【下】

 ログアウトにまつわる注意事項は申請時にマニュアルをもらえるし、そんなものがなくてもインターネットにたくさんの情報があふれている。

 立つ鳥跡を濁さず。そんな常識がログアウト希望者に求められるのはどこかおかしみがある。もう社会からいなくなるのに世間体や他人のことを慮るなんて。

 だが親しい人にログアウトの事実を告げないのはいささか不義理な気もする。申請の翌日、手始めに大事な話があると以前二人で行った居酒屋に呼び出した。

 適当に注文して、飲み物が来た後、ログアウトすることを告げる。

「なんで?」

 こわばった表情の彼の口から単純な疑問が零れる。改めて見ると特になんてことない顔だ。不細工というほどでも二枚目というほどでもない。私が彼を好きだと思っていることはとてつもなく不思議なことのように思えた。逆はもっとそうだ。

「なんでと言われても……。まあ強いて言うならめんどくさくなったからかな」

「え、あんま意味わかんないだけど。俺が嫌いになったとかそういうことなの」

「そういう意味はないよ。克洋のことは好きだよ。いや、そりゃまあ直してほしい細かいことや石油王だったらいいなとかありえないことをあげれば言いたいことはまああるけど、別に何かそういう不満があって別れたいとか嫌いになったとかそういうことじゃないから。ただなんかもう三十二まで生きてめんどうになったの」

「めんどうってなんだよ。別れるとかそうじゃないならログアウトなんてますます意味が」

 私はためいきをついた。理解されない不遇を嘆くのは幼稚なことだが、それくらいのことは許してほしかった。くぴりとハイボールでのどをうるおす。

「じゃあ克洋が私を養ってくるの?」

「結婚ってことか?」

「まあ結婚してもいいけど養うってのは、私は何もしないってことだよ。主婦とか共働きみたいなことはしない。ニートして自分の好きなようにだらだらするだけ。克洋はそんな私が生存するためのコスト払うだけ。それでいいならいいけど無理でしょ」

「言ってることめちゃくちゃじゃん」

「そうだよめちゃくちゃだよ。生きるってのは本当にコストのかかる大変なことで、それだけでとてつもない労力が必要で、私はそういう苦労をして生きるを維持するのに疲れちゃったんだよ。もうめんどくさい。そんな苦労をするくらいならもう生きるをしなくていい。それが答えだよ」

 めんどくさいめんどくさいめんどくさい。望まれて生まれてきたのかもしれないが、望んで生まれたわけではなかった。気づいたら生きてしまっていたのだ。なんてひどい詐欺だ。悪辣にもほどがある。最初から生きないという選択肢は与えられなかった。生が所与の前提としてあるからこそ、人は生きていることをありがたがる。だがそれは現状を追認して己を肯定しようとしているにすぎない。狐のように欠落した選択肢に貶め、己を慰めているのだ。

 みじめだった。生きるを握りしめられない私の慰撫はみじめだった。

「やっぱわかんないよ。だけど俺だっているし、俺じゃなくても他にも誰かいるだろ。そりゃ美奈のいうみたいに養うとかはできないけどさ、それでも一緒にいるならできるよ。それじゃだめなのかよ」

 ああ。とくちびるから笑みがこぼれる。太陽みたいに明るくてまっすぐで。その陽光に惹かれたのだと再確認する。再確認して、まぶしすぎて、目を閉じれば真っ暗だ。

 私はまぶしさにすっと目を細めた。

「だめだよ」




   ××××




 私は学んだ。ログアウトをいちいち告知するべきじゃない。マニュアルなんてくそくらえだ。陽の当たる場所からまたとやかく言われるとめんどうが増すばかりだ。

 両親や友人にはログアウトを告げないことにし、私はログアウト後の雑務の処理を専門業者に依頼した。

 担当は愛想のよい中年男性で、中里と名乗った。彼は私が思い至っていなかった細かい点までテキパキと段取りを進めてくれた。私が終わることに付随して社会が回るというのは、まあ悪くないことだなと思った。

「最後に何かするんですか?」

「んー、別に何も考えてないんですけど、他の人は何してるんですかね」

「旅行とか寄付とか。後はギャンブルや風俗なんても結構ありましたね。自分の銅像を建てた人もいたなあ」

「みんな元気ですね」

 意外と活動的だった。それならログアウトしなければいいのに、なんて他人事だから思うが、そういう問題じゃないことはわかっていた。

「中里さんは今したいことって何かありますか」

「そうだなあ、連休に温泉に行きたいですね」

「それはいいですね。私も温泉行こうかな。旅館に泊まっちゃって」

 こうして私は温泉旅館に泊まることにした。善は急げだ。私の人生の終わりはもうすぐそこなのだ。無事に退職できた翌々日、私は新幹線に飛び乗り、有名な温泉旅館に泊まることにした。

 流石は温泉旅館、至れり尽くせりで料理はどれも美味しく、これが贅沢というやつなのだなと笑った。これで贅沢だと立ち止まる己を嗤った。私はここまでしか届かなかった。それでもういい。追加で頼んだ日本酒をたしなむ和室はひとりでは少し広すぎて、でももうそれでよかった。

 夕食を終えてから少し間をおき、待望の温泉につかる。つかってから別に待ってないなと内心で笑う。あたたかい。ほどよくゆるんだ脳みそで、こういうのいいなあと思う。もうずっとこれでいいのに。だらだらと何もせずに、好きなことだけのんびり摂取していたい。別にそれなら生きていてもいいのに。きっと多くの人はこのゆるやかな時間で心身を整えて現実と社会に立ち向かっていくのだろう。だけど私はそこまでじゃなかった。こう在れないなら、やはり生きることは手間がかかりすぎる。めんどうなんだ。

「あー」

 声を出してみた。何も変わらない。浴場から上がると立ちくらみに襲われ、世界が暗転し、消失し、ふわふわする。手すりをつかんでなんとか現実感を維持し、帰還する。ほら、やっぱり。私はもう終わりでいいや。




   ××××




 長々と語るべきことなど何かを語りたくてしかたなかったが、やはりそんなことをする必要はないのだろう。

「あー」

 これで十分だ。

 ログアウト当日の朝、喜びや悲しみが襲いかかってくるかなとひそかに予想していたのだが、私の感情が波打つことはなかった。

 いつもどおりにトーストとヨーグルトに紅茶をつける。味気ない朝食だ。思い切ってステーキでも食べればよかったかもしれない。ちょっとだけ後悔する。だが実際にそんな重たいものを朝から食べると胃がもたれてしまうだろう。これでよかったのかもしれない。

 今日で終わる。思えば平坦な道のりだった。けれどもその道中で幾度となくつまずいた。先なんて全く見えなかった。私はすっかりくたびれてしまった。

 ログアウトを行うセンターにて、最終的な説明と意思確認を受け、同意書に署名する。

 これで私のログアウトが確定した。

 同意書を受け取った青年の職員が言う。

「おつかれさまでした」

 それは職員としては必ずしも適切ではなかったかもしれない。けれども私にとっては最も腑に落ちる言葉だった。そう、私は疲弊するほど十分生きてきたのだ。そりゃあ他の人からすれば大したことなくて、どうしてと責めたくなるようなものかもしれない。だけど私は本当にこれ以上生きるのがめんどうで、心底休ませてほしいのだ。

 私は最後に職員へありがとうございますと微笑み、処置室へと向かった。

 こうして私は死ぬ。これで終わりだ。

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めんどくさいから死ぬことにした ささやか @sasayaka

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