月の道標
旦開野
#1
サリエル
七大天使の一人。
死を司り、月の支配が任務である。
ふと気がつくと、僕は見知らぬ場所で目を覚ました。あたりは緑の草原が広がり、目の前を一本道がどこまでもどこまでもまっすぐに伸びていた。
ここには僕一人しかいないのかと思っていたが、そうではなかった。よく見ると一本道の先に、人影が見えた。あくまで憶測ではあるが、影は道の先に見える大きな月を眺めているようだった。僕は、とりあえずその人影まで歩みを進めることにした。
大きいと思った人影は、近づけば近づくほどに小さくなり、目の前にいる彼女は僕のおへそくらいの大きさになった。フリフリの、いわゆるゴシック調の黒いワンピースを着ている。この、どことも知らない世界で出会った唯一の人間は、少女であった。
「あれ?お兄さんどうしたの?」
今まで大きな満月を見上げていた少女は、こちらに気がつき、無邪気な笑顔をこちらに向けてきた。僕も自分の置かれた状況を知りたいところだか、
「君こそ、こんな遅い時間に一人で何してるのさ。」
僕は少女に質問を聞き返した。
「何って月を見てたんだよ。」
少女は質問を返されて、少し不服そうだった。
「お父さんやお母さんは?君みたいな小さな子が、こんな夜中にお外に出てたら危ないよ。」
僕は親切心で彼女に言った。
「うるさいな。自分がどこにいるのかすらわからないくせに。」
さっきまでの純真な子どもらしさはどこへやら、彼女はとても不満そうだった。僕は少しイラッとした。
「あぁ。僕は今どこにいるのかわからないさ。でもなんだい?君はこの場所を知っているっていうのかい?」
言葉を言い終えた後に、僕は大人気なかったかなと少しだけ後悔した。しかし、その後悔も無駄だったようだ。
「知ってるよ。なんだったらお兄さん、私がこの辺りを案内してあげようか?」
少女はニタっと生意気な笑顔をこちらに向けてきた。
この生意気な笑顔についていくのも釈ではあったが、他に選択肢もなさそうだったので、僕は彼女についていくことにした。
「君は、ここがどこなのかを知っているみたいだけど、一体ここはどこなんだい?」
「ねぇお兄さん、ここは月がとても綺麗だと思わない?あ、これは愛情表現とかじゃないから勘違いしないでね。」
少女は僕の質問を無視した。しかも小さいくせに、なんともませたことをいう。いくら彼女が可愛くても、勘違いなんかしない。僕にそんな趣味はない。彼女にまともに質問することを諦めた僕は、黙って彼女について行った。しばらく歩いていると、道の先がなんだか騒がしくなってきた。今まで月明かりだけだったのが、ランタンの灯りが点々と見えてきた。よく見ると屋台も出ているようだった。
「お兄さん、いい時にここにきたね。今日は『真夜中の収穫祭』の日なんだ。」
よく見ると屋台には美味しそうな果実や野菜が月明かりに照らされてキラキラと輝いていた。
少女は屋台を指差しながら僕に説明をしてくれた。
「あれは『満月オレンジ』。満月の光をいっぱいに浴びて育った大きなオレンジだよ。甘さと酸っぱさが絶妙なの。あそこの赤いやつは『ムーン・ストロベリー』。ストロベリームーンっていうのをお兄さんは聞いた事ある?この苺は、そのストロベリームーンの日にしか収穫できない、とても貴重なものなんだよ。」
見た目は普通の果物なのに、どれも聞いたことのないものばかりだった。ここの果物たちはどれも月の力によって成長するらしい、ということだけはわかった。
まだまだ説明して欲しかったが、少女は我慢ができなかったのであろう、ムーン・ストロベリーを出している屋台の方へと向かった。店主と何かやりとりをしている…僕はそこで気がついてしまった。少女と対面している店主は人ではなく、楕円の両側に、手のようなものがついた黒い影であった。僕は怖くなって、あたりを見渡した。他の店に立っている者たちも同じような黒い影であった。その様子はとても不気味であった。
「あれ…お兄さん気づいちゃった?」
