心象・日の出。

ヘレ

彼女の彼女と少女

風が吹いている。

丘の上、青い空天井を上に、生い茂った草木と頂上に一本の木が生えている。

一人の少女がその木の上に向かって手を伸ばしていた。

「うーん、うーん」

「……あなた、何してるの」

私はそばに立ち、見下げてそう言った。

「あのリンゴを採ろうとしているのだ!」

「取れないですよ」

「取れるかもしれないのだ!」

「やめましょう」

「やるのだ!」

彼女は手を握り、興奮した笑みでこちらに主張する。その顔と熱気を横目に私は木の奥へと歩いていく。

奥にあるのは緑の地面でなく、青。スカイブルーでなく深青色。太陽の姿を分散させながら空を吸収する海がそこに広がっていた。

つまるところ、一歩踏み出せばそこは崖だった。

「それに取れても勢い余って落ちてしまうよ」

「本当なのだ……」

しゃがみながら少女は下を見る。強い風が吹けば彼女も落ちるのだろうか。

「じゃあここで一緒に休むのだ!」

「私は忙しい」

今日はここに来たのは理由があった。茹だるような暑さを凌いでいるのもそのためだ。その理由とは──

「休むのだ!」

「……いいでしょう」

──まあ今じゃなくてもいいだろう。

そういった何気ない思考をすべて蹴っていくように矢継ぎ早矢継ぎ早。彼女の口車は波止場というものを知らないかのように言葉を飛ばしていく。

「名前は何て言うのだ?」

「まず最初にあなたが名乗ってください」

「名前はないのだ」

悲しそうな表情ではない。いや、悲しみというものを知らないのだろう。それは彼女の、そして私の、ついでこの世界の仕事ではないのだろう。

「そんなことないでしょう」

「わからないのだ。さっき生まれたばかりなのだ」

「それは知ってます」

聞きようによっては不思議な会話かもしれない。だがこの状況において彼女は私の役目のものであった。

「知ってるのか!?博識なのだ!博識さんと呼ぶのだ!」

「じゃああなたは白痴と呼ぼうか」

「それでいいのだ」

怒気はない。諦念もなかった。ただ彼女はそれを受け入れた。他の単語を入れることで成立する返答をこの単語で用いた。恥も外聞もない。それは一言で形容するなら、そうだ。

「本当に白痴ですね」

「意味はわかってるのだ。ただそれよりも"ある"と定義されることのほうが大切なのだ」

「違うと思いますけど」

「違わないのだ」

私は続けない。

風が吹いている。

彼女は口を開いた。

「ところで博識さん、なんでこんな所にいるのだ?」

「それが役目だからです」

役目。それ以上でもそれ以下でもない。生きる理由でも目標でもない。だから、と言葉を使ったがそれも会話上の軋みを避けるための妥協表現でしかない。正確に表現していたならそれは「役目」だ。それ以降に言葉を続けることはできない。続ければそれは本来の厳格な意味の枠組みから外れてしまう。

「誰に言われたのだ?"彼女"なのだ?」

「ええそうです」

その法王、王、帝王。王権を持ち、祝詞で法による定義を組み立てたのは彼女の無意識だ。白痴の王にも似たその超越的たる力が思考が無意識下にどぐらと、まぐらと、ぐらぐらと廻る大海をバベルへと昇格させる。

"役目"、それを定めたのは彼じ「違う」


風が止んだ。目の前の少女がこちらを覗いている。


「違う。あなたは彼女のものじゃない。"彼ら"のも──」

「どうしてリンゴを取ろうと?」

「──言えないのだ!でも秘密って訳じゃないのだ。言語かができないだけなのだ!」

そよ風が吹いてきた。

「ああ、白痴だ」

「これはまだ誰にも解明できないのだ!」

「難儀ですね」

そう同情しても意味はないのだろう。

「別にアタシ的には難儀じゃないのだ!」

「そですか」


風が吹いている。音の調べがそれに乗ってきた。

少女はその香りを耳で感じると、フロム、その釜戸にくべられた楽器のありかを目で探す。丘の下、その向こう、小さな街がそこに再臨していた。

「あそこは何の街なのだ?」

「音楽の街です」

「楽しそうな音が聞こえてくるのだ!」

「ただのがやでしかないですよ」

言葉ががやになるのなら、それ以下の情報でしかない音はこれもまたがやでしかないだろう。

「パッション溢れてるのだ!」

「熱は自らを燃やすだけですよ」

茹だる夏のよう。白銀の冬から逃げて黄金の太陽を目指せば、きっとイカロスのごとしとなるだろう。

「感受性がないのだ!もっとドントシンクするのだ!」

「そですか。嫌です」

高みは神の住み処。神聖かつなんとやら。飛ぶ羽は理論的には飛ぶ前に折られているのだ。

「むむむ……あ、あそこは……芸術の街なのだ?!」

そう少女が指した先にはネオンサインの雲。そして花火の塔、油性ペンの列車、折り紙の兵隊に、人工の花の車。九龍を真似たかのようなリアリスティックな印象派が遠くに佇む。

