外伝

瑠璃色の約束を飾って

※時系列としては1章終了後の3~4日後になります。








 その日、クインは運命に出会った。

 彼女が勝手にそう思っているだけだとしても、彼女がそう思ったのなら、それは紛れもなく運命なのだ。


「か、かわいい……」


 黒いローブを身にまとい、目深にかぶったフードの奥には、クインの他にはない特徴の一つである黒い瞳が爛々と輝いている。

 大国リークテッド。多種多様な人種が生活している国の中。活気のある市場の片隅に並べられた商品を見て、クインはまた感動を滲ませたため息を吐く。


「すごい……やっぱり外ってすごいわ。私が自分で作るお人形とは比べ物にならないぐらい精巧で可愛らしい物がいっぱいあるのね。どれも素晴らしくて全部欲しくなっちゃう」


 陶器の肌にガラスで模した眼球を持つ精巧な人形もあれば、羊毛を用いて繕われた愛らしい様相の人形も揃っている。その運命的な出会いを前に、クインの黒い瞳は忙しなく動いていた。


「……お嬢さん。さっきから嬉しいことを言ってくれるね」


 露天商の店主である男は、そんなクインの様子に頬を緩ませながら言う。彼の性格が表れているのか、橙色の穏やかな髪色も相まって、柔和な雰囲気の顔立ちをしていた。


「あ、ごめんなさい。長々と見ていてしまって」

「いいんだよ。じっくり見て行ってくれ。どうせ普段から客は少ないんだから」


 店主の言葉を肯定するように、人通りの多い市場の区画でありながら、並べられた人形に目を向ける人も、足を止める人もいない。黒いローブを目深に被った怪しい人物が唸りながら長い間その場にいるから、といった理由もあるかもしれないが。


「こんな素敵なお人形さんばかりなのに……やっぱり外って不思議なことがいっぱいあるのね」


 クインも叶うことならどれか一つだけでもいいからお気に入りの人形を見つけて購入したいところだが、宿暮らしの現状を考えるとどうしたって荷物になるだろう。これから旅に出るというのに、まだまともな荷造りをしていない内から買う物ではない。


「うーん……でも、欲しい。欲しいわ……」


 マナを導くことにより、その物体の形状や在り方を変える。王族に伝わる技法である魔導を扱えるクインにとって、物作りは馴染み深いものだ。魔導の練習がてら、クインはよく自分でこういった人形や小物を作っていた。とはいえ、それらは自分なりになんとなく作った物ばかりであり、売れるための趣向を凝らした物ではない。

 クインの目の前に並べられた品々は、そういった努力の末の完成品だ。だからこそ、クインは目を奪われ、すでに何分もこうして膝を曲げてうんうんと悩んでいた。


「……いくらでも悩んでくれて構わないよ。どうせ、この店は今日でお終いだからね」

「え?」


 店主の言葉に、並ベられた品物に目を奪われていたクインが顏を上げる。


「妻と一緒に物作りをやってきたんだが、先日、先立たれてね。私一人でも作れないことはないが、刺繍やデザインは妻の方がずっと上手だったんだ。だから、ここに並べられている以上の物は、もう作ることができない」


 店主の手が自分の売り物に触れる。そこに宿っているであろう、自分の愛した人への思い出を一緒に撫でるように。


「生活や娘のことも考えると、私のような小手先だけの技術者はこのような嗜好品ではなく、もっと幅広く使われる生活雑貨を作っていた方がいい。だから、もうこの店は今日で――」

「お父さんっ! またそうやって勝手なこと言って!」


 クインの背後から幼い、けれどハキハキとした声色が響く。

 振り返ると、そこには果物を覗かせる紙袋を抱えた少女がいた。店主と同じ穏やかな橙色の髪をしているが、店主とは違い目にはハッキリと強い不満が滲んでいる。

 年はクインよりも四つか五つは幼いだろう。短く切り揃えられた髪のせいでどこか少年のような中性的な雰囲気があった。


「あたしがいる! お母さんがいなくたって、あたしだってちゃんと作れるよ!」


 少女が声を上げて放った不満と共に、彼女が抱える紙袋がその心情を肯定するかのようにガサリと音を立てた。


「ターニャ。お客さんがいるのだから」

「そこの真っ黒な人、一時間以上うんうん唸ってるだけでたぶん買う気ないよ!」

「えっ、そんなに時間経ってたの!?」


 顔を上げて空を見れば、確かに太陽の位置は大きく動き、そろそろ夕暮れへと移り変わろうとしてる。昼過ぎに、まだ怪我のせいで歩き回ることのできない颯太を置いて「ちょっと散歩してくるだけだから、心配しないでね。すぐ戻るから」と言った挙句のこれだ。ちょっとどころではないしすぐ戻れてすらいない。


「ち、違うのよ? 買うつもりはあるの。でも私、今こんな可愛い子たちを置いておけるような場所に住んでなくて、ええと、どうしよう。また出直してちゃんと考えたいけど、お店が今日で終わるって話だし……」

