エピローグ

君のお節介なゴースト

「お嬢様?」


 走らせていたペンを止め、そう呼ばれた黒髪の少女が顔を上げる。小さな本棚と机と椅子。それとベッドだけがある質素な部屋の外から聞こえた声に、少女はまずため息を返した。


「もう、フィリスってば、また私のことをそうやって恭しく呼ぶのだから」

「……慣れてもいないのだから、仕方ないでしょう」


 返事を聞いて、元侍女として黒髪の少女、クインに仕えていたフィリスは扉を開いた。部屋の中ではこの世界では珍しい、澄んだ黒髪を胸の高さまで伸ばしたクインが、その毛先を不満げな表情を浮かべたまま指先で弄んでいた。


「慣れてもいないって……もうここで生活して、そろそろ二年になるのに」

「そもそも、私は世話役としてここに身を置いているのだから、敬語で接して何がいけないというのですか」


 開き直った様子で、まだクインが城で生活していた頃と同じように敬語で応対してくるフィリスを見て、クインはまた大仰にため息を吐く。

 ゴーストという不可視の化け物が大国リークテッドを襲撃してから、水際颯太という男の子がその凶行を止めてから。

 彼が、クインの前から姿を消してから、二年という月日が経とうとしていた。


「それで、どうしたの? まだ約束の時間には早いと思うのだけど」


 颯太が王と交わした約束。クインのことを無視はせず、受け入れてあげるという約束は、可能な限りで善処されるよう執り行われた。

 城の近く、颯太とクインが教会の戦闘員に追われていた森の中。そこに建てられた小さい屋敷にクインとリアは住んでいる。

 クインとしては今までのように、城の中で生活する窮屈さを味わいたくはなかったし、衣食住を提供してくれるというのならば文句を言う筋合いもない。それに、世話役として、すでに城からは暇をもらっていたフィリスを呼び戻してくれたのだから、境遇に不満などなかった。


「ええ。時間にはまだ余裕はありますが、あなたのことだから何も準備をしていないでしょうし、早めに声をかけようと思ったのです」

「……準備、って、何かいるかしら?」


 クインの心からの質問に、今度はフィリスがため息を吐いた。


「……当然でしょう。これからあなたは王妃に会いに行くのですよ? いくら肉親とはいえ王族に謁見しに行く以上、正装で身なりを整えてから行くべきです。まずは、その顔についたインクを落としてはいかがですか?」


 と、フィリスがクインの頬についた黒いインクの跡を指さして言う。指を差されたクインは苦笑を浮かべ、持っていたペンを卓に置いた。


「続きを、書かれていたのですか?」


「……いいえ。続きなんて、まだまだこれからだもの。これは、お断りの手紙を書いていただけ」


 クインが手を置く机の上には、手紙用の紙と共に、一冊の本が置いてあった。立派な装丁も施されたこの本は、今ではこの国で一番有名な本として、民衆に広く読まれている。


「続編を書いて欲しい、だなんて言われても、これは私とソータが本当にしてきたことをただただ書いただけの本なのよ? これ以上、今は書くことなんてないわ」

「……その本に、私のことを書かなかった理由を、聞いてもよろしいですか?」


 王妃を穢したゴーストをおびき寄せる餌を育てるために、クインの侍女として生きてきたフィリス。一度は命を狙われた相手だというのに、今でもクインは彼女をこうして身近に置き、平然と暮らしている。颯太との日々を書き記した本にも、彼女の存在は明記していなかった。


「理由なんて、たいしたものはないわよ。この本は、私がみんなにソータのことを正しく知ってもらいたいから書いた本だもの。ソータにとって必要のない部分は極力省いて書いてもおかしくないでしょう?」

「ですが……いえ、ありがとうございます」


 厚い、下手すれば何よりも重い信頼を感じ、フィリスはこれ以上言葉を続けることなく、頭を下げる。その一礼に対し、クインは特に気にした様子もなく、微笑んでみせた。

 さて、と立ち上がろうとするクインの耳に、外から今度はドタドタと騒がしい足音が響く。


「コラー! クインさんは今お部屋でお仕事してるのだから、廊下で騒がないで! あっ、ちょっと、その瓶は明日の分のおやつが入ってるんだから持って行っちゃダメだってば!」


 部屋の外から聞こえるリアの怒ったような声。その声が向けられている子供たちの笑い声も、しっかりとクインの元まで響いていた。


「……リアさんも、他の子たちと年はあまり変わらないはずですよね」

「そう、なのだけどね。なんだか、すっかり一番のお姉さんみたいになってるわ」


 小さいながらも立派な屋敷には、クインとリア、そしてフィリスの他に数人の孤児たちが一緒になって暮らしている。

 元より国の中に少なからずいた孤児を引き取り、この屋敷を孤児院代わりとして使おうと決めたのは、この屋敷に住んでからすぐのことだった。その中で、リアは、年齢的にはそれほど差はないはずなのに、持ち前の賢さのせいでお姉さんのような立場で生活を余儀なくされている。