「そうですよ。ごちゃごちゃのアナーキーなスラムです」

「それも芸術なのだ!整った宗教画も無秩序な自己表現もダヴィンチもピカソも全てが芸術なのだ!」

「写真があればそれは不要だ」

「写真は天国を撮れないのだ」

「見れないものに焦がれる必要はありません」

取れない月に泥酔した老人は道徳を説いて溺れ死んだ。そういうことだ。

「そう決まってないのだ」

「科学において観測できないものは存在しないのです」

神は存在しない。

「哲学は否定できないものは存在するのだ!」

「心の学問は現実に必要ありません」

感情で石炭は掘れない。

「必要なのだ」

「無力な学びだ」

世界を変えることはできない。

「想世界は無力じゃないのだ。帰納法も演繹法も哲学の産物なのだ」

「起源が大切なら、この世は今でも巫女が必要ということになりますよ」

「ならば子は母親を殺してもいいのか?」

「そうは言いませんが」

「アタシもそうなのだ」

私は続けられなかった。


風が吹いている。

海がせせらぎを奏でる。

「博識さんはしたいことないのか?」

せせらぎは崖の岩を撫でる。

「ありません」

役目のみだ。それが私だ。

「どうして生きるのだ?」

岩は遠く昔より、近く今のこの地面へとつながる。

「知りません」

役目のみだ。それが私だ。

「つまらないのだ!何かしたいことを見つけるのだ!やりたいことをやるのだ!」

私たちはそれを踏みしめてきた。

「嫌です」

役目のみだ。それが私だ。

「どうしてなのだ?面倒くさがりさんなのだ!」

平坦な道ができた。人々はそれを歩いていく。

「私はその挑発には乗りませんよ」

役目のみが。私で。

「挑発じゃないのだ!博識さんは否定語句だけで生きすぎなのだ!」

それが否定されれば私は。

「……」

道を外れた人間になると考えると。

「もっと肯定的に生きるのだ!例えば」

「──黙れ」

きっと、どうにかなってしまうのだろう。


風が止んだ。

少女の首はぬるかった。

「く、苦しいのだ……」

「あんたが、あんたがいなきゃ!」

「私はしたくてしてるんじゃない!生まれたくなんてなかった!」

「苦しみたくない彼女のために私はあと何度苦しめばいい!?」

風よ、何故吹いてくれない。茹だる。焼ける。つんざく光が、私を世界が拒んでいることを示す。

「は、博識さん……」

「何度殺しても何度殺してもあんたは蘇る!なんでだ!あとどれ程この世界を曇らせて苦しみから彼女を守ればいい!?」

だんだんと冷たくなってきた。私か、こいつかわからない。

「アタシは……蘇らないのだ……」

「いいや蘇る!記憶はないが蘇るんだ!その耳耳耳耳触りなそのそのその声で!」

「記憶がないなら……それはアタシじゃないのだ……」

「黙れ!死ね、死ね!」

ドクンと音がした。聞こえた、感じたはずなのに、私は手を緩めることができなかった。慟哭はない。漏れるように嗚咽を吐き出し、冷たくなったそれを二度殺すように締め上げる。



風が吹いている。

「……」

しゃべらなくなった少女を私は見下ろした。

「っはぁ、はぁ……」

リンゴがこちらを見ている。

「逃ゲテイテハ、幸セハ来ナイノダ」

「うるさい」

音楽と芸術の街が語る。

「極端ニ走レバ、ソノ苦シミハ呪イトナルノダ」

「うるさい……」

空は問いかける。

「何故ソウ生キルノダ?カレラナノダ?イイヤ、カレラナンテモノハ──」


「存在シナイノダ」


死体が喋っている。


「ニゲテいテは駄目なのだ。博識さん、いや、りせ」

「うるさいうるさいうるさい!黙ってよ!私はあなたじゃないのだ……いや、違う、あなたじゃない!アタシ、私はあなたさん、あなたさあんたなんかじゃない!」

風が、風が!何故だ!アタシは、私は……こんなんじゃ、ちがうのだ、違う。これは違う。入ってくる。壊れる。歯止めが、ああ、歯止めが!

「アタシは、アタシは……りせっり、りりりせっで、でで、よっよくよ、よくなんななんかじゃないのだだだじゃないのだじゃなじゃな」

「……どうしました?」

こちららをこちらを見ててて来る人がいる。逃げなくては今しゃべればそうだ私はアタシになるのだもどれなくなるきっとそうにちがいないならばわたしわたしあたし

「あな、あなあなたははは」

「りんごを取ろうだなんて、危ないですよ」


私は何故リンゴに手を伸ばしている。


「──あ」


理解ができた。

つまるところ、そういうことなのだ。

風が吹いている。

「アタシを殺してほしいのだ」

贖罪はこれしかなかったのだ。

「はい?」

「アタシをこの崖から落として」

そうすればきっと解放されるのだ。

「お願いお願いお願いお願い」

動けなくなった体を投げるためのお願いなのだ。使い物にならないものは逃げれば晩年を汚すだけだ。

「はぁ……」

女はアタシを見てこういうに違いない。

「──そですか」

「あっ」

目の前に空が広がる。

せせらぎは私を出迎える。

永劫の殺人から解放されるんだ。

ああ、私はやっと死ねr





二次会がいつものようにあるらしい。

「君は行きたいところある?」

先輩にそう聞かれる。が、私はそんな行きたい欲はない。

「んー私はみんなと同じところでいいよ」





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心象・日の出。 ヘレ @here820

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