第2話 犠牲と逃走と

「……正直、よくわかんねーけど、アイツがヤバいってことだけはわかる」

 京花先輩と自分は後退しながら、その人と少しずつ距離を広げました。

「よし、みんなのトコに戻るぞ。滝本、遅れるな!」

「はいっ、先輩!」

 しなやかな動きで駆け出す先輩を、自分もポチャる体を揺らしながら必死に追いかけます。

 河原には砂利や石がゴロゴロ転がっているために走りにくく、全力でとはいえませんが、振り返ると、あのゾンビとは大きく距離ができていました。

 ほっとして再び前を向いた時、またもや信じられない光景が視界に飛び込んできました。

 永井さん逹のいるテーブルに向かって、その背後からヨロヨロとした動きの別の人影が近づきつつありました。

「永井さん! そこは、危ないです!」

「みんな! 早く逃げろ!」

 同じく気がついた先輩も叫びます。

 しかし、息が切れて声があまりでないせいか、永井さん逹はよくおわかりでない様子で、こちらのほうを見ています。

「違うって、後ろ! 後ろ、見て!」

 京花先輩は走りながら指を指して叫びますが、皆さんは、むしろこちらに気を取られ、全く背後のことに気づいていません。


 人影が、花沢さんのほうに向きを変えました。

「花沢さんっ、後ろだ、頼む、気づいてくれ!」

 ゆっくりと、花沢さんの背後に人影が迫ってきます。

「だめだ! 花沢さん、早く――」

 その時、花沢さんが何かを感じたのか、後ろを振り返るのが見えました。

 人影が、花沢さんの首の辺りへと頭を近づけます。


 静かな山あいの川辺に、花沢さんの絶叫が響きわたりました。


 人影と花沢さんが重なって河原に倒れ込みました。

 異変に気づいた永井さんと牧野さんが後ずさります。

 その人影――ゾンビが、ゆっくりと体を起こすと、花沢さんの首の辺りから真っ赤な飛沫が吹き出しました。

 ゾンビの口の周りには、ちぎり取った肉片から、血が滴り落ちています。


「きゃああああっ!」

 凄惨な光景を目の当たりにした牧野さんが悲鳴をあげました。

 その声に反応したように、ゾンビは緩慢な動きで立ち上がると、今度は牧野さんのほうへ向きを変えました。

「牧野、こっちだ!」

 永井さんが牧野さんの腕をとりますが、牧野さんは恐怖のためか立ち尽くしたまま足が動きません。

 ゾンビが、牧野さんに向かって歩きだしました。

「てぇめぇぇぇっ!」

 駆け込んできた京花先輩が、その勢いのままゾンビに突進し、みぞおちの辺りに前蹴りを叩き込みました。

 ゾンビは、弾かれたように河原を二度、三度と転がります。

「滝本! 永井さんと一緒に彩音ちゃんを運べ!」

「は、はいっ、滝本、全身全霊で運びます!」

「花沢さんは――」

 花沢さんは、砂利の上に横たわったままでした。

 首の辺りからは今も弱々しく血が吹き出ていますが、その見開いた目は、虚空を睨んだまま何も見てはいませんでした。

「だめだ。もう花沢さんは連れていけない」

 永井さんが絞り出すように言いました。

「このままでは全滅する」

「くっそぉぉぉ――」

 京花先輩は苦しげに叫んだ後、一言「行こう」と言いました。


 自分と永井さんは、牧野さんを両脇から抱えるように河原を進みました。

 京花先輩は、背後を警戒しながら後に続きます。

「八重倉、あれは、一体なんだ」

「わからない……滝本は、ゾンビだっていってる」

「ゾンビ!? そんな馬鹿な……」

 永井さんが、怪訝そうな表情で自分のほうを見ます。

「いえ! 自分も確証があるわけではありません。……ですが、あの姿であの行動をする『何か』を、あえて呼ぶとするならば、ゾンビとしか……」

「……確かに、そうかもしれないな」

 目の前に、河原から駐車場へと続く細い坂道が迫ってきました。

「ところで永井さん、これからどこへ行く?」

「そうだな……とりあえず車の所へ行こう。たしか駐車場には管理人もいたはずだ」


 自分達は、土がむき出しになった坂道を登り始めました。

