第3話 才と愛

 一歩、また一歩、俺は階段を登る。

 

 その先が明るいか暗いか気になるが、顔を上げることができない。頭が重い、意識も朦朧だ。油断すると階段を踏み外しそうになる。

 

 ただ、予感はする。

 その先に未来がないことを。


 それでも、後戻りはできない。

 後ろもまた、暗闇だと感じるから。

 

 ならば、前に進もう。

 ここまでの苦労、ここまでを努力を無駄にすることはできない。

「あっ」

 そんなことを考えていたら、足が疎かになってしまい、右足がうまく階段にかからず、滑ってしまう。

「ああぁ!!」


 腕を上げて、目が覚める。

「逃したか、吾郎」

 先生が近くで座っていた。

「転げ落ちる夢でした、ははっ」

「あと、一歩だ」

「違いますよ、あと二歩です」




 抗がん剤の注射を行ってもらい、先生の車で少し体と心を整える。高ぶる気持ちを抑え、深呼吸をする。先生は気を使って何も言わず、傍に居てくれた。

「行ってきます」

「あぁ、楽しんで来い…弟子よ」


 対局時間ぎりぎりに会場に着くと、当然のように凛太郎は先に座っていた。

 数か月会っていなかっただけだが、また少し大きくなったかな。未だに成績としては無敗なようだが、成績ほど楽な道ではなかったようだ。少し、精悍な顔立ちになっている。少し嬉しくなって顔が緩むと、凛太郎は睨んできた。気迫十分なようだ。

 こんな顔は、6歳くらいの時に対局して4、5回連続して負かしたとき以来の顔かもしれない。

(今日も久しぶりに負かしてやる)


 無言のまま、定刻になる。

「よろしくお願いします」

 ふたりであいさつをして、さっそく俺が一手を指す。


 一手を見れば、勝敗がわかる。

 

 そんな言葉がよぎり、凛太郎の顔を見ながら、駒から手をゆっくり放す。凛太郎はこちらには目もくれず。指してきた。腹を空かせた獅子が解き放されたように。

 さぁ、これが俺の晴れ舞台だ。

 心は熱く、頭は冷静に。息子との対局を楽しもう。


 一手、一手指すたびに、嬉しくなる。

(これが遊びでも、練習でもない、本気の時の凛太郎か)

 棋譜ではわからない、凛太郎の気迫、数十手先に意味を持つ、一手。見惚れてしまう。

 

 この対局が本気で息子と指せる、最初で最後の一局。

 千尋がビデオを撮っているだろうか。きっと撮っているとは思うがちゃんと言っておけばよかった。

 

 しかし、なんだ。素晴らしい一手を指したと思えば、不甲斐ない悪手。今日の凛太郎は気負いしすぎているのではないか。

「楽しもう、凛太郎」

 はっ、とした顔でこちらを見る。記録係の人もびっくりしている。

「すいません」

 記録係に一瞥し、凛太郎にも会釈をする。

 凛太郎は息をゆっくりとはいて。

「あぁ」

 と、ぽつりと言って笑った。

 

 そこからは横綱相撲。

 一手、一手、逃げ道は塞がれ、じりっ、じりっと情勢は悪くなる。

 

 やっぱり、こいつは天才だ。

 

 俺の才能とは歴然だ。

 この才能を生み出しただけで満足だ。

 きっと、このまま打ち続けても凡才な俺にはあるかもわからない道を通ることはできない。

 

 ここまでか。

 

 乾いた喉をお茶で潤す。

 そして、前を向いて声を出そうとする。


「約束して」


 声は出ず、千尋の言葉を、くしゃくしゃの顔を思い出す。


 はっとして、前を見る。

 そして、こちらを気迫のこもった目で凛太郎が見ていた。まだでしょ、そんな目だった。


 いい家族を持った。


 この場には、俺1人では来れなかった。

 支えてくれた千尋。

 俺に向かってくる凛太郎。

 それに、指導してくれた先生。


(俺も先生のように凛太郎に厳しさを教えてやらないとな)


 ———この命の一滴が枯れるまで足掻いてやる


「10秒…9、8」

 駒を指す。

 

 辛い、辛いが楽しい。

 

 あぁ…実力差は歴然だ。

 だが、俺は凛太郎、お前よりお前のことを知っている。

 将棋も、お前の癖も、お前の考え方も。だって…


 ———愛しているから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遺手 西東友一 @sanadayoshitune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