周りの様子に気を取られていて、僕は、少女が真後ろにいることに気がつかなかった。いきなり声をかけられて、僕は驚いてしまった。
「これを食べさせれば完了だったのに。仕方がない。強行策といこう。」
そういうと彼女はカゴいっぱいの果実を足下に置き、スカートの下に手を入れた。そこから出てきたのは、どうやって隠されていたのか、彼女の背丈と同じくらいの大きな鎌だった。
「何も知らないまま、こちらに来ていればよかったものを。」
彼女はまんまるの月を背負い、大きな鎌を振り上げた。何もわからぬまま、僕は絶対絶命のピンチに追いやられた。俺はこのまま死ぬのか?そんなことを思っていると突然、後ろから声が聞こえてきた。最初は遠くの方からした声だったが、だんだんと大きくなってくる。まるで声の主が近づいているようだった。鎌を構えているであろう少女の方をチラッと見ると、なぜか彼女は鎌を置き、両眼を手で覆っている。僕の背後で一体何が起こっているんだと後ろを振り返る。すると後ろには丸くて大きな光、まるで満月のような光が迫っていた。声はこの光の中から聞こえる。どこかで聞いたことのある声だ。光は僕の全身を包み込んだ。光の中に包まれてもなお、声はずっと聞こえる。よく聞くと、それは僕の名前を呼んでいた。光の中、目の前に華奢な手が差し伸べられていた。さっきの少女のとは違い、大人の手である。その手はひたすらに僕を呼んでいた。僕はこの手を、この声を知っている。僕は咄嗟にその手を掴んだ。
次に目を覚ましたとき、僕は病院のベットで寝ていた。口には酸素マスクがつけられ、左手には点滴がつけられていた。右手は美月、僕の彼女が握っていて、何度も何度も僕の名前を呼んだ。周りには医者と看護師であろう人たちがいた。美月は僕を抱きしめた。
「よかった…死んじゃうんじゃないかと思った…」
耳元で彼女がすすり泣くのが聞こえた。
しばらくして僕は順調に回復した。病院のベットの中で自分に起きたことを少しずつ思い出した。僕はあの日、会社へ向かうために、自宅であるマンションを出た。マンションを出てすぐのところには横断歩道がある。いつもならなんでもなく過ぎて行く横断歩道なのだが、その日は少し勝手が違っていた。道路の真ん中に黒い子猫がいたのだ。子猫は突っ込んでくる車に轢かれそうになっている。元々お人好しの僕だが、その日はよくわからない正義感で子猫を助けようと車の目の前に突っ込んだ。子猫を庇うように、僕は車と衝突したのだ。
それからの記憶は僕にはない。美月から聞いた話によると、僕はすぐに救急車に運ばれ、手術を受けたそうだ。手術は成功したが、僕は目を覚ますことはなかった。僕は3日間、目覚めはしなかったものの、状態は安定していた。しかし3日の夜、事態は急変した。僕は心肺停止状態に陥ったのだ。3日間そばにいてくれた美月がナースコールで知らせ、僕は心肺蘇生の処置がなされた。もう手立てがない、と医師も諦めかけていた時、僕は急に目を覚ましたそうだ。
僕はおそらく死の淵にいた時に見たであろう、あの月明かりが綺麗な場所について美月に話をした。彼女の声のおかげて帰ってこれたことも。
「不思議な夢ね。三途の川じゃなかったんだ。」
「きっと三途の川だったらもっと早くに気がつけたんだろうけどね。」
美月の反応に、少し苦笑いをしながら、僕は答えた。
それにしても、不思議な体験をしたものだ。月が綺麗なあの場所は、今になって思えばあちら側への入り口だったのであろう。あの黒いワンピースに身を包んだ彼女は死神だったのだろうか?それとも悪魔?いくら想いを馳せたところで、今になっては確認のしようがない。ただの夢だったのか、それとも本当に魂があの場所にいたのか。僕にはよくわからないが、どちらにせよ、美月が僕を引き戻してくれたのだ。彼女には感謝しなければならない。僕は美月が持ってきてくれた、太陽をいっぱいに浴びて育ったであろう真っ赤なリンゴをひとかじりした。
月の道標 旦開野 @asaakeno73
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