第6話 木曜日の曇天カレー

 カレーライスが不得意な子どもだった。

 ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、豚肉。

 歌に合わせてお遊戯するほど楽しいカレーの日。

 競っておかわりをする級友を横目に、どうにも心の弾まないどんよりとした給食を終える。

 ごろっとしたジャガイモ、大き目の具材、もしくはミックスベジタブルの入った、はたまた優しい甘さのコーンの入った……そんなカレーが天敵だった。

 もとをただせば、大衆の好むものを容易に受け入れたくないというひん曲がった精神性から来る発想だったのかもしれない。


 東北地方に進学して寮生活を始めた頃、そのどんよりは暗雲に変わった。

 木曜日になると調子を崩し始めたのだ。

 寮では木曜日の夕食に必ずカレーが出る。

 調理師さんたちは工夫を凝らして、毎回少しずつ具を変えて美味しいカレーを提供してくれた。時にはハヤシライスにしたり、シチューだったり、誰からも文句は出ない。

 道理の分かる歳だったし、食べられないものはない。もちろんカレーが嫌いなわけではない。それでも木曜日になると、どうにも気が重い。

 まるで幸福感が削られたような残念な気持ちになるのだ。

 木曜日のモヤモヤが体調にも影響し始め、そのうちに木曜日だけ夜に外出するようになった。

 カレーではない何かを食べるのだ。


 がちがちに凍った歩道を摺り足で歩きながら、の小さな店に向かう。

 あばら家のような薄壁の店で、食べ方も知らなかったうどんのような麺を常連の手元を見て、見よう見まねで食べる。少し食べ残して、生卵を割ってゆで汁を入れてもらってにするのが通だというから真似してみたが、隙間風の吹き込む店内では、皿まで冷えてゆで汁を入れても卵が固まらない。首をかしげながら、それでも平らげて木曜日が終わる。


 一人で居酒屋に入ったりもした。

 成人を迎えた先輩たちが大声で話をしながら酒を酌み交わす中、独り肩身の狭い思いをしてカウンター席で食事をとる。同郷から進学してきたのは私ともう一人だけしかいない学校だったし、しゃべる言葉の調子も違う。話し掛けても年齢によっては言葉が通じない。異邦人にとって知らないメニューばかりで心細いが、木曜日を乗り切る為に躊躇している暇はない。

 何度かメニュー選びに失敗して、そのうち郷土料理だというが気に入った。プリンほどに甘い胡桃ペーストをデンプンで寄せたものにわさび醤油――冗談みたいな味は木曜日の窮屈さを吹き飛ばすのに十分な威力だった。


 木曜日に食堂にあらわれない私を心配して、故郷から送られてくる荷物の中からを分けてくれた友人がいた。山形の郷土料理で鯨の形をしているのでも鯨肉が入っているのでもない。甘辛い味に蒸し上げた米粉に胡桃がまじっている、ういろうやゆべしに似た味だ。長く保つという意味で「久持餅くじらもち」と書くと知ったのはずっと後になってからだ。

 部屋に電子レンジを持ち込んでいたその友人は料理が得意で、人の世話も嫌がらない情け深い女だったから、木曜日になると私を憐れんで煮物やらおこわやらをごちそうしてくれた。代わりにレポート作成を手伝ったり、エントリーシートの添削をしたが、あれで義理を返しきれていたかどうか今でも心残りである。不義理が後ろめたくて、未だに未練たらしく菓子を送ったりしている。

 友人付き合いの極めて少ない私が、今でも彼女との関係を細々とつなげているのは、世の中には本当に邪気のない極めて善良な人間もいるのだと世界を尊ぶためだ。


 もちろんたかったり、外食したりばかりしているわけにはいかないから、普通に買って食べることの方が多かった。調理室は許可が必要だし、夕食が出るのに調理室で料理などしたら奇異の目で見られるから自炊は難しかったのだ。

 ホヤだの円柱のラムだの、なじみのない食材のならぶスーパーで、弁当を買わずに塩漬け筋子だけ買って帰ってきておにぎりにしてたべたり、食べ物を買いに行ったのに本だけを買って帰ってきたり、木曜日の奇行はしばらく続いた。


 学期末、臨床心理学の試験が終わる頃、私の暗い木曜日は終わった。

 何冊か本を読んでいて、カレー云々が問題ではなくて、食事内容が決まっていることが問題だったことに気がついたからだ。

 同じ傾向を持つ息子の行動を観察するとよくわかる。どうやら我が子も繰り返される刺激にすこぶる飽きやすい。私達は生活を娯楽化しないと生きていけないのだ。


 寮を出てからは、同じ主食を食べ続けることはなくなった。三食和食ということもない。

 独り暮らしは楽しかった。

 何を主食にしてもかまわないのだ。

 ごはん、パン、麺、饅頭マントウ、パスタ、トルティーヤ、ジャスミンライス、ビン、粟、芋、粥、酒、本、もちろん主食無しでもいい。

 本当に罪深い生活をしている。

 豊かさとは選択の幅だとはよく言ったものだ。日本に住んでいるということが、どれだけ恵まれていることなのか、最近では罪悪感すら感じる。栄養摂取以外で自分を飽きさせないように食事を調達するだなんて、本来すべきではないのだ。

