【未完】眠り姫 ドミナ・ドーミエンス

※アンリアル本編執筆前に書きかけた未完の中編です。設定など本編と異なる点があります。


      プロローグ


 思い返せばなにもかもが夢のような日々であったと、サリアは思った。言葉にすれば、まだ知らないことばかりの年端もいかぬ乙女の心のよう。だけれどサリアが日々見てきた夢は甘く幸福な夢というよりは、現実味がなく、自分がそこに立っているという実感のない曖昧な日々。

 実家では家の名に恥じない娘であることを求められ、嫁いでからはただ淑女しゅくじょであることが求められ、そこに自分の意志は一切必要とされない。

 それでも、外部の目から見えるサリアの日々は幸福そのものだろう。ええ、そうなのでしょう、とサリアも思う。屋敷を出て、馬車の窓から見える街並みの中には、サリアには想像もできないほど貧しい暮らしを強いられている人たちの姿が目にうつる。そこまでではなくとも、サリアのような暮らしを望んでも手に入れられない人たちは大勢いることは、サリアも承知していた。

 豪奢な屋敷、煌びやかな調度品の数々、使用人たちに囲まれて何不自由ない暮らし、奇跡のような魔法の道具の数々。だが、その中でサリアは人間ではなかった。ただ、〈貞淑な貴婦人〉の姿をした人形でしかなかった。他人が求めるままに、魔法の力まで借りてつくられた〈貞淑な貴婦人〉の人形。日々は、その人形が見た夢……。そんな思いを密かに持つことで、サリアは自分自身を慰めていたのかもしれない。

 周囲はサリアに〈貞淑な貴婦人〉であることを求める。サリアは己を殺して、必死でその求めに応じてきた。実際のところ、そうしている間は曖昧な夢だなどと言っていられる余裕などまったくなかった。たった一つのささいなつまづきさえ、周囲は見逃してはくれないのだ。そう、なに不自由ない暮らしができる人間、〈持てる者〉の義務であり、周囲に隙を見せることは、サリアだけでなく、サリアの家に関わる人間すべてに災難が降りかかることになる。サリアを囲む世界は、社交的な笑顔の裏側にさまざまな思わくを隠し持った人たちの集まりだった。それはサリアの身内の人間でさえ例外ではない。

 サリアの心はすり減って、もはやその芯も、いつ折れてしまってもおかしくないところまできている。私の日々はすべて夢。人形の見る夢。秘めていた思いが、日に日にサリアの心を大きく占めていくのが、サリア自身にもわかっていた。いや、もう、サリアにはすべてが夢としか思えなくなっていた。でなければ、今、こうして、超えてはいけない一線を越えようとする行いを、踏みとどまっていたはずだから。

 だが、サリアは踏みとどまらなかった。どうせ夢ならば、自分の望むままの夢を見よう。そうだ、魔法になら、その力がある。ただ、サリアにかけられてきた魔法は、今から彼女が使おうとしているささやかな魔法に比べたら、あまりにも強い。これから見ようとしているひと時の甘い夢はすぐに塗りつぶされて、暗い闇に覆われた世界にサリアを閉じ込めるだろう。だけど、それでもいい。今のままではもう耐えられない。せめて最後に、よい夢を。

 思い残すことはなかった。ただ一人、サリアに献身的に尽くしてくれたアリーシャの顔だけがサリアの心をよぎり、そのときだけは心が痛む思いがした。アリーシャはきっとサリアの選択を悲しむだろう。でも、きっとわかってくれるはず。彼女も、いつまでも私に縛られる必要などないのだ。そうだ、きっと時間が経てば、彼女もわかってくれるはずだ。

 そうして彼女は、自分自身に、夢見の魔法をかけた。


      1


 馬車はロンドンを離れ、郊外に居を構えるヘンリクス卿の屋敷へと向かっていた。郊外の夜はロンドンのそれと比べてずいぶんと暗い。それでも最近は郊外の道沿いにもロンドンの通りにあるのと同じような〈MAG〉灯が点々と立つようになってきた。月やカンテラの明かりが頼りであった時代と比べると、夜が闇の世界ではなくなりつつあるのが強く感じられる。聞いたところによるとロンドンの都心では前方に〈MAG〉灯を装備した自動車などという代物も実用化されつつあるらしい。〈MAG〉が人類の進歩を推し進め、神への道を開くなどという触れ込みが説得力を持ってきてしまうのもやむを得ないのかもしれない。

 ウィルが乗っているのはそのような文明の利器を用いない昔からの馬車。つまりアンティークだ。時代の進歩とともにやがては消えゆく、前時代の乗り物となるのだろう。丈夫で乗り心地がよく、馬を休ませる必要もないとあっては、自動車が馬車にとって代わるのは必然だ。そんな風に、外灯や車のほかにもありとあらゆる道具が旧来の素材や動力、製法を用いたものから〈MAG〉と総称される魔術を基礎とした道具へと切り替わっているのが今の大英帝国ブリティシュ・エンパイアの姿だ。〈MAG〉より以前、一世紀前に登場し、やはり時代を大きく動かすこととなった蒸気機関の機械の数々だが、それらの多くはすでに〈MAG〉に役目を譲り、姿を消しつつある。蒸気機関の象徴とも言える鉄道機関車もまた、アンティークとして博物誌に記されるだけの存在となっていくのだろう。

 呪文や薬草の知識がなくても利用できる便利な魔術である〈MAG〉だが、一方で〈MAG〉による事故・事件もあとを絶たない。ウィルは〈MAG〉による騒動の火消し《トラブル・シューティング》を生業としている。同じような仕事で飯にありついている連中は大勢いる。その多くは当然〈MAG〉に精通し、〈MAG〉の扱いにも長けているものなのだが、ウィルはその真逆であるのが特徴だった。

 ウィルは〈MAG〉が使えない〈アンリアル〉である。〈MAG〉による霊化リアライズ――不確かで不完全な世界を神の御業によってあるべき姿へと変えていく行い、というのが語源。親霊化主義リアリストの宗教学者の学説が原典だとか――が主流の時代に、アンティークにこだわる人間を世間は反霊化主義者――〈アンリアル〉と呼ぶ。時代遅れと同義の蔑称だ。〈MAG〉の普及は国策である一方で、〈MAG〉を拒む国民の数も少なからずいる。そしてそんな時代遅れな考えを標ぼうしている主流派は、かつては国の運営に近いところにいた貴族たちであるというのだから皮肉でしかない。

 今回の依頼――ウィルにとって何もかも異例である今回の依頼――その依頼主であるヘンリクス卿、ヘンリクス=フィッツガンズ侯爵もまた、そうした貴族層の一員に属する人物と言えるだろう。しかし彼は中流階級ミドル、つまりは生まれ持っての土地持ちではなく、自力で事業を起こし、財産を手に入れた人物で、貴族層から言わせれば「成り上がり」として煙たがられる側の人物だ。

 〈MAG〉の事業によって身を立てたものも多く、そんな彼がウィルと同じく〈アンリアル〉であるというのもまた、異例のこと。根っからの貴族層であるフィッツガンズ家に婿入りし、侯爵の地位を手にしたことから、社交界で生き延びていくにはそうしたポーズが必要になったのかもしれない。

 〈MAG〉はこの国のありさまを変えた。世界中のありさまを変えてゆくのもそう遠いことではないだろう。だがその一方で、この国の変わらない姿をより明確にしたのも、皮肉なことに〈MAG〉であったと言える。本当に皮肉なことに。

