飛行機雲に別れを告げて

浅雪 ささめ

飛行機雲に別れを告げて

 少女が雲のように浮かんでいた。

 コンビニのBGMも流行の曲からジングルベルに変わる季節に、レジ打ちの女子高生はサンタ帽をかぶっていた。そんな寒空の上で白い息を吐きながら、ふわりと浮かんでいるのを見た。


 仕事を終え、会社から出る頃には既に辺りはイルミネーションにまみれていた。家に帰る前にいつものように山の祠へ、コンビニで買ったおにぎりとお茶を置いて参拝する。祠に供えたおにぎりがなくなってるのを見つけて以来、何かいいことでもあればとほぼ毎日通っている。今日はツナマヨにした。

 さて帰ろうかと後ろを振り返ると、何か浮かんでいるのを見た。風船かビニール袋か。暗くてよく見えなかったが、誰かがごみを捨てていったのだろう。

 その日は特に気にせず家に帰りシャワーを浴びて。そのまま潰れた缶ビールと寝た。


 また次の日。久々の休みの日に俺は、おにぎりとお茶を買って祠を訪れた。昨日サンタ帽をかぶっていた子は今日はトナカイになっていた。

 何かが浮いている。昨日とは違い辺りが明るいとはいえ、それが女の子だとは思うはずもなかった。どんなに軽くても、もちろん地球上では人は宙に浮かないのだ。でないとニュートンが苦労して見つけた法則が無意味と化してしまう。


「ねえ、さっきから気づいてるでしょ」

 ふと声をかけられた気がしたので周りを見渡すが、誰もいない。幼い子どもの可能性を考慮して視線を低くしてみるも、やはり誰もいなかった。


「どこ探してんのよ。上、上」

 声に従って腰を押さえながら目線を上げる。さっきまで浮かんでいたものが、俺の頭上まで来ていた。

 それは風船でも、ましてやビニール袋でもなかった。

「やっと気づいた」

 ハハっという笑みとともに宙に浮かんでいたのは、紛れもなく女の子だった。黒く艷やかな髪をなびかせながら、見たことのない赤リボンの制服に身を包む彼女。スカートじゃないのが惜しいななんて思う。