「だからっ、終わらないってば!」

「ターニャ、いい加減にしなさい」


 温和な露天商の店主ではなく、少女の父親として、男は声を上げる。


「商工会には話を通してあるし、私も別の工場(こうば)を探してある。明日にはここは別の人が店を広げる。もう、全部まとまった話なんだよ」

「でも、それじゃあお母さんが、かわいそうだよ……」


 納得はできない。その不満を隠すこともできずに少女、ターニャは唇を噛んで俯いた。


「え、っと……」

「ああ、すみません。お客さんを、家の事情に巻き込んでしまいましたね」


 店主はクインに対し、申し訳なさそうな笑みを浮かべて謝罪する。その苦笑にはやるせなさや情けなさといった感情が見え隠れしていて、クインは何も言えずに同じように苦笑を浮かべる。


「そうだ。お詫びと言ってはなんですが……置き場に困るというのであれば、こちらはいかがですか?」


 店主が座る椅子の傍にあった小箱を取り出し、クインに向けて蓋を開ける。


「売り物ではなかったのですが、これなら身に着けておけますし、いかがでしょう」

「わぁ……」


 小箱の中身を見たクインの瞳は輝き、


「――――」


 ターニャの瞳は、驚愕と失望に彩られた。


「妻が最後に作った、髪飾りです。お代は……いりません」


 風に煽られる炎のような、風を受ける翼を模したかのような金色の意匠に、根元には青い小さな宝石のようなガラス球が施されている。クインの掌よりも小さいその髪飾りは、小箱の中に丁寧に収められていた。


「そんな、お代は払わせてください。こんな、素敵な物……」

「いいんです。妻が誰かに使われることを願って、ただ作りたいからと言って作った物です……お代を取ったら、叱られてしまいます」


 差し出された小箱を受け取り、中身を手にする。指先で摘まれた髪飾りは、夕暮れへと変わりゆくオレンジ色の陽光を弾いて蒼く煌めいた。

 高価、ではないのかもしれない。それでも大切な想いが詰まっているであろう一品を無償で受け取るのは心苦しい。けれどクインは喉から出そうになる言葉を飲み込んで、柔らかく微笑んでみせた。


「……ありがとう、ございます。大事にさせて───」

「ダメ、だよ」


 漏れ出るような、少女の低い声。その声が耳に届くよりも早く、クインの手から髪飾りが奪われる。


「ダメ……嫌だよ。これは、お母さんが、お母さんが……!」

「……ターニャ」


 客が持つ品を奪い取った。その行為を咎めるように名前を呼んでも、その声色はどこか悲しく響いていた。


「これは、あたしのなんだからっ!」


 涙を目元から弾かせ、ターニャは持っていた紙袋を放り投げて駆け出す。すぐに彼女の姿は人波に紛れて見えなくなってしまう。


「すみません。娘が勝手なことを……他のも、お代は結構ですので、何か欲しい物があれば」


 そう言って店主が別の品物に手を伸ばそうとするも、クインの視線は今しがた走って姿を消した少女の方向を見続けていて。


「……私」


 振り返り、クインは店主に向けて手に持っていた木箱を返しながら、笑う。


「追いかけてきます!」

「……え?」


 呆けた顔を晒す店主を置いて、クインも黒いローブを翻して駆け出した。





「私、追いかけられたことはあるけど、追いかけるのって初めて!」

「なんなのあんた! 怖いんだけど!」


 太陽もすでに山の稜線に消え、夜の帳が降りてきた頃。

 今も尚、クインは元気に髪飾りを奪い取った少女、ターニャを追いかけ回していた。


「あんた、ローブで顔とか隠してるけど、どうせ良い所のお嬢様なんでしょ!? なのになんでこんな下町の道に詳しいのよ!」


 ターニャもクインも、ずっと二人して足を必死に動かして走り回っているわけではない。何度も何度もターニャは自分が生活してきた街の地理を活かして逃げ切っているのに、その数分後には平然とした顔でクインがテクテクと歩いてやってくるのだ。その様は顔を深いフードで隠している人物というのも相まって、非常に恐ろしい。


「えっと……ちょっと卑怯な技を使ってるから、教えられないかな」

「だからそういうところ怖いんだってば!」


 足の速さや体力だけなら、クインよりもターニャの方がずっと優れているため、追いかけっこでは一向に差が縮まらない。

 市場から離れ、二人は夜であっても明るい繁華街の区域に入っていた。人通りの多い場所でありながら、小さな体を器用に動かして走り抜けるターニャを、クインはそれでもゆっくりと確実に追いかけていく。