 馬車は坂を登っていた。やがて高台に出る。そこから見下ろす形で、ロンドンの全景がウィルの視界に映った。外灯とエーテル塵の輝きに包まれた街、ロンドン。かつては霧に包まれた幻想の街であった、ロンドン。しかし今では霊化リアライズという文明の輝きが幻想の霧をすっかり取り払ってしまった。もはや魔術は幻想の産物ではなく、人間の理性が扱う技術にすぎないと、ロンドンという街が象徴しているかのようだった。帝国の中心地であり、世界最大の産業都市としての名を世界に轟かすその街が、しかしウィルにはひどくぼやけて見える。そのあまりの輝きゆえに。


 屋敷の門の前で馬車は一度停まる。門番小屋や明かりが消えている。門の向こうはなかなかに広大な敷地のようで、目指す屋敷は月明かりを背負ったかすかにシルエットが小さく見えているくらいだ。そのシルエットにも、ほとんど明かりらしきものは見られない。今はそれくらいの深夜だ。

 御者が馬車を降りて自ら開門する。小屋は無人らしい。御者が駆け足で戻り、馬車は再び動き出す。屋敷の正面玄関を迂回し、勝手口だろうか、正面から右に折れた先の小さな扉の前に行き、そこで停まった。

 小太りの御者がそのまま降りて、その身を左右に揺らしながら小走りで扉に向かい、特徴的なリズムでノックする。あらかじめ決められた合図、符丁なのだろう。すぐに扉が開き、中からまだ若い女性の使用人が、顔を出すのが見えた。すぐに御者が息が上げて戻ってきて、馬車の戸を開けると、

「旦那、降りなせえ。あの娘が案内しやす」と言いながら、身振りでも馬車を降り、扉に向かうよう示す。その通りにして、扉をくぐると、扉は静かに、だが素早く閉められた。

「どうぞこちらへ」使用人の娘は声を潜め、足早に歩いていく。誰もが寝静まっているはずの時間で、娘の体には強い緊張が見られる。ウィルは黙って後をついていく。

 屋敷の中も明かりはほとんど消されている。娘が手にしているのはキャンドルライト。やはり〈MAG〉には頼っていない。暗い廊下を、ホールを、階段を、使用人の後をついて回りつつ視線をめぐらせる。床、天井、壁、窓、カーテン、ドア……どこにも〈MAG〉と思しき品を目にすることはなかった。徹底した〈アンリアル〉に違いないように見える。

 ウィルはしばらく貴族の住まいを訪問する機会などなく、マガボニー材の調度品などまるで縁のない暮らしをしてきたのだが、それでもそれらが〈MAG〉であるか、そうでないかの見分けはつく。〈MAG〉による魔術が作用したとき、すなわち〈霊化リアライズ〉が行われたときに例外なく発せられるエーテル塵の付着がほぼ見られないためだ。ウィルにはエーテル塵のちらつきが気になって仕方がない。エーテル塵は誰の目にも見えるものだが、そこまで気にする人間はそうそういないようだった。しかしウィルの仕事にとってこの不快な個性は不可欠だった。すべての〈MAG〉が、見ただけでそれとわかるようにできているわけではないからだ。エーテル塵の認知力の高さは、〈MAG〉とそうでないものを見分ける素質となる。

 廊下を抜け、戸をくぐり、階段を上る。そのうち客人向けに飾られていたのはわずかで、あとはほとんど使用人のための裏道なのだろう、殺風景な通路だ。冷たい石づくりのらせん階段、壁紙の貼られていない、くすんだ白塗りの壁。娘の持つランプの明かりだけを頼りにそこらを抜けた先、少々古めかしい装飾のほどこされた扉の前で、初老の男が待ち構えていた。娘は立ち止まり、「あちらへ」とだけ声を出して、男の元へ行くように示す。後はこの男が引き継ぐようだ。見ると男はこの状況でも少しの緊張も見せず、ごく自然に佇んで、まなざしをこちらに向けている。

「アリーシャ、下がりなさい」

 男が娘――アリーシャにそう言うと、アリーシャは一礼だけしてすぐに元来た通路を引き返していった。

「こちらに旦那様がお見えです。少々お待ちを」男はそう言って、戸をひかえめにノックした。

「旦那様。ジェンキンスでございます」

「鬼火がやってきたか」

「左様にございます」

「通せ」

 ジェンキンスと名乗った男はドアノブをひねり、戸を奥に開くと自身は身を引き、姿勢を低くして、ウィルに入室を促す。戸の向こうからは暖炉の火のはぜる音、その光とゆらめく影が見え、闇と静寂に慣れた感覚を強く刺激する。ウィルはあえて沈黙したまま、戸をくくり、その向こうに待つ依頼人の姿を見た。ウィルの背中で静かに戸が閉まる気配があった。

「ようこそわが邸宅へ。客人をもてなす振る舞いでないことは詫びよう」

 こちらに背を向け、暖炉の火でも見ているのか、安楽椅子に座ったまま声だけを向ける。その様が、およそ詫びる態度でないことは言うまでもない。

鬼火ウィスプを呼び寄せ、やってくるのを待つには、こうでもしないと難しいのでな」そういってヘンリクスはかすかに息を漏らす。笑っているのか。

鬼火ウィスプがこの屋敷に出る、など言った怪談とは身内のものにもいたずらに広まっては困るのだ。誰もが寝静まった夜分がふさわしい。なあウィル・オ・ウィスプ殿。それともサー・ウィリアムと呼ぶほうがよいかな?」

 そこまで言ってようやくこの部屋の主であり、ウィルの仕事の依頼主であるヘンリクス=フィッツガンズ卿はウィルのほうを向き直した。

 声よりもずいぶんと老いた印象の顔立ちをしている。顔じゅうに深いしわが刻まれている。しかし、重く分厚いまぶたの下からのぞく瞳は、鈍く光る刃物のような輝きをウィルに向けて放っている。

 だがウィルはその視線をするりとかわし、「ウィルでいい」と返す。

「確かに最初はペンネームに使った呼び名だ。そいつが勝手に一人歩きして広まった。と言っても聞きつけるのはロクな奴じゃない。面倒ごとに巻き込まれたはた迷惑な連中がほとんどと、あとはあんたみたいな隠し事の多そうな連中だな」

 冗談のつもりだと伝えるように、苦笑交じりの表情で、

「それはともかく、ロンドンに名を響かせるフィッツガンズ卿の内密の要件だ。やむを得ないことくらいは理解するさ」軽い口調で言いながら、近くの椅子を引き寄せ、断りなく座り込む。

 わずかに沈黙が部屋を支配したが、部屋の主は訪問者の無礼に怒りを抱いているのではないだろう。むしろ目の前の男は自分に興味を抱いている。放つ視線が、なめ回すような質のものに変化しているのがわかる。向けられていた視線の刃先が離れ、代わりに刀身でこちらの肌をなでられるような感覚をウィルは抱いた。先祖代々受け継いだ遺産だけで食べていける正真正銘の上流階級アッパーの人間とは違う、叩き上げならではの迫力というものがあった。しかしウィルは動じない。

「今のような状況にも慣れているようだな。平静さを失っていない。半信半疑、おぼろげな噂に頼ったわけだが、そう間違いではなかったようだ」

 卿は一方的にウィルを評価すると、

「しかし〈アンリアル〉だと自覚したゆえに、むしろ人より率先して魔術の悪しき所業を求めて彷徨うことになるとはな。鬼火ウィスプというよりは亡霊ファントムと呼ぶのが相応しくも思える」