「なんで、そんなところに?」

「驚かすつもりはなかったんだよ。だって今までだって見てたでしょ? 昨日なんて目も合った」

 だから、気づいてるのかなって思ってと彼女。昨日? ああ、あれはこの子だったのか。

「いや、普通は女の子が浮いてるなんて誰も思わないだろ」

 今も信じ切れてはないけれど。そういうこともあるのか。いや、ないだろと、一人心のなかでツッコむ。

「それもそうか」

 うんうんと、細目で頷く少女。まつげがきらりと光っている。一応おかしいという自覚はあるらしい。

「一応聞くけど。君は幽霊、とかいうやつなのか?」

 俺は生まれてから今まで霊を見たことはなかったが、お祓いとか行ったほうがいいのかな。見た感じ悪い霊ではなさそうだけど。

「まっさかー。ちゃんとした人間だよ。それに私が幽霊だったら、こうやってお話出来てないはずでしょ?」

 たしかに彼女の瞳は黒い。なんだ違うのかという残念さは隠したままに、話を続けた。

「確かに一理あるが、なんせ祠の近くだし。てっきり成仏しきれなかったのかと」

 浮いてる人なんて今まで見たこともないし。それに、見てのとおり彼女は若い。この世に未練があってもおかしくはないだろうから。


「……あんまり人に会いたくないの」

「なるほどね。確かに街の中じゃおまえは目を引くだろうからな。もしかして俺もお邪魔だったか?」

 少し間があったのは気のせいだろうか。

「そうね。こんなにも長く人と話したのは久しぶりだから疲れちゃった」

「そっか。じゃあ、また明日。仕事終わりに来るよ」

「別に無理して来なくてもいいのに」

 物好きな人なんだね。ふわりと俺の頭をなでながら彼女はそう付け足した。

 暇なだけだよ。手をふりはらって踵を返しながらそう返す。


 また次の日。コンビニでおにぎりとお茶を二つずつ買う。いつものお供え用と、浮いている彼女のものだ。

「おはよ」

「本当に来たんだ、今日は鮭と、おかか? 二つもあるんだ」

 不服、というよりはちょっと嬉しそうな声色なことにほっとした。後半は声が小さくてあまり聞こえなかったが、喜んでいるように見えた。

「昨日は聞き忘れちゃったんだけどさ」

「なに?」

「名前。君の名前を聞きそびれたなって」

「名前? 別にあんたとかおまえとかでいいのに。詩乃だよ。畑中はたなか詩乃しの。あんたは?」

「いい名前だね。俺は本島もとじま利仁としひと。よろしくね、詩乃ちゃん」

「詩乃でいいよ、本島さん。ちゃんづけなんてしなくて」

「わかったよ詩乃」

「で、今日は何しに来たの?」

「んー、とりあえず詩乃に会いに来ただけで、なんも用はないんだけど」

 おにぎり食べる? と聞くとうなずきながらふよふよと、隣にしゃがみこんだ。おかかを手に取り頬張る詩乃。


 そんな何もせずにおにぎりを並んで食べるだけの生活も一週間ほど経って、

「今日はいつもより荷物多いけど、どっか行ってたの?」

 会社鞄とおにぎりと、もう一つの荷物を指さして詩乃が言う。

「逆だよ、今から行こうって思って」

「一人で?」

「いや、詩乃と」

 は? とポカン顔の詩乃に説明を続ける。

「この前、人目に付きたくないって言ってたろ。だからそういうところに一緒に行こうかなって。というわけで行こう、海」

 今日は午後休をとったから、いつもより時間があった。かばんの中には気分だけでもと、色々掘り出してきたものを詰めた。流石に海パンは置いてきたけども。

「海? 今、冬だよ? 寒いよ?」

「夏だと人多いしさ。ま、泳ぐわけじゃないから」

「そういう問題でもないでしょ」

 そんな文句を言いながらも、結局詩乃はついてきた。人にすれ違いそうなときは手をつないで歩いた。汗ばむ手の感触に、詩乃という存在をしっかりと感じていた。


 波がザパンとなるのを見て、海だーと叫ぶような年齢でも季節でもない。そしてこんな真冬に来るやつなど、当たり前のように俺ら以外にはいない。見上げると、空は薄暗く、灰色の雲が覆っていた。

