ジオラマの空

真朝 一

ジオラマの空

頬で雫が音もなく爆ぜた。見上げると、限りなく低い、工場の煙のようなくすんだ色をした雲が、乾ききった夕暮れの町を湿らせようとしている。湿気で息が詰まりそうな空気を少し吸い込んで、雨のにおい、と呟いた。小学校の塩素まみれのプールに似たにおいがする。私は小脇に抱えたスケッチブックを胸の前でしっかり両腕で抱きしめ、アトリエの方角へ走った。湿った風が髪を乱す。物凄い早さで迫ってくる雨雲に気づいた住人たちが、私と同じように走ったり、屋根のある店の前に逃げ込んだりする。雨に降り出されたら、このスケッチブックはおしまいだ。太陽を恋しく思いながら、私は走り続けた。

人の影を失い、地面がうっすらと暗くなっていく。その光景はまるで、町が何か強大な力を持つ人間ではない者に侵略されたようだった。街灯が夕方と間違えて光を灯す。そして、その闇が少しずつ濃くなっていき、比例するように雨のにおいが強くなっていくのを感じて、私は走るスピードを早めたつもりだったが、遅かった。

最初は肌の上に時折冷たさを感じる程度の雫が、いつしかビーズをぶちまけたような雨に変わった。バラバラと、銃弾のような雨粒が襲い掛かる。私はこれ以上は無理だ、と察して歩道の近くの古びた店の入り口にある屋根に滑り込んだ。咄嗟にスケッチブックを確認する。幸い、表紙がほんの少し雨粒にやられただけで、中身は無事だった。アクリルはともかく、水彩画は十分乾かした画面でも、水に濡れればにじんでしまう。

ほっと一息ついてスケッチブックを閉じ、両手で持って空を見上げた。店の屋根から流れる幾筋もの水が、雨の激しさを物語る。テレビの砂嵐のような雨音が少し耳障りで、だけど空気が浄化されていくその過程を見つめるのは、嫌な気分にならなかった。巨大な如雨露となったその空は泣いているようにも見え、地面をひたすらに叩きつける雫の音は雨の騒擾に聞こえたけれど、私は気にしなかった。しばらくは、あの空に関わる事はない。それは身体が重くなった錯覚を感じさせたが、しかしどこまでも飛んでいける自由は、地上を駆け抜けていく自由に恋焦がれる。私はそれを選んだだけの話だ。誰にも咎める権利はない。

後ろで結っている髪のリボンを一旦ほどき、雨粒のついた頭を軽く振ると、雫が少しぱらぱらと散る。日々の手入れを一切怠っていない黒髪を手ぐしで整え、再びリボンで丁寧に結った。蝶々結びを終えた直後、雨宿りをしていた店のドアが突然開き、上部についている大きな鈴がカロン、カロン、と涼しい音を立てて鳴る。

「ジュリー、どうしたんだ。雨に降られたのか」

変な柄の、木の粉だらけのエプロンをした男の子が、ドアノブに手をかけたままこちらを覗き込んでいる。あ、昔みたいだ。私はふと、激しいデジャ・ヴュに襲われた。あの日も、こんなふうに雨が降っていて、こんなふうに店の屋根に逃げ込んだんだっけ。

私は一瞬言葉に詰まったが、その後ためいきをつき、ロッド、少しお邪魔していいかしら、と聞いた。

「この雨じゃ、アトリエまで走っていけないわ」

「もちろん構わないよ。寒いだろう、入りなよ。温かい紅茶をいれるから」

ロッドは雨が入り込まない程度にドアを大きく開け、私を招き入れた。店の中は相変わらず優しいにおいがして、私の鼻を少しばかり狂わせる。エプロンを乱暴に剥ぎ取ったロッドは、アールグレイでいいかい、と部屋の隅の竈の上に薬缶を置きながら言った。私は言葉もなく頷いた。

店の中は学校の教室ほどの大きさがあって、電気はひとつしかなく少し薄暗い。一片の壁を丸ごと覆っている大きな棚には、たくさんの本や紙の類が無造作に突っ込まれていて、ロッドの管理能力の無さを強調している。天井からはいくつも、鳥の剥製や翼の模型がぶらさがっていた。全体的にほこりっぽくて、シンクのすぐ隣にライティングデスクがあるほど、生活というものがひとつの部屋に集約されている。たくさんの紙や服が片付けられないまま放り出されている床を見つめて、一度掃除を手伝ってあげようかな、と頭の隅で思った。いつ来たってこの店は散らかっている。作業待ちの客が何人不快な思いをしたか、考えるだけでため息が漏れた。

彼が竈にマッチで火をつける一部始終をじっと見ながら、もう一度髪のリボンをほどいた。しなやかに揺れるストレートに指を通すと、湿気のせいでどうしてもひっかかる。櫛を持っていないので手櫛で丁寧にもつれを直していると、横からロッドが右手のリボンをそっと取った。

「髪、結ぶようになったんだ」と、手元のピンクのリボンと私の髪を交互に見ながら言った。

「前のショートの方が、かわいいと思ってたんだけどな」

「長いほうがいいわよ。一度伸ばすと、大事にしちゃって、切りたくないって思うようになったし」

「そういう心理は、男の僕には分からない」

「あなただって、十分長いと思うけれど」

ロッドは肩ほどまである自分の髪を触って、女の子みたいに手入れとかは一切しないから、と苦笑した。けたたましい音を立てて湯の沸騰を知らせる薬缶を鉄板から下ろし、彼は二人分の紅茶を入れた。その間に、私は店の中央にある大きなテーブルの前に並んだ椅子の一つに座った。人間を寝かせて並べれば十人は事足りるほどの大きさのテーブルには、縞模様の入った毛並みの美しい子猫が一匹、ふわふわの毛布にくるまって、顔だけを出して眠っていた。私が頭の上を撫でると、彼はそのとろんとした眠そうな目を開けたが、鳴き声がどこか疲れていて、気力が見られなかった。

「シルヴァは今、風邪をひいているんだ」

湯気が立ち上るカップを二つ持ってきたロッドが、ため息混じりにそう言った。私は、かわいそうに、と再びシルヴァの頭を撫でた。彼は声ひとつあげずにされるがままになっている。この湿気で細い毛も重みをもっている。

ロッドは私の前にカップを置き、次いでミルクとティーポットとスプーン、アンゼリカつきの小さなクッキーを乗せた皿を並べた。砂糖はいらないんだったよね、と念をおされ頷いた。カップの中では、薄い茶色と赤色が混じった紅茶が、美味しそうな香りと共に揺れていた。その香りに気付いたシルヴァが、鼻を少しだけひくつかせる。

「君がこの店に来るのは」ロッドが紅茶をストレートのまま口元に運びながら言った。「もう二ヶ月ぶりになるね」

来るというより、雨に降られて駆け込んだだけという方が正しい気もしたが、私は指摘しなかった。そうね、と適当に相槌を打つ。紅茶に少しだけミルクを垂らし、ティースプーンで軽くかき混ぜた。

「まだ翼職人を?」

「それ以外に稼ぎ口はないからね。僕は少なくとも、僕がいる限り、この仕事をやめることはないと思うよ」

「随分熱心ね。小さい頃は、親のあとを継ぐなんて、とか何とか喚いて嫌がってたわがままロッドはどこに行ったのかしら」

「巡りあわせでやってみると、何をしても世界は広く見えるものさ」

年のわりに大人びた笑顔で言い訳めいた言葉を吐かれると、思わず苦笑が漏れた。笑った拍子に、肩の後ろにかけていた髪がするりと滑り落ちる。それをもう一度後ろに払いながら、紅茶を一口飲んだ。ロッドは紅茶を入れるのが上手い。どこでそんな技術を培ってきたのか、分からない。

私は部屋をぐるりと見渡して、優しいにおいを一つ残らず肺に入れようとした。大変な仕事よね、と呟く。

「そうでもないよ。こんな世の中じゃ、もう人間にとっての翼の必要性はなくなりかけてるから、オファーも少ないし、体力的には平気さ」ロッドはそう言いながら、私がテーブルに置いたままだったスケッチブックを勝手に取って開く。

「ジュリーはまだ、絵を描いているんだな」

「趣味だから」

「なかなか趣味を職業には出来ない。例え出来たとしても、職業になった瞬間から趣味は趣味じゃなくなることが多いよ」

「夢のない人ね」

「現実を語っているだけさ」

――人間の世界には、掃いて捨てるほどくだらないものがたくさんあるんだよ、しかもそういうものが日常の中で当たり前になっちゃって、誰ひとりくだらないものへの果てなき投資に気づいていないんだ、その延長が戦争や貧困になるのさ、ジュリー。

初めて出会って数日も経っていない頃、ロッドがそう言っていたのを思い出した。彼は肩をすくめて、そうだろう? と同意を求めていた。

ロッドは私のスケッチブックを一ページずつ、丁寧に眺め、上手くなったな、と言いながらつき返した。身を乗り出した時に彼の綺麗な金色の髪が揺れて、柔らかい木のにおいがした。

「どうかしら。毎日描いているだけの話よ。あなたのように職人さんじゃないから、技術を上げようとも思わないわ」

何か隠されていないか、もう一度スケッチブックを開けながら私は冷たく言い放った。前にふざけて、ロッドにスケッチブックの間に腐った花を挟まれて、開けた時ぎょっとしたことがある。もちろん怒ったが、当人のロッドはけらけら笑って反省の色が見えていなかった。

まだもつれたままの髪をいじっていると、羽の具合はどうだ、とロッドが尋ねてきた。

「悪化させちゃいけないと思ってまったく動かしてないから、分からないわ。痛みはなくなったけど」

「見せてみろ」

椅子から立ち上がる彼を見て、私は髪をいじる手を止めた。羽織っていたカーディガンを脱ぎ、背中の大きく開いたキャミソール一枚になる。長い後ろ髪を全て前に寄せて、胸に力を入れた。羽を動かす筋肉。肩甲骨と胸骨が痛みを伴って震え、私は少し顔をしかめた。

「痛むなら、無理して広げなくてもいい」

「大丈夫」私は手を貸そうとするロッドを制し、背中を丸めた。

肩甲骨が浮き上がり、少しずつ形を成していく。ふわり、と空気が揺れ、天に向かって伸びた翼の骨。その幾筋もの流れにそっている、白い羽。一本一本が真っ白で、細かいものは数万分の一ミリを思わせるほど細く、柔らかい。鳥に例えるなら白鳥か鳩のような、至極健康的な翼。ウィングスパンは両翼合わせて私の身長より少し長いほど。

私は力をこめて、両翼をゆっくりと動かした。その瞬間、右翼の付け根付近に鈍痛が走り、やっぱりまだ痛い、と呟いた。

「痛くならない程度に、一日何度かは動かさないと、胸骨がなまるぞ」

ロッドは私の背中にまわり、右翼の付け根の羽を一本一本そっと掻き分けた。そこの一番太い骨には包帯が巻きつけられてある。二ヶ月前、私はアトリエの脚立から落下し、その部分を骨折してしまったのだ。普通の医者に看てもらうわけにもいかないので、以前から世話になっている若手の翼職人のロッドに治療をしてもらっている。

無造作に巻きついた古い包帯をはずし、新しい包帯をつけてくれた。付け根をマッサージし、大分良くなってきたよ、とロッドが言う。

「さすが、自然治癒力も人間とは違うね。天使の身体の構造には詳しくないけれど、ここまで早いのはジュリーだけだな。若いからか、それともそういう体質なのか」

「さあ、どうなのかしら」と、私は肩をすくめた。

どこか人工的な感触を残すきしみを堪えながら、再び羽をしまった。抜けてしまった羽が何本か、床に散らばる。ロッドはカーディガンの上から私の肩甲骨を指で押し、丁寧にマッサージする。あと数週間もすれば、飛べるぐらい治るよ、と言いながら、彼は私の髪を結っていたリボンをさりげなく、するんとほどいた。

「それと、これ、結ばない方がいいと思うよ。ジュリーはまっすぐなストレートの方が似合うから」

彼はそう言って、ほどいたリボンを私の手に握らせた。一瞬、雷鳴が轟き、シルヴァが目を覚まして窓の外を見た。雨粒が強く窓を叩く。激しくなってきたな、とロッドが呟いたが、私は返事をしなかった。