 亡霊か。夜の闇を、魔の働いた痕跡を求めて彷徨う亡霊。なんとも詩人が喜びそうな響きではないか。法律家とは理屈に凝り固まった人物と思っていたが、案外にロマンチストな面も見せるものだ、とウィルはほくそ笑む。

「そんな鬼火だか亡霊だかのおかげで、あんたは大嫌いな〈MAG〉のトラブルにわずらわされずに済むんだ。気にせず、うまく利用すればいい」

 ヘンリクス卿は、ふふっ、と笑うように息をもらして、

「改めて言うが、君は本来ここにいてはいけない人間だ。まさに怪談の中だけに登場する鬼火というわけだな。呼び名だけでなく、実際にそうあってもらわねばならない。今日、この、我々の会談も、そしてこれからの君の働きも、すべては密やかに、速やかに行わなければならない」

 ウィルはうなずいた。

「そうだ。だからはやいとこ、その行うべきことを教えてくれないか。まずは問題の現場を見せてくれるんだろう?」

 人には見せられないやましいところを、あんたの暗部を、そう言うのは意識の内側にとどめ、かわりにウィルは口の端をゆがめてみせる。

「そう挑発するな。見せてやるとも。ついてこい」

 ヘンリクス卿は立ち上がり、奥の戸を開けてその向こうに抜けていった。速やかに立ち上がり、後につく。戸の向こうには細く短い廊下は伸びていて、突き当りにはまた扉。ヘンリクス卿はその前に立ち、ふところから取り出した鍵で開錠した。卿はわずかにためらうよなしぐさを見せたのち、扉を少しだけ開く。

 瞬間、扉の隙間から光が溢れだした。

 ウィルにとっては目を覆いたくなるほど目に痛い、無数の小さいきらめき。

 大量のエーテル塵だった。

 明かりのない廊下で不自然なまぶしさをエーテル塵はもたらす。この光は、正確には光とは呼べない。それを見た人間が発光していると感じているだけなのだ。自然の光と違い、エーテル塵は周囲を明るく照らすことはない。ただ、それ自体が輝いているように見えるだけだ。

 ヘンリクス卿もまた、ウィルと同じ違和感に顔をしかめているようだったが、すぐに扉を開け放ち、中へと入っていった。ウィルも続いて入ると、ヘンリクスが部屋の明かりをつけた。キャンドルでもオイルライトでも、ガス灯でもない。〈MAG〉灯の均一な明かりだ。

 婦人の寝室だ。ヘンリクス卿の夫人、サリアの寝室に違いない。一瞥しただけで高価だとわかる品の数々が、部屋を装飾している。そしてどの品にもなんらかの魔術的な仕掛けが施されているのだ。そのために部屋がエーテル塵で満ちている。部屋の色調までが時間とともに緩やかに変化しており、〈MAG〉の仕掛けは部屋そのものにまで作用しているようだ。

「妻だ」

 ヘンリクス卿は部屋の奥、やはり高価に違いない、天蓋つきのベッドのかたわらに立っていた。天蓋から垂れているシルクが風もないのに揺れている。そのベッドにシーツをかぶって横たわっているのが、彼の妻、サリア・フィッツガンズ男爵夫人ということか。

 美しい。この部屋の様にふさわしい、華やかさを備えた美人だと、ウィルは見た瞬間に思った。この屋敷にやってきてから一貫していた雰囲気、質素、倹約、保守、そんなイメージをすべて、一瞬で吹き飛ばしてしまう力がこの部屋と、その持ち主であるサリアから放たれている。

「婦人の寝室に上がりこんだだけでも失礼したと言いたいところなのに、そのご婦人の寝姿まで拝むことになるとはな」

 ウィルは内心の衝撃を見せまいと、表情をつくらずに言う。

「これは俺に対する罠なのか? これじゃ俺は失礼千万な夜盗だ」

「そんなことはせぬよ。それではわが家にとっても恥となる。私が君に頼みたいのは、この恥を内々に処理したいからにほかならない」

 ヘンリクス卿はそういうと、自身の立っているところの後ろ、ベットの脇を指さし、ウィルによく見えるようにその場をどいた。

「それは……そいつも〈MAG〉だな。だけど、ほかのお高い調度品なんかに仕込んであるのとはちょっと、いや、だいぶ違う」

「そうだ。これがふだん妻の購入している正規の品とはまったく違う品であることは明白だ」

 この部屋の品は、そのかたちを見ただけでは〈MAG〉とはわからない、手の込んだ装飾のされた調度品ばかりだ。アンティーク志向の強い貴族層の間でも受け入れられるよう、〈MAG〉本来の工業製品らしさは隠ぺいされている。〈MAG〉の効果も、おそらく美観を中心に、使いやすさ、心地よさを補強する程度にすぎないはずだ。庶民が好む劇薬のような効き目や、超常現象のような仕掛けを、保守的な上流階級アッパーの面々は好まないことが多い。だが、いかにもな〈MAG〉らしさを隠す一方で、この部屋の品はどれも、デザインとしてアンティークのそれを少しだけずらしているのがわかる。サリアの個人的な好みが反映されているのか。中産階級ミドル的な、実用性や機能を突き詰めた結果生じる美、と言うべきセンスが取り入れられ、それを実現するのに〈MAG〉が有効に作用しているのがウィルにもわかる。

〈アンリアル〉と自覚しているウィルにとっても、悪くはない、と感じられる、センスの良さが、この部屋のあちらこちらに表現されていた。

 しかし、ヘンリクス卿の指示しているそれは、屋敷全体の保守的傾向とも、サリアの独特なセンスからも逸脱している。前衛芸術のようなおもむきを感じる造形をしていた。身もふたもない、ただただ球体と呼ぶしかない本体から、羽と形容するのがいいのだろうか、そうした薄い形状のものがいくつも生えて、横に上にと広がっている。南国の果実に、似たようなものがあったな、とウィルは気づく。そしてその羽と羽の隙間から、多量のエーテル塵が放出されていた。ウィルはそこを観察しようと近づいた。

 しゃがみこんで手を伸ばし、羽の一つに触れようとしたところで、激しいめまいに襲われた。

 不確かなイメージ……像や音、ほかにも五感で認識しているようで、でもそのどれもが具体的には何なのかが判別できず、または個々の感覚がちぐはぐで、見えているものと聞こえてくるものが一致していないような感覚。狂気の世界を白昼夢に見るような体感をウィルは受けた。そのまま倒れこんでしまいそうになるのを、大きく首を、そして上半身を揺さぶって、イメージを振り払う。

「〈スペクトラム〉の一種か……?」

 何とか立ち上がり、ウィルは漏らすようにつぶやく。

「妻はどこからかこれを手に入れ、動作させた。それから今まで、目を覚まさないまま、今に至るのだよ。今夜でもう三日を過ぎようとしている」

 ヘンリクス卿がそう言いながら、この場を離れて、やってきた廊下へと戻ろうとしている。この場に居続けるのが苦痛であるように、そのしぐさからは見て取れる。

「こいつがそうさせていると?」

「わからん。しかし状況からすればそうだろう」

 振り返りもせず、当然のように言うヘンリクス卿に、かぶりを振って答える。

「どうかな。確信は持たないほうがいいと思うが。こいつは単なる眠りの作用じゃない。眠りに関係しちゃいるが、これは睡眠薬というより、〈スペクトラム〉……人の頭脳や精神に働いて何かを見たり聞いたりさせる幻覚作用、そいつを応用した夢見の仕掛けのように思えるな」