 それでも波打ち際にふわりと浮かぶ彼女を見て、来てよかったと思えた。

 海の家も、もちろん看板もなくシャッターが閉まっていたので、この前自販機で飲み物買ったときも選んでいたのを思い出して、缶のおしるこを2つ買った。

「寒くない?」

 そのうちの一つを詩乃に渡しながら聞く。

「寒いに決まってるでしょ、まったく。よく思いついたね」

「まあね。色々考えたんだけどさ。まずは海かなって」

「その色々が怖いんだけど。んー、一応、ありがとう……?」

「じゃ、帰ろっか」

「むー。早くない? 折角来たのに」

「他にすることもないし。なにより寒いからな」

「それもそっか」

 そんな会話で海をあとにした。冷めかけたおしるこを飲み干してゴミ箱に捨てると、どちらかがふと、

「手、あったかいね」

 なんて言い出して、それから手をつないでいた。


 海からいつもの山への帰り道、詩乃に気になっていることを聞いた。

「今頃っていうか、今まで聞くに聞けなかったんだけどさ。詩乃はどうしてそんなに浮いていられるんだ?」

 幽霊ではないという彼女。ではなんで浮いているのか。なにか特別な事情があるとしか考えられなかったけれど、それが何かはさっぱりわからなかった。

 詩乃は空いている方の手で首の裏を掻いて答えてくれた。

「ニュートンが発見したのは、実は引力なんかじゃないんだよ」

「え?」

 あまりに突拍子すぎて頭の整理が追い付かない。

「人間はね、他人からの期待、プレッシャー、その場の空気なんかに押されてるから地面に足をつけているんだよ」

「そ、そうなのか」

 自分の足元を見て、それしか言葉が返せなかった。

「そう。ニュートンの前でリンゴが落ちたのも、誰かがリンゴ食べたいなって思ったからなのかもね」

「そんなものなのか?」

「うん。あとは、赤ちゃんがハイハイなのもそう。あれは周りの大人の愛情なんかの気持ちに押されているからなんだよ」

 なるほど。立ったばかりの赤ちゃんがよく転ぶのもその理屈だと、少し納得だ。

「自分で言うのもなんだけど、俺だって誰にも期待されてないと思うぞ」

 もちろん全くないとは言わないが、最後に親と会ったのなんてもう何年も前だし、連絡すらまともに交わしてない。

「会社員なら上司からの期待があるんじゃない? 責任押し付けられるのは上司だからね」

「そういうのも含まれるのか」

「あとは、私もおにぎりもらえるかもーって本島さんにちょっと期待してたり……?」

 ハハと笑う詩乃を横目に、それくらいならいくらでも買うよと返した。

 それに、と詩乃は言う。

「全く期待されていない人なんてそうそういないから、誰も気づかないだけなんだよ」

「じゃあ……」

 じゃあ詩乃は。と言いかけたとき、詩乃の表情を見ると言葉が繋げなかった。いつの間にか手も離れていた。からっぽのぬくもりを握りながら、詩乃の顔を見上げる。

「幽霊の目撃情報も大体は私と同じような感じなんじゃない?」

 もっと話を聞きたかったが、詩乃がそれでさー、と明るく話題を変えてきたのでこの話は一旦ここまでとなった。祠に着いて、じゃあまたと別れてモヤモヤしたまま夜を過ごした。


 そしてまた、おにぎりを一緒に食べてたまに出かけるくらいの日が、半月ほど過ぎていった。

「次はどこに行こうか」

 詩乃と行く場所を考えるのが、だんだんと楽しくなってきた。詩乃もだんだんと図々しく言ってくるようになって笑顔を見る時間も増えた。わがままの殆どは人混みにあたるから、あまり実現させてやることはできなかったけれど。また今度なと言いながら、その今度が来るのはいつになるのか、検討はつかなかった。


 しばらく二人でお出かけをしていて嫌でも気づいてしまったことがある。それは詩乃が今まで気づかれなかったのは、どうしてかということ。人が少ないといっても限界がある。山でもそうだ。話しかけてきたのは詩乃からだったけど、現に俺もこうして会えているわけだし。

 それに服装だっていつも同じ制服だった。

 やはり詩乃は生きていないんじゃないか。そう考えるだけで胸が苦しかった。


「今日はうちに来ないか?」

 そして気づけばそんな提案を詩乃にしていた。

「へ?」

 間抜けた声とまぬけな顔の詩乃に言う。

「いや、山に夜一人だと寂しいかなって」

「とか言って、寂しいのは本島さんの方なんじゃないの」

「まあ、そうかもな」

 別にごまかそうとはしなかった。それよりも詩乃といられる方が大事だった。

「んー、いいよ。じゃあさ、ちょっと自分の家に寄ってもいい?」

「もちろんいいけど、なんで?」

「女の子には色々あるんだよ」

 好都合だった。前々から考えていたことを実行に移すチャンスだと思った。


 詩乃の家は意外にも祠から近いところにあった。制服からしてもっと遠くを想像してたんだが。制服マニアというわけでもないが、通勤時に見たことないのは事実だった。

「じゃあとってくるね、ちょっとだけ待ってて」

 詩乃が玄関をくぐったのを確認して現在地住所、とスマホに打ち込む。検索履歴に残しておけばいろいろと調べられるだろう。

 この辺で事故が起きなかったとか。

「お待たせ!」

 手を振りながら詩乃が戻ってきた。

「何持ってきたの?」

「ナイショ!」


「汚い場所でゴメンな」

 玄関をくぐり、電気を照らす。

「全然、男の一人暮らしって感じ。なんというか、もっと汚いと思ってた」

 部屋を見渡しながら詩乃は言う。

「まあたしかに。特に趣味とかもないからかな」

「へー、なんか意外。海行くときはなんか色々持ってたのに」

「あー。あれは母に言って送ってもらったんだよ」

 なんでこんな時期に? と母から色々と詰められたことは内緒にしておく。

「そーなの?」

 そういうもんなんだよ、と布団を敷いて部屋を出た。

「じゃあシャワー浴びるから」

 入ってこないでよ? とドアの向こうの詩乃に言う。あたりまえでしょーと声が帰ってきた。


 シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、詩乃が少しニヤついているように見えた。

「どうした?」

「これ、見つけちゃった」

 そう言って詩乃が取り出したのは一枚の写真だった。

「よく見つけたね」

 自分でもどこにしまっていたか忘れていたやつだというのに。捨ててない過去の自分に少し驚いた。

 詩乃は得意気になりながら言う。

「ふっふー。本当はエロ本でも出てこないかと探してたんだけどね」

「今どきは何でも電子だからね」

「ふーん、てことはスマホにはあるんだ」

「まあまあ、そんなことは置いといて」

 と写真を詩乃の手から取り上げる。

「いつの写真? これ本島さんだよね、隣の女性は?」

 詩乃が矢継ぎ早に質問をしてくるので

「二年前、かな」

 とだけ答えて、写真を裏向きにしてテーブルにおいた。

 それから布団に横になると、詩乃も枕横に来ていろんなことを話した。その中でも、昔の詩乃の友人とのエピソードは聞いていて楽しいものだった。ただ、この前の夏は何してたか聞いても、うーんと考えるばかりで何も話が出てこなさそうだったので、じゃあ、と前置きして自分の昔話をした。大人の昔話なんてつまらないだろうに、詩乃もニコニコしながら相打ちを打ってくれて。