 人波を抜け、路地へと入り込む。大きく距離をとった後、ターニャは振り返ってクインを睨みつける。

 なんだか猫みたいな女の子ね。と、思いながらクインは荒くなった息を落ち着かせようと深く呼吸をした。


「困ったなぁ……ソータも心配してるだろうし、本当はもっと早く追いつけるはずだったのだけど。あなた、とっても足が速いのね」

「なんなのよ……言っておくけど、この髪飾りは絶対に渡さないからね」

「うーん……できれば欲しいけど。あなたがそこまで嫌がるなら、無理に欲しいなんて言えないわ」

「……じゃあ、なんであたしのことを追いかけてくるのよ」

「追いかけっこが楽しい、というのも理由の一つではあるわね」

「怖いんだけど」


 本格的に身の危険がありえるのではないかと、鳥肌を立たせるターニャに逆効果になりそうな満面の笑みを浮かべるクイン。


「お話をしたいなって思ったの。あなたのお母様について、とか。他にも色々」

「……別に、あんたにお母さんのことを話す必要なんて」

「あなたのお母様、少し、特殊なことはなかった? たとえば……そうね。物を作る時、何かモヤのようなものが見える、とか」

「……あんた、ほんとになんなのよ」


 髪飾りを握り締め、ターニャがクインを睨みつける。恐れから、敵意へと。その視線の強さの理由が切り替わる。


「そんなに睨まないで。本当にお話したいだけなの。あなたの髪飾りを奪うつもりなんてないし、あなたのお母様のことを悪く言うつもりも決してないわ」


 クインはそう言って、目深に被っていたフードを少しだけ上げる。整った美しい顔立ちの中、二つの輝く黒い瞳を見て、ターニャは息を飲んだ。

 見たこともない真っ黒な瞳を不気味に思ったのではなく。ただその美しさに、目を奪われるように。

 髪飾りを強く胸に抱き、ターニャはその誘惑を払うように目を閉じる。


「じゃあ、いったいなんだって言うのよ」

「だからね、一度その髪飾りを――」


 人気のない路地裏へと逃げてきたターニャの視界に、クインとは違う別の人物の影が入り込む。


「おい、何してんだおまえら」


 クインの背後、繁華街のランプの灯りに照らされ、男が路地へと歩いてくる。

 顔は赤く、口元にはニヤニヤと笑みがこびりついている。酒に酔っていることが見てわかるぐらいに明白だ。


「……お話しているだけよ。お邪魔なら、場所を変えるわ」


 ターニャを背にして庇うように、ローブを深く被り直し、クインは努めて低い声で告げる。小柄で不審な人物を疑わしく思いながら、男はクインの背後にいる少女を見て、ニヤリと笑った。


「なんだ、ターニャじゃねぇか。こんな所で何してんだ。てめぇの親父はどこで何してるんだよ」

「……お知り合い?」

「……お父さんの仕事仲間だよ。今度の仕事場で一緒になる……って、あんたには関係ない!」


 そう言葉を言い放っておきながら、ターニャは持ってきた髪飾りをぎゅっと抱きかかえ、クインの背へと自分から隠れようとする。これまで追いかけてきた謎の女性よりも、目の前で酒に酔った男の方が嫌なのだと言うように。


「おいおい、あの男は自分の娘をこんな所に放り出して何してやがるんだ? やっぱりあいつは、あの女がいなきゃ腕だけの能無しだな。俺が拾ってやらなきや、親子二人で野垂れ死にだろうよ」

「お父さんを悪く言うなっ!」


 髪飾りを握り、もう片方の手でクインのローブの端を握り締め、ターニャが叫ぶ。


「二人揃えば一人前なんじゃない! 二人揃ったらなんでも作れたんだ! お父さん一人だって、これからたくさんの物を作れるし、あたしだっている! あんたの所の工場の世話になんてならなくたって、これから……!」

「はっ、自分には何も作れないって土下座して泣きついてきたのはおまえの親父の方だっていうのに、よくもまぁそんなことを言えたもんだな」


 アルコールを帯びた匂いを放つ呼気共に、侮蔑を込めた言葉が吐かれる。その言葉の真偽を否定できなくて、ターニャは更に手に力を込め、唇を噛む。


「別に、俺はおまえら家族が路頭に迷っても知ったことじゃないんだぜ? ただ、腕だけは 確かな奴が雇ってくださいって頭を下げてくるんだから、優しい俺は仕方なく――」

「ねぇ、少し、いいかしら」


 上機嫌に口を開く男の言葉を遮り、クインが声を上げる。


「あ、ごめんなさい。あなたに言ったのではないの。えっと、ターニャ、って呼んでもいいかしら」


 男に掌を向け謝罪し、クインはターニャの目をじっと見つめる。真っ黒な瞳に見つめられたターニャは、なぜこのタイミングで自分に話しかけてくるのかわからず、目をパチパチと見開いていた。


「え? あ、いい、けど」

「あのおじさんって、いつもあのような感じの人なのかしら。それともお酒に酔っているから?」

「……いつも、あんな感じだよ。だから、あたしは父さんがあいつの工場で働くのは反対なんだ」

「そう。なら、悪い人に自分の大切な人をバカにされて、黙ってちゃダメよ」

「え?」


 再度呆けた表情を浮かべるターニャの後ろに回りこみ、彼女の肩を後ろから掴む。


「たとえあの人の言うことに真実が混じっていて、反論はできなくても。それは違うんだって思ってるあなただけは黙っていちゃダメ」


 クインの手が、ターニャの肩から背中へ優しく動く。彼女の背中をそっと押して、クインは微笑む。


「あなたまで黙って、あの人の言うことを肯定してしまったら。あんなに立派で素晴らしい品々を作ってきたお父さんが可哀そうよ」

「――――」


 手に持った酒瓶を傾け、今も尚酒を飲み続ける男はクインの言葉が耳に入っているのかすら定かではないが、気にした様子もない。へらへらと笑いながら、自分がさっきまで言い放った言葉に絶対の自信を持って、覚束ない足取りを晒しているだけだ。