 ヘンリクス卿は立ち止まり、

「妻は夢を見たまま、夢の中から帰ってこないでいるというのか?」

「さあな。そんな〈MAG〉があるなんて聞いたことがない。どちらにしろ、こいつは正規の〈MAG〉じゃないのは確かだ。夫人がぐっすりな理由がこいつのせいなのかはわからん。もしそうだとして、故意なのか事故なのかも不明だ」

「この場ではわからんのだな。原因も、対処の仕方も」

「あいにくだが」

「いや、構わんよ。もとより妻が手を出したのが出所の怪しい〈MAG〉だと察した時点で、あきらめていたところもある。いや、むしろ出所もなにもない。〈MAG〉なぞに手を出すようになってから、ずっとか」

 最後のほうの言葉は独白のようになっていた。ウィルに伝えるつもりで話しているふうでなく、ただ言ってしまったというふうに聞こえる。

「夫人のことを聞いてもいいか?」

 ウィルは尋ねる。

「なんだね?」

 余計な詮索だが、と前置きして、

「〈アンリアル〉のあんたが、夫人の〈MAG〉集めを許していたのはなぜだ? あんた、俺と同じでエーテル塵がちらつくのを見るのも嫌なはずだ。だがこの部屋のエーテル塵の洪水、〈MAG〉の充実ぶりは、ちょっと普通じゃない」

 ヘンリクス卿は黙っている。ウィルは続ける。

「自分の嫁さんのこんな様子をよそ様に見せたくないはずだ。〈MAG〉の反乱を法律で食い止めようっていうあんたなら。それに、今回の用事も、そういうことなんだろう? よりによって自分の身内、妻が〈MAG〉、それも出所の知れない違法〈MAG〉でやらかしちまった。絶対におおっぴらにしちゃあいけない。それで俺みたいな人間に声をかけた。そうだろう? だったら、どうしてこうなるまで放っておいたんだ?」

 沈黙を予想していたのに反して、ヘンリクス卿からすぐに返ってきた返答はこうだ。

「妻を愛している故、と言って、君は私の言葉を信じるかな?」

 返答に窮したのはウィルのほうだった。

「……余計な詮索だったようだ」

 そう言うしかなかったが、腑に落ちたわけではない。が、ヘンリクス卿はその様が可笑しかったのか、息を漏らすと、自分から話し始める。

「私が言うのもどうかと思うが、美しい女だと思っただろう? 私のような男には不釣り合いなほどにな」

 思わぬ自虐的な物言いに、やはり言葉が見つからない。だがヘンリクス卿もまた、ウィルの返答を待つことはない。

「あらゆる面で釣り合わない関係だったよ、私と妻は。私も苦労をしたし、妻にも苦労をかけた。しかしそれでも私なりに妻を愛してきた。妻は見ての通りのお姫様だ。華やかに着飾りもしたいし、日々の慰めに遊びだってしたくもある。その遊びが魔法であっても、ある程度は容認してきた。もちろん、節度ある限りはだが」

「だが、今回はいよいよその節度を越えてしまった」

 ウィルは思わずヘンリクス卿の言葉を奪うようにして口にしてしまう。

「そうだ。夫としては恥ずかしい限りだが、妻への配慮が足りなかったことは認めざるを得ない。だが、そのことを公にするかどうかは別の話だ。この件はあくまでプライベートだ。だが、残念だが私の立場がそうはさせまい」

「スキャンダルを恐れているんだな? あんたの仕事柄、〈MAG〉の事故なんて起こすわけにはいかない。ましてそれが、出所不明の違法〈MAG〉、〈JANG〉とあってはな」

 ヘンリクス卿は敏腕の弁護士として名を広め、名門のフィッツガンズ家に婿入りしてのち議会入りを果たし、大量に生産され、急速に拡散する〈MAG〉に関しての立法に携わっている。

「私一人がなんと言われようと構わない。だが、私がロンドンに、英国に求められている以上、私一人の身の問題ではない」

「ご立派、と言いたいところだが、取り繕うようなやりかたは、始末をつけるとは言わないぜ、ご主人」

「この仕事に不服か?」

 ウィルは肩をすくめて、

「まさか。今のはとある一市民の声にすぎないさ。あるいはさまよう鬼火が聞かせた幻聴かもな」

「なんと言おうが、君にはこのことを他言する資格はない」

「当然だ。でなければ、仕事として成り立たんよ」

「なにより、妻の名誉を損なうわけにはいかん」

「俺だって、無防備なマダム、いや、眠り姫をそっとしておきたいさ。ましてや目が覚めても悪夢が続いてるようなことにはさせないさ」

「こちらもしても、君を信頼しているからこそ、危険を覚悟でこうしてこの場を設けているわけだ。こちらの期待に違わないよう動いてもらわねば」

「もちろんさ。あんたも自分の名誉がかかっているように、こちらも相応にかけているものがある。国家だとか、名誉だとかとは、比べられるもんじゃなくてもな」

 ウィルはそう言い捨てて、ヘンリクス卿に向き合うのをやめる。

「ともかく、もう少しこいつを調べさせてもらう」

 今もエーテル塵のもやを吹きだしている前衛芸術的な〈JUNG〉と思しき物体に近づいた。

 先ほど、ウィルはこれを〈スペクトラム〉の一種ではないかと推測した。大雑把に言えば使用者に幻を見せる〈MAG〉作用の総称だが、その作用の仕方、用法などによってまるで違った品となる作用技術の一つだ。

 自分の見聞きしたものを、そのときの記憶を頼りとしてイメージし、相手に送り込むような伝達が目的の〈スペクトラム〉ならば、いかにイメージが正確に伝わるかが求められる。商売や犯罪捜査、司法、学術の場などで要求される。一方、正確さよりも豊富な表現力が要求される場合もある。頭の中にある漠然としたイメージをより膨らませて相手に伝えたいという欲求だ。娯楽や芸術であったり、過去の思い出をよりよく見せたいような場合だ。

 初期の〈スペクトラム〉は、使用者の思い描く絵のみを、相手の目に働きかけて見せるだけのもので、その名の現すとおりのものだった。それが技術の進歩により今では五感全部に訴えたり、より抽象的なイメージとして相手の心の奥に伝えるような、複雑な作用をもたらすところまで至っている。しかし、伝えたいイメージが複雑であればあるほど、伝える側のイメージが鮮明でなければいけないし、〈MAG〉の制御も難しくなる。

 だいたい、人間が頭の中だけで思い描けるイメージなんてものは、いい加減なものだ。通常、使用者は自分のイメージを補強するために、事前に文章や絵、写真や蓄音機などを使い、イメージを補強しておく。そうしないと、相手にはなんだかわけのわからない幻覚や夢のようにしか伝わらないのだ。

 先ほどこの〈JUNG〉に近づいたときに、激しいめまいとともに卒倒しそうになるほどのちぐはぐなイメージが流れ込んできた。あのときに起きたのも同じような現象とウィルには思えたが、どうもそれだけではないように思えた。単に不出来なイメージが込められただけの、出来損ないの〈JUNG〉であれば、あれほどの激しい衝撃を受けることはない。

