#02

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朝の河を見たいのだろうセーターの袖で

車窓の露を拭って/『千夜曳獏』千種創一


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夢の中で、やさしく私の髪を撫でる人がいた。静かなソプラノが、あさみ、と私の名を呼ぶ。姉の、夕未香ゆみかの声だった。私は彼女に逢ったことがないのに、明確に、それは姉のものだと分かってしまう。

しかしこちらから手を伸ばしてみても、私から彼女にふれることはついぞ叶わなかった。


***


おおきな欠伸をする。研究室のしかくい窓から、薄く頼りない夜がみえた。机に転がった白いボールペン、鯨の描かれた緑色の手帳、充電器をつないだノートパソコン。それらの奥には、レポート用に図書館からかきあつめてきた文献の山たちがあった。はあ、とみじかく息を吐く。なにもかもがいやだ。体の内側がひどく寒い。膝にかけていたタータンチェックのブランケットは、床に落ちかけていた。


「古宮さん。僕もう帰るので、鍵、お渡ししていいですか」


みずみずしく澄んだ声がして、あわてて振り向いた。背の高い彼を見上げて、わかりましたと頷く。

おなじ研究室の高月たかつきさんは、いちど大学をやめ、就職してから数年を経て大学に戻ってきたらしい。だから、ここにいる私たちよりも何年か大人だ。それなのに、だれに対してもきちんとした敬語をつかった。はじめのころは線を引かれているようでいたたまれないと感じていたけれど、礼儀正しい彼の振る舞いにもようやく慣れてきた。

「それじゃあ、お願いします」

高月さんから錆びた銀色の鍵を受け取る。おそらく昔の学生が教授にあげたのだろう、古びた恐竜のぬいぐるみがついている。帰り道お気をつけて、と言うと、彼はほんのすこし頬を緩めた。

「はい。古宮さんもね」

それだけ言うと、高月さんは机に置いていた黒いかばんを手に取って踵を返した。

高月さんの笑顔を、はじめて見た、と思う。ぼうぜんと彼の後ろ姿を見送ったあと、私も帰らなければとようやく席を立った。


冬の夜は、どうにもだめだ。

マフラーをきつく巻きなおす。帆布のトートバッグに入ったノートパソコンが重い。

駅のホームは、部活終わりの学生とスーツの大人であふれ返っていた。ひとの多いところは苦手だ。けれどひとりきりの部屋には戻りたくなくて、駅前のスターバックスに寄った。

ホットのカフェラテを頼んだ。窓際のカウンター席にすわり、温かなカップをてのひらで包むと、すこしずつ心がほぐれていく。きょうは金曜日だ。レポートは、月曜までに書き上げればいい。トートバッグから引っ張り出した分厚い文献は、読んでも読んでも頭に入ってこなかった。夢の中の夕未香が、胸のうちで滲んでは消えた。


姉が亡くなったのは、私がまだ小さかったころだ。あとになって母に聞かされた。葬式に出た憶えはない。彼女の骨が焼かれていたころ、私はどこにいたのだろうか。考えてゆくと、無性にむなしかった。朝与はなにも知らなくていいの、というのが母の口癖だった。

朝与は、なにも知らなくていい。

その言葉は呪文のように、私の心の深いところに根差した。

椿に似た濃い赤の口紅をさしていた母と、いまは疎遠になっている。母は彼女なりに、ずっと私を気遣ってくれていたようだ。しかしその気遣いは、日に日に間違ったほうへと進んでいっていた気がする。あのひとは姉に差し出すことのできなかった愛情を、そのまま私へ与えようとした。その重さに、いつしか私は息ができなくなった。母と話すことさえつらくなり、部屋に閉じ込もる日々が続く。日が経つごとにその関係は底なし沼のようになっていった。だからほんとうに沈みきってしまうまえに、私は地上へとあがってきたのだ。大学進学にあたってひとり暮らしをしたいとうったえたときには泣いて引き留められたけれど、あれはいまでも、正しい選択だったと思う。



姉は、真冬のある日、ひとりきりの研究室で自殺を図ったという。すべてが伝聞で、私は真実を知らなかった。

それでも、インターネットはなにもかもを暴く。こうこうと明るい光を放つパソコンの検索窓にキーワードを打ち込めば、たった数秒で彼女の実名があらわれた。

当時高校3年生だった私は、画面にうつる『古宮夕未香』の名前にそっとふれた。やっと逢えた、と思った。仮に彼女が自殺をしなければ、私が姉に邂逅することは、おそらく永遠になかっただろう。