 その日の夜は、部屋が少しばかりいい匂いがする気がした。いつの間にか、詩乃の声も遠くなり、おやすみ、と微かに詩乃の声が聞こえて眠りに落ちた。


「おはよう」

 目が覚めると、少し甘い匂いがした。それが昨日買った菓子パンのにおいだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。

「あ、おはよ。ごめん、勝手に食べちゃった」

「いいよ、朝はいつも食べないし。詩乃のために買ったやつだからさ」

「そう? ありがと」

「俺は仕事に行くけど、ずっとここにいる?」

「うーん、そうしよっかな。いってらっしゃい!」

 誰かに見送りされるのは、嬉しかった。いってきます、と声を出すのも久しぶりのことだった。


 会社の休憩時間に、残しておいた住所の付近で事故が起こってないか調べてみることにした。

「さすがにないか……」

 もしかしたらもっと遠くで事故をしたのかもしれないと思いあたり、無意味なことだったのかもと落胆する。それでも諦めずにスマホをスクロールしていると一つのページに目が止まった。

「被害者等通知制度……?」

 詩乃は「親に期待なんかされてない」と言っていたが、万が一。もしかしてを考えて仕事が終わってから詩乃の家へ。それらしい郵便物が入っていないことだけ確認して、手前で行ったり来たりしていると、

「えーと、うちになにか用?」

 と話しかけられた。不審すぎたか。

「あ、すみません、怪しいものではなく」

 と言っても完全に怪しいよな。通報されたら困るけど、どうしようか。

「もしかして詩乃の担任の先生かしら?」

 こんな遠くまで、とかしこまる女性。

「えっと違いますけど、詩乃のご家族の方ですか?」

「はい。詩乃は私の娘ですが……」

 できるだけ自然を装いながら笑みを向けた。

「簡単に申しますと、私は詩乃の友人でして」

 嘘ではない。怪しさが消えるかと言われると、そうではないと思うが。

「あなたが? 失礼ですがおいくつですか?」

「えーと……」

「とりあえず中で話しましょうか。寒いですし」

 お互いに自己紹介を終え、詩乃が浮いていた話は避けながら今までのことを過去形にして簡単に話した。詩乃の知人ということもわかってくれたのか、少しだけ表情が柔らかく見えた。

「詩乃は、半年前から入院してます」

「半年前、ですか」

「ええ。ずっと。いつ目を覚ますかわからないってお医者さんも言ってました」

「そうだったんですか」

 浮いた詩乃に会いました、とは言わないほうが良さそうか。半年もあそこに一人でいた詩乃を思うと、胸が苦しくなった。

 頂いたお茶を飲んだあと、

「ありがとうございました。なにかあったら教えてください」

 とだけ伝えて家を出た。その夜、明日このことを詩乃に伝えるか否か。頭の中でぐるぐるさせながら風呂でのぼせて、詩乃にも心配されてしまった。


 一晩考えて結局伝えることにした。勿体つけてもしょうがないだろうと思ったからだ。

 家に帰り、カップラーメンができるのを待ちながら昨日の話をかいつまんで伝えると、詩乃の顔は怒りより哀しみにみちていた。そして

「気づいてたんじゃないのか?」

 と聞くと、詩乃は首の裏を掻いた。最近になって、これは大事なことを言う前にやる癖なんだと分かった。

「バレちゃった?」

 出会ったときの笑いとは違う、ハハと乾いた笑いをして詩乃は続けた。

「まあね。嫌でもそりゃ気づくよ。誰も私を見てないことなんて。でも私はさ、嬉しかったんだ。本島さんと出会えて。色んな所に行って。最近は楽しかった。でも、」

 そんなこと続けてていいのかなって。と言って詩乃はうつむいた。

「過去のことを全部言っちゃうと本島さんと会えなくなると思って、これからの話だけしかしなかったんだ」

 詩乃は遠くを見つめながら話を続けた。俺にはそれが、決心付いたようにも見えた。

「私ね、本当はいい子じゃないんだよ」

 その言葉に驚きながらも、詩乃の言葉を待った。詩乃の顔を見て、そんなことないよという言葉を飲み込んだ。

「お母さんはさ、私に『いい子』っていうレッテルを貼って育てたんだと思う。実際反抗とかしなかったし、ワガママもそこまで言わなかったほうだと思う。でも、本当は甘えたかったんだって気づいてから、ちょっと生きにくくなっちゃって……」