「こいつは、とてもよくできた代物かもしれないな」

 ウィルのつぶやきに、すでに廊下に出ているヘンリクス卿が反応する。

「よくできた、と言うのはどういうことかな?」その声音には若干の不満さが感じられる。

「ああ。別にこいつをつくったやつを評価するつもりじゃないがな。細かいところまで手が込んだブツに違いないようだ」

 ウィルが受けたイメージはちくはぐではあったもののはっきりと感覚を刺激した。不出来な〈スペクトラム〉にありがちな不明瞭さはなかった。はっきりと、詳細に突き詰められて込められたイメージ。ここで気に掛けるべきなのは、そのイメージが詳細すぎることだ。誰でも共有しやすいイメージというのは、むしろある程度、大雑把であるべきだ。誇張や省略、記号化によって理解しやすくする。

「しかも、こりゃ、特注品だ。こいつは奥さんのために特別に調整されてるに違いない。奥さんだけに見せたいはっきりとしたイメージがあって、奥さんにだけ、それが伝わるように、徹底的につくりこんであるんだろう」

 ウィルがそう言った瞬間、予想はしたが、ヘンリクス卿に激しい感情が湧き上がるのがはっきりと感じられる。怒りか、嫉妬か。

「別に意地悪をするつもりで言ったんじゃないぜ。旦那のあんたに、そんな人間に心当たりがないかを尋ねたい。どうだ?」

「妻が不貞を働いているかどうか、心当たりがあるかと問うのかね?」

 刺激が強かったか。ウィルは舌打ちをこらえた。

「これの作り主の一方的な思いかもしれん。決めつけるなよ。自分の妻が信じられないのか?」

「現に、このような状況になっていては、不審にも思う」

「そうかい。まあいい。心当たりはないんだな? 別に男女のおつきあいがどうとかいう話じゃない。奥さんが日ごろからどこから〈MAG〉を買っているのかくらいでもいい。直接の手がかりにならなくたって、それを探すとっかかりにはなる」

 ヘンリクス卿は荒く鼻を鳴らす。

「そのくらいは使用人が把握している。しかし通常の購入先で手に入れたものでないことがわかっただけだ」

「それがわかったなら大きな収穫じゃないか。購入先が絞れる」

「そんなこと、この品のみすぼらしさを見ればわかることだ」

 みすぼらしい、という意見には異論があるが、ウィルはそうだな、と返しておく。

「どうせイーストエンドの掃き溜めにいる連中のつくった〈JUNG〉だろう。妻への思いだなどととんだ戯言だ。妻は不良品をつかまされて、その結果、こうなっているということだ」

 ヘンリクス卿は高ぶった感情のままに言葉を吐いている。ウィルはヘンリクス卿の熱くなった頭に水を差すように、できる限り感情を殺して言う。

「安易な決めつけは目を曇らせるぜ」

 法律家であるヘンリクス卿には堪える言葉のはずだ。事実、ヘンリクス卿の態度がわずかに落ち着く様子が見える。

「決めつけを排除するために、君が動くのだ。サー・ウィリアム」

 ヘンリクス卿は息を整えると、もう一度部屋に入ってきて、妻のかたわらに立つ。

「君は〈MAG〉での事件に通じていて、イーストエンドに通じているのだろう。〈JUNG〉のことなら専門家だということだな。ならば君に依頼するのはこのいまいましい〈JUNG〉の正体を突き止めることだ。今やイーストエンドには立ち入ることも難しい。君なら打ってつけだ」

 イーストエンドはロンドンのいわば貧民窟。蒸気機関の発達による貧富の格差が広がったころからでき始めたその場所を、〈MAG〉の発展はさらに拡大させた。魔法はロンドンの街を広げながら、身分の差を広げ、貧富の差を広げた。ヘンリクス卿のように名声を得て上流階級アッパーの仲間入りを果たす少数の成功者の足下には、大多数の貧困者がいる。それがロンドンという街であり、今の英国の姿だ。

 そうだな、とウィルは言った。

「この依頼、引き受けよう。今夜は興味深いものを見せてもらった。さらにいろいろと見られそうだ」

「成果の度合いによって、相応の報酬を支払おう。では、もういいな。私の部屋に戻るのだ」


 二人で部屋に戻り、応接机につくと、ヘンリクス卿はウィルに一枚の書類を見せた。

「これは?」

「契約書だ」

 それがただの契約書なら、ウィルにだって言われなくてもわかる。依頼人との契約はいくつも交わしてきたし、巷では大金や権利が絡めば何はなくともまず契約だ。ウィルが引っかかったのは、ヘンリクス卿が差し出したそれが、見慣れない書式で書かれているためだった。

「今後、〈MAG〉に関する契約の書式となるだろう、新式の契約書だ。君は〈誓約ゲッシュ〉を知っているかね?」

「〈MAG〉でも再現できていない作用技術だ。自ら立てた誓いを守れなかった者に魔術的な呪い、つまりペナルティを施す」

 ヘンリクス卿がはっきりと驚きを示すのがウィルにはわかった。

「詳しいな。評判は伊達ではないということか」

「契約違反者を法で処罰するんじゃなく、魔術でしばりつけるっていうのか?

「〈霊化〉などと言って人外の領域に触れる技術なのだぞ、〈MAG〉という代物はな。人の法では追いつかん。神か悪魔か知らぬが、人外の言葉を話す駄々っ子をあやすには、こちらも同じ言葉を使うしかない」

 目には目を、というわけか。

「アンリアルのあんたがこいつを考案したのか? 〈MAG〉嫌いのあんたが?」

「ロンドンのすべての法廷はすでに〈MAG〉の未審理事件だけで一万件を超えている。〈MAG〉なんぞに貴重な司法の頭脳を働かせ続けるわけにはいかん」

 ヘンリクス卿はそれだけ言ってあとは笑みを浮かべるだけだ。嫌いだからこそ、ということもあるのだろうか、と想像する。〈MAG〉を嫌うゆえに、〈MAG〉を使うものを〈MAG〉による呪いでしばりつける。だとしたらずいぶんと趣味が悪い。が、その想像はヘンリクス卿という人物を目の前にして、まるで違和感がないようにウィルには思えてならない。

「こんな仰々しい仕掛けを俺とあんたの間に設ける必要があるとは思えないな」

 とサインを断る態度を見せると、

「こちらも危険を承知で依頼しているのだ。保険はかけておく必要がある」

 ヘンリクス卿は気にせずそう言って、

「なに、私の依頼に関する行動はすべて秘密裡に行うこと。調査後も秘密は守られること。調査は確実に行われ、成果が私のもとにもたらされること。私が保障したいのはそれだけだ。逆に、報酬の支払いがなされないなど、こちらが不履行を犯せば、同じように〈誓約ゲッシュ〉の呪いが私の身にも降りかかる。君に都合の悪いだけの内容にはなっていないはずだ」

 ウィルは書面を改めて目を通す。言われた通り、こちらが一方的に不利になる文面ではない。

「そのようだ。こちらは約束を破るつもりはない。あんたが俺を罠にはめるメリットもないしな。あんたが満足なら、〈誓約ゲッシュ〉でもかければいい」

 もとより、魔の巣に入るつもりで来ているのだ。今だけではない。この仕事、〈MAG〉の火消し役をしていれば、それはいつものこと。これまでのやりとりで充分にわかったことだが、〈アンリアル〉を自称して〈MAG〉を憎み、表の顔では法の番人を気取るこの男も、仮面の奥には汚れた牙を隠し持っている。でなければ、こんな夜更けに自分のような人間を呼び出すようなことはしない。

 魔術を憎んでいながらそれを制するのに魔術を使う。ヘンリクス卿も、立派に闇の世界の住人。ウィルもまた、ウィルの思惑があってヘンリクス卿に近づいている。つまり、彼と自分は同類。

