鏡映しのおまじない

上山流季

鏡映しのおまじない

 鏡が怖い。

 朝起きて、顔を洗って、顔を上げると鏡の中の私が濡れた顔のまま私を見ている。


 鏡が怖い。

 昼間の学校の、階段の踊り場に置いてある大きな姿鏡には制服姿の私がスカート姿で立っている。


 鏡が怖い。

 夜、お風呂場で髪を洗い流したあと、濡れた黒い髪を肩口まで垂らした私が裸でプラスチック製の椅子に座っている。


 鏡が怖い。

 どうしても怖い。

 そして、怖くて怖くてどうしようもなくなったとき、私はいつも『おまじない』をする。

 怖い鏡へ目を向けて、映った自分を見つめながら「おまえにはやらないよ」と口に出して唱えるだけ。

 この『おまじない』をすると、不思議と、怖くなんてなくなるのだ。


 鏡を見ながら「おまえにはやらないよ」と唱える『おまじない』は、小学校のときに転校してしまった友達のゆうちゃんから聞いたものだった。

 ゆうちゃんは、この話をお姉さんの友達から教えてもらったらしい。

 もしかして、こっそりと続く『秘密のおまもり』なのかもしれないと、私は気分が高揚したものだ。だから私はこの『おまじない』を私以外の誰にも教えなかった。

 なんだか、私だけが知っている秘密の方法みたいで、心地よかったのだ。


 だけれどそれも長くは続かなかった。

 中学校に上がってしばらくした頃、隣のクラスの子が「鏡が怖いときの『おまじない』って知ってる?」と訊いてきたのだ。

 名前は、さなちゃん。黒い髪をふたつに結んだおさげ髪の女の子。私とは違う小学校だった子だ。だけどなんだか話しやすくて、こうしてたまにおしゃべりする。


 でも、このときの私は、咄嗟に「知らない」と答えた。秘密を暴かれるような気がしたのだ。


「じゃあ、教えてあげる。特別だよ?」


 さなちゃんはいたずらをするみたいにニヒヒと笑って、『おまじない』について教えてくれた。


「鏡を見てるときって、たまに、怖くなるじゃない? 後ろに何か映ってる気がしたり、『こっち』にあるはずのものが『あっち』にだけなかったり。そういうときは、こう唱えるといいんだって」


 さなちゃんは声を潜め、私の耳元で囁いた。


「おまえにはやらないよ……って」


 私は曖昧に笑いながら「そう……なんだ。教えてくれてありがとう」と返した。

 さなちゃんはウワサ好きだ。きっと、自分のクラスではこの話をもう全員に話してしまったから、隣のクラスの私のところまで来たのだろう。

 私は、自分だけの秘密がもはや自分だけのものではなくなったことに少しだけ寂しさを覚えながら「次は音楽の授業だし、教室を移動しなきゃいけないから」と言ってペンケースと教科書を持って立ち上がった。


「あ、ちょっ、ちょっと待って!」


 さなちゃんは、もしかして私がこの『おまじない』をすでに知っていたことに気付いたのかもしれない。慌てて私の前に立ちふさがり『とおせんぼ』しながら言う。


「この『おまじない』には『続き』があるの」


 続き? このおまじないに?

 そんなものは知らない。私は足を止めて「どういうこと?」と訊いた。


「だから、この話、ここで終わりじゃないの」


 さなちゃんは、私が足を止めたことで少し安心した様子で言う。


「この『おまじない』は怖い鏡から守ってくれる。でも、ルールがあるの」


「ルール?」


「絶対に『相手より先に』唱えなきゃいけないの」


 相手より……先に?

 一体どういうことだろうか?


「でも、相手って、鏡に映った自分のことだよね?」


「そうだよ。だから、鏡に映る自分より早く『やらないよ』って言わないと、鏡の向こうのジブンと入れ替わっちゃうの」


「……そんなの嘘だよ。だって……」


 今まで、鏡の向こうの自分が私と違う動きをしたことなんてない。

 何度もこの『おまじない』を試している私が、だ。


 だから、きっとこの『続き』はさなちゃんが咄嗟についた『嘘』なのだと私は思った。


「じゃあ、もう行くね」


「ま、待ってったら!」


 追いすがってくるさなちゃんを振り切るように、階段を駆け上がる。そのまま鏡のある踊り場で足を止めることもなく、もう半分も登り切る。

 さなちゃんが、残念そうな様子で、しかし諦めた様子で自分のクラスに帰っていくのを上から確認して、私も移動先の教室へと向かった。


 その日の夜のことだ。

 私はお風呂に入ろうと、洗面鏡のある脱衣所に入った。

 鏡には、制服姿の私がひとりで立っている。

 ブレザーのボタンを外していると、ふとした拍子に鏡の私と目が合った。


 不意に、すごく怖くなった。昼間の話を思い出したからだ。


 私はすぐ「やらないよ!」と言った。


「おまえには、やらないよ……」


 おまじないを唱えた。相手より先に唱えた。なのに、怖い。まだ怖い。いつもなら、すぐ怖くなんてなくなるのに!


