怠惰の悪魔「魔法の鏡作って人間界を地獄にする」

神夏磯媛

第1話

 二元論。善悪や魂魄、主体と客体のように相反する二つの概念、原理。天上の楽園があれば、地の底の、ジメジメとした死者の国がある。神のみ使いがいれば、神に背く悪魔もいる。このお話はそんな、秩序や善といった概念から最も遠い存在の他愛ない、いたずらによって始まる。

 

  悪魔のお話

 

 その悪魔は、自らの最高傑作の出来に、にたにたといやらしくわらっていた。数多いる悪魔の中でも、一際忌み嫌われる七匹の悪魔。怠惰の罪を背負うとされるベルフェゴール。悪魔たちは人々を堕落させ、神や、神のみ使いを困らせることにご執心であった。その日ベルフェゴールが作った魔法の手鏡も、人の世をうまく混乱させられそうな上等の出来で、彼はそれを、今すぐにでも人間界に持ち込みたいとうずうずしていた。けれど、人知れず人間界を混乱させてしまっては、誰の仕業か明らかではない。来たる華々しい功績の証明のためベルフェゴールはまず、他の悪魔たちに自分の最高傑作を自慢して廻ることにした。

「見よ、この美しい手鏡を。人間はこの逸品の内に、自らの醜悪さ、狡猾さ、下品さを見る。そして、人の世の偽りに気付き、あっちゅうまに人間界は地獄と化すというわけさ」

 ベルフェゴールの演説に、陰気な悪魔たちは口々にいった。

「ふうん。つまらないね。俺なら手鏡じゃなくて、小銃にするよ。手にすると、友人や親兄弟、大事な人を撃ちたくてたまらなくなってちまう、呪いの小銃だ」

「俺は竪琴にするよ。その音色を聴くとみんな、みだらな原始人になっちまうんだ。えらい政治家や賢者だって、誰も太刀打ちできないね」

 地獄を一回りしても、ベルフェゴールの手鏡を誉める悪魔などただの一匹もいない。次第につまらなくなったベルフェゴールは、手鏡など、と思って奈落の底へそれを破棄した。そして、手鏡のことなどすっかり忘れたベルフェゴールは、新たないたずらの計画を考えることで、頭がいっぱいになった。

 

 さて、ベルフェゴールの破棄した魔法の手鏡。本来なら、人間界とは縁を持つことなく、このお話はこれで終わりとなる。しかし、魔法の手鏡は傲慢だった。出来のよさに自信があった。生みの親がごみ同然と棄てた鏡は、自らの意思で人間界を目指すことにしたのだ。そして手鏡は、はるかな時を経て、とあるの寒村へ辿り着いた。

 

  私のお話

 

 雪が降り、街は白化粧。雪絨毯の上を踊る月明かりが、景色をほのかに明るくさせる。馬車や雑踏の面影はどこにも見当たらない。真新しい、誰も見たことのない街が、私だけの世界が広がっているような錯覚が、冬の夜にある。

 丘の上の、もみの木を目指す。いつのまにか、雪はやんでいた。あたりは静寂に包まれている。歩を進めるたび、感触が心地いい。私以外の足跡は見当たらなかった。

 秋、夏、春と遡る記憶。私をおいていなくなった、彼の記憶。あの冬、彼はこの街を去った。心やさしかった彼はある日を境に、疑心と狂気、驕慢にとらわれた。美しさや優しさ、愛や絆を失い、独りよがりな虚妄に溺れたのだ。

 彼の豹変は街中を騒がせ、誰もが彼を、悪魔に憑かれたと噂した。神父様の説教空しく、彼の心が悪魔の誘惑から解放されるまえに、彼は街から姿を消してしまった。

 季節は巡る。彼のいないこの一年は驚くほど早く、私はそのほとんどを悲しみの中で過ごしていた。街の人たちはみんな、彼は死んだのだという。悪魔に抵抗する彼の本心が、自ら死ぬことを選んだのだと。そんな慰みの言葉で、私の傷ついた心が癒えることはなかった。むしろ、そんな空虚な言葉の数々は、私の傷を抉るばかりだった。

 そんな折、私のもとにたよりが届いた。もみの木のもとで会おう。それぽっちのたよりに、私は彼との再会を予感し、歓喜した。彼が帰ってくる。彼は生きている。きっと以前の、心優しい彼が。

