オレンジシティが待ち遠しい

秋色

オレンジシティが待ち遠しい

「ねえ看護師さん、今日もまたあの、向こうの丘の方、工事してたね」


 病室の窓から見える藍色の空には、もういくつかの星がまたたき始めていた。窓の外には海岸沿いの整備された町が広がり、その向こうに外国船が往き来する海が広がる。右手には山沿いに隣の街へ通じる大きな道路が走っていた。丘はこの山沿いにあり、今は薄暗くて見通せない。


「ごめんね、奈月さん。今日は忙しくてよく外を見てないの。病室を行ったり来たりで」


「そう。ね、知ってる? この病室には女の子の霊が出るって」


「何? コワ……。ここで亡くなった女の子かも」


「いいえ、ここで死んだ女のコなんかじゃないの」そっと声が潜められた。「あのコは生き霊よ」


「ホント? 私、怖がりだしここに勤めて初めての夜勤なんで、あんまりおどかさんでね」

看護師の陽気な声のトーンは、恐れている声とは程遠い。それでも「生き霊」という言葉には顔をしかめた。


「本当なの。視線を感じて、フッと下を見ると、ベッドの横の床に女の子がしゃがんでるみたいな影が見えるの」


「何それ。怖い……。ところでなんで生き霊って分かるの?」


「だってあのコは私の恋のライバルなの」

そう言って小さな身体を起こし、患者は肩をすくめた。


「知ってるコなの?」


「あのコ、私を恨んでるの。佐織さおりさんってクラスメート。何でか分かる? ホントは自分が恋の勝ち組なのに私に負けそうだと思ってるからよ。負け組は私なのにバッカみたいね」


「勝ち組? 負け組? 何だ??」


佐織さおりさん、同じクラスの和彦君のこと好きなの。……って言っても佐織さおりさんと和彦君は生まれた時からの婚約者同士。こっちは、母さんが和彦君ちのお手伝いさんしてるってだけなんだよ」


「生まれた時からの婚約者なんてあるんだー」


「ビックリでしょ? 今どき。だって佐織さおりさんてこの市の老舗百貨店大嶋屋の創業者のひ孫なんだもん」


「大嶋屋?」


「ええ、そうよ。ひょっとして知らないの? 大嶋屋百貨店ってこの市では絶対なのに。大切な人へのお祝いとか、ちゃんとしたプレゼントには、大嶋屋で買ったものでないといけないのよ、ここではね。それがルールなの」


「うわっ! ルールなんだ。守らないと?」


「恥をかくの。って言ってもこの地方だけのルール。東京へ家族で旅行に行った友達が大嶋屋探したけど、影も形もなかったって」


「ローカルルールなんやね。生き霊って聞いてゾッとしたけど、あんまり威力なさそうやね。中央に行けないんやもん」


「分かってないなー。でもここでは絶対的なんだってば」


「じゃ、なんでそんなに勝ち組なのに焦るん?」 


「それよ。どうして私と和彦君が親しくなったか知ってる? それにはオレンジ色のマフラーが関係してるの。でもまぁ、事の発端ほったんはうちの母さんが車の運転を出来た事から始まるの」


「和彦君の家でお手伝いさんをやってるってお母さん?」


「そうなの。母さんはお手伝いさんやってるだけあって家事の事なら何でもお手の物だけど、運転も上手いのよ。父さんの乗ってるトラックなんかもヒョイヒョイ移動させちゃう」


「そう。奈月さんの自慢のお母さんなんやね」


「そう。でね、和彦君ちは歯医者さんやってて忙しいからって、母さんが塾の送り迎えを頼まれたんだ。お給料もはずむからって」


「いい話やね。私も車好きだからそんなバイトがあったらやってみたい」


「でもね、その塾っていうのが遠いんだよ。有名な塾の地方校で隣町にあるから、行くのに車で40分もかかるの」


「片道40分? そして行き帰り?」


「そう。でもいったん帰るわけにもいかないから近くのすかいらーくで時間つぶすの。それで母さんは私にも一緒に乗れって言ってね。要は一人じゃ寂しいのかな」


「そうだろーね。車の中で40分、そして塾の間ファミレスで過ごすんならね」


「カーラジオ代わりみたい。まぁでもそうなの。私、昔からおしゃべりだもん。車では3人なんだけど、私、ずっとしゃべりっぱなし」


「そうやったん?」


「うん。母さんのカレーライスのジャガイモはサイコロの形だとか、最近図書館で読んだ騎士とお姫様の物語の本の事とか、近くの公園の木に銀杏ぎんなんってるとか。すかいらーくの中では割と静かなんだけどね。だってそこで宿題をしてるんだもん。ハンバーグやパフェを食べながら」


