやりとこちらを見つめている。

転がる死体と傍らの少女。

あまりに不自然な対比に不快感を覚えるが、小さく息を吐いて気持ちを入れ替える。

そしてアメリアに「大丈夫か?」と問うた。

「うん。怪我もしてないよ」

その口ぶりは友達とじゃれて転んだ子供よりも軽い。

ジルケもそうだが、“調律”とはこうも人を変えるのかと、エッカートは思っていた。

そんな中で廊下から足音が聞こえてくる。

一瞬警戒したエッカートだったが、アメリアを見て敵でないと察した。

彼女が嬉しそうな顔をしていたからである。

二人の予想は正しく、現れた男にアメリアが抱き着いた。

「せんせぇ!みんなやっつけたよ」

楽しげに話していた彼女の足元で何かが動く。

飛びのいた二人が視線を落とすと、アメリアが撃った解放者の一人の手が動いている。

まだ息があるらしい。

それを見て先に動いたのは男の方だった。

コートの前合わせに手を突っ込み、取り出した消音器付きの拳銃。

それを表情を変えることなく動いていた手と、それにつながる頭へと放った。

小さな音が消えアパートに静寂が訪れるにつれ、アメリアの目線が左右に泳ぎ始める。

そんな彼女の右頬を男が引っぱたいた。

弾けるような音が鳴りやむと、彼はアメリアを見下ろす。

「とどめは確実に刺せ」

苛立ちの混ざった言葉を聞き、アメリアは今にも泣きそうな表情を浮かべている。

そんな二人の間に割って入ったのはエッカートだった。

「反省会は後だライヒ。早いところ引き上げよう」

そう言って彼はカーテンのかかった窓の脇に立った。

隅を少し開き、ポケットにしまっていた小型のライトを外へと向ける。

それを点滅させ符丁を送ると、少し先のビルの屋上が光った。

帰投の合図である。

それを送り終えたエッカートは他の三人と部屋を荒らし始めた。

引き出しを投げ捨て、椅子を転がし、クローゼットの中身を撒く。

そんな作業を終えると、彼らは階下へと駆けていった。


 闇夜を走るバンの中にエッカート達はいた。

ハンドルを握る女性と助手席で狙撃銃を握る少女。

そしてすぐ後ろに座るライヒとアメリア。

そんな彼らが座る前方から、エッカートは視線を隣に移した。

ジルケがこちらを見ている。

なにか言いたげな彼女の頭をエッカートは撫でた。

「初めてにしてはよくやった。一応は成功だろう」

それを聞いて嬉しそうな顔をしているのが暗がりでもわかった。

人を殺したことを褒める。

そうすることが彼女にとって幸せなのだろうか。

答えを出すことができぬエッカートを乗せ、バンは北へと走っていった。


序章-終-

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