呪刻―人と触れ合えない呪い―

たまるしもん

第1話 宇津瀬愁

 4年前。大正10年10月10日。宇津瀬愁の10歳の誕生日。

 不快な臭いで、愁は目を覚ました。今までに嗅いだことのない錆びた鉄の強烈な

臭いだ。隣の部屋から、襖を隔ててすら強く漂ってくる。四畳半の和室の窓からは微かな陽光が射し込んでいる。もうすぐ朝が来るのだ。

 愁は布団から立ち上がり、眠い目を擦った。意識は判然としないが、臭いだけがやたらと鼻につく。寝巻のやや長い襦袢の裾を引きずりながら、愁は襖の取っ手に手をかけた。

 ――開けるな。

 本能が激しく警告してくる。この襖の向こうには見てはいけないものがある。理屈ではなく、肌でそう感じてしまう。だが、一生この小さな和室に閉じこもっている訳にもいかない。選択の余地はない。朝を待つには、不安は大きすぎた。

 襖を開ける。錆びた鉄の臭いが一層濃くなり、ツンと鼻を突き抜ける。愁は思わず顔をしかめた。陽光はまだ部屋を照らし切ってはおらず、目を凝らして隣室を見回す。

 2人の人間が寝ていた。愁はすぐに両親だろうと判断する。他に想定できる人間がいなかったからだ。だが、なぜ寝室ではなく、居間であるこの和室で寝ているのかまでは見当がつかなかった。

 愁は寝ている両親の片方に近づいて、――思わず硬直した。

 その人間には顔がなかった。正確に言えば、首から上が切り取られていたのである。驚きや恐怖で、その場で硬直する。その時、朝日が完全に顔を出した。窓から差し込む太陽の光量が強さを増した。和室の光景がはっきりと視認できるようになったのは、覚悟を何も決めていない愁にとって、不運だった。

 床には首のない人間が2人倒れている。失われた首は、丸い机の上に置物のように無造作に置かれていた。慟哭が張り付いた表情のまま固まっている顔は一見赤の他人のものに思えた。愁はあまりの光景に頭が真っ白になった。目に映る情報を一つずつ認識していく。この二つの頭は父親と母親のものだと理解するまで要した時間はどれほどだろうか。

 驚愕と恐怖。だが声は一つも出なかった。出すことが出来ないのだ。ただ歯の根が合わずカタカタと音を鳴らしている。次の瞬間、酸っぱいものが胸から込む上げてくる。焼けるような喉の痛みを覚えたが、吐き出すのをやっとのことで堪えた。

 愁は涙を流しながら、両親の名を呼ぼうとした。だがやはり声を出すことはできない。叫びたいのに声を一つも絞り出すことができない。

 愁は床に転がった見覚えのある母親の死体を見る。そう、死体だ。恐る恐る母親だったものの手に振れた。温もりはもうない。その手は氷のように冷え切っていた。


 愁は勢いよく瞼を開けた。見慣れた天井が見える。心臓がばくばくと動悸を起こしていた。ぐっしょりと体は汗で濡れている。とても不快だった。天井の木目を眺めながら、先程の両親の惨殺死体は夢だったと心の中で自分に言い聞かせる。夢だと認識するにつれ、心が落ち着いていく。だが完全に平常さを取り戻すにはまだ幾ばくかの時間がかかるだろう。もしも夢が単なる荒唐無稽な夢だったなら良かった。しかし、残念ながらこれは過去の記憶。現実にあったこと。

 4年前、両親は殺された。誰に殺されたか当たりはついている。だが何故殺されたのかまでは愁には分からなかった。

(父さんと母さんに何があったんだろうか?)

 いつもの疑問を浮かべながら、しばらく時間を犠牲にして、ざわつく心が平静を取り戻すのを待つ。両親の惨殺死体を見つけた時の夢を見るのは今日が初めてではない。繰り返し繰り返し見せつけられてきた夢だ。慌てふためかない程度には慣れている。

 愁は右手を天井に伸ばし、手のひらを見つめた。あの時、母親に触れた冷たい感触がまだ残っている。鼻もあの不快な血の臭いを鮮明に覚えている。愁は夢の残滓を振り払う為、右手を強く握りしめた。もう終わったことなのだと自分に言い聞かせる。

 愁は布団から半身を起こした。四畳半の和室は非常に簡素な内装だった。布団以外に置かれているのは、畳まれた藍染の縞模様の着物、黒い帯、学び舎の鞄、何冊かの教科書ぐらいである。