 詩乃は終始うつむいたまま、そう言い終わると、

「こんな話してごめんね、本島さん……」

 と言ってふわふわと家から姿を消した。呼び止めようとはしたが、不意に見えた潤んだ瞳を前に、言葉が出なかった。そんな詩乃を見て、俺の前でもいい子でいようとしていたのかもしれないと、今更ながらに気づいた。そしてまた何もできなかった自分が、悔しかった。


 翌日、詩乃の家に向かった。少しためらいながらもインターホンを押すと、すぐに母親が出てくれた。

「はい、どちら様?」

「先日話した本島です、少しお母様に話があってきました」

 上がってくださいと言われたので、玄関をくぐると居間に通された。

「それで話って?」

「詩乃のことなんですけど、実は以前からネット上で文通……というと古いですけど、やり取りをしていて。詩乃はなにかに、その何かは教えてくれなかったんですけど悩んでいたみたいで……」

 としどろもどろに切り出すと、母親は

「それは私のせいかもしれません」

 と過去の話を語りだした。

「詩乃が生まれてすぐに父親は失踪してるんです。そんな私を励まそうとしたのか、詩乃はいつも明るく振る舞っていたので、この子は大丈夫って思っちゃったのかもしれません。もっと話を聞いてあげていれば……」

 と内面を吐き出し、涙した。そんな話までしてくれるほど信用してくれているのは嬉しかったが、何があったのかはそれ以上聞くことができなかった。

 ありがとうございましたとだけ告げて、家をあとにした。その足で祠に向かったが、詩乃は見当たらなかった。

「詩乃、見せたいものがあるんだ」

 少し大きな声でそう呼びかけると、

「何? まだなにかあるの?」

 と困り顔をしながらも出てきてくれた。もう顔も見たくない、なんて言われるかとも思っていたがそこまでではないようで、少し安心した。

「この前、行きたいって言ってただろ?」


 そうして詩乃を連れてきたのはスカイツリーだった。一度詩乃が行きたいと言っていたが、実現できなかった場所の一つ。

「詩乃は外から上がっておいでよ」

「どういうこと?」

「まあ、いいから」

 そう言って詩乃をおいて一人、展望デッキにのぼる。エレベーターが上っていくほどに、不思議と詩乃に近づいていくような感じがした。夜景を見渡しながら、ガラス越しの詩乃に話しかけた。