 坂の中ほどまで登って来た時、不意に、自分は重要なことを思い出してしまいました。

「あの、非常に申し上げにくいことなのですが……」

「何だよ、滝本」

「はい、車の鍵をお持ちだったのは、もしかすると……」

 全員の足が止まりました。

「花沢さんか!?」

 河原のほうを振り返ると、花沢さんの亡骸は、最初に発見したゾンビと花沢さんを襲ったゾンビが、野犬が群がるように食い荒らしているのが見えました。

「くっ、あいつら……」

 思わず戻ろうとする京花先輩の肩を、永井さんが掴みます。

「落ち着け、八重倉。鍵はもう無理だ。あいつらは殴る蹴るぐらいではほとんどダメージを与えられないとさっき言ってたな? それに、他にもまだいるかもしれない」

「……わかったよ、永井さん」

 先輩は歯噛みしながら頷きました。

 その時、ずっとうなだれたままだった牧野さんが、顔を上げました。

「永井さん、滝本君、ありがとうございました。私はもう平気です。一人で歩けます」

「ええ!? 大丈夫ですか? いざとなればこの滝本が背負ってでもお運びしますよ!」

 まだ青ざめたままの牧野さんが弱々しく微笑みます。

「ありがとう滝本君。でも、本当に大丈夫だから。ほらね」

 牧野さんが、足踏みしながら二、三歩坂道を登ってみせます。

「よし、まずは先へ進もう」

 再び、自分達は坂道を登り始めました。

「あっ!?」

「今度は何だよ?」

「先輩のパエリアが……」

 一連の騒ぎで、結局、京花先輩謹製のパエリアを食べられないままでした。

「バカ、そんなもんまた今度作ってやるよ」


 ごふぁっ。

 先輩、やはり女神が過ぎます。

 本日のことは痛恨なれど、それはそれでこの滝本、至福です……。


 駐車場の管理人小屋には、誰もいませんでした。

 小屋といっても、雨風がしのげる程度の畳半畳ほどの広さのものです。

「帰った……あるいは逃げたか」

「たしか、朝会った時は、今日の利用者は自分達だけと言ってましたので、先に帰られたのかもしれません」

「これじゃ電話も出来ねーな。誰か代わりに通報してくれ。アタシはスマホをテーブルの上に置いてきちまった」

 京花先輩が傍らの石の上に座り込みます。

 その時、場に気まずい空気が流れました。

「実は……俺も、スマホを入れていたバッグを、椅子にかけたままだった」

 今度は、永井さんと京花先輩が自分に期待を込めた視線を向けてきます。

「滝本は、滝本は……えー、申し訳ありませんっ、右に同じです!」

 一斉に、はぁー、という溜息が漏れました。

「あのー」

 その時、牧野さんがおずおずと手を上げました。

「私、ポケットに入れていたので、スマホ持ってます」

「上出来だ牧野」

「でかしたっ、彩音ちゃん」

「牧野さん、最高です!」

 三人に迫られ、牧野さんが後ずさりします。

「でも、朝に充電するのを忘れてしまって、あまり電池が残ってないんです」

 そう言って、牧野さんが、スマホの画面を見せてくれました。

 電池の残量はまだ30%を指しています。

 しかし、電波の強度は、圏外と強度1の間を行き来して安定していませんでした。

「ここは山に囲まれてるしな。……そういえば河原にいる時もこんな感じだったか。いずれにせよ電波状況のいいところまで出ないことには埒が開かないということだ」

「でも永井さん、あいつらが他にもいるか分からない中で、無闇に動くのは危険じゃない?」

「そうだな……」

 永井さんが何度か辺りを見回し、やがて、ある一点に視線を定めました。

「あれを使おう」

 永井さんの視点の先には、花沢さんの車がありました。

「え? でも、鍵がないぜ」

 京花先輩が、首を傾げます。

「思い出したんだが、この場所は標高が高い位置にあるから、来るときは大部分がのぼり道だった。つまり、逆に戻る時は大部分がくだりということになる。くだり道であれば、車のギアをニュートラルにすればエンジンをかけなくても車は進む。ただし、バワステもブレーキも重くなるから、運転はしづらいがな」