 愁は布団から起き上がると、手を天井に伸ばして背伸びをする。血流が全身を駆け巡る。前屈をして、畳に手の先をくっつける。寝起きの身体は硬く、ぎしぎしと音を立てる。軽い柔軟。目を徐々に覚めていき、不快感も薄らいでいく。

 愁は押入れを開けると、襦袢を脱いだ。押入れの中に畳んであった布を取り出して、体中の汗を拭いていった。


 愁は藍染の縞模様をした着物を着て、黒の帯で腰を締めた。部屋に飾ってある壁掛け時計を見れば、学び舎に行くにはまだ早い時間だ。

 今日も一日が始めると思うと気分は憂鬱だった。今日が始まり、また明日が続いていく。未来が続いていく絶望。先の見えない地獄。きっと光はない。

(……それでも俺が生きているのは、未練があるからだ)

 ある少女の明るい笑顔が思い浮かぶ。輝く笑顔はまるで――。

 しばし、考えごとをするでもなく、幼い頃の幸せな記憶に弄ばれる。今はもう存在しない少女の笑顔。過去のものだとしても、孤独な愁の心を救ってくれる。それが気休めだということは愁にも分かっていた。だが過去を想い出す以外に光などない。

 愁は自嘲めいた笑みを浮かべ、自分の頬を軽く二回叩いた。すぐに幼い頃を想い出して、記憶に甘えてしまうのは悪い癖だった。

 愁は脱いだ襦袢を手にして、隣室へと繋がる襖を開ける。今はもう使っていない両親の惨殺死体があった八畳の和室。畳を買い替えるお金もなく、畳は赤黒く染まったままだ。毎日、この染みを見るだけでも嫌気がさすのに、両親の死んだ夢を見たあとでは嫌気も一層増すというものだ。記憶が鮮明な映像を想い出そうとする前に頭を強く振った。愁は血染めの和室を通り抜け、炊事場のある木床の部屋へと入っていく。ここからは厠と風呂場に繋がっている。愁の住む小さな平屋の部屋はこれが全てだ。

 炊事場には木製の食器台、木製の冷蔵庫が置かれている。隅に置いてある洗濯かごに手に持っていた襦袢を投げ込んだ。学び舎までの時間はまだ猶予はあるが、洗濯は帰宅してからで良いだろう。気だるい気分のままで洗濯をする気にはなれなかった。

 炊事台にはガスかまどがあり、鍋が二つ置かれていた。鍋の蓋を開けてみれば、一つは麦ご飯が入っている。もう一つはごろごろ野菜の水っけの多いカレーだ。カレーは愁の住む村ではどちらかと言うと高級な食べ物に入る。だが愁は好んで食べていた。

 カレーの鍋だけ火を付ける。食器台から大きな木製茶碗を取り出し、麦ご飯をよそう。カレーが温まるまでしばし待ってから、鍋の火を止めた。食欲をそそる美味しそうなカレーの匂いが温まることで強く漂い始める。愁は麦ご飯にカレーをかけた。麦ご飯は冷えたままだが、温かいカレーと交われば、丁度良い塩梅になる。

 炊事場で立ったまま、匙を使いカレーを頬張る。母親には到底及ばないが、まずまずの味だ。愁はいつも炊事場で立ったまま食事をすることが多かった。この家にも机はある。血染めの和室に置かれた血染めの丸い机。あの和室で食事をする気にはならんかあった。あの机を炊事場に持ってきて食べる気も当然ない。食欲が下がるだけだ。

 愁はカレーを口に運びながら、懐かしい温かい記憶を想い出していた。カレーを食べると否が応にも両親の顔を想い出してしまう。まだ両親と会話をしていた楽しい食卓の記憶。温かい想い出に浸ることで孤独を紛らわす。悪癖だということは分かっていた。だが止めることもできない。だが、愁は記憶を断ち切るように、強く目を瞑って、顔をそむけた。あまりに鮮明に想い出しすぎた両親の記憶は、苦悶の表情を浮かべた両親の青白い生首を同時に想い出させたのである。温もりの記憶は冷たい記憶と連結されている。

 一気に食欲をなくす。吐き気すら感じる。

 苦々しい想いを胸に、カレーを食べるのも途中でやめる。

 食事を途中でやめるのもよくあることだった。

 その所為かもしれないが、愁は細身であり、あまり体力もなかった。

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