「まあ、上空からの景色なんて見飽きてるかもしれないけど」

「じゃあなんで?」

「詩乃と同じ目線で景色を見たかったからさ。詩乃はこんな景色を独り占めしてたんだね」

 詩乃は喜びとも悲しみとも言えない顔で、窓に手を当てて、そっかと呟きずっとうつむいていた。詩乃のなんでに答えられていないのは自分が一番わかっていた。


 帰り道、詩乃は段々と浮かない表情になっていった。

「どうして?」

「ん?」

「どうして私を連れて行ったの?」

 さっきと同じ答えではだめなことは詩乃の目が語っていた。

「もうすぐ春が来るだろ? そうしたらイルミネーションも見られなくなるからさ」

「違う、そうじゃなくって」

 詩乃はもどかしそうに口を開いた。

「こんなことしたって、本島さんはなにもないでしょ?」

「そんなことないさ。俺がこうしたいと思っただけだよ」

「そんなことあるよ……」

 妙な沈黙が続いた。そんな詩乃を見ていられなくて、意を決して口を開いた。

「お母さんと話をしたんだ」

「それはこの前聞いたよ」

 それだけじゃなくて、と話を続けた。

「詩乃は知らないかもしれないけどさ、仕事休んでまで詩乃のこと見に来てたって」

 詩乃はうつむいたまま黙っていた。その顔は浮いているからこそ、はっきりと見えた。


「そうだったんだ……。ごめんね、こんなどうしようもない娘のために、わざわざ東京なんて来てもらって。私が、もっとうまくやれていれば……」

 詩乃は本当は優しい子だと俺は自覚した。その証拠が、潤んだ瞳から零れる。

「違うんだよ、詩乃。そうじゃない。そんな風に自分のせいにしちゃダメだ。悪い人なんて、誰もいないんだから」

「そうかもしれないけどさ」

 詩乃は自分を責めないと気がすまないのか、語尾を少し荒らげた。

「みんな。いや、俺も詩乃と話したいんだ。詩乃に同じ高さまで降りてきてほしいんだよ」

 だから今回スカイツリーに誘ったんだという意図は、既に詩乃には伝わっているようだった。


 再び沈黙がふたりに広がる。

 重々しい空気の中、詩乃の唇が薄く開く。

「でも、どうやって……」

「あのさ、詩乃」

「なに?」

「なんというか、一番期待してなかったのは自分自身じゃなかったのか?」

「そんなこと……」

「誰にも期待なんかされてないって、詩乃は思ってるだろうけどな、俺はおまえのこと……その、なんだ……」

 覚悟を決めて、かわいた口を開く。

「俺は詩乃に期待、っていうと重たいかもしれないけどさ。そうだな。ってもうハッキリ言うわ。俺は詩乃が好きなんだと、思う」

「全然はっきりしてないじゃん」

「ごめん、でもさ。俺がこんなにも詩乃を想っているのに、少しだって降りてくる気配がなかったじゃないか」


「それは……」

 そう言いかけたところで詩乃がふらふらと重力を取り戻したように地面に倒れ込む。俺の想いの大きさが原因じゃないことは、顔色を見ればすぐにわかった。


「詩乃? おい詩乃!」

 詩乃の反応がなくなり、徐々に影も薄れていく。まるで、もういなくなってしまったかのように。

 どういうことだ?


 とその時。タイミングよくポケットの電話が鳴った。詩乃の母親からだった。戸惑いながらも冷静を装い電話に出た。

「もしもし?」

「詩乃が……」

 涙ながらの声がスマホから響く。

「詩乃がどうかしたんですか!?」

 俺は苛立ちを隠せなかった。どうしょうもないのはわかっていても声を大きくしてしまう。しかし、母親から返ってきた言葉は予想外のものだった。もちろん、嬉しいほうで。

「詩乃が、起き上がったの……」


 急いで靴をつっかけて教えてもらった病院へ向かうと、詩乃は目を見開いてこっちを見た。

「おはよう?」

「おはよう詩乃。随分とお寝坊さんだったじゃないか。ちゃんと寝れたかい?」

「倒れてからそんなに時間は経ってないでしょ」

「ところで、返事というか貰ってもいいかな?」

「うんもちろん、でも……」

「でも?」

「うちに帰らないと」

「家って前行ったあそこじゃなくて?」

「あの家は伯母のなの」

 佐賀から来ていたという彼女。

「私の意識が戻ったら帰るって話をしてたらしくて、それで……」

 ごめんね、と言いながら詩乃は泣いていた。

「でも、見送り来てくれたらうれしいな」

「もちろん」


 それから二週間が経って、詩乃が帰る日が来た。空港について、まだ時間があるからとお母さんが二人きりにしてくれた。

 お母さんが見えなくなると、詩乃はうつむいて黙り込んでしまった。大丈夫か、と声をかけようとしたが、顔を上げたもう詩乃は笑っていた。俺も袖で目を拭って、笑顔を作る。

「あのさ。私が大きくなったらさ。また会えたらいいね」

「俺から行くのは難しいからなあ……」

 そう答えると少し不機嫌そうに下唇を突き出すのを見て慌てて訂正をする。

「会いたくないわけじゃないよ」

「わかってる、じゃあ私が来るね!」

「待ってるよ、何年でも」

「本当の霊になってないでよ」

 なんて軽口を言いあってる間に、時間が迫っていた。

「そうだ、これ」

 と、袋を渡す。せめてものお土産だ。

「ありがと、何入ってるの?」

「おにぎり。大したもんじゃなくてごめん。飛行機の中ででも食べて」

 アルミに巻かれたおにぎり。少し変な形かもしれないけど。

「ありがとね。じゃあ、また」

 そう言って彼女はゲートの向こうへと歩いていった。見えなくなるまで手を振って。涙は出なかった。


 見上げた空に浮かんだ飛行機雲が、何故か彼女の流した涙に見えた。

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