 この男に、技術などない。センスなど欠片もない。腕を持った人間を集めるだけ集めて、物を作らせては割に合わない対価を渡しているだけの、狡賢い小物でしかない。下につけば、安い対価を払わされるだけの、プライドを捨てた日々が待っている。

 ターニャの父親はそれを知っていながらも、頭を下げたのだ。

 他の誰でもない、ターニャのために。プライドと妻との思い出を捨ててまで。ただ一人の娘のために。

 それは、その娘にとって、何よりも我慢できないことだ。

 ターニャは両手で髪飾りを握り締める。強くぎゅっと握られたそれは、今はもういない母親が作った最後の一品。

 これに負けない物を、いつか作りたいと願ったターニャにとっての、母親が最後に残した目標を胸に抱きながら。


「おまえなんかに、お父さんを任せられるかーっ!」


 大きく足を振り上げ、今も酒を呷り上を向く男の脛を靴の先で蹴り抜いた。

 激痛に驚き、気管に酒が入り込む連鎖に男は野太い悲鳴を上げる。その悲鳴をターニャは晴れ晴れとした表情で聞き、クインへと振り返る。


「やってやったわ! さぁ逃げよう! お姉ちゃん!」

「……そ、そこまでやれとは言ってないのだけど!」


 クインの慌てふためく声だけを残し、二人はまた夜の街へと駆けていった。





「ちょっと、もっと速く走れないの!? あたしを追いかけ回してた時の速さはどうしたのよ!」

「いや……あの時はあなたの持つ髪飾りの……というか、たぶんこれ私まで一緒に走る必要ないと思うの……」


 身軽で小柄なターニャとは違い、運動神経など発揮する機会がほぼなかったクインには併走することなど不可能に等しい。路地を三つほど曲がり、二人は身を隠すように道端に詰まれた樽の傍に身を隠していた。


「すっごく疲れちゃった……私、こんなに一日中走り回ったの、初めて」

「なんでよ……さっきまであたしのことあんなに楽しそうに追いかけてじゃない」

「追いかけるのは初めてだったから楽しめたけど、追いかけられるのって初めてじゃないし嫌いなのよね……」

「好きな奴いないと思うよ……」


 悪い人ではないとわかってはいるが、やっぱり変な人だという印象は拭えていない。苦笑いを浮かべ、ターニャは呆れたようにクインを見る。


「……あんたのその目と……髪。なんていうか、すごいね」


 疲れと息苦しさにフードを外して深呼吸するクインの、薄暗い闇の中ですら、尚黒い髪と瞳。


「やっぱり、おかしいかしら」

「ううん。おかしいとは思わないよ」


 それどころか、むしろ――


「……さっき、あたしのお母さんに、特殊なことはなかったかって、言ったよね」


 ターニャの問いかけに、クインは深呼吸をやめて、彼女の目を見て頷く。


「お母さん、よく言ってたんだ。『私はデザインなんてしてないよ。物を見てると、こうすると良いよって言ってるのがわかるの』って。最初は何言ってるのかよくわからなかったし、天才ってそういうものなのかなって思ってたけど。最近……あたしにも、なんとなくわかるようになってきたんだ」


 ターニャの橙色の瞳が、手にした髪飾りを見つめる。その髪飾りに残されているはずの、母親が見たであろう何かを、見据えるように。


「だから、あたしにもお母さんのように、物作りができるって思ったんだ。そうしたら、お父さんはあんな奴の下で働かなくてもいいし、二人で、あのお店を続けていくことだってできるって。でも、お父さんは全然納得してくれなくてさ。それでも、これを目標にして、これと同じぐらい立派な物を作れたらって、頑張ってきたの」


