めんどくさいから死ぬことにした

ささやか

【上】

 火曜日午後八時、残業を終え帰宅した私に去来したのは、これから晩御飯つくって食べるのめんどくさいなーという至極まっとうな感情だった。

 仕事着から部屋着にきがえ、メイク落としはお風呂に後回しして、それでも晩御飯はつくらなければ存在しない。私がつくるしかない。レトルト食品で手抜きもあるにはあるが、冷蔵庫に入った豚バラ肉はそろそろ時間がリミットで今日加熱しないとアウト感が半端ない。私がやるしかない。

 冷蔵庫の駆動音が微かに響く1DKはおぞましいほど孤独で、私はたまらずラジオの電源を入れた。野球中継をするアナウンサー。聞いても何がどうなったのかさっぱりわからない。野球なんて興味なかったが、さっきよりまだマシだと思えた。息をはく。他の番組に変えようかと手をのばすが、むなしくなる。変えてそれでだから何が変わるというのか。そりゃあラジオから流れる音は変わるだろう。だけど変わらない。私が、今、ここで、晩御飯をつくることすらしんどくて、息をすうことすら億劫で、何もしたくないくらい何もしたくないってことは、何も変わらないのだ。

 ああ、豚バラ肉。休みたかった。人間を休みたい。休めない。生きることは休めない。だらだらと続く惰性が人生と呼ばれやがっていい迷惑だった。間違っている。何が間違っているかは知らないが間違っていることは絶対だ。ただ生きているだけでもやらなければならないことが山積みで、私はいつだってそれにつまずいてきた。もういやだ、うんざりだ、私はやらなければならないことをやらなければならないことにたえられない。何もかも投げ捨ててやめてしまいたかった。

「めんどうだなあ」

 濁った泥沼から両の手で救い上げた言葉は、その汚泥そのもので、元からそこにあったものでしかなかった。

 めんどうだった。全てがめんどうだった。全てなんて大きな言葉でくくれるほどありとあらゆるものを精査したわけではなかったけれど、いちいち精査しようなんて微塵も思えなくて、つまりめんどうだった。

 やめてしまおう。腐った果実が落下する。地面に落ちて無意味をなす。ラジオから聞こえる木嶋選手の今シーズン初ホームランが私の諦念を後押しする。ああ、もうめんどうだ。

 人生がめんどくさくなり、死ぬことにした夜、それでも豚バラ肉は加熱調理され、私の胃袋におさまる。死のうとしてなお豚バラ肉を惜しむ自分の矮小さは、それなりの味がした。




   ××××




 翌々日、私は有給休暇を使うことに微妙な罪悪感を抱えつつ、市役所に向かった。最近では多くの手続がインターネットで行えるというのに、ログアウトの手続はちゃんと市役所にいかなければならない。平日の午前中だというのに市役所ではたくさんの人間が真面目な顔をして窓口の順番を待っていた。

 ログアウトが正式に制度化したのはわりと前で、倫理や手続などの諸問題を乗り越え、いまや自発的に死を選ぶことが社会の一部として組み込まれている。

 ログアウトという名前は単なる俗称で、本当はいかにもいかにもした正式名称があるのだがよく覚えていない。だいたいログアウトだとかシャットダウンだとかお手軽な感じに呼ばれている。ようするに生きるのをやめることができるってことで、これにポップでキャッチーな名前をつけることは、死が軽くなることを意味していて、まあ悪くないことだと思う。生きるも軽いのだから、等しく死ぬも軽いはずだ。

 案内板を確認し、ログアウトの申請を市民課で行うことを理解する。四十二番。それが私に与えられた数字だった。

 さほど時間はかからないだろういう予想は結果として外れることになった。一つの窓口で中年の男性が大きな声でなんとかしろなんとかしろと大声でわめいてねばっているのだ。私はリアルではじめて公僕という単語を聞いた。

 すごいなあ。もはや感心する。きっとこの彼はめんどくさいから人生をやめようなんて思いもせず、我が物顔で社会を闊歩してきたのだろう。何かを押しのけてまで居座ろうとする、自分の正しさを通そうとする。それはきっと世間では嫌な顔をされるのだろうが、しかし同時にかくあれと望まれるものだ。燃え盛る生の熱がそこにあった。

 だけど私にはそこまでのものがなかった。別にいい。私はもういい。生まれてこなければよかったとまでは思わないが、別に生まれてこなくてもよかった。その程度だった。そして今くすぶる火種にそっとふたをかぶせようとしている。

 四十二番が呼ばれた。窓口の職員はふくよかな男性で、あんパンとかよく食べていそうだなとどうでもいいことを思った。

 私がログアウトを申請したいと告げると、職員は真面目な顔で終わるための申請手続について丁寧に教えてくれた。

 ああ、死ねるんだなとは思わなかった。これでやっと休めると思った。生きることは常にどこかに進むことで、だけど私はここでとまることを選んだ。選んだのだ。私は生まれてはじめてちゃんと選べたような気がした。

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