 末は飽食の罪で地獄に落ちるかもしれないと腹をくくって、今日も夜な夜な新しいものを求める。

 

 余談ではあるが、残念なことに、あれだけ時が経ったのに、日本のカレーとは未だに和解できていない。

 カレーがどれほど子育てで便利なメニューであるか知ってもだ。

 子らに特に請われた時は有名企業のルーで作る。

 たくさんは作らない。じっくりも煮込まない。二日目のカレーが美味しいだなんて幻想だ。

 フッ素コートのフライパンでみじん切りのタマネギ、ニンニク、ショウガ、細かい賽の目の人参、その時、冷凍庫にある肉、うちのカレーの具材はこれだけ。

 ジャガイモは入れてくれと言われた場合だけ。賽の目に切って塩ゆでにしておく。

 隠し味で牛乳と麺つゆ、だいたいこれで味は決まり。

 二日目のカレーライスは食べないが、二日目のカレーうどんとして出汁をたっぷり入れてリメイクするのは悪くない。

 もう日本のカレーとの距離はこんな感じでかまわないと思っている。

 しかしながら、木曜日にカレーを食べ続けなければならないとしても、今はちっとも怖くない。

 わたしは日本のカレーとは不和だが、各国料理のカリーとはずぶずぶの関係になったのだから。


 日本のカレーは定型詩のようなものだが、カリーは自由詩であり散文詩であろう。

 決まった具材で作る人参玉葱ジャガイモ豚肉のカレーはたいへん美しいものだ。手間をかけて小麦粉から炒めても、調味料を変えたり隠し味を加えたりしてもちゃんとカレーに帰結する。アレンジは極力しない。あまり突飛なものは入れないでおくのがいいような気すらしている。箱書きに忠実に従うのも心地いい。


 それに対してカリーの自由さといったら。

 一つだけのルールはスパイスで煮込んであるということ。

 カレーの本を読み漁っていて、魚をカレーに入れてもいいと知った時、身が軽くなったような気持ちになったと言ったら笑うだろうか。

 つまらないつまらないと思っていたものが、その実とても楽しいものだったと知るのは精神衛生にとても良いことだった。


 基本は、トマトと玉ねぎとニンニク、ショウガ、それと手元にあるスパイスを何種類か入れるだけ。肉は入っても入らなくてもいい。タンパク質を取りたければ豆をいれればいいし、チーズでも豆腐でもいい。ソーセージに山ほどスパイスをかけてカリーと称することもできる。宗教が許すならどんな肉でも魚でも、朝の残りの目刺しを入れてもいいのだ。この場合、カレーにジャガイモが入っても何の問題もない。


 さて木曜日だ、夜食はカレーにしよう。

 今日はどの国のカレーにしようか。

 マトンのカレーが好きだが夜食には少々手間がかかる。レトルトのグリーンカレーをアレンジしてスープにしてもいいし、五香粉で中国風咖喱という手も。


 考えもまとまらないまま、ニンニクと生姜と玉ねぎをたっぷりの油で炒める。これは各国共通!

 お米はあまり熱々じゃない方がいいから、もうお皿につけておこう。辛すぎた時に収拾がつかなくなる。

 トマト缶……いや、飲みかけのトマトジュースを処分してしまわなきゃ。

 片付けが苦手な私は創作カレーに冷蔵庫の残り物を託すことが多い。

 さて、タンパク質は何にしよう。冷凍肉を解凍するのは夜食の流儀に反する。

 だって、夜食はもっとずぼらであるべきだ。

 引き出しを探して鯖缶を一緒に炒める。水煮ではない、醤油味だ。


 味の終着点が見えないまま鯖缶のトマト煮にスパイスを足す。

 うちで用意しておくカレー用スパイスはクミンとコリアンダーと有名カレー粉の赤缶だけ。

 いい、すごくいい。ボルテージがどんどん上がってくる。

 まるで魔女だ。

 夜な夜なぐつぐつと赤黒く煮立った鍋に何種類も怪しげな粉をふりかけている。

 息子がうんこだと言ってかごに入れたも残っていたから入れよう。

 コリアンダーはいくら入れてもいい。良くなるという意味ではない。入れすぎても特に悪影響がないということだ。

「ふふふ、いくらいれてもかまわないのか……」

 コリアンダーの存在が気に入っていて、独り言を言いながらたくさん入れてしまう。

 クミンはケチらず、あとは赤缶任せだ。

 辛さはどうしよう。カイエンペッパーなんて置いてないから、一味唐辛子で辛くする。塩で味を整えて、今日のカレーはこれでいい。


 とはいえ、朝になれば魔女はお母さんに戻るわけで。

「お母さん、なんか足臭い。夜なんか食べた?」

「カレー」

「いや絶対カレーじゃないし、魚臭いもん」

「カレーだし」

 娘よ、母は夜食にカレーを食べたのだ。

 誰が何といってもあればカレーだったし、次に同じものは作れないから幻のようなものだ。

 残り香がするだけ。

 

 この一ミリずらしで変化していく日常は永く続くはずだ。

 私の曇り模様の木曜日の思い出は、好奇心を持たない事への戒めとなった。

 単純な日常の繰り返しにも、きっと不思議の国への扉があるはずだから。






















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カスタードを炊く 砂山一座 @sunayamaichiza

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