 母親が最後に作り上げた、遺作。これに負けない物を作れるなら、きっと父親も納得してくれるはずだと。


「だから、お父さんがあんたにこれを譲ろうとした時……ああ、あたしって本当に、もう全然期待されていないんだなって、思ったんだ」

「……たぶん、あなたのお父さんは、そんなつもりで私にこれを勧めたのではないと思うよ」


 クインの黒い瞳も、少女が持つ髪飾りを見据える。

 魔導を扱うクインでも、マナを『視る』ことはできない。それでも、何が、どのようなものが宿っているのか。それは、一度触れればどうしたって思い知る。


「あなたのお母さんも、お父さんも、きっと――」

「ここにいたかこのクソガキ!」


 怒気を含んだ低い声共に、二人の傍にあった樽が割れる音が響く。耳障りな音に顔を顰める前に、ターニャの腕を何者かの手が掴んだ。


「っ、離せ!」

「ここら一帯で俺から逃げられると思うなよ。落とし前はおまえの親父にもつけさせるが、まずはおまえからだ!」


 男が力任せに掴んだターニャの腕ごと振り回し、壁へと叩きつけようとする。


「ターニャ!」


 名前を叫び、クインは咄嗟にターニャと壁の間へと体を滑り込ませる。勢いを殺しきれず、背中から横へとぶつかったクインの苦しそうな声がターニャへと届く。


「お、お姉ちゃん!」

「っ、だ……大丈夫。それよりあなたは、怪我はない?」

「おい、その程度で終わると思うなよ」


 苦しそうに胸を押さえるクインに見向きすらせず、男が怒りとアルコールで顔を真っ赤にしながらターニャへと歩み寄る。

 その足の踏み出した先に、ターニャの手から零れ落ちた髪飾りがあろうとも。


「あ……」


 べキ、と。何かが割れ、砕けるような音が聞こえる。重さに耐え切れず、繊細な軌道を描く装飾が崩れる音が。


「あ? なんだよ、これが踏まれたのがそんなに悔しいか?」

「や、やめて」


 震えるターニャの手が、伸ばされる。男の足元へ。砕け、無残な形へと成り果てた、母の形見とも呼べる髪飾りへ。


「こんなガラクタのことよりも、先に俺に謝るべきじゃねぇのか!」


 再度下ろされた足。もう砕ける部分すらなくなった髪飾りは音を立てることはなく、男の地団駄の耳障りな衝撃だけが響く。何度も踏みつけるそのたびに、ターニャの喉奥からは悲鳴にすらならない、短い息だけが吐き出される。


「わかってるんだろうな! 俺がおまえの親父を拾わなきゃ、おまえらは……おい、おまえ、なんだその目は」


 謝りもせず、ただ涙を浮かべ俯くターニャではなく。その傍に立つ、黒い髪を見たこともない長さまで伸ばした、黒い瞳を持つ少女に向けて言い放つ。


「なんか文句あるのか。先に手を出したのはそっちだろうが」

「……ええ、そうね。先に危害を加えたのはこちらだわ。だから、文句を言う筋合いがないのはわかってる……まぁ、さすがに大人気ないかな、なんて思うけれど」


 呆れたような口調。だが、男を見据えるその黒い瞳には、底が知れぬほどの侮蔑と怒りを滲ませる。


「でも、あなたのその行いは、物作りをする人間として、到底許されることではないわ」


 胸を押さえていた手で、自身の長い黒髪を撫でる。しなやかな指先は、その黒い絹糸の如き一本を摘み、引き抜いた。


「その踏みつけている髪飾りに込められた想いに少しも気づけないあなたに、言うべきことなんて一つだってない」

「さっきから何を――」

「命じる――まずは、その汚い足をどけなさい」


 クインの指先から放たれた一本の黒い髪は、風に流されるように。けれど確実に、男の足へと届き。


 ――両足を結びつけるかのように、締め上げる。


「なっ」


 宵闇に紛れ、薄い灯りでは目視を許さないほどの細い線が、男の両足にまとわりつき、男の姿勢を崩す。


「さて……ごめんなさい。後は、お願いしてもいいかしら。ゴーストさん」

「……いいけど、色々と説明してもらうからね」


 ため息を吐きながら、クインと同じように黒い髪と瞳を持つ少年、水際颯太は男の傍に膝を着く。


「おい! てめぇ! 俺の足に何をしやがった! ゴーストだと、そんなもんどこに――」

「はいはい。ちょっと静かにしてね」


 騒がれては困ると、颯太は男の口を自分の手で塞ぐ。見えてもいないのに、空いた手では人差し指を立て、口元に運んでいる。

 颯太の顔も、手も、何もかも。男の視界には映らない。何かに口を塞がれている。その状況だけで、男にこれ以上の言葉を許さない。


「一言ぐらいなら……なんとかできるかな」


 体内に残った少ないマナを搔き集め、まだ治りきっていない脇腹の傷を押さえつつ、颯太は自身の喉元を意識して、


『黙れ』


 そう、一言だけ、男の耳へと届ける。

 すぐ傍から耳に飛び込んでくるような、低い男の声。その目には見えない何者かの声は、いったい誰のものなのか。さっきの黒いローブを着た女は、なんて言っていたのか。その答えを脳が意識するよりも前に。


「……気絶しちゃったよ。つくづく身の程以上に恐れられているんだな、ゴーストって」


 白目を向いて動かなくなった男の口から手を離し、颯太はため息を吐きながら言う。


「まぁ、言いたいことや聞きたいことは山ほどあるんだけど……何はともあれ、無事でよかったよ」

「その、ごめんなさい。まだ怪我も治りきっていないのに、歩き回らせてしまって」

「無事ならいいよ。それじゃ、俺はこいつをどこか置いてくるから。そっちは」


 颯太の視線がバラバラになり無残な姿と成り果てた髪飾りの前で膝を着く、少女に向けられる。

 不可視の存在と話すよりクインも、独りでに気絶した男も。ターニャの目に入らないぐらい、打ちひしがれる現実があった。


「……ええ。また、後で。今度は、ちゃんとあなたの傍に帰るから」


 なんでそう妙に照れる言い回しをするんだ……と。颯太はクインに聞こえないぐらいの声量で眩いて、苦笑いを浮かべながら男を引きずっていく。その姿を見送ってから、クインはターニャの傍に膝を着き、彼女の肩に手を置いた。