夜になっても、傘を差してもあまり意味がないと思うほど雨足は激しく、一旦外に出てみると道路が数ミリの洪水になっていた。私は仕方なく、ロッドの店に泊まることにした。骨折の治療の初日にも、絶対安静のままここで一晩を過ごした事がある。

寝床を貸す代わりに飯を食わせる、という等価交換どおりに私はロッドと自分とシルヴァに夕食を作り、とりとめもない雑談を交わしながらそれを食べた。もうすぐ十六歳になろうかというロッドは平気で酒を飲んでいた。風邪をひいているシルヴァは、決して急がず、ゆっくりと温かいスープを舐めるように味わっていた。

「戦争が始まるぞ」と、向かいに座ったロッドはフォークで私を指しながら言った。

「何年ぶりかの世界大戦だ。ようやく僕ら職人の出番が出てきたところだな」

「そうもいかないんじゃないかしら。あなたがオファーを引き受けるのは、全ての死者や天使相手じゃないんでしょう。戦争で死んだ人間なんて、一般人よりきっと兵士の方が多いわよ。人殺しに翼を作っちゃいけないわ」

「爆撃を受けた一般人が相手になる」

「それって、罪の無い被害者を増やすことを推奨してるのかしら。ひどい人」

冗談だよ、とロッドがけらけら笑う。もし本当に開戦すれば、確かに翼職人たちの仕事は増えるかも知れない。彼は決して、翼を失ったすべての人間を相手にしているわけじゃない。

翼の設計は、もはや現代では必要とされていない。職人の存在がすでに希薄になっていることも要因の一つだが、文明の発達につれ神秘が科学にとって変わったこの時代では、そもそも天使自体が人々から忘れ去られている。翼を作る意味が人々には理解できない。私たち天使の部族には由々しき自体だ。

元々翼職人は世界中に大勢いて、天へ召される全ての人間の死者のために翼を作ってきた。死を迎えた人間が天国へ辿り着けるように。だが、科学技術の発達と共に死後の世界や神の概念は奪われ、職人の道を歩む若者が減り、同時に職人の技を伝える人間が過去の戦争で何人も亡くなったこともあり、現在ではこの技術を継いでいる人間は国内にも数人しかいない。幸いにも、ロッドの母が彼に幼い頃から翼職人になるための技術を教え込んでいたので、ここ均衡で唯一の若手職人として名をあげることが出来た。

「どうして、こんなに人数が少なくなっても、職人は人間相手に翼を作ろうとするの」

もう何度繰り返した疑問だろう。ロッドは顔色一つ変えずに、全ての人間には元から翼があるんだよ、と同じ答えを返した。

――生まれたときからみんな翼を持っているんだ。人は最初は天使だからね。だけど、赤ん坊は成長するにつれ「人間」になっていく。必要性を失った翼は消えてしまう。人間の愚かさの根底はそこさ。アダムの原罪の逆だよ。けれど、人間は死んだらまた天使になる。もう一度翼を持つんだ。その過程でこれまで僕ら職人が翼を作ってきたのに、職人技の必要性までなくなった今の世の中じゃ、誰も翼を作らなくなって、天使になりきれない人間の魂がいつまでもこの世界をさまようんだ。

「神秘を科学で解明しようだなんて、馬鹿げた話だよね」

熱いスープを啜りながら肩をすくめて呆れるロッドを見ながら、私はぼんやりと、昔の事を思い出した。この世に生を授かったばかりの赤ん坊の背には翼がある。だけどどの人間にもそれが見えていない。やがて赤ん坊の翼は月日の経過と共に姿を消してゆき、最後には完全な「人間」へと変貌を遂げてしまう。その愚かな過程を、私はこれまでいくつもじっと見つめていた。汚れた魂は、神秘をも奪ってしまう。何が世界から神の存在を消し去ったと言うのだろう。私たちが人間の世界で見ているのは、嘘の塊に過ぎない。

神が信じられていた時代は、翼職人がどれだけ世界を救ったか、現代の人間は誰も知らない。科学は翼を実験台にして、きらきらと光る全てのものの上を踏み歩いている。空を軍機が駆け抜けるこの時代では、諦めるしかないのか。

ロッドの不満も分かるが、私にはどうすることも出来なかった。私たちだって、翼職人の減少で苦しめられている。

解決のしようがない問題よ、と私は呟いて水を一口飲んだ。頬を膨らませるロッドの表情を、私は直視出来なかった。彼の気持ちだって痛いほど分かるからだ。普段ふざけてばかりの彼だって、翼を作る職人としての誇りが高くある。決して稼業としてだけの理由でやっているわけではない。

「もし、翼を誰も作らなくなったら、死んだ人間はどこに行くのかしら」

ロッドにふったつもりだったが、彼は一瞬手を止め、テーブルをじっと見つめただけで、何も答えなかった。聴こえないふりをして黙々と食事を続けるロッドの、少し伏せた瞳が悲しく見えて、私は言葉を失った。これから戦争が始まる。その時、彼はどうするのだろう。

必死でスープを舐めていたシルヴァがにゃあ、と私の方を見て鳴く。どうしたの? と訊きながら彼の顎をくすぐっていると、向かいからロッドの視線を感じた。私は気がついていないふりをして、シルヴァの頭を撫で続けた。


シャワーでさっとすすいだだけの髪をタオルで拭きながら、ロッドに借りたワイシャツに片手で袖を通した。サイズが大きすぎて、袖口から手が出ないばかりか裾が膝近くまで長い。タオルで髪を挟んで水気を取り、決して強くこすらないよう注意しながら髪を拭く。東洋人さながらのこの黒髪は、純血の天使には珍しい。せっかく伸ばしたのだから、痛めたくはない。

脱衣場から出て廊下を裸足で歩いていくと、深夜の外の強い雨音がはっきりと聞こえる。この豪雨は朝まで止みそうにない。覗き込んだ店の暖炉の前で、テーブルの椅子を持ってきたロッドが座ってじっと火を見ていた。私は何も言わず室内に入り、床に散らばった紙を踏まないように注意しながら暖炉に歩み寄り、薪を一本取って火の中に放り投げた。シャワーを浴びたばかりだから肌寒い。私は顔を上げて、前髪の間からロッドを横目で見た。彼の視線はひどく虚ろで、現実と空想のどちらを見つめているのか分からなかった。彼の美しい金色の髪と肌が、炎の明かりに照らされて橙色を帯びている。

私は椅子に腰掛けたままのロッドの傍に立ち、膝に手をついて背をかがめた。今私の存在に気がついたように顔を上げるロッドを見つめる。互いに声を発しない空間で、薪が燃える音がバチバチと高く響いていた。

「戦争が始まったら、あなたはどうするの」

ぶかぶかのワイシャツの裾から胸元が見えないかと思ったが、あまり気にしなかった。ロッドは虚ろな目のまま少しだけ笑い、どうしようとも思わないさ、と答えた。

「僕たちの役目は終わりかけている時代なんだ。数年前の第一次世界大戦で何人の翼職人が死んだと思う? そして現在、僕のような若者が何人、職人の道を所望していると思う? 時代は変わったんだ。かつてのように、人間は聖なるものを信じようとしないんだ。別にそれでいいと思うよ。人間が翼にとって変わるものを科学で作り出すだけの話だ」

理屈っぽく、それでも寂しげに語るロッド。どこまでも続く諦念が見え隠れするその言葉を、私は信じようとしなかった。幾分体格の大きいロッドの身体を抱きしめる。彼は椅子に座ったまま、動こうともしなかった。私は彼の肩口に、何も言わず顔を埋めた。私たちはそうやってしばらくの間、言葉を交わそうともしなかった。口を開かずとも、互いの考えは伝わっていた。

「ジュリーはこれまでと同じように、人間に混じって暮らしていけばいいじゃないか」私の生乾きの髪に指を通しながらロッドが静かに囁いた。

「君のような子に翼を作ることができて、僕は嬉しいよ。君はそれでいい。そのまま、生きていけばいい。翼の必要性を失った人間なんて、どうせいつかは滅びる運命にあるんだ。君は空から、それを見ていればいい」

「私に見捨てろというの?」

顔を上げずに、彼の背中を見つめて喚いた。ロッドが苦笑するのが気配で分かった。

「道は君が決めるものだ。君には立派な翼がある。一度失ったものをもう一度取り戻したじゃないか」

「この翼は、あなたが作ったものよ。私が自力で取り戻したものじゃないわ」

「だけど、今は君の所有物だろう、ジュリー。すべての天使には翼があって然るべきなんだから。僕はきっかけを作っただけさ。元は天使だった人間が今は天使になることを拒んでるんだから、君のような子がどれだけ大事か、君は気づいていない」

翼を知らない人間。どうして人は、簡単に翼を押し潰し、そしてどこまでも飛べる翼を手に入れようとするのだろう。

静かに髪を撫で付けていたロッドが、私の左手首を取った。そこには私が幾度も刻んだ自己嫌悪の跡が深く残っている。ロッドはそのナイフの傷跡を見るたび、ひどく悲しい瞳を向ける。どうしてこんなことをするんだ、とその目がいつも黙って語っていた。

「本当は僕だって」

その先は言葉にならなかった。手首に伝わるロッドの舌の感触。痛みなどとっくの昔に忘れたが、それを知っているのか知らないのか、ロッドは傷跡を舐め続ける。私の心の影を払拭するように、私の罪を許すように。私は手首に力を入れて、彼の舌を拒んだ。二人まとめて暖炉の炎の前に崩れ、獣のように抱き合った。私の身体中を絡めとる、無数の赤黒い傷跡の数々。仰向けの私に圧し掛かり、彼はその傷跡をひたすら舐める。大きすぎるシャツを脱がされ、私は両腕を彼の背に回した。昔の傷跡を舐めても、今が変わるわけではないということは、互いに知っているはずなのに。

本当は僕だって、翼の意味をすべての人に分かって欲しいんだ。

彼の手がそっと、私の肩甲骨に触れる。大空を駆け抜けるその部分。肢体と同化しているその器官は、人工で、しかし作り主の温もりは嫌と言うほど感じている。私にその権利があったかどうかは、まだ分からないけれど。

「私は、翼を失って当然だったのよ」

あなたが私のために翼を作る必要なんてなかった。

最後の言葉は声にならず、ロッドが首筋に強く噛み付いた痛みに、歯を食いしばって耐えた。温かい血が鎖骨を流れていく感触を、気持ち悪いと思いながら、何かを思考からもみ消すように集中して味わう。人間という生き物はみんな、こんな風に肉体を引き裂かれる強い痛みと、何かを求めてもそれを失ってしまうことの恐怖に耐えながら、それでも歩き続けているんだ。




「ごきげんよう、ジュリー。しばらくぶりね」

その声に驚いて危うくまた脚立から落ちるところだった。本棚の淵を掴んで身体を支え直し、慌てて地上を見下ろした。柔らかそうなワンピースに身を包んだミッシェルが、こちらを見上げて手を振っている。アトリエのドアを開ける音も聞こえなかったので、いつ入ってきたのかと混乱した。私は本を片付ける手を止めて、脚立の半分ほどから飛び降りた。笑顔で出迎えるミッシェルの頬に軽くキスをする。

「随分長い間見なかったじゃない。いつ空爆が起こるか分からないんだから、あまり遠くをうろついちゃ危険よ」

「そうは分かってるんだけどね。ジュリー、元気かなって思って、様子を見に来ただけよ。羽を骨折したって手紙をもらったし」

アトリエに遊びに来る人間のうち、私が天使であることを知っているのはミッシェルとロッドだけだ。私が信頼を置ける人間のひとり。彼女はふわふわのウェーブの髪を揺らして、持っていたバスケットを手渡してくれた。中にはいくつかのサンドウィッチとスコーンとパイ、それに林檎とフルーツナイフが入っていた。