「なるほど」


「ある日、和彦くんは私に言ったのよ。車の中でなっちゃんの話聞くのがいつも楽しみだって」


「やるね」


「ふふ……」


「で、マフラーの話は?」


「私、小さい頃着てた古いオレンジ色のセーターをほどいてマフラーを編んだの。編み物、得意なんだ。ある晩、塾が終わって車に乗った和彦君が寒そうにしてたから、母さんが『なっちゃん、あんたのマフラー貸してあげたら?』って言ったの。私は自分の巻いてたマフラーを取って、和彦君の首に巻いてあげたのよ」


「まるで恋人同士やね」

 

「それが金曜日の夜で、次の週の月曜日の朝、和彦君がロッカーの前で、包みに入れたマフラーを私に返したんだ。包みには和彦君ちのママのクッキーも入っていたよ。で、周りの子達に見つかって、ヒューヒューとかはやしたてられた。やるう……とか」

 

「クラスの子はそうやろうね。ただ貸してたマフラーを返してくれただけなのに」


「それがね、そうでもなくって……。それ以来、教室で和彦クンが何気にこっちをチラチラ見てる気がするんだ」


「あらま」


「それで佐織さんはその頃扁桃腺炎で休んでたんだけど、治って学校に来るようになってから私を呼び出したの。きっと誰かから聞いたんだろうね。それで取り巻きの女の子が何人かいる前で、私に言ったの、和彦君にもう近付かないでって」


「こわっ! でも話聞く限りでは勝ち組どころかそのコ、負けそうやん。ドラマなんかでよくあるパターンでは、男の子の方が『婚約者というのは親が決めただけで僕は君が好きではない』とか言うよ」


「いやぁ、それはないと思うな。だって両親が話してるの、聞いた事があるの。和彦君ちの歯医者さんが入ってるビルは大嶋屋の持ってるもので、今度、目抜き通りの大嶋百貨店のすぐ側に大きな新しい歯科クリニックを建設する予定なんだって。それも大嶋屋が援助するんだって」


「ふーん…」


「別にね、和彦君ちがお金目当てだって言いたいわけじゃないの。ただ釣り合いってもんがあるでしょ? 和彦クンちはお坊っちゃまで、良い家柄の家よ。だから佐織さんと釣り合うの。うちは全然よ。小学校の低学年の頃、父さんやじいちゃんに言った事あるの。うちもお隣さんみたいに喫茶店やろうって。そしたらうちは代々、屑鉄でやってるんだって。せめて看板やドアだけでもオシャレななのにしようよって言ったら、あきれられちゃった」


「廃品回収とかリサイクルとか侮れないよ。けっこう儲かるんだから。従兄弟が副業でネットでリサイクル業始めたら結構収入になったみたい」


「うちはちょっと違うかな。昔は他にやれる事がなかったって言ってたから」


「そうなんかね」


「そうなの。悲しいけど私は和彦君みたいな王子とは釣り合わないようにできてるの。それに佐織さんってキレイなコよ。色白で顔の造りが小さくてお人形さんみたい。髪なんてサラサラよ。私みたいにジャガイモ顔じゃないよ。これで私が負け組だってわけが分かったでしょう?」