「……ごめん。あたし、バカだ」


 金色の意匠は細かく砕け、蒼いガラス球も割れている。

 母の最期の作品が目の前で壊された。その経緯を生み出した自分の存在が、後悔を生み出していた。


「……うん。そうね。気持ちは間違ってなかったとはいえ、ちょっと……軽率だったかな」


 言葉だけでの反論ならば、あの男もあそこまで激昂しなかっただろう。先に危害を加えたのはターニャであり、そこは反省すべき点ではある。


「あたしのせいで、お母さんの髪飾りは壊れて、お父さんも、きっと、これからずっと苦労することになって……全部、あたしのせいだ……」


 ターニャの小さな手が、粉々になった髪飾りを拾い上げる。じっと見つめているだけで、涙が止まらないぐらいに悔しくて、悲しくて、情けなくなって。


「こんなあたしが、お母さんのような人に、なれるわけないよ……」

「……さぁ。それは、わからないわよ」


 クインの両手がターニャの手ごと、髪飾りを包む。


「これは私の自論のようなものなのだけど。マナって、人の、何かの想いという面もあると思うの」

「想い……?」

「ええ。こうあって欲しい。こうなって欲しい。そういう想いに、時折マナは応えてくれる。たぶんあなたのお母様は、そうやって想いを込めるのが上手だったのね」


 魔導という積み重ねてきた技術ではなく、感性として。マナを知覚し、感じることのできる人間が稀にいる。そういった人間は得てして感受性が高く、芸術面で才能を開花させる者が多いと、クインは教えられてきた。


「お母様のこうなって欲しいという願いに、マナが応えて、それを物に伝えてくれる。だから、この髪飾りも、お母様の想いがたくさん詰まっているの」

「でも、もう、こんな、砕けて……」

「大丈夫よ。言ったでしょう? これには、あなたのお母様の想いが、いっぱい詰まってるって」


 自分が最後に作り上げるものには、きっと、たくさんの想いを詰めるだろう。

 残す娘に恥ずかしくないように。連れ添ってきた夫への感謝も込めて。最後に渡る誰かに、末永く愛してもらえるように。


「その想いが、たった一度壊れたぐらいで、失われるわけがない」


 ターニャの小さい手を超えて尚、クインには感じることができる。


「命じる……いえ、お願い」


 与え、導くのではない。すでにその想いは、その物体の中にずっと在る。

 だから、クインができるのは、その想いに向けて語りかけることだけ。


「あなたが、望む姿へと、還って」


 ターニャの掌の中で、残された想いを辿り、物質は導かれていく。


「……ほら、手を開いてみて」


 クインに促されるまま、ターニャは恐る恐る手を開き、


「あ……」


 掌にある、以前とまるで変わらない輝きを放つ母親の遺作が目に飛び込むよりも前に。

 零れる涙で、前が見えなくなっていた。

 壊れないように、それでも、ぎゅっと。ターニャは髪飾りを胸に抱く。

 まだしっかりと彼女の目に映ることはなくても。たとえその物体に、一切の熱源が存在しなくても。

 抱きしめ続ける母親の最後の作品は、確かに温かく思えていた。


「……もう、大丈夫かしら」


 一頻り涙を流し、目を真っ赤に腫らしたターニャは素直に首を縦に振った。その手には依然としてしっかりと髪飾りが握られ、今も尚、そこには母の想いが残っていることが感じられる。


「お姉ちゃんは、その……大丈夫? あたしのこと、庇ってくれてたけど」

「平気よ。あれぐらいへっちゃらなんだから。こないだはもっと痛い思いしてたし」

「そ、それはそれで大丈夫じゃないと思うんだけど……」


 赤くなった頬を引きつらせ、ターニャは苦笑いを浮かべる。


「ねぇ、お姉ちゃん。少し、屈んでもらえる?」


 ターニャのお願いに、クインは答えるよりも前に膝を曲げる。無警戒で、微笑んだままのクインを見て。ターニャも同じように、自然と笑みが零れる。


 そうしてターニャは微笑みながら、クインの長い髪へと手を伸ばし、


「……うん。やっぱり、とっても似合うよ」


 クインの黒い髪へ、左側の一房に、自身の母親の形見である髪飾りをつけた。


「……いいの?」

「言っておくけど。あげたわけじゃないからね。あたしがそれと同じか、それ以上の物を作れるようになったら、それと交換して」

「でも……あなたはこれから、これを目標にして」

「いいの、その髪飾りに詰まってる想いは、あたしはもう充分に受け取ってるから」


 自分の胸にそっと手を当てて、ターニャはまた微笑んでみせる。


「あたしだって、お母さんが作り上げた、作品の一つなんだから」


 それが、本当に誇らしいことなのだと。物作りの家系に産まれた娘は告げる。


「お父さんの就職先はめちゃくちゃにしちゃったし、たぶん、たくさん怒られると思うんだけど……後悔なんてしてる暇もないぐらい頑張って、いつか、それ以上の物を作るから」

