千年の街

淡島ほたる

#01

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夕暮れのような暗さのアパートのあなたは

脱衣所を褒める /『千夜曳獏』千種創一


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「髪、伸びましたね」

アパートの扉を開けたままあたしがそう言うと、琥珀は目を細めて笑った。気まぐれな、毛並みの良い猫に似ていると思う。彼女の柔らかな黒髪は、毛先のあたりでゆるく巻かれていた。うすむらさきのコートが、よく似合っている。

「シオンは、短くなったね?」

肩口で切り揃えたあたしの髪を、彼女はゆったりと眺めた。

春嵐のようにあらわれて、 よく言えたものだ。喉元まで出かかった言葉を、どうにか押しとどめる。あたしはもう世間知らずな少女ではないし、彼女だってそうだ。

「……寒いな。とりあえず、入りませんか」

なにしろ、外は霧雨が降っていた。かすかに心が波立つ。もっと激しく降ればいいと思った。今日の記憶の一切を失えるように、激しく。

彼女のコートを受け取って、ハンガーラックに掛けた。琥珀はシフォンワンピースに、ベージュのカーディガンを羽織っていた。隣を歩く彼女からジャスミンが淡く香って、軽い眩暈がする。いつかあたしが彼女に贈ったものと同じ銘柄だ。プレゼントしたのはもう随分前だから、新たに買い替えたのだろう。 まったくこの人は、と思う。自覚的なのか無意識なのか判別がつかない。

すべてを振り払うように、窓の外を見た。

「雨、いつから降ってたんでしょう」

「お昼過ぎだよ。気づかなかった?」

「昨日の晩からずっと、気を失うように寝てたんです」

「よほど疲れてたんだね」

無防備なほど甘美な表情でつぶやく琥珀に、そうかもしれません、と素っ気なく答えた。まだ彼女のことを意識している自分が、なんだか哀れだった。

「来る途中、あんがい風が強くてさあ、ピアス、飛ばされちゃった」

ふふ、と笑う彼女の耳には、たしかに片方の耳にだけ銀色の星がついていた。

「なにしてるんですか」

思わずくつくつと笑う。しかたないでしょう、と彼女が微笑むので、仕方ないですね、とあたしも微笑んだ。

寝室に置いたままにしていた眼鏡をかけると、急に現実の輪郭がはっきりと浮かび上がってきた。あまりに琥珀が眩しく見えて、あたしは再びそれを外した。


台所で紅茶を入れていると、あたしが裸足であることに気づいた彼女がすこし大きな声で「だめだよ」と言った。

「大丈夫。あたし、平熱が高いんですよ」

「却下。理由になりません」

「大丈夫だから」

「シオンはいつもそう言うけど、もっと深いところから絶やさないと、大丈夫にはならないんだよ」

そういえば、琥珀はそういう性質だった。柔らかな部分をもついっぽうで、みずからの信念をなによりも大切にしていた。 どんな状況であれ落ち着いていて、ものごとを正しく捉える人。

ふいにあのころの記憶が再生され、静かに息を吐いた。切れかけの蛍光灯みたいに、ちかちかと目の前に不愉快なひかりが映る。


「気分がすぐれない?」

そう訊ねる琥珀は、機微に聡いわりに、ある一定の部分について疎かった。なんだか、腹が立つ。放っておいて、と言いたくなるのをこらえて、「偏頭痛なの。機嫌が悪いわけじゃない」と答えた。

「あなたは昔から優しいね。きちんと理由を渡してくれるところとか、変わらない」

琥珀が、わずかに低い声をだした。

「……あなたが優しいって言われるの苦手なの知ってるけど、シオンと話すたびにそう思うよ」

途端に、海の音が聞こえる。

琥珀が、あたしのもとから去った夜。思い出したくもなかった。

「そうだ、これ。たしかあなたが好きだったなって、思い出したから」

淡い水色の紙袋を揺らす琥珀が、湖を湛えた瞳でじっとあたしを見つめた。どんなに年を取ろうと、あたしはこの人から逃れられないのだと、あきらめるみたいにそう思った。


それから、 ふたりで台所に立った。紅茶をいれて、お土産だという無花果のケーキを食べた。ひどく懐かしく、甘かった。ひとことふたこと、あたしたちは言葉を交わした。たとえばいまの生業について。

琥珀は、著名な写真家のモデルをしているらしかった。彼女はどんな場所でも絵になるだろう。琥珀の、暗がりでも淡く発光する白い肌や、どこまでも清廉な世界を映す瞳を思った。

シオンは、と訊かれて、当たり障りのない返答をした。映像関係の仕事だとこたえると、琥珀はほんとうに嬉しそうに「応援してる」と言った。彼女の頬に朱がさすたび、罪悪感に襲われた。あたしは、あのころからなにも変わっていないだけだ。