「それに、〈誓約ゲッシュ〉の作用がどんなものか、見てみたくもある」

 ウィルは契約書にサインを入れた。記した文字はこうだ――ウィリアム・○・○○○○。

「契約成立だ。侯爵」

 まるで悪魔との取引だな、とウィルは密かに奥歯をかみしめた。


 来た時と同じように、ジェンキンスとアリーシャ、二人の使用人に案内されて、勝手口から屋敷を出る。同じ馬車が待ち構えている。御者の言うままに乗り込む。

「旦那様のご依頼、引き受けたんですってね」

 御者は御者台に乗ると、手綱をつかみつつ顔だけちらりとこちらを向いて、猫背気味の背中をゆすりながら、そんなことを聞いてくる。

 先ほど交わした契約の手前もあり、たとえ屋敷の使用人であっても、不用意に話すわけにはいかない。顔の半分だけで笑って肩をすくめると、

「いや、答えていただかなくて結構ですぜ。旦那の契約のことは、我々もよく存じてますんでね、へへ」

 などと笑いかけてきて、対応に困る。

 単なる無駄口かと思って黙っていると、今度は突然、ウィルが乗り込んだ方の反対から一人、静かに乗り込んでくるものが現れた。

 アリーシャだった。フード付きの黒色の外套を着込んでおり、顔を見るまでアリーシャだとわからなかった。

「トビアス、行って」

 アリーシャが御者にそう声をかけると、御者――トビアスはすぐに手綱を取って馬を走らせた。


「ウィリアム様、まずは失礼を謝ります。ごめんなさい。ですが、ここでしかお話できる時間がなくて」

 ジェンキンスさんのお力で、なんとかこうしてお話ができる時間が作れました、とアリーシャは言う。屋敷の中をウィルを引き連れていたときと同じで、その顔には強い緊張が浮かんでいる。と、同時に、今は、その瞳に決意の色が浮かんでいるのを、ウィルは見て取った。

「旦那様のご依頼、引き受けていただいたって、聞いています」

 アリーシャはまず、断った。トビアスもきっと、最初から知っていて茶化すように聞いてきたのだろう。そのトビアスも、手綱を取りつつ、耳はしっかりとこちらに向けているはずだ。

「こりゃ、いったい、どういうことだ?」

 極力平静を装ったが、無駄な試みだったかもしれない。

「すみません、こうでもしないと、あなたにお話をする機会もつくれそうになくって」

「こうでも、ってのは、つまり」

「このことは他言無用ってことで。もちろん旦那様にも。お叱りを食うだけじゃすまねえ」

 トビアスがアリーシャの言葉を補足する。やはりこちらの話を聞いている。

「ふうん、気丈そうだと思っていたが、思っていた以上に大胆なお嬢さんだ。こんな夜に女性が自分から男の後を追う意味がわかっているのか?」

「は?」

「旦那、あんまりからかわないでやってくだせえ。まだ小娘なんだ。でも、小娘なりに真剣なんでさ」

 トビアスがそんなことを言って大きく笑う。ウィルとしては冗談を言ったつもりではなかったので、肩をすくめるしかない。

 なんとなく馬車の外を見やる。すでに屋敷は遠くに離れている。道の照らすのは〈MAG〉の明かりだ。

「それで、主人にも秘密の要件というのは?」

 もちろん、今回の依頼にかかわることなのだろうが、そんなふうに質問する。

「はい。ウィリアム様。奥様を、いいえ、サリア様を、どうか助けてほしいんです」


 アリーシャの話は、彼女の年相応にたどたどしく、また、彼女の個人的な偏見や願望が入り混じっていたのだが、要約すればこういうことだった。

 ヘンリクス卿は妻のフィッツガンズ夫人、サリアを愛してはいない。二人の結婚はヘンリクス卿と、先代フィッツガンズ、つまりサリアの親との互いの利益の一致によるものであり、要はサリアは政略結婚の道具であったということだ。

 フィッツガンズ家は社交界でも名の通った旧家であったが、先代は子に恵まれず、女のサリアのみ。男子はいよいよ誕生せず、家の存続は危ぶまれていた。そこに、実業家としての成功をもとに、社交界への足掛かりを探していたヘンリクス卿が現れた。ヘンリクスの家は、血筋を遠くさかのぼれば、一応はフィッツガンズの親戚筋にあたる。ヘンリクス自身がその事実を見つけ出し、先代フィッツガンズに話しを持ち掛けた。先代フィッツガンズは喜んでヘンリクスを家に迎え、サリアとの結婚もまた、サリア自身の思いとは無関係に執り行われたという。

「サリア様がすべてを相続する道だってあったはずです。そうなっていれば、きっとサリア様はフィッツガンズの名前なんてさっさと旦那様にお渡ししていたはず。それで、よかったのに」

 アリーシャはそのとき唇をかみしめて、自分のことのように悔しがった。

 しかしサリアは父の考えに背かず、ヘンリクス卿の妻としての生き方を選んだという。それからは妻の鏡として、ヘンリクス卿を支え、フィッツガンズ家を守ることに全身全霊を注いでいたという。

 そんなサリアを、ヘンリクス卿は見向きもしなかった。仕事一辺倒のヘンリクス卿は、伝統と格式を重んじる上流階級の、形式ばった部分だけを妻に押し付けた。サリアに、上流階級の貴婦人であることを、昔ながらの型どおりの妻であることを要求し、ほかにも何も求めなかった。それでもサリアはヘンリクス卿を立て続け、フィッツガンズ家の発展を影から支え続けたという。

「まるで、サリア様は、操り人形のようでした。ずっと。ヘンリクス様に都合のいい、立派な妻を演じる人形です」

 年頃の娘が感情豊かに、ときに涙まじりに自分が慕う夫人のことを語らう様は、ウィルの胸を打つものがあった。最初に馬車に乗り込んできたときには何事かと思ったし、自分の主人であるヘンリクス卿の名誉を損なうようなこと言い出す始末に、ウィルは非常に手の込んだ罠の可能性を考えざるを得なかった。

 しかし、ここまでの語りを聞いて、アリーシャが真に仕えているのがサリアであり、その救済を訴える気持ちは充分に理解ができた。

「アリーシャ、君の言い分をすべて信じることは、今はできない。それに俺の仕事はあくまでヘンリクス卿の依頼を遂行することだ。君の願いを聞くことはできるが、この場でそれを引き受けてやれるかどうかは別だ」

 アリーシャは眉間に皺を寄せてうつむくが、

「はい。構いません。はじめから、わずかな望みにかけているだけですから。何もしないよりましと、そう思って」

「君は強い。仕事だ依頼だ、ってのは置いといて、俺はその精神を尊敬するぜ」

「ありがとうございます」

「俺の調査が、君の願いを叶える助けになるといいが」

 他人事のようにしか言えない自分に、ウィルはさすがに胸が痛くなるのを感じる。それでも、娘への情に流されて行動をするわけにはいかない。

「アリーシャ、夫人がどんな境遇だったか、それはわかった。ただ、そのこと自体は参考程度にしか聞いておくことはできない。俺の役に立つかもしれないのは、夫人の近頃の言動がどんなだったか、その点だ」

 アリーシャはうなずいた。もちろん、これからその話をするつもりだったのだろう。

「君の旦那様からの契約で、俺からはこの件、何も口にはできん。たとえ君が屋敷の人間であってもだ。一切の他言無用。そういう契約だからな。だから、一方的にしゃべってくれ。さっき語ってくれたのと同じようにな。俺から君に具体的なことを話すわけじゃなければ、問題ないはずだ」