「で、でも……言ってなかったけど、私、これから旅に出るつもりなの。もしかしたら、この国には一生帰ってこられないかもしれないし」

「あーもう! いいから受け取ってってば。返せるなら返してってことでいいよ!」


 微笑から、満面の笑みへ。歯を見せて、ターニャは笑う。


「だって、髪飾りだもの。お姉ちゃんみたいな長くて綺麗な髪の人に使ってもらえる方が、きっとその髪飾りも嬉しいよ」


 人によっては不気味にすら思う、長く伸ばされた黒髪に向けて綺麗だと。少女は言ってみせる。


「……ええ。ありがとう。きっと、いえ……必ず、お返しするわ」


 その素直な気持ちが嬉しくて、クインはお礼と共に笑顔を返す。

 根拠もない約束になってしまうけれど。この国に本当にまた帰ってくることがあるのか、それすらもわからないけれど。

 この約束は、きっとこの少女が先へ進むために必要な一歩だと思うから。


「あたしはもう大丈夫だから。お姉ちゃんもこれから誰かと会うんでしょ? 声は聞こえなかったけど、誰かと話してたみたいだし」

「……ええ、そうよ」


 自分の存在が明るみに出れば騒ぎと恐怖を振りまいてしまうから、人知れず誰かを助けて。そんな、お節介なお人好しだ。


「とっても素敵な男の子なんだから。今度会う時は、きっとあなたにも紹介するわ」


 そう言って、クインは笑う。そのクインの笑顔と、灯りの光を反射して輝く、母親の作った髪飾りを見て、ターニャも、心の底から嬉しそうに笑った。

 人気の少ない路地の一角。仄暗く、灯りの乏しいその薄闇の中。

 そうして輝きながら交わされる、約束があった。


 



「……こんな所にいた」


 後で合流しよう、などと言っておきながら、その合流場所を決めていなかった。

 宿に戻ればいいのかしら、と思いながら歩き回って颯太を探していて。きっとクイン以外には見えない目印が見えた時は、心臓が止まるんじゃないかと思うほど驚いた。

 繁華街から離れ、どこか厳かな雰囲気を持つ建物に添えられるように建てられた鐘楼の上。明るくなれば、防壁の向こう側の山々の稜線も見ることができるほどの高さの建物の一角に、颯太は横たわっていた。

 彼の脇腹は、赤く滲んでいる。その滲みは颯太が着ている服の先まで続き、そこから雫となって、目印としてここまで点々と続いていた。


「傷が開いてるなら、言ってくれればいいのに……」


 クインを守るために脇腹に受けた刃。その傷が、きっと気絶した男を運んでいる間にでも開いてしまったのだろう。幸い開ききったわけではなく、今はもう出血は止まっている。

 クインは颯太の傍により、彼の口元に手を近づける。


「寝てる……だけよね、よかった」


 颯太の規則正しい呼吸を掌で感じ、心の底から安堵したかのようにクインは自身の胸に手を当てて大きく息を吐く。焦操と駆けたことによる負荷に脈打っていた心臓が、これでようやく落ち着いてくれるはずだ。

 痛かっただろう。まだ治りきっていない傷を抱えて、それでも平気そうな顔で、クインを探し回ったのだろう。申し訳ないと思うと同時に、彼が自分のためにここまでしてくれることを、嬉しいと思ってしまう。


「ありがとうね、ソータ」


 彼の、自分と同じように真っ黒な髪の毛を指先で撫でる。くすぐったいのか、少しだけ目元を歪ませて顔を動かす。彼の見た目も相まって少しだけ幼く見える動作に、クインは思わず声を滲ませるように笑ってしまう。


「……綺麗な空」


 つい数日前。颯太がクインを身を挺して守り、これからも守り続けると誓った夜空に負けず劣らずの、星々の輝き。森の木々の間から見えたあの時よりも視界は広く、空にずっと近い。

