エピローグ  時の枝

 数日後、時枝屋に藤田陣内がことの顛末を報告しに訪ねてきた。

 海堂、時枝屋が部屋に案内し、お浪がお茶をいれて出迎えた。

 でも話は海堂の思いがけない話から始まった。驚いたお浪の手が一瞬震えて茶が珍しくこぼれた。

「え、そんなこと私だって、聞いていませんよ?! まず、そういうことはわたしに言ってくれないと…」

「す、すまん。まだ決まったわけでもなくてのう…」

「そうですか、海堂様も…。寂しくなりますねえ」

「まだ詳しくは分かりません。七五郎から正式な老中さまの意向が降りてくれば、みんなにもきちんと挨拶に伺うことになりそうです。それで…?」

 お浪も時枝屋もすこし動揺していたが、陣内からの報告は喜ばしいものが多かった。白堂のお縄をきっかけに、賭博や脅しなどに奉行所が入り込み、浪人たちもおとなしくなり、町が穏やかさを取り戻しているというのだ。

「森村白堂は、ほかにもいろいろな件で奉行所に目をつけられていたのですが、裏付ける証拠もなく、もうさっそく牢屋にも大金が回っているようで、思ったより早く出てくるかもしれません。でも、金の鯱はかなり弱体化して、浪人の数も減っていますので、すぐに昔のようには動けないでしょう。なんと言っても張孔先生が、うまく浪士全体をまとめてくれていますので、すぐに危険なことにはならないでしょう」

「一度お礼に伺わないとな。張孔先生の本名はなんというのかな」

 すると時枝屋がさっと地図を取り出し、にこにこしながら解説した。

「お住まいはここ、軍学塾はこちら。張孔というのは、張孔館という先生の軍学塾からの名前で、本名は由井正雪ですな」

「ほほう、由井正雪と言うのか…」

 みんなでそんな話をしていると、時枝屋の庭に来客があった。一人は古くからの神社で音楽や舞いなどの芸能の取りまとめ役を務める、泉芳と呼ばれる河原者、お絹の年の離れた兄である。そしてもう一人は正式な巫女の衣装のお絹であった。

「海堂様。妹のお絹が長らく世話になりましてありがとうございます。お絹は我々の一族も深く関わっている神社の舞の巫女としてのお勤めが決まりましたので、今日であちらに移ります。最後にどうしても海堂様に一目会いたいと申すので…よろしいでしょうか」

なんでも巫女としての能力に目覚めた一族の女の大事な務めなのだという。お絹は兄を振り切ると突然海堂の大きな体にすがりついた。

「…すみません…ずっと海堂様の身の回りの世話をしたかった…本当です。私じゃないとだめだとずっと思っていたんです…でも、もうできなくなってしまって…」

「おれは水戸に帰っても、本当の家族はだれ一人いないのさ。小さな時から、親戚の間を転々とし、身寄りのない余計者だった。厄介ものと呼ばれないようにいつも、何を言われても笑ってやりすごしていた、そんな子ども時代だった。でも、短い間だったけれど、この時枝屋のみんなが自分のかけがいのない家族のように思えてね。特にお絹は身の回りの世話を毎日、毎日、誰も見ていないのに、本当によくやってくれたね。あと、何回も背中を流してもらったしな…。本当にありがとうよ」

「…海堂様…」

「でも…実は…」

 海堂も、一度仕事にけりがついて、水戸に帰ることになりそうだとお絹に告げた。そして、お絹の肩を一度強く抱きしめて、お別れをしたのだった。

 お絹は時々振り返っては名残惜しそうに、兄と一緒に時枝屋をあとにした。海堂はそのあと、釣竿を持って出かけ、日がな一日、静かに水面を眺めていたという…。


 そして、天の助は無傷で強豪力士に勝ち抜くと言う江戸相撲の黎明期の伝説を残してすぐに山に帰って行った。菊丸と黒獅子もその後二年ほど辻相撲にとどまるも、早々に実を退き、お浜の下で新しい歌舞伎の役者として鼻を咲かせる。そして、天海は江戸が穏やかになったのを見届け、三年後に死去。

 十年後には浪人の待遇改善を訴えて立ち上がった由井正雪が、密告により自刃となるが、彼の思いは幕府を動かし、その後取りつぶしが激減、浪人の他の藩への士官も、積極的に行われるようになった。犠牲を伴いながらも張孔先生は浪人の暮らしを守ったのであった。

 さらに八年後には辻相撲が、十二年後には若衆歌舞伎が幕府によって禁止される。

 そしてまたまた浪人の不満の爆発か、地霊の怒りか、十七年後には歴史に残る明暦の大火で江戸の大半が焼失。千代田城の天守閣も焼失。これを最後に再建されなくなる。あの白い街並みや大名屋敷の御成門も、三階櫓も失われた。女性の長く垂らした黒髪も、派手で大柄な着物や紫の足袋なども、質素倹約の声の下に無くなっていく。

 だが、廃墟の中から立ち上がった人々は、火に強い黒壁の街並みや、新しい流行を作り、現在のような歌舞伎や、人形浄瑠璃の新作、文学や学問、体制を整えた大相撲、浮世絵などの芸術など、江戸らしい江戸文化を作り上げて行ったのであった。だが、その文化の裏で自然とともに生き続けた一万年の都の文化、豊かさと厳しさを併せ持つ多様な精神、河原者たちの命がけの工夫は、さらに華やかに輝き、歴史の中に深く織り込まれていったのだった。

江戸に文化の花は咲く…。 (了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

辻相撲天の助 セイン葉山 @seinsein

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