 アリーシャは物わかりよくウィルの言い分を理解し、話しを再開した。

「サリア様と〈MAG〉との関わりについて、お話します。きっと、ウィリアム様にとって一番大事な話になると思います」

 そう前置きして、アリーシャは話を続ける。

「サリア様が〈MAG〉に夢中になったのは、この一年くらいのことです。はじめはヘンリクス様への反発、当てつけのおつもりでしたのでしょうけど、でもすぐにそういう思いとは無関係に、純粋に〈MAG〉をお気に召していきました。美しい〈MAG〉飾りをたしなむのは、社交界でも流行のようでしたし」

 流行の範囲であれば、ヘンリクス卿も口出しはしずらい、というのもあったのだろうか。ヘンリクス卿は、サリアを愛しているがために、サリアの〈MAG〉収集を止めなかったというが、そうでなくても、彼はあの寝室が〈MAG〉で埋め尽くされるのを止められなかったのかもしれない。

「わたしは未熟ながらサリア様の身の回りの世話を一部、任せられていました。その中には、〈MAG〉の管理も含まれています。しばらくはサリア様もほかの家の奥様方が持つような品を集めていたにすぎないのです。ですが……どなたの紹介を受けたのかまではわかりませんが、サリア様は普段〈MAG〉を買い求める市場や百貨店とは違う、会員制のクラブに通われるようになりました。そこではまだどこにも売りに出されていない新作の〈MAG〉の品評会が催されているということです。たぶん、サリア様が使用したのはそこで手に入れた〈MAG〉ではないかと思います」

 では、その〈MAG〉が、サリアの寝室にあったあの〈スペクトラム〉ということだろうか? そうであれば、あの〈スペクトラム〉の規格外なつくりにも説明がつく。

「でも、どうしてサリア様があんなことをしたのか、わかりません。サリア様はお召し物や調度品などに〈MAG〉を使うことはあっても、ご自身に使うことはありませんでした。それこそ、ヘンリクス様に言い訳のできない危険なことだっていうのに……」

 アリーシャの指摘は的確だ。〈MAG〉の使用で今、もっとも問題を起こしているのは、〈MAG〉の作用によって自分自身を〈霊化リアライズ〉させ、ときには人間の能力を超えるような力を身に着けること、その行き過ぎた行いだった。自己強化エンハンスド拡張化オーギュメンテッドのなれの果て、〈DOPE〉と呼ばれて忌み嫌われている。ロンドンの貧民窟などで密売されている違法〈MAG〉、〈JUNG〉の多くが、〈DOPE〉を目的につくられている。サリアが使ったあの〈MAG〉だって、そのような品の一種だったかもしれないのだ。正規品でない〈MAG〉に手を出すなど、危険すぎる。ヘンリクス卿の妻という立場でなかったとしても、犯してはいけない行為に手を染めてしまったようにも思える。

「そのことを、ヘンリクス卿にはなぜ黙っているんだ?」

 ウィルは思わず聞いてしまった。このくらいのことなら問題ないだろう、と内心に誰にでもなく言い訳をしつつ。

「もしわたしがこのことをお話すれば、ヘンリクス様はサリア様の眠りの原因を、その〈MAG〉のせいだと決めつけてしまうに決まっています。いえ、むしろ、そう決めつけたがっているのかもしれません」

 どういうことだ? と問う代わりに、ウィルは目いっぱい怪訝そうな表情をアリーシャに向ける。アリーシャはそれを見てか見ないでか、

「わたしは、いえ、わたしのほかの使用人も、ですけど……サリア様を眠らせたのが、ほかでもないヘンリクス様ではないかと、その疑いが、どうしても頭から離れないのです」

 そういうことか、とウィルは納得した。むしろ、その可能性はウィルも考慮に入れていたことだが、まさか使用人側から、それもこのような娘から聞かされることになるとは、意外だった。

「ヘンリクス様は今日、わたしやトビアスをウィリアム様の案内役に選ばれました。そのわけは、ヘンリクス様がわたしたちを疑っているからだと思います」

 そういうアリーシャの言葉にトビアスが乗ってくる。

「旦那様はあれで妙に気の小せぇところをお持ちでいらっしゃる。ほかの使用人たちの手前、堂々と俺らを疑ったりはできないからな」

  慎重に慎重を重ねて行動するタイプだ。今日、この日、ウィルへの依頼を決断したのは、ヘンリクス卿にとっては大きな賭けであったことだろう。

「でも、サリア様が自分であの〈MAG〉を使ったのは確かなんです。怪しげな〈MAG〉を求めてクラブに通っていたのも、サリア様のご意志で……。でも、ヘンリクス様が、サリア様のそんな隙を、利用したのではないかと思えてならない……わたし、サリア様を止められなかったのが悔しくて……」

 アリーシャが嗚咽をかみ殺して体を震わせる。

 女性の涙は脅威だ。陰謀劇で、多くの男は女の涙に冷静さを奪われて、逆に泣きを見ることになる。そして今のウィルもまた、その仲間入りを果たす寸前で一歩踏みとどまっており、破滅との瀬戸際に立っていることを必至で自分に言い聞かせていた。

 ごめんなさい、とアリーシャは言う。

 ウィルはただ、いや、とだけ言い返した。

「わたしたち使用人はみな、サリア様こそフィッツガンズ家の主人だと思っています。たとえ世の中がどうであっても、旦那様の思うままにしておけません」

 ウィルはその言葉を聞かなかったことにした。他言無用。俺は闇夜に浮かぶ鬼火にすぎない。

「ともかくまずは、その会員制のクラブとやらが気になるな」

 ウィルがそう言うと、アリーシャは「トビアスが知っています」と言った。

「トビアスがサリア様をロンドンで開かれるそのクラブまでお連れしていたのです」

「奥様のお忍びにおつきあいするのが、俺の役目でさ。俺は御者の中でも爪はじきにされててね。旦那様も俺を使ってはくださらんし、使用人たちも俺には近づきたがらねえ。そんな人間のほうが、お忍びのお供には向いてたんでしょうな。奥様はそんな俺でもやさしくしてくださった」

「だってトビアスったら、いつも不潔そうにして、誤解をうけるような憎まれ口ばかりだもの。爪はじきにされるのが嫌なら、自分で努力してなおさなきゃ」

 アリーシャがふくれる。表情が和らいで、年相応の無邪気なしぐさだ。

「今さら、どうにもならんこともあるさね。小娘にはわからんだろうがね。それに爪はじきが嫌だなんて一言も言っとらんよ」

 トビアスは背中をゆすってシシシと笑う。

 二人のやりとりに、ウィルは一瞬、今が夜明けを待つほどの深夜であることを忘れそうになる。

「旦那、イーストエンドの外れでさ。テムズ川近く、打ち捨てられた古い大きな館が立ち並ぶ一角で、その館の一つに、紳士淑女のご歴々が集まっておりやした。もちろんみんな、お忍びで。仮面舞踏会ってぇんですかね? みんなマスクでその立派なお顔を隠しになられて。ヘッヘッヘ」