表示された結果のなかには、彼女のアルバイト先の上司や、大学の友人、指導教授らに取材した記事がいくつもあった。


『朗らかで気の利く、良い子だったのに。なんで自殺なんてーー。考えられません。』

『夕未香とは大学で知り合ったけど、ずっと昔からの友達みたいに仲良くなれたから、本当に悲しいです。悩みがあったなら、打ち明けてほしかった。』

『夕未香さんは学問に積極的で、じつに聡明な学生でした。誠に残念でなりません。彼女の苦しみに気づけなかった大学側の責任として、大学が一丸となって、本学生に対してさらなる精神的サポートを考えていきたい。』



じっさいに血の繋がっている私よりも、彼らのほうがはるかに姉を知っているのだと思うと、ひどく不思議な心持ちになった。どこまでがほんとうで、どこまでが嘘なのだろうか。

両親の離婚、大きく年の離れた妹との別居。はっきりと正しいことも書かれているから、分からなくなる。

それにしても、なにも大学で死ぬことはないんじゃないか。そう思いながらも、私は姉が過ごした研究室で、姉の専攻していた学問を選んだ。彼女が死んでしばらくして、この研究室の教授はべつの人間になったらしい。だからさいわいなことに、同情するふりをして詮索をしてくる人間や、どういうわけか姉を責め立てるようなものはひとりも存在しなかった。

はるかむかし、実家の近所に住む若い母親たちに、実のお姉さんがあんなことをしてあなたはかわいそう、と言われたことがある。意味がよく理解できなかった。両親が離婚したあと私は母のもとにいて、姉は父と暮らしていたから、なにも知らなかった。ほんとうになにも。死んだことさえも、ずっと。

夕未香の胸中を、ほんとうは私も知りたかった。



月曜の朝、レポートの仕上げをするために研究室へ赴くと、すでに先客がいた。縹色の上着が綺麗にたたまれ、黒いかばんと一緒に机に置かれている。

「おはようございます」

「古宮さん、はやいですね」

「高月さんこそ。いつもこんなにはやいんですか」

「ああ、そうですね。だれかと会うまでに、時間が必要な性格で。だからだいたい、こうやって早朝に来て、じっとしてるんです。面倒なやつでしょう」

高月さんは、内緒話をするみたいにふわりとこぼした。意外だった。いつも飄々とした雰囲気を纏っていたから、まったく気づかなかった。

隣の席に腰を下ろすと、高月さんはマグカップをすこし自身のほうへ引き寄せた。すみません、という声がなんだか枯れている。

「喉、どうかされましたか」

「……ばれましたか。柄にもなく、カラオケで歌いすぎてしまって。悪ノリのすきな、腐れ縁の友人が何人かいるんです。最近はずっと研究に引きこもっていると言ったら、それはいかんと連れ出されました」

思わず笑ってしまった。楽しそうなひとたちだ。

「腐れ縁の友人は、よかったですね」

私がそう言うと、あいつら際限ってものを知らないから、と高月さんはからりと笑った。

「あ。高月さん、柑橘お好きですか」

「柑橘、ですか」

異国の言葉のように彼が繰り返すので、くすりと笑った。膝のうえに載せた大きなリュックをぱかりとひらく。

「はい。バイト先の先輩に、親戚がたくさん送ってきたからってお裾分けしてもらったんですけど、私ひとり暮らしなので」

食べきれないから、と言いつつリュックの底からたくさんの橙色を取り出すと、彼は声をあげて笑った。

「どうしたの。すげえあるじゃないですか。もしかして、だからそんなでかいリュック背負ってきたの?」

「そうですよ! 持ってくるの、たいへんでした。おかげで鍛えられました」

食べますか、といくつかをごろごろ転がしながら渡す。高月さんは、自分のほうへ向かってくる大量の蜜柑を見て、「それやめて!」と爆笑している。あんがい笑い上戸らしい。しばらく笑っていた彼が落ち着きを取り戻し、もう大丈夫ですと宣言をしたので、あらためてお裾分けの続きをした。

ゼミが始まるまで、まだ一時間もありますね。ほんとだ。ぜんぜんありますね。口々に言ってから、ポットを沸かして緑茶を入れた。ふたつのマグカップにお茶を注ぐ。それぞれ蜜柑を剥くと、甘く苦い、清らかな匂いが香った。ひとふさを口に入れて、おいしいです、と彼がほほえんだ。久し振りに、ゆるやかな時間が流れている。喉、はやく治るといいですね。そうつぶやくと、古宮さんも気をつけてくださいね、一瞬で喉はやられますからとまじめな顔で忠告された。よほどこたえたらしい。

「高月さんて、なにがお好きですか」

ふいにたずねると、彼はすこし困った顔をした。

「なんだろうな。僕、あんまり好きなものないんですよ。執着がないというか、挙げるとしたら寝ることくらいで。だからもしよければ、古宮さんの好きなものを教えてください」