「……よし、それで行こう。このまま生身で歩き続けるよりはよっぼどマシだろ」

 京花先輩も同意し、自分達は花沢さんの車へと向かいました。

「で、どうやって開ける?」

「それは……壊すしかないだろうな」

「わかった」

 京花先輩は辺りを見回すと、いくつかの石を拾っては捨て、やがて拳よりも少し大きい、やや尖った形状の石を手に持って戻ってきました。

「花沢さん、ごめん」

 そう言うと、石を両手で振り上げて、運転席の窓ガラスに叩きつけます。

 ゴツ、という鈍い音がしましたが、窓ガラスは割れませんでした。

 すると、次は横からスイングするように窓に叩きつけます。


 パシャーン、という乾いた音とともに、窓ガラスが砕け散りました。


 と、同時に甲高い警報音が辺りに鳴り響きました。

「こ、これは何でしょう!?」

「防犯ブザーか! 花沢さん、抜かりないな」

 永井さんが小さく舌打ちしました。

「スイッチはどこだよ?」

「普通は、鍵と一緒だろう」

 警報音は、鳴り止む気配がありません。

「これじゃあいつらに居場所教えてるようなもんじゃねーか?」

「やむを得ん。このまま行こう。牧野、先に車に乗れ。八重倉、滝本、車を押しながら進み始めたら乗れ。運転は俺がする。」

「滝本、了解しましたっ!」

 運転席に永井さん。助手席側に京花先輩、運転席の後ろが自分で、車を押しだします。

「いくぞ、押せっ」

 じりっ、じりっと車が前に進み始めます。

「もう少しだ!」

 やがて、車は少しずつ進む速度を上げ始めました。

「よし、もういいぞ。乗れ!」


 こうして、自分達を乗せた車は、派手な音をたてながら徐行と言えるような速度で、山を縫うように造られた林道を下り始めました。

 永井さんは運転しづらいとずっとボヤいておられましたが、固い鉄で守られての移動に、全員がつかの間の安堵感に浸っていました。


「分岐の都道までは、2、3キロというところか」

「そこまで行けば、人家もありそうだ――って、永井さん、前!」

 それは、林道が左にカーブする位置に差しかかった時でした。

 先輩の叫びとともに、突然、車の前方に人影が現れました。

 その人は、こちらに背を向けたまま、ほぼ道の真ん中あたりに立っています。

「くっ、あれは……人か? どっちだ!?」

「わ、わかりません!」

「ブレーキは?」

「ここは坂の勾配が緩い。完全に止まったら動かせなくなる」

 車は、その人物にどんどん近づいていきます。

「かわすぞ!」

 永井さんが谷側にハンドルを切りました。

 車はギリギリでその人の横をすり抜けます。

「よしっ」

 永井さんが再びハンドルを切ろうとしたその時。

 ガリッと石を噛む音がすると同時に、車体が大きく谷側に傾きました。

「まずい。みんな掴まれ――」

 永井さんの言葉が終わる前に、一瞬の浮遊感と衝撃が続けて襲ってきました。

「きゃあっ」

 ほぼ真横の状態になった車の中で、牧野さんが自分の上に落ちてきました。

 窓からは、暗い谷底を流れる川が真下に見えます。

「つっ、どうやら、木に引っかかったみたいだぜ」

 京花先輩は、ドアを掴んで体を支えていました。

「彩音ちゃんは、大丈夫か」

 先輩が後部座席を覗きこみます。

「は、はい。滝本君が下になってくれたので。ごめんね、滝本君」

「気にしないでください! 牧野さんが御無事であれば、滝本、恐悦至極です!」

「滝本のデブがここで役にたったな」

「ポッチャリです! 先輩」

 その時、自分からは反対の位置にある山側に向いた窓には、先ほどの人が林道の縁から覗き込みでもするように、頭を出すのが見えました。

「先輩、上にさっきの人が!」

「ああ?」

 次の瞬間、ぐらりとバランスを崩したその人が、無防備に頭から落下し、ぐしゃっ、と音を立てて、先輩の横の窓ガラスに叩きつけられます。

「うわっ」

「きゃあっ」

 窓に顔を張り付けたまま、数秒間、噛みつこうとでもするかのように口をぱくつかせた後、その人は車の屋根を滑るようにして、再び谷底へと落下していきました。

 それを見ながら、京花先輩が舌打ちします。

「……『あっち』のほうだったか。轢いときゃよかったな」

「それはそれで、あまり気持ちのいいものではなさそうです!」