「負け組なんて言うって事は、こっちにも気があったって事かぁ」


「そりゃあそーよ。和彦君て、眼が澄み切ってるんだよ。いつか父さんと行った山奥の川の上流みたいに。それに優しいんだ」


「諦めなきゃ良かったのに」


「諦めるよ。そう決めたんだ」


 窓の外は藍色がいよいよ濃くなってきた。海の風景は寂しくなる一方で、逆に夕食を運ぶカートの音が聞こえ始めると、部屋の外はにわかに賑やかになってきた。



「私はね、看護師さん、本当に早くオレンジシティが完成してほしいんだ」


「オレンジシティ?」


「あの丘の方に今、工事してるでしょ? オレンジシティはね、百貨店でなく、大元がスーパーマーケット系なんだって。だから街の中も変わるんだよ。そこには東京で流行っているような安くてかわいいお洋服がいっぱい売られるらしいの。それにレモネードの専門店も入るんだって。今から楽しみ〜。工事が早く終わらないかな。わたし、工事の人を毎日心の中で応援してるくらいよ」


「そうなんだ。じゃあ早く元気にならないとね」


「そう。肺炎なんてこじらせてる場合じゃない。私、オレンジシティが出来たらきっと良い事があるような気がするんだ」



―――――――――――――――――


 翌日の朝は秋晴れで青空が広がっていた。夜勤明けで帰ろうとしている看護師の横を一台の車が通り過ぎようとして停まった。

「やあ、駅まで送るよ。僕も夜勤明けだからね」

 それは去年から勤務している研修医だった。


「あ、先生。お疲れ様です。では厚かましいですが甘えていいですか?」


「もちろん。駅の方だったよね? ついでじゃん」


「ありがとうございます。あれ、こっち通るんですね。オレンジシティのほう」


「よく知ってるね。地元じゃないのに。噂でも聞いたの?」


「ええ。つい昨日。病棟の患者さんからね。わあ、すごい瓦礫の山。工事中って感じ……。


あ、すみません。停まってもらえます? あんな所に誰かの落とし物が……」


「ああ、いいよ。でも何か見えたっけ?」


 彼女は車を出ると、秋の朝の陽光が射す中、瓦礫の中を探し始めた。


「昨日、聞いたからかな。一瞬、ここにオレンジ色のマフラーが落ちてるように見えたんやけど。あ、マフラーと違う。これ、小さな看板だったんだ。ずいぶん古びた看板だな。


それは色の褪せたオレンジ色の板で、以前は看板として使われていた物のようだった。


『オレンジシティへようこそ』


彼の女はその板を元の場所に置いて、車へと戻った。

「先生、ごめんなさい。送ってもらってるのに変なとこで停めてもらったりして」


「いや、いいけど。何かあった?」


「ん、ただの見間違いでした」


「どうした? 不思議そうな顔して」


「あの……オレンジシティって今から出来るわけじゃないんだ、と思って」


「当たり前。あ〜、地元じゃなきゃ知らないか? ここは昔、オレンジシティっていう、かなり流行ってたショッピングモールだったんだ。ずいぶん前の事だけどさ。それまで大嶋屋百貨店しかないような田舎町だったらしいからね。でもバブル以降三十年位ここはこんな状態。来年ようやく何か出来るらしいよ。IT大手のハートフルがここに高齢者向け介護付マンションとそれに連携した大型ショッピングモールを作るらしいね」


「昨日ね、特別室の患者さんと話したんです。オレンジシティがこれから出来るって勘違いしてました」


「あー認知症なんだよ。あのちっちゃなおばあさんだろ?」


「ん。認知症ですね。昔と今とを混同してるんです。話を否定せずに聞いてます。安全を守れる範囲でですけどね。人格を尊重しプライドを傷つけないようにするために」


「いい心がけだ。あの人も入院割と長いよね。奈月夏子さん。院長の母上だから、入院期間延長してもらえてるんだよ」


「え? 院長のお母さん? ……って事は元は……」


「元は院長夫人。奈月和彦元院長って知らんよな。親は小さな歯医者をやってたけど兄弟でこんな大きな病院にした長男の方だよ」


「へえ……。そうなんだ。あの、おばあちゃん、結局恋の勝者になったんだ」


「何? 一人で笑って」


「何でもない。ただおばあちゃんにも、きっとステキな未来が待ち遠しかった頃があったんだなと思って」


「誰でも未来は待ち遠しいよ。いつだってさ」

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