舞台から離れることにあきらめきれずに、小さな映像制作会社に勤めながら、うだつの上がらない脚本を書き続けている。彼女があたしの書いた人物を演じることはもうきっとないのに、空白を宿したシナリオだけが溜まっていった。


たった五年前だ。遠い昔のようで、すぐ手許にある記憶だった。


--シオンの書く脚本が好きだよ。


あなたがそう言ったのに、あなたは離れていった。


「暗くなるのがはやくなってきたね」

「……ほんとですね」

秋は、どうしても苦手だ。やけに、ひとりでいるのがつらくなる。

カーテン閉めなきゃ、とソファから立ち上がった瞬間、琥珀にひきとめられた。

「シオンに頼みたいことがあるんだけど、訊いてくれる?」

その問いに、わずかにひるむ。

舞台に立ったときの、琥珀の声だったから。

「わかりました。なんですか」

「今夜、泊めてほしいの」

なんだ、そんなこと。途端に拍子抜けする。

なにも問題はなかった。昔、この人は恋人であったし、今はお互い大人だった。

いいですよ、と返すと、彼女はありがとうと答えた。なにを思って彼女がそう頼んだのかは分からないが、断る理由も見当たらなかった。さいわい、あたしは独り身だった。彼女もそうであるはずだ。

あたしと彼女は、いたって正しいシチュエーションの中にいた。


夕飯は鍋にした。春菊や豆腐や鶏肉を入れて、ぐつぐつと煮た。彼女はどうやらお酒に強いらしい。綺麗な表情のまま、綺麗ないろのアルコールをつぎつぎと飲み干していった。あたしは頬杖をついてぼんやりと彼女を見ながら、度数の高いものを、時間をかけて飲んだ。易しく酔えるならなんでもよかった。彼女とまともに向き合えば、泣いてしまいそうだったのだ。したたかに酔った彼女はよく笑い、時折まじめな顔をして、昔のあたしの脚本について語っていた。


浴室から出てきた琥珀は、ひどく心許ない顔をしている。酔いが覚めたのだろうかと思いつつ、軽薄なピンク色をしたドライヤーを渡した。しかし彼女はかぶりを振って、床にすわりこんだ。あたしも琥珀も、手のかかる女だ。

「琥珀、こはく。湯冷めしますよ」

あたしはタオルを手に取ると、仕方なく彼女の後ろにしゃがんだ。濡れた髪に触れる。ゆっくりと水滴を拭っていく。琥珀は、あたしのほうに体をあずけて目を閉じていた。沈黙に満たされた部屋で、雨音だけが大きく響いている。

コンセントに挿していないドライヤーは体温を失った生き物のように、床に横たわっていた。

「シャワー浴びて、冷静にでもなりましたか」

昔のように話しかけたら、きっとあたしは間違えてしまう。いつだって正しいあなたを、こちらに引き込むわけにはいかなかった。きちんと、彼女を正しい場所へ戻さなければならない義務があった。


「花嫁になる人が、こんなところへ来たらだめですよ」


諭すように呟く。知ってたんだね、と彼女は笑う。もういい。すべてを奪われてもいいから、あたしは琥珀といたかった。

「あたりまえだろ、何年あなたを好きだと思ってるの」

なにそれ。琥珀が笑う。私のほうが好きだった、などと言う。ほんとうに、ばかみたいだ。


「幸せになってくださいね」

彼女の髪を手のひらですいた。うん、という琥珀の柔らかな吐息が聞こえる。

「また生まれ直せるなら、あたしはあなたと一緒にもういちど舞台をつくりたかったし、あなたと一緒に生きたかった」

琥珀の瞳から、うつくしい湖が静かにあふれた。これからつくろうよ、と目元だけで笑む。

「脱衣所に、私の写真集があった。付箋紙まで。読みすぎだよ、はずかしいひとだな。でも、泣いちゃうくらいうれしかった」

「琥珀が綺麗な表情ばっかり。あたしならもっといい演出ができるのに。でも、最後のページはよかった。さびしそうで、苦しそうで」

シオンだけが、私のほんとうを見てくれる。

そう言われて、琥珀を後ろからゆるく抱きしめた。

「ねえ、私、ここでシオンに撮って欲しい。ずっと宝物にするから。最後の我が儘にするから」


真夜中、いくつもの琥珀を撮った。

狭くて薄暗い脱衣所を、彼女は「素敵だ」と繰り返し褒めた。

何度も何度も、きらきらした光で部屋を満たした。いつか、この夜を書きたいと思った。

そうして、生まれ直したら、あなたと。

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