 丘の手前までくる。足取りは軽く、歩ははやる。もうすぐ彼に会える。

 一段飛ばしで階段を上る。もみの木が見えてくる。ふと、もみの木の根もと、きらきらとひかる何かを捉える。近づくにつれ何かは、雪よりも白い少女の姿であることに、私は気付いた。

「あなたは」

 少女は私を見ると、そういった。

 周りの雪さえ濁って見えるほどの白。彼女は、触れてしまえば溶けてしまう、粉雪のような繊細な声をしていた。

「あなたは彼の、友人ね」

 うなづく。少女は私の顔を見て、悲しそうな顔をする。

「ごめんなさい、彼はここにはいないわ」

 少女の言葉を繰り返す。彼は、いない。いない。

 私は泣いた。泣いていた。何故か涙を堪えることができなかった。目の前の少女は、突然泣き出した私を見て慌てる。無理もない。ついに立っていられなくなって、私はその場で崩れ落ちた。

 うずくまって鼻をすすっていると、背中に温もりを感じる。

「どうか泣かないでください。わたしは、あなたを悲しませるために、あなたを呼んだのではありません」

 少女は優しい声でいった。

「あなたには、彼を助ける手伝いをしてほしいのです」


  天使のお話


 散乱した大量の書類と段ボールに埋もれて眠る一人の天使。彼はここ七〇〇年ほど、魔王ベルフェゴールの作ったとされる手鏡について調査していた。手鏡がベルフェゴールの手を離れたのがおよそ三〇〇〇年前。以来、その行方は明らかではなかった。もともと、ベルフェゴール自身の手によって破棄された品だったこともあり、その脅威評価は高いとはいえなかった。

 彼がその手鏡の調査を始めたのには理由があった。天界での評価が低いとはいえ、主がこの世界を作って以来、天界の監視の目を盗んで二〇〇〇年ものあいだ行方をくらませていたこの魔法品に対して、その潜在的な脅威を危惧したからだ。

 悪魔という連中は、天使とはまるっきりその性質を異にする。彼は手鏡がベルフェゴールの意図するところを離れ、それがベルフェゴール自身の想定する性能すらも逸脱している可能性を考えたのだった。しかし天界という場所は、彼のような考え方を好ましく思わないものが多い。偉大なる初代天使長の末路に、神のみ使いという天使らしい在り方への異常なまでの固執や、同調圧力のようなものがある。主の意向を素直に、深読みせず、直ちに実行する。主は手鏡についてのお考えを、天界に示していない。主が望まぬ限り、如何に手鏡の潜在的な脅威が大きかろうと、主がそのお考えを示すまで、天使が動くべきではないと考えているのだ。

 彼は思う。この「天使は主の御心のままに動き、それ以上もそれ以下もするべきではない」という立場、思想、それ自体が、神の御心を逸脱した、天使の身勝手な解釈である、と。天地創造以来、主がそのようなお考えを天使に示したことはない。彼は、自分のやっていることが主の御心に反するのであれば、その時自分に罰を下すのも主ただひとりであると、そう考えた。以来七〇〇年間、彼はこの手鏡の調査を続けていた。

 手鏡の仕様は、早い段階で粗方明らかとなった。事前の調査や、ベルフェゴール自身への任意聴取によって、七年ほどで同じ仕様の手鏡の贋作をつくることに成功し、その性能を把握した。得られた結果は、彼の想像していたビジョンが、彼の想像以上に現実な脅威であるとということだった。件の手鏡は自我を形成し、三界の全ての目を欺き、二〇〇〇年という時間を現在まで、潜伏しているというのだ。

 彼の報告書は天界を騒がせた。ただしそれは、生命の禁忌を理由に立件できた場合、天界裁判で第四魔王をコキュートス送りにできるかもしれない、という天界(特に教会)の意向があったであった。天使たちの間では相変わらず、消極的な見方が大半を占めていた。報告書を提出して以来、彼の元に教会から一人の聖人が派遣された。魔王の一角を捕らえられるかもしれないこの好機に、彼らは悪魔祓いの専門家を用意したのだ。

 それからおよそ七〇〇年……。


「先輩、またこんなところで」

 眠い目をこすり、書類の山を左腕で支えながら、教会から出向してきた聖女を見る。

「仕方がないだろう。奴さんの反応があってまだ間もないんだ」

 この数百年、天界の数多の派閥と手を替え品を替え折り合いをつけながら、姿の見えない敵と戦っていた。この、良くも悪くも腹の読めない女とともに。

「例の寒村ですけど、ウチの守護聖人や神父からはまだ報告ないです。まだ半年です。あれだけ長い間、尾っぽも見せず隠れてた用心深さの塊がやっと重い腰を上げたんです。今回だって、充分時間をかけて動くんじゃないか、と思いますけどね」