彼女が入ってきたあとの開けっ放しの扉を閉め、何もなくてごめんね、と肩をすくめた。アトリエ内は、ロッドの店のようにお茶をすぐに入れられるような環境が整っていない。

「いいのよ、気を使わないで。どうせアトリエを掃除するのに必死で、お昼なんて食べてないんだろうと思って、差し入れを持ってきただけよ。一緒に食べましょう」

「わざわざごめんね、本当に。でも、ミッシェルの作るものはみんな美味しいから、羨ましいわ、料理が上手で」

そう言いながら、私はバスケットの中に入っていた花柄の紙ナプキンを広げ、その上にミッシェルの持ってきた食べ物を盛って机に並べた。机の上は汚れた画材で埋まっていて、スペースをあけるために何度もそれらを押し退けなければならなかった。

来るたび、素敵なところね、とミッシェルが感想を言ってくれるアトリエは、彼女が言うほど綺麗でも何でもない。教会ほどの大きさがある建物の壁すべてを牛耳っている、私の描いた絵の数々。もう何枚あるのか数えるのも億劫な量だ。キャンバスごと吊っているものから、画用紙に描いただけの水彩画。ただ趣味で描いているだけの絵たちを並べ、建物の外に看板を立てている。ふらりと立ち寄ってくる客のために適当に値段をつけ、気に入られたなら売る、それだけの場所だ。

がらんとしていて何もない部屋の隅に備え付けられた机だけが画材だらけで、私は大概の書き物の作業をここでする。アトリエの反対側にある扉から入れば、そこはベッドとキッチンとシンクとテーブルがひとつずつある部屋で、そこが私の居住スペースだ。人間の世界で生きるのに、贅沢はいらない。ロッドほど散らかっていない代わりに、生活臭に欠けているといつも言われる。

「絵を描くの、楽しそうね。イーゼルに向かってるジュリーの表情はいつも生き生きしてるもの。憧れるわ」

狭いテーブルに向かい合って座り、サンドウィッチを食べながら、ミッシェルが笑顔で言った。どこか羨んでいる色が見えたが、私は否定した。

「でも、ミッシェルは絵より上手なものを持っているわ。あなたはヴァイオリンをしているでしょう。私は芸術の分野でしか得意なものがないから絵を描いているけれど、あなたは音楽が得意ならその道を追求するべきよ」

「そうね、確かにヴァイオリンは私の得意科目よ。でもこれだって、親に押し付けられて習っているものだから、何か本気で楽しくやってる気分になれないのよ」

「ずっと続けていれば、楽しくなるわ。私だって、最初は絵なんて興味がなかったけど、今じゃ生活の種だし」

羨ましいなあ、と笑うミッシェルをかわいいと思った。彼女は美人だし、コンサートで衣装を着てヴァイオリンを優雅に操る彼女は本当に美しい。小さい頃、十五ポンドのヴァイオリンから練習を始めたというにしては、彼女は上手すぎた。才能がある、と私はすぐに見抜いていた。初めて彼女の「アヴェ・マリア」を聴いた時の感動は忘れない。

どちらかというとフリージャズ派の私がクラシックの世界に首を突っ込むようになったのは、ミッシェルの演奏があったからだ。そして逆に、絵が苦手だったミッシェルが油彩画を始めたのも、私の影響だという。面白い、と思った。反発しあうだけが人間じゃないと思い知らされた。

「骨折はもう大丈夫なの?」パイを少しずつ食べながらミッシェルが不安げに訊く。私はつとめて明るく振るまった。

「平気よ。ロッドに看てもらってるから。彼、鍛冶屋も翼の設計も、どっちも仕事が入らなくて困ってるらしいけど。戦争が始まったら、彼も大変よ」

「たくさん翼を作らないといけないから?」

「ええ、それもあるわ。だけど今、職人の絶対数が極端に減ってるから、死者全員に作る、ということはないの。彼は基本的に、人殺しに慈悲はないから」

怖いわね、と苦笑するミッシェル。彼女は私たち天使の存在を信じているし、純粋でとてもいい子だ。彼女のような人間が増えてくれれば、といつも思うのだが、現実はそうもいかないらしい。徴兵が始まり、何度も空襲警報が鳴り響く。ほとんどの人が大人になるに連れ翼を失ったこの世界で、彼女だけはまだ白くてつややかな翼を持っているのではないのだろうかと、時々首をかしげる。

「だけど、彼もいつか、全ての人に翼を作れるようになるわよ」

とても綺麗な笑顔でミッシェルが言う。確かにそうかも知れないけれど、私は首を振った。彼の目的はそうじゃない。職人が翼を作るのは、死者を天へ送り届けるためだけではない。

ロッドがいつも熱弁している。――みんな最初は翼を持っていたんだから、本当は人間誰しも、自分で翼をもう一度生み出せる。自分自身の力で。僕らはそのきっかけに過ぎないんだ。

翼職人の存在する理由に、誰も気づいていないと彼は苦笑しながら言う。

「私たちは」椅子の背もたれに体重を強くかけながら、ミッシェルを見つめて呟く。「人間をあまりにも知らなさすぎるわ」

「天使が?」

私は頷く代わりに苦笑した。ミッシェルが小首を少しかしげる仕草がかわいくて、余計に吹き出してしまった。彼女が、何よう、と不服を漏らす頃、アトリエの正面ドアが開いた。

「あら、いらっしゃい」

後ろ手にドアを閉めて入ってきたのは、他の誰でもないロッドだった。ワイシャツにジーンズというラフな服装で、長めの金髪を後ろで結っている。彼の髪の長さはこの年代には十分長髪といえるほどで、女のようだと周囲によく笑われている。ミッシェルが、お久しぶり、と手を振ると彼も笑顔で振り返した。しかし、その表情はすぐに剣呑なものに変わり、彼は、聞いたか? と開口一番訊ねた。

「近くの町が空襲でやられたらしい。ついさっきの話だよ。一面焼け野原で、手におえない状態なんだって。ここもそのうち爆撃の対象になるぞ」

「危ないわね、町の人は非難し始めているのかしら」

「まだそれほど詳しい情報が伝わってないからね、行動を起こそうにもみんな、どうすればいいか分からないらしいよ」

「私たちは逃げるべきなのかな」と、ミッシェルが不安げな様子で私を振り返った。

数年前の世界大戦の時は、この町は一度限りの爆撃で済んだ。それも復興が早く、問題などそれほどなかった。しかし、近隣が大破したと言われれば話は別だ。私はミッシェルに、落ち着いて、と諭した。

「ミッシェルは、もっと田舎の方に親戚がいるじゃない。戦争がひどくなったら、楽器と大事なものを全て持って、そこへ逃げた方がいいわ。カントリーサイドは空爆の対象にはならないから」

「ジュリーとロッドはどうするの?」

「私たちは大丈夫よ。私はともかく、ロッドはここにいなきゃいけないから、自分を守る術ぐらい十分知っているわ」

それに僕は店の下に防空壕を持ってる、とロッドが得意げに言った。その言葉を聞いて安心したのか、ミッシェルはほっと胸を撫で下ろした。

戦争が過熱してゆく。爆撃はこれから回数が増え、被害も以前の大戦よりひどくなるだろう。私はどうしても、同族同士で争いあう人間という生き物の考えが理解できずにいた。仲間同士で殺しあうのは人間だけなのに。

お金も時間も命も、すべてくだらないものに投資されている。

私は立ち上がり、靴を脱いで、アトリエのドアを開けた。肩越しに振り返って、様子を見てくる、と二人に伝えた。

「ちょっと待てよ、ジュリー」ロッドが慌てて止めに入る。「まだ敵機が上空をうろついているかも知れないんだ。彼らに天使の概念はない。君が飛んでいたら、間違いなく撃ち落とされるぞ。それに、まだ骨折が完全に直ったわけじゃないんだから」

「平気よ。私を甘く見ないで。骨折のことはもう大丈夫だし、簡単に殺されるほど柔な造りになっていないわ」

夕方になっても帰ってこなかったら、諦めてね。私は最後にそう伝えて、胸骨に力を入れて翼を広げた。大きく沸き起こる風。外に飛び出し、強く地面を蹴った。不安げな表情で見送る二人を背に飛び立つ。重力に逆らうと、全身の血が一気に引いていくような感じになる。裸足に受ける涼しい空気が心地よいと思いながら、風の流れにそって翼を平行にして空気抵抗を減らし、煙のにおいのする方向へ飛んだ。




人間に憧れていた。

私は、馬鹿だ。生きていく意味も価値もないし、死んだほうがいい。誰でも一度は思うことだ。どうして私は生きているのだろう、と。幾度自殺を図っただろう。私は生きるに値しなくて、翼を持つに相応しい天使じゃない、そう思い続けていた。

天使にとっての「死後の世界」である人間の世には、翼が存在しない。地上を侵略したこの種族は、翼がないままその重い身体を引きずって生きている。感情豊かな人間が翼を失ってしまうという事実が不思議で仕方がなかった。何百年も昔は、人間も翼と共に生き、そして死んでいたのだと誰かが教えてくれたのに。何故人間は翼を自ら失うのか。この種族の愚かな生き方と孤独な死に様、それは私の「自己嫌悪」の心を嫌というほど刺激した。

私は、天使としては生きていけない。私は翼を持つ資格がない。本当に翼が必要なのは、紛れもない人間なのに。どうして私は、翼を持ちながら、こんなに「天使」に興味がないのだろう。

かれこれ三年ほど前のことだろうか。私はこれまでいた天上の世界を飛び出し、人間の住む地上へ逃げた。そして私が最初に行動をとったのは、翼をなくすこと。どこにいるのかも分からない状態で、誰もいない空爆後の廃墟の町で、翼を焼いた。今でもはっきりと覚えている。神経を裂かれる痛み、燃える羽毛と骨、私は廃墟の中心で、叫び声を上げながら、中身が空洞と化した骨をへし折った。木の枝が折れる時と同じような音がして、かつて翼だった物体は黒焦げになって粉々に砕けた。その日、私は「生まれた時にすでに持っていた翼」を自らの手で壊した。当時の町の風景、焦げた匂いのする風、よどんだ空、すべてを思い出せる。

人間の世界は、天使の世界と何も変わらなかった。人々は日々の生活のために時間を費やし、子供を育て、人を愛し、まだ見ぬ明日に思いを馳せながら眠る。ただ違うところは、争うこと。人間は勝者のいない戦争を繰り返し、人を殺し、憎み合い、恨む。そして何より、翼がない。生まれたばかりの赤ん坊は天使のように純粋で、白くて美しい翼を持っているというのに、人を愛し恨み悲しむことを覚えてから翼を失う。

天使にも死はある。死んだ天使は、人間の世界に生まれ変わる。天使だった赤ん坊が、成長するにつれ人間になる。そして死んだ人間は、天使になる。世界を取り巻く輪廻転生。延々と続く翼のサイクル。神が人間の世界でも生きていた時代では、至極当然と続けられた事実だった。

そして、人間が死を迎え天使となる過程で、天へ送り出すために、人が一度失った翼を作る人間の職人がいるということを知ったのは、私がこの世界に住み着いてから数日後のことだった。

私が降り立った人間の時代に、神はいない。人間の心から神が消え、誰も神秘を信じようとしない。これまで続いてきた、死んだ人間が天使となり、死んだ天使が人間になるというサイクルが、翼職人の減少で崩れかけようとしている。天使の存在を忘れた人間の魂は再び翼をひろげることが出来ず、永久に虚無の中をさまよう。

人間は、あまりにも弱くて、自分で翼を生み出すことができない。

自己嫌悪に陥り、翼を自ら焼き捨て、翼を持たない人間に混じって生きているうちに、そのことに気づいた。




また、雨。気分が悪い。私は雨が嫌いで、このじめじめした湿気を羽の一本一本が吸ってしまい、ひどく身体が重くなる。しかしその雨が、空襲の後の炎を消し去り、転がる死体にくすぶっていた火の命も押し流す。暗い夜空からひたすら降り注ぐ水滴。私は顔に張り付いた髪をかきあげ、崩れ落ちた町を見渡した。爆撃ですっかり廃墟と化した町は以前の活気など完全に失い、建物が全て燃えてしまっていて地平線が見えている。まだ煙が上がっている箇所が見受けられるが、いずれにせよ、ここに命の灯火はない。丸めた紙のようになってしまった町が、爆撃の激しさを物語っていた。