 私はお風呂に入るのをやめて、自分の部屋に駆け込んだ。

 部屋の外からお母さんが「お風呂、入らないの~?」と呼んでいる。でも、駄目だ。まだ怖い。お母さんの声が聞こえてるのに。ひとりじゃなくなったのに。


 じきに、お母さんの声は聞こえなくなってしまった。もしかして、お風呂に入ってしまったのかもしれない。私が、先に入らなかったから。


「……お母さんは、鏡、怖くないのかな……」


 まだ脱衣所にいるなら、スマホからのメッセージが届くかもしれないと思った。私はテーブルの上に置いていたスマホを取って、ベッドに座った。

 アリス柄の手帳型ケースの表紙を開けて、お母さんにメッセージを打ってみる。


「かがみ、こわくないの? ……と」


 しばらくそのまま待っていたが、既読サインがつくことはなかった。きっともうお風呂の中なのだろう。


「ふう……」


 私は一息ついて部屋を見回した。

 ベッドに、勉強机に、本棚、タンス。この部屋の中の鏡は、全部フタのついたものか、もしくは上から布をかけて目隠しするようにしていた。


「この部屋なら、安全だよね」


 そう思って、開いたままだったスマホのメッセージ画面を見た。


 そこにはワタシが映っていた。


「ひッ」


 スリープモード中のスマホ画面は真っ暗で、つるつるした表面の液晶パネルが私の姿を鏡のように映していた。


 慌てて、言おうとした。おまえにはやらないと言おうとした。


 しかし、言おうとして気付いた。私はスマホ画面に映るワタシと、目が合っていた。


 肩口まで伸びた黒い髪、制服の赤いリボンは色を奪われ白黒の状態で首元に巻かれている。震える小さな唇に、鼻筋、そして前髪の下にある、今、私と見つめ合っているのは、


 白目がなく、異様に大きな黒目だけの瞳だった。


「……っ!」


 私が叫び声をあげるより早く、画面越しのワタシが言った。


『オマエにはやらないよ』


 直後、私は意識を失った。


   ◆◇◆


 隣のクラスのさなちゃんが、新しいウワサを持ってやってきた。


「ねえ、知ってる? 『牢獄アプリ』っていうのがあってね」


 さなちゃんの言葉に、ワタシは明るく笑いながら返した。


「しってるよ。アプリをダウンロードするとタスケテ、タスケテ、ダシテ、ダシテ、っていう……」


 さなちゃんはとてもびっくりした顔で「よく知ってるね」と言った。


「そうなの。そのアプリをダウンロードしちゃうと、アプリを開いている間ずーっと『助けて、助けて』『出して、出して』『暗いよ、怖いよ』って表示され続けて、なんだかこっちまで怖くなっちゃうアプリなの」


 そしてすぐに「それでね! この話にも続きがあって」と言うが早いが、声を潜めて語り出す。


「この『牢獄アプリ』に閉じ込められているのは、なんらかの方法でスマホの中に入っちゃった本物の人間の悲鳴なんだって! 最近は、誰でもスマホに頼りきりでしょ? だから、なにかの拍子にスマホ世界に囚われちゃったってウワサなんだけど……」


 さなちゃんは、ここでやれやれとため息をついた。


「私、このウワサに関してはお母さん連合の作り話じゃないかと思うんだよね。ほら、いっつも『スマホなんて触ってないで勉強しろ』ってうるさいでしょ?」


「サナちゃんは、しんじてないの?」


「うん」


 素直にうなずくさなちゃんに、ワタシはそっと近づいて小声でささやいた。


「そのウワサ、ホンモノなんだよ」


「え?」


「そのアプリのなかに1かいでもはいると、だんだんコトバをわすれていっちゃうの。てぬきアプリだから、そこではひらがなかカタカナでしかコトバがひょうじされなくて、ながくいると、だんだんと……ヒトだったことすら、わすれちゃう……」


 さなちゃんはワタシの言葉にツバを呑んで聞き入っている。


「でもね、じつはそこからでるほうほうもあるの」


「ほ、本当?」


 さなちゃんは怖がっている様子だったが、同時に、自分すら知らないウワサの続きがとても気になっている様子だった。

 ワタシは、親切だから教えてあげた。


「あいてよりサキにとなえるのがルールだよ」


 ワタシは、昨夜の言葉をもう一度唱えた。


『オマエにはやらないよ』

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鏡映しのおまじない 上山流季 @kamiyama_4S

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