「いや、逆だろう。あいつになにか思惑があるなら、早急にことを成すはずだ。小さな変化も見過ごせない。我々の方が後手に回っているということを忘れてはならない」

「なら、こんなところで居眠りしないでくださいよ」

 そういって悪魔祓いの聖女は、私の背に毛布を掛けた。確かに、彼女のいう通りだ。今は、寝る間も惜しい。

「ウチからの報告はなかったですけど、あなたのところの、守護天使からは一つ、興味深い報告があります」

「なんだ。早くそれを言いなさいよ」

「いえ、興味深いというか、そもそも本件と関係があるのか。雪の女王が、彼女と接触したとの話で」


  私のお話-二


 朝が来て、私は窓を開く。彼は私の家の隣に住んでいて、私の部屋と彼の部屋は、窓向かいになっていた。だからこの一年、私がこの窓を開くことはなかった。今私の眼前には、彼がいた。

「おはよう」

 と声を掛ける。また、不機嫌そうな返事が返ってくるのでは、そんな気懸りも。

「おはよう。いい天気だね」

 そんな、なんてことのないただの挨拶で全部、嘘みたいに消えて無くなった。


 昨日の晩、私は雪の女王と名乗る少女と出会った。彼女は、彼の豹変の原因が悪魔の手鏡によるものだといった。だから私は、彼の部屋へ忍び込み、彼の枕の裏にあったその手鏡を叩き割った。そうすれば、彼は戻ってくると、雪の女王が言ったからだ。

 雪の見せた幻は、私の大切な平穏を取り返してくれた。もしかしたら私は今まで、悪い夢を見ていたのかもしれない。永遠に続くような、永遠に続いて欲しいこの平穏。朝が来て、彼と笑顔の挨拶を交わして、昼は二人でどこかへ遊びに行き、晩食は別だけど、夜、眠る前にはまたおやすみと言って、時々、夢の中でどこか遠い国へ二人で旅をする。そんな毎日が、彼が、帰ってきた。


 ある日また、たよりがあった。街の教会からだった。手鏡がどうとかという内容だったけれど、あの手鏡は私が破壊した。今更手鏡の話をされても、私も困る。だから、たよりは暖炉の火に焚べた。


 ある晩の夢。街の守護天使さまが現れた。彼のことを話していたような気がするけれど、さて、どんな夢だっただろう。きっと、帰ってきた彼のことを、祝福してくれていたのだろう。


 相変わらず、雪の女王はこの街にいた。時々、街ですれ違っては、何か捜し物をしているようだった。彼女は私の恩人だから、力になれることがあれば、協力したいと思う。けれど、いつまで経っても春が来ないのはきっと彼女の所為だから、早く街を去って欲しいという気持ちも、少しあった。


 最近、彼の様子がまたおかしくなっている気がする。以前のような意地悪な変化ではない。どこか、あの雪の女王に近いような。気の所為だろう。


  彼のお話


 レヴィア。彼女を、毎晩夢に見る。


 一体、僕は誰だろう。そんな疑問が、頭にこびりついて離れない。時々、自分が自分でないような感覚に陥ることがある。そもそも、僕は何かであったのかさえ、疑問に思うこともあった。

 彼女は相変わらず、僕に優しく接してくれる。彼女と過ごしている時は、不安を忘れていられる。僕が誰なのかは、彼女が教えてくれる。彼女は永遠だ。僕は永遠に、僕であり続けるために、彼女を求める。


  手鏡のお話


 首尾は上々。あの嫌な改悪品には成し得なかったことだ。私はこうして、あの粗悪品には手に入れられなかったものを手に入れた。

 そもそも、何かを成し得るためにはまず、一番硬いところを叩くことが重要なのだ。伊達に三〇〇〇年、生きていないぞ、私は。

 親父には悪いが、この調子なら、迷惑をかけることもないだろう。阿呆な天使どもに、私の崇高な企みが理解できるはずもない。これは、天使でも悪魔でも、まして人間でもない私だからこそ達成することができた偉業なのだ。永遠に、私だけの功績だ。