崩れた建物の残骸に埋まるように見え隠れする、無数の人間の死体。肉が焼けるにおいと血のにおいが混ざって嗅覚が麻痺する。ここは地獄だ。誰に恨まれたわけでもないのに殺された無数の命の放置場所だ。一次大戦よりはるかに戦闘能力が発達していることは見るだけで分かる。その愚かさと人間の憎悪の塊が空気中で渦を巻いていて、そのどろりとした感情の勢いに私は一瞬身をひいた。目に見える、人間の心。恨みや悲しみにまみれていて、黒く濁り、これから世界のすべてを同じもので埋め尽くそうとしている。

戦争が激しくなるにつれ、この黒い塊が徐々に体積を増していくことだろう。私にそれを見届ける余裕はなかった。そんなもの、見たくもなかった。この粘ついた感情に、ロッドが作ってくれた翼がまた奪われそうな気がして、私は助走をつけて廃墟から飛び立ち、暗い雨の中、ロッドとミッシェルの待つ町へ向かって飛んだ。


日付変更時刻をとうに過ぎて、ずぶぬれになってアトリエのドアを開けると、椅子に座ったままテーブルに突っ伏していたロッドがはじかれたように立ち上がる。

「ジュリー、無事だったんだな」

彼の表情には、疲れきった、しかし安堵の色が見えていた。ミッシェルは夜遅くなるといって先に帰ったよ、とロッドが告げる。ランプに火をつけ暗い部屋に明かりをともすと、彼は私の背中にまわって翼を確かめた。骨折しているところを必死になって探り当てようとする彼を、大丈夫だから、と言って振りほどいた。

「ちょっと飛んだだけだから、無理に動かしてはいないわよ」

「だけど、いつ空爆が始まるか分からないのに、危ないじゃないか。あれだけ派手に折って、まだ二ヶ月しか経ってないんだ。それに、こんなにずぶぬれになって。早くシャワーを浴びてこいよ」

「ロッド、口うるさいお母さんみたい」

私はそう文句を言いながら、アトリエの奥にあるドアから自分の部屋に入り、濡れた服をまとめてカゴに入れ、シャワーで雨を流した。熱い水滴を体中に浴びながら、手をそっと肩甲骨に這わせる。ほんの少し、痛い。力いっぱい飛びすぎたかもしれない。骨折した箇所よりも強く、付け根が。三年前、私が焼き捨てた「生まれた時にすでに持っていた翼」の跡が。

生き物誰しもが、最初から持っている翼。私はそれを自らの手で壊し、人工の翼で空を飛んでいる。その違和感には、とっくの昔から気づいていた。

作られた翼は、所詮作られたものなんだ。

寝間着代わりにしているワンピースを着て部屋に戻ると、ロッドが立っていた。いつも不精な彼がご丁寧にアトリエへのドアをきちっと閉めて。私が、どうしたの? と尋ねても、彼は何も言わなかった。

「もう夜遅いわよ。お店に帰らなくていいの」

「君はもう気づいているだろう。その翼の無意味さに」

質問と答えが合っていない。私は首をかしげて、何が、と尋ね返した。ロッドは深いためいきをつき、ポケットに手を突っ込んで、私を正面から睨んだ。

「誰しもみんな、翼を持って生まれる。今、ほとんどの人間が、幼い段階でその翼を失っている。だから死んでも天使にはなれない。それの手助けに僕ら翼職人が翼を作ってきたけれど、違うんだ。本当は、僕らがいなくても、人間は再び翼を取り戻すことが出来るはずなんだ、自分の力で。自分が失ったものは、自分しか取り返せないんだ。君が三年前、自分で焼き捨てた「生まれつき持っていた翼」は、君しか取り返せない。分かるだろう?」




三年前。

冷たくて、痛みを伴う記憶。

自ら翼を焼き捨てたあの時の痛み、熱さ、苦しみ、まだ鮮明に思い出せる。羽が、骨が焼けるにおいをまだ覚えている。焦げた翼を自分の手で折った音を、まだ覚えている。絶望と、痛みと、せりあがってくる悲しみを堪えるために、全身を掻きむしったことも。

翼の骨の名残を背中にほんの数センチ残したまま、私は虚ろな意識のままこの町に辿り着いた。その日も、激しい雨がひたすら騒擾のごとき音を立てて地面を潤していた。雨を避けるために逃げ込んだ屋根の店が、ロッドの家だった。そう、例えばこの間みたいに。

玄関口で雨を振り払っている私に、店から出てきたロッドが声をかけてくれた。その時の快活さ、今でもはっきり思い出せる。どうしたの? という一言の後、彼は私の背中の肩甲骨の突出に気がついた。

「その翼の焦げ跡は、君、天使かい? 何故人間の世界にいるんだ」

ずぶぬれで、掻きむしった傷跡で血まみれの私を、ロッドは店に連れ込んだ。初めて見る人間に、それほど警戒心は沸かなかった。その場で彼は私の背中の肩甲骨に応急処置を施し、翼がない訳を訊いた。私はただ一言、焼き捨てた、と答えた。他に無駄なことを言う必要もなかった。

言っても、分かりはしないと思っていた。

その部屋のベッドにうつ伏せで安静になるよう言われ、数時間のうちに彼は机に広げた紙に、私の身長を元に翼の設計図を書き込み、骨組みを立て、白くて小さな羽を一本一本、丁寧に手作業で作り上げた。稚拙な手つきではなく、それはまるで轆轤の上で粘土状の陶器を回す職人のようにも見え、あるいはクライアントのオファーを受け義足を作る作業員のようにも見えた。

実際、彼の仕事は人間のために義足を作るようなものなのだろう。人が失ったもの、それもひとりじゃ取り返せない大切なものを、繊細な指先で再び蘇らせようとする信念が、作業を進める彼の背後からうかがえた。私の意識はそこまでで、うつ伏せになったまま眠ってしまった。

翌朝、目が覚めた私の背に走った激痛。起き上がって背中を手探りで調べると、私が自ら燃やし捨てたはずの翼が再びそこにあった。神経は通っていなくて、自分の意思では動かせない。徹夜作業のため昼近くになってようやく起きだしたロッドは、一ヶ月は動かないほうがいい、と言い放った。

「傷跡が治ってないし、しばらくは気持ち悪い人工の感触が抜けないだろうけど、すぐ慣れるさ。人間が義足を履くようなものだから。神経がちゃんと通るまで、大きく広げちゃ駄目だよ、お姉さん」

私は呆然とした。一度自分の手で失くしたものを、この年端もいかない人間の少年の手により再び「作られた」のだと思うと、不思議な気持ちだった。違和感があって、これで本当に空を飛べるのかという疑問と、一抹の不安と、ほんの僅かな安堵感が、一緒くたになっていた。

少年はロッドと名乗り、まだ十二歳そこらの彼に絶対安静の間世話をしてもらいながら、翼職人のことを教わった。人間が死んで再び天使となるときに、生まれつき「持っていた」翼を作っているのだと。そして、現在その職人の数が極端に減って、行き場所を失った人間の魂がいつまでもこの世を揺蕩っているということを。

人間は、子供の頃に自然に失ったその翼を、自分の力で再び生み出すことがなかなか出来ない――出来るはずなのに、ということも。

「君、どうして自分で翼を焼いたの?」

その質問にやっと答えることが出来たのは、動いても構わないと言われてすぐの頃だった。


くだらない私に、翼は必要ない。

翼の意味がわからない。




だけど、私が忘れたものを、誰が取り返してくれるというのだろう。

私が自分の手で捨てたものを、誰が。

傲慢なやり方で、人間はきらきらと美しく輝くものを踏みにじり、誰も気づかないままそれを求めている。自分の歩む道の下でそれがもがいていることにも、何も気づかず。それでも人は、求めている。自分が忘れた翼の存在を。はるか昔に人が共に生きていた、パノラマの空へ羽ばたくための大きくてつややかな翼を。人が望みながら、願いながら、他人かあるいは自らの手によりあずかり知らぬところで焼き捨てている翼を。

何が、この大空を、幻視画のジオラマに組み替えたのだろう。人はいつから、証明で照らされた大きな布に描かれただけの空を見つめるようになったのだろう。ジオラマは錯覚にすぎないというのに。

この世のすべてはくだらないもので構成されている。それが日常で普遍的になってしまって、誰もがくだらないものへの果てなき投資に気づいていない。

本当に空を飛べるのは、作られた翼じゃない。

私は自然と、涙をこぼしていることに気がついた。意識しなくても、あとから零れ落ちてくる感情の雫。三年前、焼き捨てた自分の翼が、ひどくいとおしく懐かしく思えた。目をぎゅっと閉じ、溢れる涙を手の甲で拭っていると、ロッドは静かにその手を取り、代わりに頬に自分の手を添えて唇を重ねた。ほんの一瞬の温かみはすぐに消え、彼は踵を返し、アトリエへ通じるドアから何も言わないまま出て行った。私は呼び止めるための言葉も見つからず、劈く音を立てて閉まった扉を暫し見つめ、声を上げて泣いた。どうすればいいのか、分からなかった。



右顧左眄の末に地上に降りた私を待っていたのは、他ならない絶望でした。天上と何が違うというのでしょう。私はただ、翼を捨てただけなのに、これだけの償いを背負わなければならない理由はどこにあるのでしょうか。私には分かりません。生まれたときからずっと私の背中を包んできたこの翼を捨てることが、幼い頃に翼を失くす人間より罪深い理由が。私は最低な生き物で、下等で、生きる価値のない天使でした。翼など、必要なかったのです。私は翼を背負うに値しない存在だったのです。だから捨てただけの話です。何が間違っているというのでしょう。一瞥して唾を吐き捨てるほどの事実です。本当に翼が必要なのは人間たちではないでしょうか。翼を当たり前のものだと思っている天使のほうが愚かです。天使である私に翼の意味を説教為い為い説くより、かつてのように翼を持たない、いや、持つことが出来なくなってしまった哀れな人間たちのために、飛ぶべき空を――そこにある未来を、指し示すことが先なのではないでしょうか。未来へ飛ぶための翼の作り方というものを。





戦争が激化してゆく。人間の愚かさが激化してゆく。気がつけば夏も終わっている。私は立ちすくむ人間のことなどお構いなしに容赦なく通り過ぎてゆく時間の残酷さに、絶望で目を覆った。馬鹿げた人間たちを止めることなど出来はしない。彼らは欲望のままに、失った翼を捜し求めているだけだ。

くだらない。自分のしていることに気づかないなんて、くだらなさすぎる。

出かかったため息を唇を噛んで耐え、ロッドの店のドアをノックした。夕方近くなり、これから空爆が起こるかもしれない。その恐怖心をノックの音で覆い隠し、問題なく無二の親友がこのドアの向こうから現れ出ることを願った。

「今、手がふさがってるんだ。ミッシェル、ドアを開けてやってくれ」

その声が木製の壁の向こうから聞こえ、数秒後にドアが静かに開いた。満面の笑みで立っていたのは、コートに身を包んだミッシェル本人だった。

「ジュリー、いらっしゃい。どうしたの?」

「ううん、私はロッドに頼みごとがあるの。ミッシェルがロッドの家にいるなんて珍しいわね」

「遊びに来ただけよ。特に理由はないわ」

特に理由もなしにあちこちを訪問して回るのが好きなのか、この子は。私はミッシェルの脇を通って店の中に入り、ロッドの姿を探した。店の隅のレコード・プレイヤーからは小さい音量でシューベルトの「ます」第四楽章が流れていて、ロッドのクラシック好きを改めてうかがわせる。ピアノ五重奏曲、イ長調ケッヘル六六七、ジャズ派の私にはその程度の事しか分からない。明るく、ガラス球が転がるようなピアノの美しいメロディーが、薄汚れた翼職人の仕事場をおしゃれな店のように装飾する。

相変わらず散らかりっぱなしの店内の奥で、ロッドは目一杯燃やした暖炉の傍に椅子を置き、その上に片足を立てて座っていた。忙しなく動く指先が操る細い木炭は、壁に立てかけられた大きな板と設計用の紙の上を滑らかに滑っていく。ほぼ標準の大きさの片翼の設計図。ロッドの目は真剣で、話し出すきっかけが掴めなかった。

