イポメア・トリフィーダ。それが彼らの祖先の名である。彼らとは、つまりサツマイモのことだ。彼らの祖先は中南米に生息するヒルガオ科のつる性植物であった。その地下茎をヒトが食用とするようになったのは、一万年以上も昔のことであるらしい。それを示す考古学的遺物が発見されている。

 だが、人為的な栽培が行われ始めたのがいつか、となると非常な難問であり、この場で答えを示すことは到底できない。ただ紀元前3000年頃、つまり今から五千年前には既にアメリカ大陸の熱帯部にサツマイモ栽培が広く普及するようになっていたのは間違いがない。

 このサツマイモの栽培はどのようにアメリカから外の世界に広まったか。実は西回りに太平洋諸島部に広まっていたという歴史も存在するのだが、いずれにせよそのルートでのサツマイモ栽培伝播は日本にはついに至らなかったから、その話はこう簡単に触れるのみに留めておこう。

 多くの人が知る通り、ユーラシアの人間と南北アメリカ大陸の人間が「再会」を果たしたのは1492年、クリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達によってである。何であれ驚嘆に値する大冒険であったのは確かで、その功績の中の一つにサツマイモのユーラシアへの伝播というものも含まれていたのであった。

 ヨーロッパ人は新大陸からもたらされた新たな農作物の中でジャガイモは大歓迎したが、サツマイモにはあまり関心を払わなかった。嗜好の問題ではなくヨーロッパの寒冷な気候のもとではサツマイモの栽培は難しかったからである。

 しかしそれでもサツマイモの栽培はヨーロッパを通過し、奴隷交易の経路を通じてアフリカ、インド、そして中国へと至った。中国から琉球に渡り、琉球から島々を越えてついに日本列島に到達した。これが17世紀初頭のことである。最初に持ち込んだのは徳川家康に仕えた三浦按針あんじんこと英国人ウィリアム・アダムズであった等、色々の説があるのだが確かなことは分からない。ただ江戸初期に既に九州にサツマイモが上陸していた事実についてはほぼ疑いがない。

 サツマイモはなぜ薩摩芋というのか。有名な説がある。民俗学者・柳田國男が唱えたもので、関東でこれを薩摩芋と言い、薩摩でこれを琉球芋と言い、琉球でこれを唐芋からいもと言うはその伝播経路が名に遺されたるが故である、という説だ。

 ただこれは厳密には正しくない。実際には、薩摩では唐芋という呼称を用いる。琉球芋という呼称は長崎にのみ見られる珍しい方言である。とはいうものの中国でもこれを「蕃薯ばんしょ」というのは「外国から来た芋」くらいの意味であり、遠く西から渡り来たものである事実が漠然と名に残っている、というくらいに取ればあながち間違いというわけでもない。

 まあ、それは重要なことではない。いずれにせよ、江戸の人々はこの芋を甘藷かんしょあるいは十三里じゅうさんりと称した。名産地としては武蔵国川越が知られ、栗より(九里四里)旨いは十三里、などと持てはやされたのである。十三里は川越から江戸までの距離でもあった。ただ、これは吉宗の時代からはだいぶ下り、甘藷が庶民の味としてしっかりと定着してのちのことであるのは論を待たない。


 この甘藷の、特に救荒作物としての性質に早期に着目した人物として既に登場している青木昆陽がおり、また青木昆陽から啓蒙を受けた者として八代将軍徳川吉宗がいるわけであるが、実は彼らに先立つことさらに早く、これに注目した幕府役人がいた。それが、石見銀山を領する大森・笠原直轄地の兼任代官井戸正明まさあきらである。寛文十二年、すなわち1672年の生まれ。出生地は江戸であったとされている。石見に赴任したのが享保十六年であるから西暦の1731年、つまりこの時数えでいえば既に還暦を回った年であったことになる。江戸時代の平均寿命は今よりもずっと短い。高齢であったと言うほかはない。

 石見に行くまでの彼の人生にさほど劇的なところはない。ただ、有能ではあったらしい。三十年近くも能吏として幕府勘定所に勤めた後での石見赴任であった。石見銀山の銀産出量が減り、天領の運営が苦しくなり始めたのは元禄年間、つまり彼や吉宗の若かった頃のことである。どういう事情でこのような人事が行われたのか、それを知らせるような史料は流石に現代に遺されてはいないが、能吏としての力量を買われ、その台所の建て直しを任せられたのでもあったものだろうか。

 石見銀山が完全に廃鉱になるのはだいぶ先のことではあるが、しかし世の中、寂れた鉱山ほど寂寥たる地というのもなかなか他にあるものではあるまい。その上銀山の近くの一帯、つまり大森・笠原は石ころだらけの荒れ野が広がる、率直に言えば不毛の地であった。民は飢えることが多かった。井戸正明は能吏であるだけでなく、その身分に似合わず驕慢きょうまんなところが少しもなく、この窮状を何とかしたい、と心底から願ったようだ。

 だがいかに彼が能吏であっても無い袖が振れるものではない。さぞ、悩み苦しむ日々が続いたことだろう。言い伝えによればそんな彼にある日甘藷という九州で採れる救荒作物の存在を教えたのは一人の旅の僧であったという。名もなき人物である。或いは観世音菩薩の化身ではないかなどと空想したくなるほどだが、単に九州を旅したことがあったというだけの遍歴の僧であったと考えるのが妥当なところか。

 彼は幕府に特別な上奏を行った。この頃まだ吉宗は甘藷を知らないし、青木昆陽も江戸にはいない。彼が大岡忠相の差配で幕府に学者として仕えるようになるのは享保十八年のことだ。その状態で、誰がこのよく分からない農産物に関するよく分からない具申を九州諸藩の大名家に取り次いだのか。それも謎であるが、とりあえず、かろうじて彼は甘藷の種芋を入手することには成功した。だが、まだ青木昆陽による本格的な研究の始まる以前のことなのだ。作付はなかなかうまくいかなかった。そして、極めて限りなく遺憾なることに、歴史の皮肉なることに、観世音の慈悲ではやはり無かったのか、正明の努力は、間に合わなかった。

 すなわち、享保十六年の暮れから西日本全域において気候がにわかに荒れ始めた。世に言う享保の大飢饉、その始まりであった。

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