「リアー。ちょっと来てもらえるかしら」

「え? あ、はいっ。ちょっと待って――ってコラっ! おやつの時間以外でおやつを食べたらダメだって何度言ったらわかるの!」


 と、可愛らしい叱り声の後、猛獣のような唸り声が聞こえてきて、部屋の中の二人は苦笑を浮かべる。


「あれで、子供たちがリアを怖がらないのがすごいわよね」

「……私でも、初めて見たときは腰を抜かしそうになりましたが」

「すみません、お待たせしました……って、あれ? お二人とも、どうして僕をそんな呆れた目で?」

「まず、魔物の姿を変えてから部屋に入ろうとして欲しいかな」


 今ではすっかり見慣れてしまったどころか、愛着すら湧きつつある黒毛の魔物の姿から、いつもの愛らしい猫耳の亜人の姿に戻るリア。肩辺りまでだった栗色の髪は、今ではクインよりも少しだけ長く伸びていた。

 月日は、否応もなく過ぎている。たとえ、そこにいて欲しかった存在がいなくても、関係なく。


「これから城に行くのだけど、リア、あなたも一緒に来てもらえないかしら」

「え? えっと……僕も一緒に行っていいんですか?」

「もちろん。あなたも、私の大切な家族だもの」

「――はいっ!」


 年相応の、弾けるような笑顔を浮かべるリア。準備をしてきますね、とその笑顔もまま部屋を飛び出していく。


「……あなたも、早く紹介したいんだけどな」

「クイン様……」


 俯き、声色に寂しさを滲ませてしまったことを反省するように、クインは首を振る。

 顔を上げたその表情には、フィリスにも見破れないほど、しっかりとした笑顔を浮かべていた。


「……大丈夫よ。それじゃあ、準備するわね。フィリス、あなたはお留守番をお願い。子供たちのことを見てあげてね」

「かしこまりました」


 結局のところいつもどおり、恭しく頭を下げて部屋を出ていくフィリス。扉が閉じられ、一人になった部屋の中、クインは自身が書き上げた本を手に取って、その表紙を指で撫でる。


「……美化したつもりは全然ない、あなたそのものを書いたつもりよ。だから、いつ戻ってきても、あなたはあなたのまま、きっといれるわ」


 英雄などではない。立派で力強い人でもない。どこにでもいる平凡な、勇気を振り絞って振り絞って頑張った、普通の男の子の話だ。


「……それでもやっぱり、あなたは『こんなの俺じゃない』なんて言うかしら。私からしたら、とても立派で、かっこいい男の子なのだから、そこは汲み取ってもらいたいけど」


 本を置き、まずは顔についたインクを落としてこようと、部屋を出るクイン。廊下には叫びはしないけど、未だに子どもたちに注意をするリアの声が聞こえて、その後にはフィリスが厳しく叱る声も聞こえる。いつも賑やかで騒がしくて、けれど、満ち足りていると思える生活。