背後で様子を見守っていた私に気づいたらしい彼が、0.4ほどしかないという左目にはめたモノクルを外しながら振り向いた。

「なんだ、ジュリーだったのか」

「なんだとは何よ。来たらいけなかったの」

「正面ドアを叩くのは、大抵鍛冶の方の客なんだよ」

立てた膝に頬杖をついて、疲れきった笑顔を見せた。相当仕事が大変なのだろう。彼も十一歳で翼職人の資格を取った身なだけあって手先が器用で、金造りも生業にしている。鍛冶屋は戦死した彼の父親の影響らしいが、しかし身体は持つのだろうか。どうも心配でならない。

ロッドは布を巻いた木炭を握り直し、再び設計図に向かった。描きながら、僕に何か用があって来たんだろう、と言った。私は言葉に詰まり、率直に言うべきか前置きをどう作るか、悩んでしまった。私のすぐ傍にある机に、ミッシェルがちょこんと座って私たちの会話を聞いている。見た目は可愛いお嬢さんなのに、こういうところが何だか粗野でギャップが激しい。

あまり間を置きすぎるとロッドがしびれを切らすと思い、私は単刀直入に本題に入ることを選んだ。

「ロッド、私の翼を取り外せないかしら」

声が震える。彼の手が止まり、一瞬の沈黙が流れた。ミッシェルも驚いた様子で、目を見開いて私を凝視している。ロッドは木炭を置き、ため息をついたあと立ち上がった。こちらを向いた彼の表情は、無理して冷静を保っているようだった。悲しげで、怒っているようで、でも私には読み取れない。

「どうして。わけを訊いても構わないかな」

「知っている通り、私は人間じゃないわ。三年前まで神の世界に住んでいた天使よ。天使は生まれてから死ぬまで翼を所持するもの。天上の世界を脱走して地上の世界へ降り、自分で翼を焼き払った。私はもう天使じゃないの。天使は翼を持つもので、人間だって本来は翼と共にあるものだから、私は天使でも人間でもなく、翼を失ったただの命の器なの。偽物はいらない」

「それが理由? 君とはもう三年の付き合いになるけど、それは出来ない。一度胴体と同化した骨や筋肉、それに神経をどう切り離すって言うんだ? 僕は外科医じゃない」

「承知の上よ。だけど、一度焼き捨てた肩甲骨も耐性があるから、取り外すというより、切断するだけでいいわ。自分じゃ背中まで手が届かないし、どこを狙って切ればいいか分からないから」

「翼は立派な身体の一部だ。人間にとっての五体さ。第三者が翼を切り落とすというのは、手や足を切り落とすことと同じだ。保身をはかりとおすつもりはないけど、傷害罪もいいとこだろう。出血多量や意識不明も逃れられない」

私は反論にてこずった。腕を組み、こちらを睨むロッドの目は、真剣に怒っている色で染めあげられ、少し怖かった。いつになく強い語調で話す彼の姿に、ミッシェルも怯えて身を強張らせる。彼女はロッドの弁護にまわった。

「ジュリー、どうしてまた翼を捨てようとするの? せっかく新しく作ってくれたロッドのためにも、大切にしないと。あなたにとって、翼は必要なものでしょう?」

「違うの。私は確かめたいの。今のこの翼は、必要なものじゃない。他人に作られた翼じゃ、私は飛べないの」

憧れた空の、一番高い場所へは。

ロッドはしばらく私を睨みつけた。以前、私を深夜に叱咤した、あの時と同じような瞳で。一瞬、黒いヴェールがかかったような気がしたけど、私には分からなかった。彼は視線をそらし、唇を噛み締めた。

「自然に翼を失うことより、自ら捨てることのほうが、ずっと愚かで悲しいことだ。だけど、実際人間っていうのは、自分で翼を捨ててきたのかも知れないし、そういう人の方が多いかもしれない」

自ら捨てた翼。

あの空へ、誰もが憧れるあの空へ、飛び立つための翼。

人々が翼を忘れてしまったとき、置き去りにされた空はどんな気持ちでいたのだろうか。過去に何度も焦がれた人間を受け止めてきた大空は、飛ぶことにすら興味を持たない、そして他人の翼を平気でもぎとる現代の人間を、どんな気持ちで見ているのだろうか。

翼が欲しくても手に入らない人間がいる。飛ぶ空の目標を定めていても、飛ぶための翼がない人間もいる。空を見上げることすら忘れた人間もいる。翼を持っていても、飛び方を知らない人間もいる。大事に持っていた翼を、他人に焼き捨てられてしまった人間もいる。そして、私のように、自ら翼をもぎとる人間もいる。

こんな地上の世界を、誰が正常な意識で見ていられるというのだろうか。

何故、人は美しいものばかりを壊そうとするのか!

子供たちの笑顔のように、きらきらと輝いていて、もろく壊れやすいものを平然と握りつぶす。心も、魂も、元あった翼も、その固い靴底で踏みにじる。翼を失った人間に残されたものは、絶望しかない。

「これはあなたに与えられた翼よ」

私は勢いよく翼を広げた。空気が振動し、抜けた羽が宙を舞う。ミッシェルは驚いた様子で身を引いていたが、ロッドは表情ひとつ変えなかった。

「他人に与えられた翼で空へ届くはずがない。それを私は確かめたいの」

ふわふわと散る羽を指先で受け止めながら、私は無表情のままのロッドに訴えた。彼はじっと私の翼を見ている。三年前、私に作った翼を。彼の瞳は、まだ怒っていて、しかし少しだけ悲しげな色を含んでいて、くすんでいた。それがそっと伏せられた時、私は一瞬の勝利の優越に浸ったが、彼が私の翼にそっと触れた瞬間それは音速で消え去った。

「君の翼は、人工なのにとても綺麗だ。持ち主が大事にしているからだろう」

まるで愛犬を撫ぜるように、白いつやのある翼にそっと手のひらを這わせる。くすぐったい感触はあったが、その神経ですら人工に過ぎないことは、とっくに知っている。私は、人工の翼で空を飛んでいる。私の、私が持っていた、本物の翼じゃなくて。

彼も、いつか私がこんな想いをすることを、三年前から気づいていただろう。

「もし、本気なら」

ロッドの声は静かで、でも強かった。

「君の気持ちが本気なら、君は自分からこのニセモノの翼を打ち砕けるはずだ。君の中で眠っている、君自身が最初から持っていた「翼」を覚醒させられるはずなんだ。他人に与えられたもので飛べないと分かっているなら、意地でも自分の翼を広げてごらん。誰だって、奪われても自分で奪っても、一度失った翼を再び生み出せるんだから」

木炭で汚れた手のひらを開き、顔の横で翼を広げるような仕草をする。私はなんとなく、ひどくショックを受けたような気がして、唇を噛んだ。彼は苦笑し、人間は上手く作られてるのさ、と言った。

「だから人間は面白いんだ。翼はこの世界にいくらだってある。人々にそれが見えなくなってるだけの話さ」

その瞬間、けたたましいサイレンの音が外から響く。日が沈みかけている空から、敵機の姿はまだ見えない。空襲警報。この時間帯なら爆撃があってもおかしくない。急に外界がざわめき始め、掛け声がいくつも響く。その時のロッドの切り替えは早かった。

「この町もついに標的にされたらしいな。早く地下へ逃げよう」

「だけど、私、家に残してきたお父さんとお母さんが」ミッシェルが机から降りて、ひどく焦った口調で叫んだ。私は彼女の頭を撫で、とにかく落ち着かせようと諭した。

「今、外に出たら危険よ。ロッドの家の地下壕は安全だから、逃げましょう。あなたが死んだらご両親も悲しむわ」

彼女のカーディガンを着せながら話していると、早くしろ、とロッドが部屋のドアを開けながら叫ぶ。涙ぐむミッシェルの肩を抱き、私たちは彼のあとに続いた。仕事場を出て狭い廊下を突き当りまで走り抜ける。ロッドは最奥の壁のすぐ下にある、木造の床の小さなくぼみに指をかけた。一気に手前にずらすと、むせ返るほどの埃とカビ臭い匂いがあたりに充満する。床の一部が人間二人分通れるほど外れ、降りるためのはしごが斜めにかかっていた。下に灯りはなく、どこまでも続く地獄への落とし穴のようにも見えた。私はひどく怖かった。

「ミッシェルを先に下ろそう。僕は一番最後に入り口を閉めるから」

ロッドは彼女の手を引いてはしごに足をかけさせた。唇を噛み、泣き出すのを必死にこらえながらミッシェルははしごを降りていく。地面に足がついた音を確認したのち、ロッドが先に下りて、と言った。

「駄目だ、ここの入り口を閉めるのにはかなり力がいる。僕でなきゃ無理だ」

「それって軽く女性への偏見? 参ったわね。随分となめられたものだわ」

「ぼんやりしてると、爆弾の直撃を食らうぞ。下にミッシェルがいるから。灯りをおろしてやってくれ」

ロッドはそう言って、廊下の壁にかかっていたランプを私に手渡した。地下壕から、大丈夫なの? という声が響く。私はため息をつき、ランプを持っていないほうの手ではしごを支えながら降りていった。地下壕はバスルームほどの大きさしかないが、壁を木の柱で何重にも支えていて、強度は十分あるように見える。やはり空爆で一時的に逃れるためだけに作ってあるのか、数日分の食料しか並べられていなかった。私はランプを部屋の中央に置き、隅に立っていたミッシェルの肩を抱いた。大丈夫よ、すぐに敵機は行ってしまうわ、と言いながら。

ロッドがはしごを降りてくる足音が聞こえてきてすぐ、耳を劈く爆発音と共に地面が大きく揺れ、私たちは叫んだ。互いに抱き合い、その場にしゃがみこむ。天井から埃や小石がいくつも落ちてくる。しばらく揺れが続き、爆音も何度か聞こえたが、ロッドが入り口を閉めるとそれは外界の光と共に遮断された。それでも、ドーン、ドーンと花火のような音が遠くから響く。

「結構近いぞ。上の家もすぐにやられるだろうな」

はしごを飛び降りたロッドは、私の腕の中で小刻みに震えるミッシェルに駆け寄った。顔を上げた彼女はロッドの姿を見つけると、急に堪えていたものが溢れてきたのか、彼の肩口にしがみついて声を上げて泣き始めた。ロッドは彼女の後頭部を持ってしっかり抱き、ここは安全だから、と言い聞かせる。十四歳の彼女には少し辛い現実だったかも知れない。数年前の第一次世界大戦の時はこの町はそれほど被害を受けず、比較的安泰だったから。

物心つかない、幼い子供のようにしゃくりあげて泣くミッシェルの背中をさすり、私がいるから大丈夫よ、と言った。彼女は涙でいっぱいになった瞳を見開いて顔を上げる。

「本当に?」

「うん、本当よ。私は天使なんだから。見くびらないで。いざとなったら、私が敵機を全部こらしめてあげるわ」

鼻をぐずらせ、唇を噛み締めて涙を零すミッシェルの姿は哀れだった。彼女は小さくうなずき、再びロッドの胸に顔をうずめた。置いてきてしまった父親にすがるように。だが、今外に出たら危険だ。一瞬にして火にまかれてしまう。爆撃の音が少しずつ近くなっている中、私たちは狭い部屋でしゃがみこんで、空爆がおさまるのを待った。



一度だけ、明らかに上のロッドの店を直撃したと思われる爆音と振動が襲った。入り口が外れないかと思ったが、二重にしてあるため難を逃れた。大地震レベルの揺れで、天井がきしみ埃がぱらぱらと舞う。急に部屋の中がかっと暑くなり、まるでサウナの中にいるようになった。

水を含ませたスポンジをきつく握り締めた時のような汗が出る。私とミッシェルは冷たい地面に横たわり、振動を背中に感じながら何度も汗をシャツで拭った。爆撃が遠ざかるようになってからは、ミッシェルは泣きつかれたのか自己防衛なのか、いつの間にか深く眠ってしまっていた。私は地下壕の中に置いてあったブランケットを彼女の身体にかぶせ、汗を拭いてやった。