「夫人には付き添いの人間がいるのか? あんたたちがお供できる場所じゃあなさそうだが」

「俺が乗せてたのは、いつも奥様一人でさ」

「中で落ち合う約束があったとか、聞いていたりは?」

「いいや、奥様はそこまではお話してくれなかったよ。中の様子も見れなかったし、いったり誰と何をしていたのやら!」

 芝居がかったその物言いに対してアリーシャがトビアス! と注意する。へへ、と笑いながらも肩をすくめるトビアスの様子は、どちらが年上だか、といったふうだ。

「サリア様が〈MAG〉に関心を持っていたのは、ご自分を慰めるためや、ヘンリクス様に対する反発という思いもあったのだと思います。はじめのうちは、きっとそういう思いが強かったはず。けど、最近は違うように見えました。〈MAG〉そのものに関心を強く持たれていましたし、それだけじゃなく、〈MAG〉がどのようにつくられているのか、〈MAG〉をつくっているのがどんな人なのか、そういうことにご興味をそそがれていました」

「その結果が、そのクラブへのお忍びだと?」

「きっと、サリア様にとって必要なものが、あったのでしょう。残念ながら私にはそこまではわかりませんけれど」

 そう言いながらアリーシャは「トビアス、あなたは?」と問うが、「御者はただ運ぶだけでさ、ご主人にどんなお考えがあろうが、いちいち考えやしねえ」と答えるだけだった。

「しかし、そのクラブには会員しか参加できないのなら、どうにかして俺も会員にならなきゃならないわけだ。その方法はあるのか?」

 あまり二人を当てにしているわけではなく、聞くだけ聞いてみただけなのだが、返ってきた意外な答えだった。

「心当たりならあります。サリア様が日ごろさら親しくしておいでのお方で、ドローテ・バウチ夫人と言います。事情を説明すればきっと協力してくれます」

 そう力強く答えるアリーシャに、ウィルはむしろ疑問を感じた。

「そんな相手がいるなら、どうして俺に頼る? はじめからその夫人を当てにすれば、こんな危険を冒す必要はなかったんじゃないのか?」

「ウィリアム様。ドローテ様が自ら動けないからこそ、こうやって私たちが無理をして動き、あなたにお願いをしているんです。このたびのことは、おそらくフィッツガンズ家周辺のものは誰もが公にしたくない、秘密のままに終わらせてしまいたいことなのです。屋敷中に、そういう空気が漂っています。フィッツガンズ家と交流があるほかの家の人たちも同じで、バウチ家としても、サリア様をお忍びでそのようなクラブにお誘いしていたことは伏せておきたいはず。それだけに、ヘンリクス様がウィリアム様を呼んだことは不思議なことではありますが……チャンスでもありました。呼ばれたのがウィリアム様でなければ、わたしたちもこのような場を設けようとしませんでした」

「俺がアンリアル小説の書き手、鬼火ことウィル・オ・ウィスプであり、ロンドンで名の知れた火消のウィル、だからか?」

「ええ……ウィリアム様の火消しとしてのご活躍は、たとえ噂にすぎなくても、私たちはそれにすがるしかありませんでしたから……それに、トビアスはあなたを信頼していいと、判断しました。こう見えて、トビアスの人を見る目は確かだと思っています。それに私も、ウィリアム様なら、と一目見て思いました」

 俺はそんなたいしたものじゃない、という言葉は呑み込んだ。仕事であるなしにかかわらず、信頼というものは得難いもので、自分から捨てるようなことをするべきではない。それが噂や風評が作り出した虚像だとしても。

 魔法を使わずとも、こうしたまやかしは人の心に簡単に生まれて、根付く。

「俺は魔法使いじゃない。小説の主人公でもない。不可能なことはある。俺が今ここにいるのは、あくまでヘンリクス卿から依頼を受けた仕事であって、君たちから聞いた話に、自分が応える保障はどこにもない。はじめから言っていることだし、その覚悟はあると、君の口からも聞いてはいるが、それでも、もう一度そう言っておく」

 アリーシャはただ、うなずいた。

「そのうえで言うが、俺は仕事というものを、依頼人からの報酬がすべてだとも思ってはいない。ヘンリクス卿にしても、彼には彼の、依頼内容とは別の思惑があるだろうしな。この仕事はきな臭いことばかりだ。常だよ、こんなことはな。依頼する側もされる側も、互いに互いを利用しあっている。細い信頼の糸をつなぐのは、報酬だけだ」

「俺には俺の思いがあり、そいつを仕事に乗っけることもある。今回は、やっかいなもんを背負ってるがな」

 ヘンリクスと交わした〈誓約ゲッシュ〉のことだ。

「はじめは危険な賭けをしにここに来ただけだった。一対一の危険な賭けだ。だが、賭けに来たのは俺だけじゃないことが、わかった。俺の勝ちが君たちの勝ちになるかどうか……ルーレットはすでに回り始めているな」

 ロンドンの景色が見えてきていた。アンリアルには優しくない、エーテル塵のもやに浮かぶ帝国の聖地が。野心の男はこの地を法をもって御さんとし、その妻はこの地の生み出した力に魅入られたまま帰ってこようとしない。ウィルもまた、この街との因縁を断ち切ることができないまま、こうしてここにいる。長い夜が明けようとしているが、一人の女性の夢が終わらない限り、彼女を慕うものたちの夜は終わりそうになさそうだ。

 

      2


 かつて、〈MAG〉は世界に平等に豊かさをもたらすはずのものだった。少なくともそうした願いが〈MAG〉には込められていた。大量生産が可能な誰にでも使える魔法の道具として研究され開発された〈MAG〉は、魔術を胡散臭い呪いや迷信の類から、筋道立てられた技術へと昇華した。そしてその基礎理論が公表された直後に資本家バーナード=クロウルがその可能性に着目し、マギテック・インダストリィ社を設立。〈MAG〉の生産・販売の先駆者となった。後に続けと大小さまざまな〈MAG〉関連の企業が誕生し、さまざまな種類の〈MAG〉が商品となった。魔術は実態のある道具として、売買の対象となったのだ。〈MAG〉を買えば誰もが魔法使いになれる。〈MAG〉にできることは言葉通りの魔術・魔法で、従来困難・不可能とされていたことを次々と実現していく力を持っていた。〈MAG〉はありとあらゆるものを丈夫に、柔軟に、美しくできる。既存のあらゆるものを強化エンハンスドさせ、拡張オーギュメンテッドさせることができる。〈MAG〉はこれまで人間の手に負えなかったものを自在に操る力を与えてくれる。〈MAG〉はこの世にそれまで存在しないものを生み出すことができる。夢を実現する装置。それが〈MAG〉だ。

 だが、誰もが同じように夢を叶えることはできなかった。その点で、〈MAG〉は人類の歴史を変えることはできていない。

 夢を叶えるのに必要なもの。要は金であり、権力であり、出自であり、暴力であった。いくら〈MAG〉がいくつも作られたとは言え、その数には限りがある。それに誰もが欲しがる夢の道具だ。それを優先的に手にできるのは自然、「上にいる者」「持てる者」になってゆく。その節理を覆す〈MAG〉には、ウィルはいまだお目にかかったことがない。

 しかし「持たざる者」であるこの国の貧困層、労働者階級は現実に甘んじてはいなかった。彼らのうち、低賃金で〈MAG〉の製造業に携わるものたちが、労働の中で身に着けた〈MAG〉の技術を生かし、雇われ先の大工場ではなく、下町の小さな工場で、自力で〈MAG〉を作り始めたのだ。もちろん技術は洗練されておらず、また素材は使い古して廃棄された〈MAG〉の再利用であったりといったありさまで、労働者階級の間では粗悪だが安価なそれらの〈MAG〉が出回ることになった。今ではそうした〈MAG〉はすべて〈JAG〉、つまりジャンク・〈MAG〉として〈MAG〉とは区別した違法の品とされている。


(未完)

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アンリアル(アーカイブ) 生坊 @tevasaki

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