月がきれいなこんな日に

テルミ

月がきれいなこんな日に


 車窓から外に目を向けてみると、月が出ていた。

 それは精巧に磨かれて作られたビー玉のような丸ではなく、半月とまではいかずとも欠けているよう。

 それでも僕にとってはただただ美しくて、宝石のように見えた。

 美しさのせいか、はたまたソレに魅せられたのか、連想させられる言葉をつい口に出してしまう。


「月がきれいですね」


 言うと、隣の先輩も携帯から目を離して車窓越しにそれを見つめ、僕を見つめ、呆れを含んだ笑みを浮かべる。お気に召さなかったのだろうか。

 吸い込まれてしまいそうなくらいに大きな瞳に覗かれた僕の瞳は多分、先輩にくぎ付けだった。


「そういうの、誤解されるから言わない方がいいと思うの」


 まあ、たしかにきれいだけど。視線を落とし指をいじる先輩は困っているようだった。

 いや、困っているというよりはなにかを思案しているような。あの人が指をいじるときは決まって、何か考え事をしている時だと知っていたから。

 すみません、と謝ることはしなかった。そうしてしまったら最後、僕の気持ちすべてを否定してしまいそうだったから。

 多分僕は、先輩のことが好きなんだろうと思う。これというきっかけがあったわけではない。

 隣に居てくれることがうれしくて、くだらない話で笑ってくれると心が躍って、悶々と僕の中を巡るこの感情に名前を付けるとするならば多分それは恋なのだろうと、そう思ったから。

 そんな僕のことを気にもかけずに最終列車は止まることを知らず走り続ける。足踏みばかりしている僕とは正反対で、急かされているような思いがした。


「君は次の駅だったっけ」

「いえ、その次です。先輩はたしか……もっと先ですよね」

「うん。ずっとずっと先」


 好きと意識してしまってからはどうしてか、会話が続かない。途切れ途切れの会話を埋めるように時計を確認してみたり姿勢を正してみせたりもするけれど、そんなことで埋まるはずがなかった。

 むしろ、ふたりの距離は1ミリずつ離れていってしまっているような、そんなことさえ感じさせられる。

 先輩と電車に乗るたびにかられる焦燥感は僕をより臆病にした。

 また明日。どうして僕たちは明日も明後日もその先も、あたり前のように会えるものだと思ってこの言葉を交わしてしまうのだろう。

 そんな保証はどこを探しても見つからない。見つけられなかった。

 後悔はしたくない。

 想いを伝えよう。先輩が隣に座るたび僕は決心するけれど、それが来るべき別れの日をはやめてしまうのではないかなんて思って、伝えられないでいる。

 なのに、それなのに。


「さっきの言葉が僕の本心だとしたら先輩は、どうしますか?」


 どうして今日の僕はこんなことを言ってしまったのだろう。

 煌々と輝く月の魔力のせいか、ひときわ大きく揺れた電車に背中を押されたような気がしたせいか。

 先輩の指は固まっていた。この一瞬のようにも永遠のようにも感じられる時間が早く過ぎて欲しいとも、終わらないでほしいとも思えた。

 沈黙の空間がうるさい。僕の心臓はなにかに握られているようで、時計の針が進むたびに締め付けられていく。

 大きな瞳はこちらではなく、明後日の方向でもなく、今を見つめているようだった。


「別に……嫌じゃないよ」


 至福という言葉を僕は使ったためしがなかったけれど、おそらく、今この時のことを指すのだろうと理解した。それは頭でではなく、心で、全身で。

 好きともうれしいとも言われたわけではない。けれど、ソレは僕を救うには十分すぎるくらいの言葉だった。


「じゃ、じゃあせんぱ――」

「待って、今ここでは、言わないで」


 先輩の指が僕に触れる、それだけで僕は全身が固まり、続く言葉も出せず、ただただ肺の空気を喉から吐き出すことしかできなかった。

 僕に呼応するようにして電車が止まる。僕の背中を押すこともなく、月もホームに隠され雲隠れ。先輩の隣に座る僕はひとりになると結局、何もできないのだろうか。

 先輩も恐れているのだろうか。けれど僕のソレとは違い、変わってしまうことに。やはり言わない方が、踏み出さない方が良かったのだろうか。

 停滞と現状維持は似て非なるものだと思う。僕は先輩との停滞した関係を変えていきたかったけれど、先輩は違うのかもしれない。今が最良で、現状を維持することが最適解であると思っているのかも。