上界の店は大破してしまったのだろうか。家の壁でこもっていた爆音が、さっきの大きな爆撃でクリアに聞こえる。

「まだ爆撃機は撤退していないわね」ミッシェルの肩を抱きながらロッドに同意を促した。

「こっちの国の軍が応戦するさ。もっとも、そうなったらなったで、被害は拡大するだろうけどね」

ロッドは壁に背をもたせて座り込み、目をきつく閉じて眠るミッシェルの表情を見ていた。彼もすでに汗だくで、疲れきった表情をしていた。

「戦争はしばらく終わりはしないだろう。あと十年、空襲の恐怖に怯える日々が続いたっておかしくない。今の世の中、歯止めをきかせる人間もいないだろうし、きかせてブレーキを踏む軍人もいないさ」

「馬鹿みたいね」

「そう、人間はみんな馬鹿だ。特に戦争をやろうなんて言いだす奴はね」

立てた両膝に頬杖をつき、苦笑するロッド。私はミッシェルの傍を出来るだけ離れないように、彼の近くに座った。

「下らないと思ってたけど、私の住んでた世界のほうが、よっぽど平和ね」

そう言うとロッドは軽く苦笑した。汗まみれの中、それはまるで試合に勝ったあとの野球選手のように見えた。年端もいかない少年の表情にしては、感情が半ば削ぎ落とされていた。

「天使のいる世界って、どんなものなんだ?」

滴る汗を拭いながら、ロッドは天井を見上げて訊く。そういえば、長い付き合いで、そんなこと、訊かれた事がなかった。私は簡潔に、似たようなものよ、と答えた。そうとしか言えなかった。

「人間と同じように、学校に行って、友達を作って、人を愛し、子供を生み、育て、老いて死ぬ。雲の上なんかじゃないわよ、物理的に無理でしょう? 人間が神様の世界の絵本を読んで育つように、天使は人間の世界のお話を聞いて育つ。町は活気づいていて、みんな笑顔と義理と人情を忘れない。ただ人間と違うところは、戦争をしないことかしらね。恨み妬みにかられて魔が刺し、誰かを殺すことはもちろんあるわ。だけど、公認の大量殺人である「戦争」や「国家紛争」は存在しない。天使の世界には、人間でいうところの政府や大統領のように、絶対的権力を持つ支配者や独裁者がいないの。良く言えば平和、悪く言えば無法」

話を続けているうちに、なんだか笑えてきた。これまで普通に生活していた世界から全く異次元の人間の世界に飛び出し、「天使の世界の話をしろ」と言われて説明は難しかった。なぜ指が五本あるんだ、という質問と同じぐらい答えづらい。だがロッドには何とか伝わったらしく、公認の殺人がない世界か、と呟いていた。

「平和な世界じゃないか。良く言えば。なぜ人間の世界に逃げてきたんだ?」

「前にも言ったじゃない。私はあっちの世界にいるべき存在じゃないのよ」

「どうして自分の世界の生き物を嫌うんだ」

「天使が嫌いなわけじゃないわ。私は翼を持つ存在じゃないと思っただけよ。私なんか、死ねばよかったって、そればかり考えてたわ。私は今、天使の世界では死者と同等の扱いをされているはずよ。翼をなくして、人間の世界に降り立ったから。それで良かったの。みんな、私がいなくなってせいせいしていると思うわ。私は生きるに値しない。生きていく価値も、目的もない」

「どこにでもありそうな理由だな」

「でもそれが人間も天使も、共通して、自殺に追い込む原因でしょう? 私は生まれつき翼を持っていた。でも使い方が分からないの。本当に目指した空がどこにあるのか分からなくて、いつも上を見上げてばかりで、それでも目標も夢も見つからなくて」

「そんなもの、生きていたらいつか見つかるかも知れないだろ。君は夢を持っているのに、自分から目を背けてる」

「分からないわ。私に翼は見えないもの。友達づきあいが悪くて、両親に迷惑をかけてばかりで、成績も悪かったわ。だから死にたかったの。このまま生きてたら、きっと私の背中にある翼はいつか自然に消えてしまうって思ってね」

嫌われた友達もたくさんいたわ、そんな子たちにこれ以上迷惑はかけられないから、死のうと思ったの。別に誰でも思うし、それで自殺する人間がいることも普遍的な事実じゃない? 私は小声でそう付け足した。

人間の世界に逃げ込むまでのことを思い起こしてみる。私は、性格が悪い。無意識に他人を振り回してしまう。ただ友達と一緒にいるだけでも傷つけてしまうことがある。いや、そんなことをしてしまう私は「友達」じゃないのかもしれない。うわべだけの付き合い。気がつけば私の周りには誰もいなくて、……避けられてることに、気づいた。その時になってやっと自分を呪うようになり、三年前、私は死んだ。実際に死んだわけではないが、天使にとって人間は死者、私は死者も同様。全く下らない話だと思った。かんがみても自分で笑えてくる。

やり直そうと思えばいつでも出来たはずなのに、目をそむけてばかりで。

自分からも、可能性からも逃げて。

「ジュリーは逃げてる」

ロッドが強い語調で言った。私は肩を一瞬震わせ、反射的に彼の方を見た。ロッドの瞳は怒りに溢れていて、でも少しだけ悲しくて、光を失っていた。暖炉の前で呆然と座っていた時とは、全く違う強さ。

それは、責めているのとはまた別の、強さだった。

「君は、人間の世界に逃げて、翼を自ら焼き払った。その意味が分かるか? 最初から持っている翼を、君は自分で捨てたんだ。そこにある翼から、君は目をそむけている。気づいているのに、逃げようとしてるんだ。だから僕に、翼を切り落としてくれと言ったのだろう? どうして自分から掴もうとしない? 自分がいた世界から逃げ、翼から逃げ、君は何を恐れているんだ。翼で空を飛ぶことは難しいことじゃない。なのに、どうしてそれを拒絶するんだ。誰だって出来るのに、怖がってどうするんだ。自分から逃げて、後になってもっともな理由付けをするのは卑怯じゃないか?」

……強く、強く訴えかける言葉。私は呆然として、しかし少したって自分の指先が震えていることに気づいた。目を見開いて、ロッドをじっと見つめる。

気がつかされた、ような気がした。

震える指先を止めようとする。でも、出来るはずがなかった。

私は。

感情を整理するのに膨大な時間を要する気がした。まっすぐにロッドを見る。彼の瞳はどこまでも真剣で、強い信念が見えた。それに比べて、私は。自己嫌悪に駆られ、反射的にナイフの傷跡でズダズダの手首を掴んだ。

逃げている? 私が?

――私は何を恐れていたの?

心の中にゆったりと流れ込んでくる結論。

これまでの自分の講釈をすべて否定されたようで、愕然としてしまった。怯える私などお構いなしに、ロッドは話し続ける。

「ジュリーはさっき言っただろ。「他人に与えられた翼で空へ届くはずがない」って。ほら、分かってるんじゃないか。ジュリーは意味を取り違えてるんだ。自分から逃げて、分かってるのに目をそむけて、僕という他人に翼を作ってもらって。それで勘違いしてる。与えられたものじゃ生きていけないことに気づいているのに、今までそれにしがみついて、本物を追い求めることを恐れている。思い出せ。僕は何度も言っただろう。怖がらなくても、君は自分で翼を広げて飛ぶことが出来る」


「逃げる必要はないんだ。強い意志があれば、どんなに道が険しくても歩いていけるんだから」


――私は翼を葬り去った。

それが必要ないものだと感じていたから。

私は知っていたはずなのに。一度失っても、私は自力で空を飛べる。もう一度翼を広げることが出来る。それを、知っていたはずなのに。

どうして逃げたのだろう。

なぜ翼を恐れていたのだろう。

私は、飛ぶことより、身をくらませる方を選んでいたのだろうか。

一直線に、頬を透明な水滴が伝う。ロッドの目の前で不恰好に顔を歪ませ、声も出さずに、豪の寂寞で静かに泣いた。心の中を色んなものが去来して、自分の愚かさ加減に裂帛の想いだった。布を引き裂かれるような、強く破壊力のある音が脳で響く。私は――私は何をしてきたんだろう。

ロッドに頼ろうとしていた。

作られたものでもいいからすがりついて、悪循環を辿ろうとしていた。

理解が遅すぎた。自分を守ろうと正当化させた理由を背負って、嘘の世界に生きていた。友達に嘘をついて、世界に嘘をついて、自分にも嘘をついて。そして、嘘をついていることに気づかずにいて。求めていたものがすぐそこにあったのに、気づいていたはずなのに。逃げて、逃げ続けて、真実を受け入れようとしなかった。何もしないまま、諦めていた。もう一度翼を掴むことを、恐れていた。

私は、自分の弱さに甘えて、逃げ続けていたんだ。

知っている。作られたものじゃ、飛べない。

自分が持っている真実だけが、未来を切り開く。

いくら偽物にすがりついても、最終的に歩いていくのは、自分なんだ。

瞬間、強烈な爆発音が辺り一面に響き、ミッシェルがはっと目を覚まし半身を起こす。断続的に続くその破壊音は、確実にこの近くを直撃している空爆の音で間違いない。天井を支えている柱が軋み、湾曲する。ロッドは天井を見上げ、舌打ちした。

「泣いてる場合じゃないぞ、ジュリー。餓鬼じゃないんだから」

「うるさい」

こんなときになってまで喧嘩ですか。私は余計に泣きそうになったが、目頭が熱くなるのを必死に堪え、ミッシェルを抱き起こした。彼女はあちこちを見渡しながら慌てている。

「どうしたの? 何が起こったの?」

「爆撃だよ。この豪も無理だな。柱が支えきれなくなるだろう。これ以上地面に爆弾が落とされればここもすぐ崩れる。まだ陸軍は遠いだろうから、今のうちに外へ出よう」

「でも、それは危険よ。走って町外れまで逃げないと狙われるわ」

「だったら走って町外れまで逃げるんだ」

いい加減な。

しかしそれ以外に適切な対処法が見つからない。ここでもし豪が崩れたら間違いなく三人丸ごと生き埋めになってしまう。それならまだ、外へ出たほうが一パーセントでも生存率がある。損得勘定で、やはりそちらを選んでしまうのが感情を持った生き物だろう。

私はため息をつき、分かったわよ、と返事をしてミッシェルを立ちあがらせた。ドーン、ドドーン、と空爆の音が聞こえる。まだ近くはない。私は意を決してはしごを登り、入り口を開けようとした。

しかし、固く閉じられた豪の入り口の鉄蓋はそう簡単には開かなかった。上に瓦礫でもあるのか、途轍もなく重いものに重圧をかけられていると分かる。私が慌てふためいていると、ロッドがはしごの半分を使って登り、狭い中私の隣で一緒に蓋を押し上げ始めた。さすがに二人分となると瓦礫も観念し、いくつかの大きな家の破片をバラバラと落としながら、ようやく鉄蓋が開いた。外れた蓋は豪内に鈍い音を立てて落ちる。ロッドははしごから飛び降り、ミッシェルを促して、早く登れ、と言った。

「ジュリー、先に外へ出て、ミッシェルを引っ張りだしてやってくれ」

その声に従って、私ははしごを駆け上がるように外へ出た。

外は豪よりも暑かった。豪の入り口を隠していた店はなく、瓦礫まみれの空き地と化していた。既に爆撃で燦々たる有様となっていて、見慣れた町の風景はどこにもない。建物が片っ端から崩れ、所々炎が見え隠れする。軍隊や町の人の気配はない。初めて私が人間の世界に来た時に見た廃墟の町に、どこまでも似ていた。

空を軍機が飛ぶ。サーチライトがそれらを照らす。断続的に落とされる爆弾や燃えた家の破片などで火の粉が飛び、目を開けることがやっとだった。道路を塞ぐほどの瓦礫はなく、走ればすぐに町を出ることが出来るだろう。私は退路を目で確認し、熱い地面に膝をついて豪の中に手を伸ばした。恐る恐る登ってきたミッシェルを引き上げ、火の粉に気をつけて、と言った。彼女は戦火に崩れ落ちた町の様子を見ると、大きい目をさらに見開いて口元を両手で覆った。私は彼女の身体を抱きしめた。