 一人で見るにはもったいないぐらいの光景でも、こんなにも気持ちよさそうに寝ている颯太を起こすのは忍びなかった。


「というか、私も眠くなってきちゃった……」


 夕方以降からというもの、ずっと走りっぱなしだ。追いかけ、追いかけられて。時刻を知ろうにも、月もないからこその美しい夜景では、おおよその時刻すらわからない。


「……仕方ない、よね。もう遅い時間だろうし、疲れたし、ソータもきっと、寒いだろうし」


 言い訳染みた言葉を次々と重ね、クインは着ているローブを脱ぎ、颯太に半分だけかかるようにして、


「し、失礼しまーす」


 その半分を自分の体にかけるように、颯太の隣に横たわる。


「頑なに一緒に寝ようとしてくれないし、起きたら怒るかしら。まぁ、ソータが起きる前に、起きればいいよね」


 彼の横にいていい理由を次々と重ね、クインは笑いながら、颯太の寝顔を横から見る。

 辛いことも汚いものも。たぶん、これからクインはたくさん知るだろう。閉じられた箱庭から出たクインに待つものは、きっと楽しいことだけではない。

 それでも。それに負けないぐらいの美しく素晴らしいものを、きっと、あなたといれば見つけることができるだろう。


「どうかしら。あなたも似合ってるって言ってくれるかな」


 今も尚、髪につけたままの今日出会えた美しさを指で撫でながら、眠る颯太に向けてそっと告げる。


「ねぇソータ。私、誰かと一緒に寝るのって、たぶん初めて」


 もしかしたら、侍女として傍にいてくれたフィリスが、記憶にもない幼い頃は一緒に寝てくれていたかもしれない。でも、少なくともクインにとっては、これが初めてのこと。

 こんなにも心がワクワクして、ドキドキして。それなのに、こんなにも心が落ち着くのなら。もっと前から強くお願いすればよかったな。

 そんなことを考えながら、クインは未来を楽しみに想い、目を閉じた。





 久々に野宿してしまったな、と。颯太は閉じた目に飛び込んでくる陽光を眩しさに顔を顰めながら後悔する。


「やばい……クインと合流する前に寝ちゃってた」


 その眩しさを抑えるために、颯太は自身の手で目を覆いながら体を起こす。脇腹の痛みはまだあるが、起き上がって、クインを探しに行けないほどではなかった。

 一人にしておくのは不安でしょうがない。颯太が願い、手を差し出したからこそ、クインは今まで過ごしてきた安寧の場所を離れ、危険すら待ち構えている外の世界に飛び出したのだ。

 たとえ浅くない怪我が未だ治っていなくても、彼女の傍にいないといけないのに。


「おはよう、ソータ」


 だから、これから探しに行かねばならない人物の声が聞こえて、颯太は目に飛び込む眩しさを忘れて、目を覆っていた手を下ろした。


 まず、目に飛び込んできたのは、風に揺れ、日の光を浴びて輝く、美しい黒髪。


「クイ、ン……?」

「ソータってば、意外とお寝坊さんなのね。横でけっこううるさくしちゃったのに、ずっと寝ているのだもの」

「……え、何。ずっといたの?」

「いたどころか、一緒に横になって寝てたのよ。ソータ、意外と寝相悪いから、ちょっとびっくりしちやった」

「俺が何してびっくりしたの!? というかなんで横に寝てるの!? うわぁご丁寧にローブかけてくれてるじゃんありがとうございました!」


 混乱した状態のまま、とりあえずお礼とローブをクインに返す。颯太が慌てふためく様子を見て、クインは笑う。


「怪我の様子はどう?」

「ああ……昨日ちょっぴり開いちゃったけど、今は大丈夫だよ。血も止まってるみたいだし」

「ごめんね。私を心配して探し回ってくれたのでしょう?」

「それに関してはもう、無事だったならいいよ」


 心配が限界を超えて、怪我が開くのも覚悟の上で探し回ったのは颯太の判断だ。そこの責任をクインに押し付けるつもりはまるでない。


「……うん。でも、これだけは何度でも言わせてね」


 ローブに袖を通し、長く伸びた黒い髪を表に出し、颯太に向けて、笑顔を浮かべる。


「ありがとう、ソータ。あなたがいてくれて、本当によかった」


 向けられる言葉も、笑顔も。これから先、何度受け取ることができるだろう。

 見えない体と、今は使えない便利程度の魔法。たったそれだけの武器で、ひ弱とも呼べるこの肉体で。どれだけの困難を払いのけられるだろう。

 不安しかない。不安しかない、けれど。

 朝日を背に、クインが笑いかける。長い髪が風になびき、陽光を受けて黒く輝く。颯太を見つめる優しげな眼差しも、その黒い瞳から目が離せなくなるほど美しくて。

 明けていく瑠璃色の美しい空ですら。彼女が持つ黒色の美しさをより美しく引き立てるほど。


「帰りましょう。あなたの怪我も心配だし、今日は宿でゆっくりしようね。咋日あったこともお話ししたいし」


 彼女が背にした朝日の眩しさよりも、ずっと。颯太にとって、眩しく見えて。


「おんぶ……はさすがに目立つし、私が最後までできるか不安だからなしにして……肩や手を貸すぐらいならできるから」


 差し出されるしなやかな指先。何も気負うこともなく、自然で、当たり前のようにクインは颯太に手を伸ばす。

 この手に触れたからこそ。突然放り出されたこの世界で、独りではなくなった。


「……うん。帰ろう。実を言うと、傷が痛くてたまらない」


 苦笑と軽口で彼女の手に触れる気恥ずかしさをごまかして、颯太はクインの手を取る。


「ふふっ、私、物心ついてから、誰かと手を繋いで歩くのって初めて」


 そんなことが心底楽しいことであるかのように、クインは顔を綻ばせて笑う。


「……ああそうだ。言い忘れてけど」


 女性の扱いなど少しも慣れていない颯太だとしても、必死になって言葉を探して。


「その髪飾り、似合ってるよ」


 短く、たったそれだけの言葉でも顔を赤くしてしまう自分の至らなさを隠すように、颯太は先に歩き出す。

 耳まで赤くした彼の姿を見て、クインはその微笑ましさに、繋いだ手に力を込める。


「そうよ。だって、私に似合うって言ってくれた、最高の職人さんからのプレゼントだもの」


 どんな顔で、そんな自信満々なことを言ってのけたのか。振り返った颯太の視界には、昇りきった朝日の眩しさよりもずっと眩しい、クインの笑顔が映っていた。

 最高の職人が理想を超えて、また巡り合うその時まで、ずっと。


 美しい髪飾りはクインの黒い髪の上で、これからも輝いている。


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