 しかし、腑に落ちないことも一つある。あの女のことだ。あの女の目的はなんだ。少なくとも、私の仕事を妨害するつもりでいるわけではないらしい。あれから五〇〇年、傍観に徹してきっている。不安だ。不安だから、排除しよう。排除しなくてはならない。あの女を、不安を、この世界から排除しよう。


  聖女のお話


 管轄の守護聖人をバイパスに、手鏡がつくった世界(以降、鏡世界と呼称する)への侵入を試みる。贋作の手鏡を使って何度か試した甲斐あって、鏡世界へは比較的簡単にアクセスできた。

 

 鏡世界へ到着後、私は教会や丘の広場、街の主要な施設を確認して廻った。結果、鏡世界が件の寒村を完全に模倣して作られていた、ということが明らかになった。現実と異なっていたのは、街の外が存在しないことと、日が変わると、時計の針が前日に戻る、といことだけだ。これだけの世界、贋作の手鏡では作れなかった。流石、真作と言わざるを得ないだろう。

 鏡世界へ来て、既に五〇〇年の月日が経った。本件の重要参考人といえる、彼の少女(本件では特に、手鏡の最初の反応地点であったことから、特異点と呼称する)は、繰り返させる毎日を、何の疑問を抱く事もなく、受け容れているように観察された。これは、特異点こそ手鏡の憑依先であるという我々の仮説を支持する重要証拠であり、天界裁判への召喚手続きを早急に進める必要があるだろう。

 目下の課題としては、手鏡の所在である。特異点が関わっていることはまず間違いないと見て問題はなさそうだが、手鏡の巧妙な罠であるという可能性も排除すべきではないだろう。報告は以上。


 鏡世界の時間尺度が現実世界のそれと違うとはいえ、私もこの世界に長居しすぎた。彼は私を、恋しく思っているだろうか。早く彼に、会いたい。


  鏡世界のお話


 巡ることのない季節、変わることのない街並み、やまない雪。鏡世界は、永遠の世界。彼女の砕いた鏡の破片は、彼女の中で生きていた。雪の女王の思惑虚しく、鏡世界は彼女の心の中に生まれてしまった。

 さて、雪の女王の思惑とはなんだったのだろうか。彼女は、手鏡の力を知っていた。永遠の永遠を生み出す手鏡。その出来の良さに、嫉妬していた。彼女の思惑は、そんな出来のいいベルフェゴールの逸品を、破壊することに他ならなかった。

 なればなぜ、彼女は失敗に終わった鏡世界の誕生を許し、しかも、その世界で五〇〇年もの時を過ごしたのか。

 それは勿論、その永遠の世界へ嫉妬し、我が物とせんが為である。


  魔王のお話


 彼女とは、街でよくすれ違っていた。けれど、終ぞ彼女に話しかけることは叶わなかった。それ自体は特段、私にとって重要なことではなかったにも関わらず胸の奥に残るこのシコリはなんだろう。彼女は大切な友達との再会を喜んだ。本当は、とうの昔に死んだ友達との再会を。私には理解できない。けれど、その喜びの感情を、尊いものだと感じる。だからこそ、私はこんなにも苦悩しているのだろう。

 そろそろこの、終わらない冬の世界にも飽いた。飽きるなんて、私にとっては珍しい感情に、密かにほくそ笑み、私は彼女の家を目指した。


 さて、物語は終いだ。屍は土に還る。虚しい夢幻は覚め、世界はあるべき姿を受け入れる。けれどそれは、私とは正反対の、善なる者たちの理。ベルフェゴールの遺品は、第二魔王たる、このレヴィアタンが継ぐとしよう。私は、彼女があれほど渇望し、手に入れた永遠を羨んだ。幸せそうな彼女に、嫉妬した。なれば、嫉妬の魔王たる私がそれを奪い取るのは当然のこと。手鏡は彼女の心の中にある。眠る彼女は無防備だから、なんの障害もない。手鏡も、永遠さえ手に入れられたなら、彼女に固執する理由もないだろう。

 この至極つまらない世界が終わりを迎えたら、真っ先に彼に会いに行こう。聖女の活躍に、天使は喜ぶに違いない。そうしたら私は、手に入れた真作の手鏡を使って、彼と二人きり永遠を手に入れる。悪魔と天使を隔てる天界から彼を奪い、亡き友人との再会を喜ぶ彼女から永遠を奪い、独りよがりな手鏡から力を奪い取る。ひとまずはそれで、私の嫉妬心も満たされるに違いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怠惰の悪魔「魔法の鏡作って人間界を地獄にする」 神夏磯媛 @xenon72

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