すぐにロッドも上がってくる。彼は彼で町の変わり果てた姿に驚いているようだったが、切り替えが早くすぐに声を張り上げた。

「陸軍が町に来るかも知れない。早く西へ走るんだ。内陸側に逃げれば、ミッシェルの田舎に着くだろう」

「駄目、私、ヴァイオリンが!」ミッシェルが金切り声を上げた。

ロッドがそれを聞いて、ちくしょう、と舌打ちをした。この町の有様だ、彼女の家が既に爆撃の被害に遭っている可能性は高い。彼だって、ミッシェルのヴァイオリンの腕前も、クラシック音楽にかける情熱も十分知っている。どちらにせよ、この店の位置からミッシェルの家は西にある。ロッドは私に、寄り道していくぞ、と叫んだ。私の否定を許さない強い語調で。私は何も言わず、大きく頷いた。


そう、私たちはきっと、こうして何か、大切なものを探しながら生きているのだろう。自分が大切にするもの、自分を大切にしてくれるもの。それはきっと「人間」であるからには普遍的な行為で、当たり前。

誰しもが弱さを持っていて、本当に心から強い人なんていない。時には何かにすがりたくなり、自分を救ってくれる一筋の光を捜し求めている。だから人間は新興宗教や詐欺に遭いやすく、またそういう弱さを一番よく知っている人間が、人の心の寂しさを利用し騙し儲けようとする。人はとても弱いもの、そしてとても壊れやすいもの。だから必死になる。人は自分の弱さのために何度も傷つき、絶望しながら、理想を求めて走り続ける。

絶対的な存在の空。私たちが生きている姿を、ずっと昔から、私たちが家族や友達や恋人と触れ合う時間よりはるかに長い間、見守っている。本当に求めているものが天空にあるのに、人間は空を見上げることを忘れている。

弱さに膝をつくこともあるだろう。諦め放棄したい気持ちにもなるだろう。嘘にまみれた虚構に身を沈め、そうしている自分にも気づかないこともあるだろう。やれば出来るものから逃げてばかりいる、汗水流して成功することを知らずにいる、嘘できらめく偽物に満足している、――そんな人間は大勢いるはずだ。だから誰もが、翼を見失う。未来に飛び立つための翼を。そこにあるはずの真実を。

私がいかに愚かだったか。いくらでも可能性があったものを、絶望で自爆自棄になり自ら未来を捨てた。世界には、欲しくても翼が手に入らない人間が大勢いるというのに、そんな人たちの手を引っ張って共に空へ飛び立つほどの力が、私の翼にはなかった。私が気づいた自分の弱さ、私が捨てた自分の強さ。いくらでも、あったはずなのに。大切な人を救う力、自分を守る意志、どこまでも広がる夢への可能性。私が求めたものは、いつだって頭上で青いヴェールを広げて待っていてくれたのに。

戦争、破壊、貧困、文明。それらが何を奪ったか、人間はまだ知らない。だけど、いつか気づく日が来るだろう。人間が己の愚かさに気づき、見えなくなってしまった翼を再び広げる決意をする頃に。不可能じゃない。一度失ってしまった力を、未来へ飛び立つための可能性を、人は必ず生み出せるから。


私たちは内陸の方へ走った。途中、瓦礫に何度もつまづきながら。あまり機敏ではないミッシェルは一度、熱い地面に転んでしまった。人の気配はなく、同時に死体も転がっていない。まだマシだ、と思った。私が見た隣町や、初めて見た人間のあの町より、ずっと。

この町は死んだ。あの時と同じように。黒いものが上空を渦巻いて、すべての人の翼を奪っていく。そんな町に成り下がってしまうのだ。

辿り着いたミッシェルの家は、既に爆撃で崩れ落ちていた。それを見た瞬間、彼女は叫び声を上げてうずくまり、嗚咽を漏らし始めた。ヴァイオリン、そして両親、すべて心配で仕方ないのだろう。私はしゃがみこんだ彼女の肩を抱き、そして瓦礫の山と化した彼女の家を見つめた。両親は避難しているとしても、ヴァイオリンを探せるだろうか、あの中から。ヴァイオリン・ケースの強度は甘くない、よっぽどのことがなければケースの傷程度で済んでいるかも知れない。私は意を決して瓦礫を払いのけようと、立ち上がった。

「ジュリーはそこにいろ」

先にロッドが強い語調で押しとどめる。彼は彼で、ミッシェルのヴァイオリンを探そうとしていることが分かる。火の手は遠い。私はむっとなった。

「また同じようなことを言う。私をどんな女だと思ってるの」

「あのなあ、仮にも女の子をあんな廃屋に近づかせると思ってるのか? 男が廃るよ。顔に怪我したらどうするんだ」

「何ポンドもするミッシェルのヴァイオリンに比べれば大事じゃないわよ」

ロッドは肩を落とし、どっちにしろあそこには近づくな、二人とも、と片手で私たちを制した。彼がぐっと唇を噛み締めるのが背後からでも分かる。彼だって戸惑っているのだ。探すべきか、諦めて逃げるか。いつ陸軍がこの場で銃撃戦を始めるかも分からない、いつ敵機の上空からの爆撃が起こるかも知れない、そんな状況で、瓦礫の山をどうにかしよう、なんて。

だけど、私はどうしても探したかった。ミッシェルがいつも大事にしている、あの素晴らしい音楽を奏でるヴァイオリンを。その決意も無視して、ロッドは私を断固としてミッシェルの家に近づけようとしなかった。

「いいから、僕が行く。ジュリーとミッシェルはここにいるんだ」

「貴方だって危険よ。男だからって意地を張らないで」

「意地じゃない、これは僕の意志だ。ミッシェルにとって、どれだけ大切なものがあそこで埋もれているか、分かってるだろう!」

珍しく声を張り上げる。普段は温和で優しい彼が、怒気をあらわにすることなど滅多になかった。私は肩を震わせ、ひるんだ。意外な彼の一面に、少しだけ身を引いた瞬間を狙って、ロッドは廃屋へ駆け出す。私は彼の名を叫んだが、遅かった。熱気が強くて私たちは近づけない。瓦礫の山を威勢良く登ったロッドは、素手で焼け跡の瓦礫を掘り起こし始めた。彼は何度もミッシェルの家に遊びに行っているから、彼女のヴァイオリンの保管場所も把握しているだろう。私はミッシェルの肩を抱き、その様子を見守るしかなかった。

私には、助けられないのだろうか。

この現状を打破できないのだろうか?

どうして私には、友達を助けるだけの力が無いのだろうか。

私は――無力だ。

翼を失った私に出来ることは、見届けること。ただ過ぎ去ってゆく非情で残酷な今の時間を見送るしかできない。それを止めることなどできはしない。追いかけることもできない。何故なら――翼を失った生き物は、あまりに非力だから。

「あったぞ!」

瓦礫の山からロッドが叫ぶ。ちょうどミッシェルの部屋の真上で、ロッドが煤まみれになりながら、大きなハードケースを振りかざす。幸い、傷はほとんどなく、金具も壊れていないので中のヴァイオリンは無事だろう。ロッドは私に促し、片手で勢いよくケースを投げた。私は両手でそれを受け止めたが、あまりの重さによろめいた。慌てて錠をはずし、ケースを開く。ラインの美しいブラウンのヴァイオリンは、傷ひとつなく、その光沢を誇示するように輝いていた。ミッシェルはそのヴァイオリンをケースごと抱きかかえ、良かった、と呟いて涙をこぼした。

瞬間、耳を劈く音を立てて上空を敵機が通り過ぎる。途轍もない低空飛行。けたたましいエンジン音に、私たち二人は耳をふさいでしゃがみこんだ。敵機は迂回して町の上を飛び、その腹を開いて空爆を開始した。無数にばらまかれる黒光りした爆弾。まるで黒い雨粒のように、薄暗い空を覆う。周囲に落下し爆発するたび、細かい土片や火の粉が飛ぶ。ミッシェルは叫び声をあげて私の服にしがみつく。同じように瓦礫の上でしゃがんでいるロッドに、私は大声をはりあげた。

「ロッド、戻ってきて! 早く逃げないと!」

声がかれる。喉が痛い。それでも私は叫んだ。

しかし、うつ伏せになっている彼の頭上には、既にあのおぞましい黒い雨粒が、今まさに爆破せんと落下していた。



そこから先の出来事は、あまりよく覚えていない。

烈火をふりまいて爆発したその雨粒は、私の視界から現実を奪った。炎と砂埃でほとんど何も見えない。ただ分かっているのは、空爆でミッシェルの家が直接爆撃を受けたのだ、と。

その瓦礫には、ロッドがいたのだけれど。

ああ、今頃、彼は何をしているのだろう。

私は砂埃が収まる前に、ミッシェルの肩を抱いて立ち上がらせ、一緒に西へ走った。振り向けば、その瞬間に私の予期した最悪の結末を辿る証拠が、そのままの形で残されていそうで、怖かった。

ロッド。ううん、きっと彼はすぐに逃げたはず。

願いながらも、走りながら、そんなはずはないと誰かが耳元で囁く。つよく、囁く。あんな爆撃を受けて無事でいられるはずがない、と。

――そっか。そうだよね。

じゃあ、私に出来ることは。

ヴァイオリンケースを大事に抱きかかえるミッシェルの手を引き、私は力強く地面を蹴った。カーディガンを突き破り、翼が広げられる。戦火や煙にも圧倒されない、つややかな白い翼。熱風を逆流し、ミッシェルを抱いて、出来るだけ高くへ飛んだ。あまり飛びすぎると敵機に気づかれる。翼を水平に保ち、しがみつくミッシェルと共に西へ飛んだ。遠く、日の沈む方向へ。すべてを焼き尽くす戦争の炎より輝いていて、どこまでも紅い、太陽へ。なつかしいな、と思った。私が住んでいた世界と、何も変わらないあの赤色。

女の子とヴァイオリンの重みに耐えながら、私は飛んだ。ずっと憧れていた空へ。戦争で死んだ人たちの悲しみを受け止めた空へ。私は今、飛んでいる。私を支えてくれたすべての人の力でもって、羽ばたいている。それはある種の自由で、ひとつの区切りのように思えた。煙にまかれながら、敵機から逃げながら、それでも目指した方向へひたすら、飛ぶ。


私は自分の背中にある翼の違和感に気づいた。

ああ、これは多分、ロッドが作ってくれた翼じゃない。

―――私の中にあった翼なんだ。







あの高い空は、私の目指した未来。そして目標。

私を乗せてくれる風は、たくさんの友達、家族、大切な人たち。

白く美しい翼は、―――私の力。

人は、夢のために飛ぶ。夢は強い。力は強い。どこまでも強い。

他人に偽物の自分を与えられなくても、人は飛べる。

例え一度翼を失っても、人は再び生み出すことが出来る。

すべての人に与えられる無限の可能性。

絶望は愚者の結論だ。絶望で翼は広げることが出来ない。

弱く生まれた私たち。決して強くない私たち。

だけど、翼を見失うことは、空を失うも同然。

未来はそこにある。逃げる必要はない。恐れることはなにもない。

弱い自分の中の強さを探し出して、飛べばいい。

飛び方を知らなくても、未来は待ってくれている。

そこで、待っている。







一体どこから空で、どこから海なのだろう。空の青さも海の青さも、似たような感じだと思ったのはこれが初めてだ。潮風に髪がやられないかと思ったが、私は気にせずひょいひょいと船場を歩いていった。雲も何もない空を見上げて、いい天気、と呟いた。今日の空は機嫌がいいらしい。

夏の暑さで焼けついているブロックの坂を登り、港町を通り抜けた。昼下がりの日の下で、町の人は思い思いの休日を過ごしている。リヤカーを押していたおじさんに、ジュリー、元気かい、と声をかけられ、当たり前よと言って胸を張った。この町の人はみんな地域交流が深く、まるで町ひとつが大きな家族の集まりのようだ。人間の心は義理と人情にあふれている。

ブロックをなぞるように歩いていき、路地裏にひっそりと佇んでいる小さな花屋に入っていった。ドアを開けると、軽やかな鈴の音が鳴る。その音に気づいた店員の女性が、おや、とこちらを振り向く。

「ジュリーじゃない、ごぶさたしてるわね」

「半年ぶりぐらいかしら。最近、色々やることが積もり積もっててね」私は苦笑して肩をすくめた。

店の中は一面花で埋め尽くされていて、部屋の広さは相当なもののはずなのに人が歩けるスペースは本当に少ない。むせ返るほどの花の香りが、私は大好きだ。一定の温度と湿度に保たれている店の中を見渡しながら、店員に注文を並べた。

