享保十七年、夏。

「今日も雨か」

 代官井戸正明は曇天を眺め慨嘆する。

「石見には、雨が多いか」

 部下に発した問いである。代官の下には、直属の手付三名、手代――これは士分である――十名、その下にさらに足軽がいくらか付く。それぞれの直轄領ごとに若干の相違はあるがだいたいはこの程度であった。幕府の権威というものを考えれば代官所というものはそう大所帯ではないが、いくさをするためにここにいるわけではないのだし、人が増えれば当然、与えねばならぬ扶持も増える。幕府の財政はもうずっと火の車であり、それは直轄領とて変わるところではなかった。節約をせねばならぬ。

 さて、部下の一人、これは江戸から伴った者ではなく現地にずっと滞在している者、が正明に答えた。

「夏の頭にこんな長雨が続くのは、少なくとも拙者にとっては初めての儀に御座います。いったい、この梅雨はいつになったら開けてくれるのでしょう」

 それを聞きたいのはわしのほうじゃ、と、正明は陰鬱な顔をする。梅雨が終わらない。極めて危険な事態であった。石見一国がそうなのであればまだましだが、梅雨というものがそんなものであるはずもなく、この長梅雨は西日本の一帯に及んでいること、既に正明の耳にも届いている。幕府代官の手元にはそれなりの情報網というものがあった。

「年貢の減免をけいし図らねばならんな。今のうちから。最悪、全免も視野に入れねばならぬ」

 後世には幕府代官といえば悪代官と相場が決まったものであるが、実際の江戸期の代官に、悪人というような類の人間は少なかった。苛斂誅求かれんちょうきゅうで私腹を肥やすなどという真似をすればたちまち悪事は千里を突っ走り、一揆など引き起こそうものなら即座のうちに罷免、最悪は切腹の沙汰が待っているのである。またそうでなくても、そのような人物である疑いのある人材を、わざわざ代官所などという、監視の行き届かない危険な任地にそうそう送り込むほどまだ江戸幕府の体制というものも脆くなってはいなかった。

 だが、いかに正明がめいであっても、事態はその明なる男の想像以上に悪くなっていった。梅雨が明けても冷夏が止まなかったばかりか、それが大蝗害こうがいを発生させてしまったのである。この時代、イナゴの害に対し、人類には打つ手などはなかった。田畑は荒れるに任せられた。享保の大飢饉の被害に遭ったとされる藩は四十と六であり、その総石高は二百三十六万石であったが、享保十七年の収量はそのうち僅か二割七分、六十三万石程度であったと言われる。

 致命的な数字であった。確実に死者が出る。惨憺たる年貢の納入状況を見て、正明は決断をした。決断をしなければならなかった。

「手を、打つ」

「江戸に早馬を送りますか。なれば拙者が」

 幕府の代官は年貢率を操作する判断権を持っている。だが、判断する権利があるだけで、決定するのは幕府だから、江戸にはからねば年貢率を実際に変えることはできないのであった。

「いや。それでは間に合わぬ」

「何と申されます、井戸様」

「わしが全責任を取る。今から、善後策を言う。皆を集めよ」

 正明がした決断はとんでもないものであった。

 彼はまず、今年の年貢は全免にする、というお触れを領内全域に張り出した。既に飢え始めている民であるが、これに歓呼の声を上げたことは言うまでもない。だが、それで終わりではなかった。正明は、年貢米として一度代官所に納められていた米を使って、救い小屋を建てた。粥を炊き、飢民きみんに分け隔てなく与えたのである。これは完全な越権行為であった。幕府が特別な命令でも出したのなら別だが、代官所の米は幕府のものであって代官の私的な所有物ではないのだ。だが正明は、事について問う部下たちにはただこう繰り返した。

「心配は要らぬ。責任はすべてわしが取る。お前たちに累は及ばぬ。故に、事を為せ。一日でも早く動き、一人でも多く救わねばならぬのだ。民を守り救わずして、何の武士か。何の幕府代官か」

 やがて正明はさらに恐るべきことを始めた。代官所の予算を、為替で江戸に送ったのである。そして江戸にある自らの個人資産の全額と合わせ、それで飢饉被害のない東国の米を買い、石見まで送らせた。堂々たる横領であるが、彼自身も同時に破産していた。

「井戸様……」

「問うな。後のことは、全て考えてある。心配はいらぬ。今はただ、事を為せ」

 石見銀山領における餓死者は周辺の諸藩と比べ奇跡的なまでに少なかった。だが、翌年に繋ぐ米がないことに変わりはなかった。そんな折、ついに甘藷の作付に成功した、収穫があった、との報告がもたらされた。福光村の老いたる庄屋、松浦屋与兵衛の尽力によるものであった。

 この甘藷栽培の成功によっても、多くの者が餓死を免れたことは言うまでもない。正明は与兵衛に褒美を与えた。そして、部下たちに言った。

「わしの勤めは、これで十全に果たせたかと思う。後は、皆に頼んだぞ」

 そう言うと、正明は自らの意思で代官職を退き蟄居の身となった。もちろんこの頃になると正明に対する領民の感謝の念は崇められるが如き次第となっていたが、正明は誰とも会おうとしなかった。

 一方幕府はといえば大飢饉への対応で大わらわである。悪政で餓死者を招いたとでも言うならともかく、善政を敷き餓死者をすくなく済ませた者に対する懲罰などを議論している暇はなかった。正明の行為についての糾問は、とりあえず後回しにされ、そしてどんどん先送りされた。

 そして享保十八年。飢饉の影響による米価の高騰によって江戸では享保の打ちこわしと呼ばれる大事件が起こっていたが、その頃正明は既に世を去っていた。自らの意思で、誰に命じられるでもなく、腹を切ったのである。介錯すら頼まぬ、見事な一人腹であった。

 遺書には簡潔に、幕府の面目を穢した自らの罪科についてのみが記されていた。自らの功を誇るところは一つもなく、また赦しを求めるような一文すらもなかった。彼は自分が言った通りに、自らの行為の全ての責任を、その命によって、そしてその命によってのみあがなったのである。


 今日こんにち、その遺徳を讃える井戸神社と呼ばれる神社が、石見の各所にある。その中でも代表的なものの一つ、島根県大田市大森町の井戸神社には、のちに勝海舟がその筆で記した、「井戸神社」の額が祀られている。


 世に言う。飢えたる者にうおを与えても、飢えは一日満たされるに過ぎぬ。だが、飢えたる者に釣竿を与え釣りを教えれば、これ最早飢えることは無いのだと。


 井戸正明。今も、人は彼を神と呼ぶ。

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芋殿様 きょうじゅ @Fake_Proffesor

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