9話

「……ソータ?」


 近づき、彼の体に触れる。魔導を扱うクインは、無意識のうちに触れたもののマナを読み取る癖がついてしまっていて。

 颯太の肩に触れた指先から、彼に宿るマナの不安定さ、頼りなさに、気づいてしまう。


「ソータさん!?」


 異常に気付いたリアも颯太の傍に。クインは、震える指で颯太の髪に触れる。


「……あー、ごめん。ちょっと、限界だったみたい」


 いつもの気の抜けた、けれど、それ以上にずっと儚げな笑顔を浮かべ、颯太は笑う。


「限界、だって、どういうこと……?」

「疲れ……って表現で合ってるのかな。とにかく、ずっと気を張ってたから、一度気が抜けたらもう……ダメみたいだ」


 何十、何百、何千と。数えるのも馬鹿らしくなるほどの人から向けられた、期待の意識。水際颯太という平々凡々な男の子には荷が重過ぎるほどの期待に、ここまで抗ってきた。

 自分はそんな崇高な存在じゃないと喚き、自分を肯定してくれる視線だけを意識し続けてきた。そうでもしないと、水際颯太というちっぽけなゴーストは、立って歩くこともできなかった。

 自身の失態により招くことになった、穢れたゴーストを止めるまでは。意地でも、その意識だけは絶やすことはできなかった。


「そんな、どうして……! 私も、リアだって、あなたを見ているのに」


 颯太を颯太として意識しているクインも。造形に多少違いがあろうとも、水際颯太という人物の内面を正しく理解しているリアも傍にいるというのに。

 どうして、颯太を構成するマナは、今にも解けてなくなりそうなほど、不安定になっているのか。


「……詳しい理屈は俺もよくわからないんだけどさ……たぶん、俺自身がもう、限界なんだと思う」


 例え周囲がどれだけ颯太を望もうとしても、それを受け取る颯太自身の精神が摩耗し、擦り切れてしまえば……基盤そのものがなくなってしまう。

 どれだけ颯太を望もうとしても、その期待を受け取る颯太がいなければ、マナは正しく反映することはできない。

 自己意識の有無によって存在しているゴーストにとって、精神の死は、存在そのものの死だ。


「クインさん! 魔導でなら、どうにかできないんですか……!?」

「……だめ、できない」


 マナを導くことで超常を引き起こす魔導では、人の意識そのものを変えることも補強することもできない。水際颯太という、一人の人間の精神の限界に対して、できることはない。

 地面に頬をつけたまま横たわる颯太の体を、クインはそっと抱き起こした。そして、自身の膝の上に、彼の頭を置く。


「……どうして、もっと早く、言ってくれなかったの」


 颯太の今にも掠れそうな意識と視界の中に、クインの涙を浮かべた黒い瞳が映る。


「そんな、限界が近いなんてわかっていたのなら、もっと、やり方があったはずでしょ……?」

「……どう、だろう。どの道、きっといつか、俺はこうなっていたはずなんだよね」


 苦笑を浮かべる颯太の頭の中には、目の前に映る少女と同じでありながら、別の存在のように振舞っていた人物のことが浮かび上がる。

 君も、今この場をどこかで見ているのだろうか。だとしたら、悪いことをしてしまった。

 結局、君を置いて、どこかに行こうとしている自分を。君はどんな気持ちで見ているのだろうか。


「遅かれ早かれ、君の傍にいて、誰かと関わって生きていこうとしていた時点で、きっと俺は限界を迎えてたんだと思う」


 たとえゴーストが現れなくても。クインと離れ離れになった森での時と同じように、自己を保てずに消滅する機会はいくらでもあったはずだ。

 ゴーストという、颯太にとって人としても男としても許せない存在を止めることができて、運が良かったと思うべきだろう。


「……やだ、よ」


 囁くように、それでいて、呻くような声が、クインから漏れる。


「これから、まだまだ旅は続くのよ? この国を出て、ヘレンさんたちが待つ村に戻って、預けていた馬車に乗って、また次の町へ行くのよ? まだ見たことない景色をあなたと見て、そんな、旅を……」


 クインの言葉を最後まで聞かずに、颯太は首を振る。


「じゃあ、三人で、どこかで暮らしましょう? あなたの姿は見えないように、どこか深い森の中で。目新しさはない生活になってしまうかもしれないけど、それでも、きっと、楽しいはずだから」