 これも全て、あなたがいなかったら掴めなかった生活だ。

 あなたと、共に過ごしたかった生活だ。


「……お姉ちゃん?」


 廊下に出て、滲みそうになる涙を指先で拭っているところを、ちょうど廊下にいた男の子に見られてしまう。


「どうしたの、泣いてるの?」

「……ううん。違うよ。泣いてなんかないよ」


 心配してくれる男の子の頭を撫でる。男の子はしっかりと笑顔を浮かべるクインを見て、同じように弾ける笑顔を返した。


「そうだよね。お姉ちゃんが本当に泣いてたら、お兄ちゃんが黙ってないもんね」

「……ええ」

「あの時、僕を助けてくれたお兄ちゃんなんだもん。きっとお姉ちゃんが笑ってくれていた方が嬉しいって思ってくれるよ!」

「……そう。そうだよね」

「ずっとお礼を言いたかったんだから、お兄ちゃんが帰ってきたら、僕にも教えてね!」


 そう言って、男の子は笑顔で走っていく。

 あの時。颯太がクインを連れて街を歩いた最初の日。果物を盗んだと疑われて暴力を振るわれていた男の子は、颯太のことをちゃんと憶えている。

 そう、憶えている。ちゃんと、見えていたのだ。


「……あなたの一ヶ月間は、決して、無駄なんかじゃなかったんだよ?」


 たとえ誰に気づかれず、感謝もされず、あまつさえ恐れられていた一ヶ月。それでも、報われなくても、たくさんの人を助けてきた一ヶ月間。

 そのかけがえのない行動があったから、クインが書き上げた本は、瞬く間に広まって、誰もが読みたがる物語となったのだから。

 颯太が扱え、あのゴーストが扱えなかった魔法。マナを用い、自分の都合の良いように変換する技術。

 たくさんの人を助け、それでもと頑張ってきた彼だからこそ。マナは、その力を貸してくれていたのではないかと、クインはそう思っている。


「……せっかくまた伸ばしてるのだから、早く、褒めて欲しいな」


 まだあの頃には届かない、伸びてきた黒髪を撫で、クインは微笑む。


「ねぇ。私の、お節介なゴーストさん」


 本のタイトルにもつけた、その彼の呼び名を口にして。





 石畳の上を、馬車の車輪と馬の蹄が叩く音が響く。


「……どこ、ここ」


 道のど真ん中。露天商が立ち並び、日用品や食料品を求めた人々の通り道に、少年が一人、魂が抜かれたような呆けた顔を晒して立ち尽くしていた。

 年の割には幼い顔立ちと低身長気味の背丈。童顔と言ってもなんら差し支えない顔立ちで、辺りをキョロキョロと見回している。


「え、いや、ちょっと待って。俺、なんでこんなところに?」


 何一つ、自分が今この場にいる理由にあたるものが思い出せない。何をしていたら、こんな人通りのど真ん中に突然放り出されるのか。いや、そもそも放り出されたのか?

 ……どこから、放り出されたんだ?


「ここ……リークテッドだよな」


 今しがた自分が口にした言葉。その単語、そう、単語だ。

 その単語の意味を考えようとして、思考が詰まる。


「リークテッド、って、なんでそんな単語が出てくるんだ?」


 顔に触れる。頭に触れる。髪に触れる。体に触れる。


「……俺、って、誰だ?」


 朧気に、憶えているものはたくさんある。ここは大国リークテッドで、自分はどういうわけかその国の市場のど真ん中に立っている。大丈夫。どういうわけか、それはわかっている。

 落ち着いていればたくさんの答えが見つかりそうなのに、焦った精神ではそれを掻き集めることもできやしない。


「――いたっ」


 思考がまとまらない頭を抱えていると、突然後ろから何かがぶつかってきた。堪え切れず、少年は転び、膝を打つ。

 その痛みに、また思考を遮られていると――


「おっ、すまねぇ。大丈夫か?」


 ――そう言って、目を合わされて、手を差し出された。


「……俺が、見えてるの?」

「あ? 見えてるに決まってるだろ。どうした? 頭でも打ったか?」


 差し出された手を何気なく掴み、その手から生えたフサフサな毛に、またもや思考が持っていかれる。


「って毛深いっ!? え!? 何!? 犬じゃん!」

「ああ? 当たり前だろうが。俺は亜人だぞ」


 この世界ではありふれた種族に驚いている少年を、手を差し出した亜人は呆れた様子で見ている。

 いつしか、辺りでは突然大声を上げた少年を、たくさんの人が見ていた。


「怪我でもしたのか?」

「どうしたボウズ。迷子か?」

「いや、えっと……どこも、怪我とかは、ないです」


 道の真ん中で呆けていた少年を、誰もが訝しむどころか、心配そうに見てくれている。

 見てくれている。そのことが、どうしてかわからないけど、泣きそうになるほど、嬉しい。


「変わった格好をしてるな。黒い髪や瞳なんてして」

「え、それって何かおかしいんですか? 俺の世界じゃ――」


 言葉を続けようとして、止まる。

 俺の世界? 世界? 世界ってなんだ? まるで、ここじゃないどこかで今まで生活してきたかのような口ぶりが、どうして自然と出ようとしていた?


「黒い髪で瞳といや、あれだ」


 近くにいた恰幅の良い男が、少年の肩を叩きながら口を開く。


「ゴースト――ミナギワソータみたいだな」


 その名前。そう、名前だ。

 その名前を聞いて、少年、ミナギワソータは思い出す。


「そうだ……俺は、ミナギワソータだ」


 自分を構成する要素の一つ。名前という最たるものが一つ思い出せれば、あとはもう、黙っていても頭に記憶が蘇ってくる。


「うん。ありがとう! 犬のおっさん! さっきはぶつかってごめん!」


 ソータは頭を下げ、周囲を見渡し、お礼の言葉を口にする。


「俺、行かなきゃいけないところがあるから! それじゃ!」


 そう言って、ソータは駆け出す。人ごみを掻き分け、前に。

 今は、きっとたくさんの人にこの姿は見られているだろうから、声を上げて、通してくれと叫びながら。


「……色々、足りない部分はあるんだけど」


 憶えているのは、この世界に来てからのことだけ。自分がいったい何者なのか。どこから生まれ、どこからやって来たのか。ミナギワソータを構成する、その大前提は頭のどこを探しても見つからないけど。


「俺は、君の――」


 たった一人。すぐにでも会いたい人がいる。

 それだけを思い出せるのなら、もうそれだけでいい。


「待たせた……待たせたのかな。それすらわからないけど、とにかく、早く」


 どこに行けば会えるのだろうか。君は今、どこにいるのだろうか。わからないけど、足はどうしたって前に走る。

 あの遠く聳えた城まで行けば、きっと君に会える気がするから。


 街を駆ける少年の背中を、後押しするかのような風が、ずっと吹いていた。



                                 




                                   (了)

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