 それが正解かどうかはわからない。けれどこれだけはわかる。間違いではないということだけは。

 そこに僕は不用意にも土足で踏み込んだ。笑顔の消えた先輩に僕は、どう映っているのだろう。

 けたたましい発車メロディとともに電車は動き出す。けれど、僕の心にはいつまでもブレーキがかかっていて、また置いて行かれるような、そんな気がした。


「ねえ、いつからなの?」


 僕にしか聞こえないくらいの声で投げかけられた言葉に返す返事はすぐに思い浮かず、真似たわけではないけれど指をいじって、思案した。


「気づいたらその、好きになってました」

「私、多分君が思っているような人間じゃないよ?」


 否定したい気持ちはあふれるほどに湧くけれど、それもまた言葉には出せない。心が体を追い越して、抜け殻になった僕だけがここに居るみたいだ。

 ホームを抜け住宅街を抜けると、月あかりはまぶしいくらいに僕たちを照らした。その欠けている月はなんとなく先輩に似ているような気がして、気付いたら口が動いていた。


「先輩は自分のことが欠けていると言いました。僕は、僕は先輩のすべてを知っているわけではありません。でも、それでも――」


 僕の目には美しく映りましたし、それを信じてやみません。

 僕がそう思ったからなんて、本当に自分勝手。そう思いながらも伝えたいと、伝えなければと思って、心に追いつけるくらいに僕の身体は走り出した。

 また、大きな瞳がこちらを見つける。逸らすことも吸い込まれることもせず、僕は僕の意思で彼女を見つめ返す。

 変わる日々をあなたの隣で、歩きたかったから。

 先輩のこんな顔を見たのは初めてだった。笑顔でもなく、あきれ顔でもなく、僕の知っている言葉では表せられないような。美しくて、愛おしい表情。

 うるむ瞳は星空を閉じ込めたようにきれいで、けれどその涙の理由を僕は知らなくて、感情が洪水のように心へ流れ込む。


「せん……ぱい?」

「あぁ、えっとその……そこまで言ってくれたのは君が初めてで、よくわからなくて……うれしいのに止まらなくて、ごめんね」


 先輩の泣いた顔を見たのも、これが初めてだった。零れ落ちたそれは僕の手の甲を伝い滴り落ちる。冷たいものだと思っていた涙は熱くて、溢れた感情が零れ落ちているようにも見える。


「ありがとう」

「いえ、僕のセリフですよ。それは」


 瞳を輝かせながら笑った先輩のあの表情を僕は、一生忘れないだろう。

 

   *      *      *      *      *

 

「月、きれいだね」


 しばらく続いた沈黙を裂いたのは先輩で、僕も同じく車窓からソレを覗き込む。


「誤解されるんじゃなかったんじゃないですか?」

「えぇ?この気持ちは誤解なの?」


 いつもとは違った関係の僕と先輩が、いつもの笑みを浮かべる。

 僕の思う世界で一番美しいものを、人をこんなに近くで見ることができて、しかもそれは僕だけに向けられたものだなんて、僕はなんて幸せなんだろう。

 今日の僕は間違いなく、世界で一番の幸せ者だった。


「それでは、お先に失礼します」

「えぇ」


 開いたドアに向かって僕は歩みを進めて、こう交わした。

 保証はどこを探しても見つからないけれど、今はそれを信じてやまないから。

 ――また明日、と。

 

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