「まあ、もう考えてもしょうがねー。幸い、今のでブザーも止まったようだし、とりあえず早くここを離れよう。なあ、永井さん……永井さん?」

 見ると、永井さんは右の腕を押さえて苦しそうな表情をしています。

「すまん、ドアで腕を打ったようだ」

「動けそうか?」

「大丈夫だ。なんとかする」

 京花先輩が、助手席側のドアを開けて、外に這い出ました。

「永井さん、掴まれ。彩音ちゃんは、滝本を踏んでいいから後ろから出れるか?」

「はいっ、やってみます……ほんとにごめんね、滝本君」

 牧野さんがすまなそうに手を合わせます。

「滝本のことは気にせず、どんどん踏んでください!」

「滝本、車のラゲッジルーム漁って、使えそうなものがあったら、何でもいいから持って来てくれ」

「はいっ、先輩。あとはこの滝本にお任せください!」


 自分達の乗っていた車は、林道から2メートルほど落ちたところで止まっていました。

 最初に、京花先輩が自力で登攀し辺りの安全を確認します。

 続いて、この滝本が人間エレベーターとなってその両肩を使い、牧野さん、永井さんを林道までお送りしました。

 最後は、不肖滝本も自力登攀を目指したものの、最後は皆さま総出で引き上げていただくという失態を演じながら、辛くも林道まで戻ることができました。

 滝本、自分のポチャを猛省する次第です!


「滝本、車の中になんかあったか?」

「はい、先輩っ。このようなものですが」

 自分が見つけてきたものは、カンテラ、マッチ、工具のくるまれた袋、ビニールシートでした。

 工具の袋には、何本かのスパナとドライバーが入っていました。

「ふーん、まあ最悪身を守る武器にはなりそうだ」

 京花先輩が、ドライバーをナイフのように構えて何度か鋭く突き出す動作をします。

「あと、これが――」

 自分が腰にくくりつけていたビニール袋を下ろします。

「なんだそれ」

「はい、これらは今朝方コンビニで買った菓子類ですが、この滝本、うっかり車に置いたまま河原に持っていくのを失念しておりました!」

 ビニール袋の中には、それぞれ4、5個のスナック菓子やチョコレート菓子と、数本のお茶のペットボトルが入っています。

 皆さんが顔を見合わせました。

「――いや、よく忘れててくれたぜ。滝本、えらいぞ」

 この滝本、京花先輩より本日二度目の親指アンドニッコリを賜りました!


 そのあと、京花先輩は、付近にあった木の枝と引き裂いたビニールシートで永井さんの腕を固定しました。

「すまない。だいぶ楽になった」

 永井さんが立ち上がり、辺りを見渡します。

「もう、日没も近いな」

 周囲に木々が鬱蒼と繁る林道は、既に薄暗くなりつつありました。

「このまま夜になったら、アタシたちにはもっと分が悪くなるよ」

「ああ、しかし、ここには身を隠すところもない。危険だが、今はとにかく下山するしかないだろう。みんな、いいか?」

 永井さんの言葉に、全員が頷いた時でした。


 自分達のいる林道脇の藪の奥で、ガサ、ガサ、と藪をかき分けるような音がしました。

 その音は、徐々に自分達の方へと近づいてきているように思えます。

「先輩!」

「永井さん、彩音ちゃん、アタシの後ろに下がれ。滝本、これ持っとけ」

 先輩が、一番大きいスパナを自分に放ります。

「滝本、総員奮起して敢闘します!」

 藪をかき分ける音はさらに大きくなり、草が揺れるのも見えてきました。

 先輩が、組み手の構えをとります。

 そして、草の束が大きく開かれたその時――。


「!?」

 不意に、眩しい光が自分達に向けられました。

 ぐぐっ、これは目が眩みます。

「ああっ、これは失礼しました」

 光の照射先が、すぐに自分達の足元へと下げられました。

「よかった、無事な方がおられて」


 藪をかき分けて現れたのは、制服に外套をまとった、若い警察官でした。


 2.END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゾンビを触ったら手を洗いましょう 椰子草 奈那史 @yashikusa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