芋殿様

きょうじゅ

 江戸幕府八代将軍・徳川吉宗よしむねがにわかに空腹を訴えたのは暮れの六つを大きく過ぎた夜更けのことであった。異例の事態である。鷹狩りに出向くなどの例外がある時を除けば、将軍の食事の時間というのは厳密に決められている。当然、その日の夕餉ゆうげは吉宗もつつがなく終えているのである。

 将軍の前に食の膳を供するに際しては、様々の格式があり、また多くの者共が携わらなければならない。既にこの日の勤めを終え、帰宅している調理番や、毒身役たちを、まさか全員呼び出しに行って、食膳の手配をせよと言うのか? 側仕えの者たちは文字通りに泡を喰らうが如き思いであった。

 無論、吉宗も自分の前に簡単に夕餉の後の夜食などが出てくるはずもないということは、将軍になってもう経た歳月も長いのであるから、十分に分かっているはずであった。その上でのこの言葉は、あまりにも無体ではないかと、もちろんそのような不敬口に出すものは誰もいないがその場の空気としては確かに流れた。

 この日、時は享保の二十年である。西暦で言えば、1735年となる。その日の日中のことであるが、幕府に仕える儒学者の青木昆陽から、『蕃薯考ばんしょこう』という書物が献上されていた。甘藷かんしょ、即ち後の世には薩摩芋の名で知られることになる作物の、用い方や栽培方法について記した研究書である。

 吉宗はその夜のふけるまで、特に呼び出された町奉行の大岡忠相ただすけとこれについて話し合った。また、来年に予定されている貨幣の改鋳についても大岡がこれを議題としたがった為、議論は異例の遅さに至るまで続いた。吉宗は、御定の刻限には寝巻に姿を改めたのだが、その恰好で大岡の処に戻ってきてなおも語らいを続けた。なお、この将軍が正式の礼装を纏わずに臣と対するは(彼以前の七人の将軍にはあり得ないことであったのだが)最早常のことであるから、それについては誰も今更どうとも思いはしない。

 さて、吉宗は困り果てている小姓たちの前に言葉を重ねた。

「食膳を持てと言うのではない。昼間青木が持ってきた甘藷があったろう。あれを持て」

 青木昆陽は『蕃薯考』の献上にあたり、小石川の彼が任せられている植物園で採られた甘藷の試作品も添えて提出していた。生のままの芋と、調理済みの芋とをである。まさか青木は、それがそのまま将軍の口に入るだなどと思って調理した芋を江戸城中に持ち込んだわけではあるまい。だが、それは将軍吉宗の上意であった。

「されど、御毒見をなされませねば――」

 と言う臣に、吉宗はにべもなく言った。

「そち、あの青木が余の毒殺を図ると思うてか。思うならば再びその口を開くがよい」

 その臣には返す言葉がなかった。思えばこの正月にも、薩摩藩江戸藩邸から正月の挨拶として届けられた菓子を、旨そうだからというだけの理由で毒味も介さずに食してのけた吉宗である。外様諸大名家で最もその逆心を怪しまれるところである薩摩藩島津家に対してからがそうであるに、まして忠臣青木を相手に何の警戒をする吉宗であるはずもなかった。

 そして芋が来た。吉宗はそれを喰らう。

「旨いな。甘いものだな。栗のようでもあるが、栗よりもやわい」

 そして大岡にお前もどうかと勧める。だが大岡は遠慮した。

「恐れながらこの越前守、青木とともにその栽培に関わるところで御座いますれば、味は既に存じております。また青木の衷心を思えば、どうか上様にてお召し上がり戴きたく、青木に代わって申し上げまする」

「そうか」

 とだけ言って、吉宗は残りの芋もむしゃむしゃと食べた。なお、貴人は食膳を多少残すのが常の礼であるが、そのようなことを気にする吉宗であるのならばこの夜中の異例の時刻に甘藷など食べているはずもなかった。吉宗は芋を全て平らげ、大岡に問うた。

「それで、これを普及させる算段だが。九州に既に伝わっておるのはいいとして、それと小石川以外で栽培を定着させた地はあるのか」

「御座います」

「ほう。何処だ」

「石見銀山の天領にて、同地の農民たちの間で栽培が既に行われております。詳しくは明日の夜また、報告を書にしたためて持ち参りまする」

「左様せよ。しかし石見か。それは朗報であるが何故石見なのだ。あそこは銀を採る為の直轄領であろう。確か、土地は貧しいのではなかったか」

「御意に御座います。されど」

「ふむ」

「上様。恐れながらこれについて奏上致しまするならば、幕臣井戸正明いどまさあきらについて申し上げねばなりません」

「井戸か」

 吉宗は少しだけ考え、すぐに思い出した。

「ああ、一昨年おととしに何か不始末をして切腹に及んだ、もと勘定所の……いや。そうであった。あの男は石見の代官として任ぜられたのであったな。その上での不始末の話か」

「いえ」

「ぬ」

「井戸は……切腹を致しましたが。実際には、不始末をして死んだのでは御座いません。あれはまことの義人に御座いました。どうか、お聞きくださいませ」

 大岡の真摯なる態度を受け、吉宗は身を乗り出し、自らも真剣に聞くための姿勢を取った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る