「何でもいいわ、色んな種類の花を一本ずつ、あなたのお気に入りをたくさん集めて。リボンで結んで、ブーケにして欲しいな」

「どうしたの、誰かの結婚式に出向くみたいじゃない」

「違うわ、今日が命日なのよ、ロッドの」

―――結局、彼の遺骸はほとんど見つかっていないけれど。

店員は色とりどりの花を手当たり次第に集め、私のチョイスよ、と言いながら丁寧にリボンで結んだ。本当に、誰かのお祝いに持っていくような花束になってしまった。まあいいか、と私は苦笑し、代金を払ってブーケを受け取った。店員の配慮があって、あまり派手すぎる花は一切なく、小さくて控えめなものが多い。

私は少しだけ彼女と世間話をして、何度も手を振りながら店を出た。急に外の暑さが酷に感じる。日差しが強い。これは肌がやられるな、と私は額に手を当てたが、ほとんど無駄に思えた。おまけに潮風。やっぱり夏は苦手ね、と呟きながら、花束を大事に抱えて歩いていった。今来た道の延長、内陸側へ。海から吹いてくる潮風が、私の背中を強く押す。元気を出せ、と風が耳元で囁いている。しょげた後ろ姿を見せるな、明るくいろ、と。

私は軽い足取りで、ヒールをブロック道でカツンカツンと鳴らしながら、少し早足に歩いていった。何かと対面するように、過去の自分と向き合うように。そこには私が見たもの、私が思い出せることが眠っていて、それらへ直接対話をしに行くということは、思ったより苦痛で、引き下がりたくなる思いだった。歩いていくごと、時間が逆回りしているような錯覚に襲われた。

だけど、私は逃げてはいけない。過去の自分も、まぎれもない自分だ。あの時の自分がいたから、今の自分が存在する。


小高い丘を登ると、そこには無数の石碑が地面を覆い隠すように立てられている。狭い丘の上にあるものは、その石碑たちと、二本の木だけ。その木は夏の暑さによく耐えて、常盤色の葉を豊かに実らせている。その清々しさを打ち砕くような、不気味な石碑の数々。それぞれに死者の名前と、「Rest in peace(安らかに眠れ)」の文字が小さく彫られている。

立ち止まった私の髪の間を、涼しい風が抜けてゆく。潮風とは違う、優しくて柔らかい風。昼間の墓地の雰囲気にあまり合わない花束をしっかり抱えて、風の吹いた方を見た。そこには深く青い空が広がっていて、日輪が丘を一層優しく照らす。花たちを持つ手に力を入れて、思い切って墓地の敷地内に入っていった。

私は石碑の間を歩いていき、中央から少し右寄りの位置にある群青色の石碑に向かった。周りの同じ石碑たちに比べてまだ新しく、傷や劣化がそれほど激しくもない。私は丸一年、ここに立つことはなかった。

ロッド・ニルソン ここに眠る

ふと、この場所に棺を埋めた日のことが思い起こされた。一年前、戦争もそろそろ沈静されつつあるかと思う頃、私とミッシェルと彼女の家族、ロッドの親戚の立ち会いのもと、最後の儀式を行った。黒人歌手が鎮魂歌を歌い、牧師が色々とわけの分からないことを言っていた。「また神の子が一人、主のもとへ参られました。どうかこの魂が神の祝福を受け、再び地へと戻って来る日があらんことを」と、やたら神妙な面持ちでまるでテープのように喋っていた。棺はロッドの遺骸を納めるにはあまりにも大きすぎて、いくつかの肉片程度しか見つからなかった彼を埋葬するならもう少し小さくてもいいと思った。いかにあの爆撃が激しかったか。直撃だ、無事な方が稀有だろう。あの時、振り向かなくてよかったと思うほど。その僅かな肢体と彼の遺品を納めた棺は、丁寧に穴へ運ばれ上から土をかぶせられた。その日のことは、よく覚えている。

もう一年も経つのか、と、花束を抱いてぼんやりと考えた。水面上ではまだまだ戦争は続いている。世界のどこかで、この瞬間も爆撃が起こっている。世界のどこかで、ロッドのように命を落とす人がたくさんいる。生前の面影など何一つ残さず、爆撃をじかに受けて身体がバラバラになる人が。

これでまた一人、翼職人が戦争の犠牲になった。

十六歳を目前にしていたロッドにはあまりに早すぎる死だった。人間は五十年以上生きるというのに。こんなにも無残な死は理不尽じゃないか? いや、そんな思いで大切な人を失った人は、この戦争の時代にはたくさんいる。彼はその大勢の一人というだけの話だ。

私に、彼を助けられただろうか。

否、鑑みれば、私が気づいたときには既に爆弾は彼の頭上まで迫っていた。いくら私でも俊足ではないのだから、助けることはほぼ不可能だ。気づいてから爆発まで、数分の一秒。彼だって逃げられなかったはずだ。

けれど。

無理だとは分かっているけど、重く圧し掛かってくる罪悪感。

「ごめんね、ロッド」

そっと呟きながら、手元の花束を石碑の前に置いた。いつかこの花も枯れてしまう。そうやって、全てのものは崩れていくのだ。いくら美しいものでも、どれだけ素晴らしい人であっても、消えないものはこの世に存在しない。

いつか必ず、人間も天使も、この星も、宇宙ですら、滅ぶ日がくるのだから。

私は涙が溢れそうになるのを必死に耐えて、亡きロッドの石碑を見つめた。三年前……いや、もう四年前になる。ロッドが初めて私を助けてくれたあの日。どれだけ時間がたとうとも、はっきりと覚えているその瞬間。

「その翼の焦げ跡は、君、天使かい? 何故人間の世界にいるんだ」

くだらない私。

目に見えるものすべてくだらなく思え疑えた頃。思い起こすと随分愚かなものだと自分でも落胆する。私が忘れたものを、誰が取り返してくれるというのだろう。

私が自分の手で捨てたものを、誰が。

そう、それでも私は飛んだ。私にはもう、ロッドの作ってくれた翼は必要ない。偽物では飛び立てないから。私には、私のよく知っている翼がある。

これ以上何が必要だというのだろう?

今の日常を当たり前だと思わず、たくさんの人に感謝をしないといけない。大切なミッシェル、町の人たち、復興作業に携わった人たち、大勢の友達、故郷の両親、私の裏切った友達。そして、ロッド。彼らがいるから私がいる。私は一人ではここにいることすらままならない、ちっぽけで弱い存在。目に見えるもの、私の存在、それは決して当たり前じゃない。誰かがいて初めて、この世界は成り立っている。ただ一本の樹が大きく育つには、その何倍もの大きさの根が力強く地を巡っていないといけない。

風がなかったら、私だって飛べないのだ。

太陽に光に煌々と照らされるロッドの石碑をしばらくぼんやりと眺めていたが、このままでは幽霊でも出てくるかもしれない、と立ち上がった。バイバイ、と呟いてロッドに手を振りながら、その場を立ち去った。

ロッドは天使になれただろうか。翼を作らなくても、天使の世界へ羽ばたくことが出来たのだろうか。死んだ人間は天使になり、死んだ天使は人間になる、永遠に続く無限のサイクル。その中で彼はきっと、自分の持っていた翼で、自分の目指した空へ旅立っていったのだと、私は信じたい。そしてロッドが天使の世界で再び死ぬ頃、人間の世界で彼が生まれる。そうやって人は、永遠に追い続けるのだ。どこまでも高い、誰もが憧れる空を。

今の私は天使? それとも人間?

別にどちらでも構わないだろう。「私」という存在がここにあることには違いないのだから。自分の存在理由を考える必要はない。

生きていくのって、結構面白いものね。

墓地を後にしようと丘を早足に降りていく私の前に、こちらへたったったっと走ってくる小さな影を見つけた。ああ、あのウェーブヘア。私は丘を降りきったあと、元気に手を振った。

「ミッシェル、遅いわよ。私、先に献花に行ってきちゃったから」

息をきらして私の前で立ち止まったミッシェルは、ずるうい、と頬を膨らませる。

「行くのなら、私に一言声をかけてくれてもよかったのに。朝起きたらジュリー、いなくなってるんだから」

「だって、うららかな日にベッドですやすやと寝ているお姫様を起こすような罪作りな行為、私に出来ると思って?」

「もう、ふざけないで」ミッシェルが笑いながらつっかかってくる。私たちはそうして笑いながら取っ組み合っていた。墓地の前で何をしているか。

ミッシェルの両親は、あの爆撃の時、避難勧告と同時に町外れまで逃げていたので無事だった。今二人は田舎へ移り住み、ミッシェルは私と一緒に暮らしている。ロッドが見つけ出したヴァイオリンを今も持っていて、日々公演活動に精を出している。「私にとってのロッドの形見よ」と言いながら、アヴェ・マリアを演奏する彼女の悲しげな笑顔を忘れない。

「私、とりあえず行ってくるよ」

乱れた髪を手ぐしで整えながら、ミッシェルが快活に告げる。私はうなずき、石碑を間違えないでよ、と冗談を飛ばした。

「あ、そうだ」と、彼女は両手の平を合わせて叫んだ。「来週の日曜日のコンサート、ジュリーも来るのよね。お願いがあるの。リヴィングにあるロッドの写真が入ったフォト・スタンドを客席に持ってきて欲しいの。ロッドにも、私の演奏を見てもらいたいからね」

先に家に帰ってて、と言いながら丘を駆け上っていく彼女を見送り、私は前髪を指で後ろにやりながら苦笑した。あいかわらず子供のままだな、あの子は。

一年経っても、人の心の中で、変わったものは何もない。

はしゃぐ小さな背中が見えなくなるまでその場に立っていた。ぼんやりと、見送る。強い風が吹いて我に返り、お昼ご飯作らないと、と思い当たって丘を再び降りていった。しつらえてある道に沿うように作られた墓地の門を、力を込めて開ける。

変わらない。結局、人の心の優しさは何も変わっていない。もちろん、すべてのものは移り変わってゆく。失われ、生まれる。けれど、私たちの中に今もあるもの、大切にしてきた繋がり、それは永遠に変わらない。世界はめまぐるしく変化してゆくけれど、それだけは、変わらない。どれだけ離れても、どれだけ時が過ぎようとも、そこにあるもの。

外に出て門を閉めようとしたところへ、赤ん坊を抱きかかえた母親が慌てて走ってきて、すみません、と声をかけた。私は閉じかけた錠を再び開き、両手で赤ちゃんを抱えた彼女のために、門をいっぱいにこじ開けた。彼女は少しだけ頭を下げ、ありがとう、と言ってゲートをくぐって行った。私は笑顔で挨拶を返した。

ふと、目をやった、彼女の腕の中の赤ちゃん。無邪気に声を上げて私に手を伸ばそうとする。その背中に、小さな翼が見えたのは―――錯覚だろうか。

あれ、と首をかしげて、強く目をこすった。

いや。

墓地へと続く丘を登ってゆくその母子を、私はしばらく見つめていた。母親の肩口から、赤ん坊は私に手を振る。それに呼応するように、背中の翼がゆらりと動いた、ような、気がした。私は戸惑いつつ、その子に手を振る。二人が見えなくなっても、私はぼんやりとその場に立っていた。

うん、多分ね。

まだ人間も諦めてない。

強い風が何度も吹く。私の髪や服を揺らし、木々をうならせる。町を震わせる。風たちが世界に語りかけている。

立ち上がれ、人はそのために生まれてくるんだから。

私は苦笑して、目を閉じた。夏の強い日差しは、閉じられた瞼からもはっきりと分かる。真っ赤に染まり、眼球を焼き尽くす。その感覚すら、心地よく思えた。そして私は願った。どうか、私を取り巻くすべての人たちとの繋がりが、このまま続いてくれますように、と。

私に力を貸して下さい。

人は一人では生きてゆけないから。

私はもう二度と、自分で翼を焼き捨てたりしない。

そっと門を閉め、港町を走って抜けてゆく。周りの人はみんな驚いた様子で私を見ている。それでも気にしなかった。潮風を身体いっぱいに受け止めて、私は力の限り、走った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジオラマの空 真朝 一 @marthamydear

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