 妥協案にすら、颯太は首を縦に振ってはくれない。いつものように、苦笑いを浮かべて、困ったようにしているだけで。


「……じゃあ、私たちはどうすればいいの?」


 置いて行こうとする少年に対して、置いて行かれる少女が問いかける。


「あなたがいるから、あなたが手を差し出してくれたから。私は、ここを出て行くことができたのに」


 自分の存在理由すらわからないまま、閉じられた庭園で過ごすことをやめて。外に、出たというのに。


「あなたがいないのなら、私は……!」


 涙に言葉を詰まらせるクインの耳に届く、耳障りな複数の足音。


「これは……」


 玉座の間から降りてきた王や騎士団の面々が、庭園へと足を踏み入れる。


「来ないでっ!」


 颯太の姿を周囲から隠すように抱きかかえ、クインが叫ぶ。その言葉を後押しするように、リアは黒毛の魔物へと変じて、咆哮を上げる。

 誰一人としてこれ以上近づくなと、二人から意識を逸らすように。


「来ないで、見ないでっ。ソータが、消えちゃう……!」

「……ダメだって。これから、世話になる人たちに向かって、そんな冷たい対応しちゃ」


 クインの腕の中で、颯太は彼女の肩を優しく叩く。


「……王様……アルフレルドでもいいや。そこに、いるか?」

「……ここに」


 王が頷き、アルフレルドが答えた。無視されずに、ちゃんと自分の声が届いているようで良かったと、安堵する。


「ゴーストはどうにかしてやったから……クインのこと、頼むよ。待遇を良くしろ、なんて言わないから……無視しないで、ちゃんと、見てやってくれ」

「……約束しよう」

「そんなことはどうでもいいの!」


 王の約束を遮るかのように、クインは叫ぶ。


「いや、大切なことだよ。俺がいなくなった後でも、君がちゃんと俺のことを気にせず生きていられるように――」

「あなたがっ、この世界を案内してくれると言ったのでしょう!?」


 そんなことはどうだっていい。後のことなんてどうでもいいのだと。少女は初めて声を荒げて叫ぶ。


「この世界にやってきたのは私のためだって、そう言ってくれたのはあなたじゃない! それなのに、それ、なのに……!」

「……ごめん。いや、謝るのもおかしいか」


 嘘を言ったつもりもないし、それこそは、紛れもない水際颯太の本心なのだから。撤回することもできない。

 精神が擦り切れて、眠気のような抗えない感覚が颯太の意識を塗り潰そうとしても。

 彼女の涙を止めずにいることだけは、できやしない。


「……約束はできない。けど、きっと、また会えるよ」


 一度死んだ身でありながら、こんなにも望外な最後を迎えられているのだから。これ以上を望むなんて罰が当たりそうだけど。

 この子の涙を止めるためだったら、どんな罰だって受け止められる。

 腹を刺されたり、どれだけ痛い目に合っても、この子のためならと乗り越えられたのだから。


「きっとまた会いに来るから。その時まで、元気にしてて」


 短くなったクインの黒髪に触れ、涙を流す頬に触れ、拭う。


「この髪がまた、前みたいに綺麗に伸びるまでには、きっと、会いに来るから」

「……あまり長すぎると、待ちくたびれて、探しに行っちゃうかもしれないわよ」


 口元を歪ませる程度の、拙い笑顔。黒い瞳からは涙は流れたまま、それでも、笑おうとする意思が、その揺らぐ瞳からも伝わってくるから。


「……それは、あまり長引かせたくないね」


 クインが探しに行くと言えば、本当に探しに行くだろう。その事例を知っている颯太は、思わず苦笑を浮かべる。

 そうして探してもらったからこそ、ここまで辿り着けたのだから。


「……約束、してくれる?」

「うん。今のところ、破ったことないだろ?」

「……早速、今から破ろうとしてるのに?」


 痛いところを突かれ、二の句を継げない颯太に頬に、クインの手が伸びる。


「……待ってるから。あなたが来るのを、楽しみに待ってる。その時にはもっと、あなたが過ごしやすい世界にして、待ってるから」


 嗚咽に声を震わせそうになりながら、懸命にクインは笑う。その歪んだ頬に落ちる涙を隠すことはできなくても、懸命に。

 近くで、リアが泣く声が聞こえる。それでも、黒毛の魔物の姿のまま、騎士たちの前に立ちふさがったまま。最後まで、二人の邪魔を許さないように。


「……ああ、うん。もっと、気の利いたことが言えればよかったんだけど」


 元から少ない語彙力で、薄れゆく意識の中じゃ、ずっと思ってることしか言えそうにない。


「――君に会えて、よかった」














 そうして、彼は姿を消した。