そうなげられて、心がやわらかくゆるむ。

「え、高月さんの笑いかたとかですかね」

「え、僕? あっ、ちょっと待って、」

高月さんはあげたばかりの蜜柑を床に転がして、あたふたしていた。ふたりで拾い上げる。それから、なにしてるんでしょうねわたしたち、と言いあった。


彼女は、いま天国にいるだろうか。寒くはないだろうか。あした、彼女のお墓参りにいこうと思った。

真夜中の研究室で、高月さんに姉の話をした。だれかに、こんな話をするのははじめてなんです。そう断ってから、長いながい話をした。彼はずっと、私の話を聴いてくれた。私は、無意識のうちに泣いていたかもしれない。きっと私が夜通し話したのは、聞くに耐えない懺悔めいたものだったにちがいない。起きると、机には見たことのない白いハンカチが置かれていて、肩には縹色の上着がかけられていた。高月さん、と呼ぶと、彼も隣で寝息をたてていた。私に上着を貸してくれた彼は、ふたたび喉を痛めてしまうだろう。治ったら、それでもまた、腐れ縁の彼らとうたいに出かけるのだろう。生きていくには、そういう時間が必要だと思った。私は、彼をそっと起こした。柔らかな朝だ。


白く小さな花が、霊園にはいくつも咲いていた。私はそれらを踏まないように、気をつけながら歩く。後ろを歩く高月さんが、雲がきれいですよ、と空をゆびさした。見上げれば、白い空に、薄紫の雲が棚引いている。


かつて、この世に存在していた夕未香という女性。私の想像のなかにいる、やさしくほほえみかけてくれる姉のこと。


墓参りへ行ってから何日か経ったある日、ひとり暮らしのアパートに、ひとつの小包が届いた。しんとした、冷たい朝のことだった。

宛名には、古宮朝与様、と書かれている。真白い封筒には波のような模様が編まれていて、ふと、姉のことを思った。


封筒のなかには、姉の日記が入っていた。鯨の描かれた緑色の手帳。こんな偶然があるのだろうか。趣味がまるでおなじだ。ながく息を吐いてから、頁をめくった。無機質な方眼用紙。そこには、ふわりとほころんだ椿の絵や、まっすぐと美しく伸びた向日葵の絵があった。彼女は、花がすきだったのかもしれない。絵のそばには、四月・五月、といったざっくりとした日付が、青色のインクで記されていた。どこかの街の風景が、ページいっぱいに描かれている。そのなかに、ひとりの少女の横顔があった。

桃色のフレアスカートをはき、やわらかなブラウスを身につけている。ほほえむ少女は、遠くのほうをゆびさしている。幸福な絵だと思った。少女を照らす、ひかりの描写が美しかった。そのとき、あるひとつの風景が、春雷のように浮かんだ。急くように、私はつぎの頁をめくる。姉の字があった。走り書きのようだったけれど、うつくしい筆跡だと思った。


『きょうは、雪でも降りそうな寒い日だ。天気予報は雨だと言っていたけれど、外は晴れている。日差しだけはあたたかく見える。妹と、はじめて一緒に出かけた。朝与はとても人懐っこい。ゆみか、は、言いづらいらしい。「ユウ」と呼ばれた。「ユー」かもしれない。なまえを呼ばれるたび、くすぐったくなる。私はとても用心深いほうだから、彼女はこのまま素直に、いろんなひとから愛されて生きていってくれたら良い。朝与は私のひざのうえで、景色をみせてとせがんだ。ちいさな靴(しろくまの絵がかかれている)をぬがせて、そろそろと抱きあげる。体温が、はっとするほど熱い。でも、これがふつうみたいだ。こどもは、こんなふうなのかと驚いた。車窓の外には、まぶしく光る河があった。ふたりで見られてうれしい。あの河は、朝与みたいだね。私が言ったら、妹はうれしそうにわらって、あさみ、にてるかなあ、だって。彼女を心から、いとしく感じる。また、朝与に会いたいと思う。』


私が何度も夢で出逢っていた姉のすがたが、ただしい輪郭をもって私の眼前に映った。なんと尊く、綺麗な景色なのだろう。


窓から、やさしい風が吹いた。どうか朝与は健やかに、と言われているようだった。きょう、気のすむまで泣いたら、たくさん生きようと思った。いつか夕未香に逢えたら、また笑ってほしい。笑いかけたい。いままでに私が出逢ってきた、愉快で美しく、意味のない話をしたい。私もあなたをいとしく思っていると、彼女自身に伝えたかった。


その日、祝福のような雪は、私が泣きやむまでいつまでもいつまでも降りつづけた。

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千年の街 淡島ほたる @yoimachi

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