 彼を構成するマナは白い粒子となって、風に乗りふわりとどこかへ消えていく。

 まるで、最初から、水際颯太という存在など、この世界のどこにもいなかったのだと、錯覚するのが当然のように。

 だけど、憶えている。私は、憶えている。忘れることなど、できやしない。


「……最後まで、君は君だったね」


 呆れ半分、嬉しさ半分で口にして、私は目を閉じる。

 目を閉じれば、いくつもの想い出が蘇る。君が最初に姿を現して、驚いて逃げて行った小さな背中。

 怖がって、それでもと私の前に立ち塞がってくれた、小さくても、大きく見えた背中。


「……ううん。それだけじゃなかったね」


 この体になって、自分を生命の枠組みから遠ざけ――マナになって、この世界を見てきた視点で、得た君の姿を思い出す。

 たった一人で街に放り出されて、誰かに見てもらえなくて泣きそうになる姿。叫んで、もがいて、それでも見てもらえないと泣きだしそうになる姿。いっそ悪いことに手を染めようとして、でも結局、できなくて、たった一人で唇を噛む姿。

 絶望がずっと傍にありながらも、それでも、懸命に過ごした一ヶ月間を、ちゃんと私は知っている。


「知っているんだよ。ソータ」


 優しく、名前を呼んでみる。


「この世界に生きてきた君を、私はちゃんと知ってるからね」


 そのために。知るために、私はここにいたのだから。

 こんなにも汚らしい体でも、ここまで、無様に生き永らえてきたのだから。

 ずっと長い間座り続けていた椅子から腰を上げ、ずたずたの汚い体を引きづりながら、歩く。

 座り続けていた椅子の対面にある、彼が座ったことのある椅子に、崩れるように寄り掛かった。


「……歩くこともうまくできない体なのに、よくここまでやってこれたものだよ」


 ああ、でも。それは彼も一緒だ。私が彼を逃がすために一人で教会の戦闘員たちと向かい合っていた時。私を追って、傷だらけの体で森の中を歩いていた彼も、一緒だった。


「あんなに血を流しながら、それでも、私のために……」


 その姿は、涙が溢れそうになるぐらいに、涙を流すなんて余分な機能は残っていないけれど、それぐらい嬉しかった。

 負けてられないな、なんて思い、私は残った腕に力を込め、体を起こした。そして、彼が座っていた椅子に腰を下ろす。


「……ここで、君が言ってくれたことが、一番嬉しかったな」


 すでに一度息絶え、いつかは自我を保てずに霧散して消え逝くことが決まっているゴースト。報われることなどない存在であることを知って、それでも尚、君は――


『最初からそのつもりだ、馬鹿野郎!』


 ……そんな、力強い言葉を叩きつけてくれた。


「見ず知らずの女性に対して馬鹿野郎なんて、ソータ、意外と口が悪いのよね……」


 私には優しい口調でしか喋らなかったから、知らなかった。時折、呆れたように語りかける時はあったけど。

 そうだ。私だけが。私だけが、全部知っているんだ。

 見ず知らずの怪しい存在である私にさえ、たとえ報われることなくても、私のために生きてくれると。彼はそう言ってくれた。

 その優しさを、私だけが知っている。

 私だけが、知ってるんだ。他の誰でもない。

 ここまで辿り着いた私だけが知っている、彼の気高い覚悟だ。


「ソータ」


 短く、名前を呼ぶ。

 あなたの手を取った夜を憶えている。たった一人で部屋の中から見た星空よりも、地べたに座って、傷だらけになってあなたと見上げた星空の方がずっと綺麗だったことを憶えている。

 こんな綺麗な夜があるんだと、踏み出さなかったら知ることすらできなかった。


「あなたに会えて、よかった」


 胸に手を当て、目を閉じる。

 こんなボロボロで穢れた体でも、心に詰まってるものは、綺麗で美しくて、大切な宝物だ。

 その宝物をあなたに返すために、ここまでやってきたのだから。


「――命じる」


 自分を構成してくれているマナに呼びかけ、導く。 

 蓄えた記憶を元に、私は私を導いていく。


「あなたは私の――お節介な、ゴースト」


 それだけが、あなたへと繋がる、たった一つの道なのだから。





 これは、自分勝手な物語。


 短く、か細い。けれど、彼女にとっては何よりも華やかで、美しい旅路を取り戻すための。

 誰からも気づいてもらえない少年が、それでも誰よりも幸せになってもらいたいと願う、一人の女の子の。

 そんな永い時を、一人の女の子が生きてきた。

 誰も知ることのない。

 けれど、たったそれだけで良かった、物語だ。

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