未生之話

笠木礼

第1話 未生之話


生まれ損ねたのだ、と男は言った。

黒地に白の縦線が入った甚平を着た男は、やつれた様子で項垂れている。ずっと歩いていたのだろうか。藁で出来た草履は擦り切れて、履物と呼ぶにはあまりにもお粗末なものである。


「あの、話を聞いて欲しいのですが」


何回も声をかけているが反応は無く、自分の世界に籠っているため気づいてないような気がする。

しかし、放っておくわけにはいかない。これから生まれてもらうために、この男を迎えに来たのだ。


「順番が廻ってきました。外の世界に行きますよ」


さっきまで俯いていた男が、やっとこちらに興味を示したらしく勢いよく顔を上げる。しかし、その表情は男にとって待ち望んでいたであろう嬉しい知らせには、似つかわしい戸惑いを含んだ顔だった。


「それは本当か? 今まで見送るだけだったからどうしたら良いか分からないが、信じて良いのか?」


「えぇ、本当です。最後の生から久しいようですが、やっとですよ」


「深い川の底で溺れたと思っていたが、気づいたらこんな世界にいたんだ」


「それは、たぶん三途の川ですね。あそこを渡り切ると、ここに辿り着くので」


男は訳が分からず混乱しているように見えたが、自分の身に起こったことを戸惑いつつも話してくれた。


「何をしたら良いか分からず暇だからと最初は散歩をしていた。しかし、次第に飽きてしまい途方に暮れていた。でも、やっと生まれることが出来るのか。信じて良いんだよな?」


「何と言おうが、連れて行くのが私の義務なので。ほら、急いで下さい」


と言っているにも関わらず、男は全くその場から動こうとしないので、無理やり連れていくことにした。拍子抜けの様子だった男を引っ張るなど簡単なもので、軽く掴んで木製の舟に乗せた。その反動でギシギシと音を立てて、ぐらっと大きく傾いたが、そんなものいつものことだ。


「では、行きましょうか」


こうして、男が生まれる前の旅が始まった。


 ここには生命が無い。生まれた先で見ることになるであろう植物や動物も形としては存在するが、あまりにも綺麗すぎるので気味が悪い。きっとこれらは作り物であるに違いないと人々は言う。実際、そうなのだ。どの生き物に触れても手触りはガラスのように固く、まばたきの一つもしない。植物は常に同じ色で枯れることはない。では、自分たちは何なのかと言われても分からない。ただ、人の形をした何かであり、存在しているというだけである。考えても知ることは出来ず、教えてくれるものもいない。何より、ここは生まれる前の一時の滞在場所にすぎないのだから考えるだけ無駄である。


「なぁ、さっきからどこへ向かっている? 生まれに行くと言われても、全く分からないものでな」


「ずっと、ずっと先ですよ。この舟を漕ぎ続けた先に、ここと外をつなぐ橋が見えてくるのです。そこまでです」


なるほど、と言いつつも何も分かっていないであろう男はキョキョロと周りを見ている。どうやら落ち着かないらしい。


「生まれるというのが、そんなに不安ですか?」


「さぁな。ただ、見当がつかないから何も言いようがない。ここにいても暇だが、いざ生まれると言われても覚悟が出来ていなくて……」


「覚悟なんか必要ないですよ、その時が来れば何とかなるのですから」


 霧がかかった世界の中をどんどんと進んでいく。視界は悪いが嫌なものではない。完全なる白の世界に包まれた訳ではなく、少しぼんやりとさせるぐらいのものなので、この無機質な世界によく似合う。


「あんたは、いつもこうやって人を何処かへ連れていくのか」


「その言い方は良くないですね」


他にも言い方はあるだろうとも思ったが、行き先が曖昧では不安であろう。本当に生まれることが出来るのか、もし逆の立場だったなら――。そう考え始めたところで、男にいつもの質問をされた。


「これから生まれに行くと言うが、そうなると今の状態は何だ? 人の姿で存在し、話すことも出来ている。それなのに、生きてはいないのか?」


毎回のことだが、この手の質問には困る。私自身ですら自分が何者であるかを正確に把握していないのに、ましてや他がどうであるかなんて答えられるわけがない。


「今のあなたは何を根拠に生きていると言えるのでしょうか? それなら、夢を見ていると言っても何も違わないと思いませんか? 不思議な夢の世界を生きていると」


男は頭を抱えて唸り始めた。最初に話題を振ってきたくせに、こちらの問いに答えられないなら聞かないで欲しいものだ。


「私は外の世界……、生まれる側の世界に行ったことがないので詳しいことは分かりません。ただ、役目を果たしているだけです」


言われる度に考える。外から来たものに外へ行くもの。皆がその世界について話す。だが、実際に行って生まれたことが無ければ死んだこともない。そのため、三途の川も見たことがない。体験せず、聞いただけの知識で語るなど到底無理なことだ。


「それも大変だな。こんな薄気味悪い場所に閉じ込められているなんて」


「えぇ、まったくです」


そう答えるだけで精一杯であった。


 林を抜けると、真っ白な鶴が一羽いた。じっと池の淵を見つめて、か細い声の一つも出さない。それは作り物らしく、立っているだけだった。進んでも風景は全く変わらないということはなく、少しは変わる。しかし、何回も通った場所であり見慣れてしまったため、飽きが来てしまう。私にとって風景は基準点にしか過ぎず、楽しむものではなくなってしまっていた。


「おい、まだ目的の場所に着かないのか?」 


「もうそろそろですよ。橋の先を進んだところに、満月が映った場所があります。そこに飛び込めば、あなたは向こう側の世界に生まれることが出来ます」


「間違って溺れてしまうことはないのか?」


「そうしたら、またここに戻ってくるだけです」 


「それはどういうことだ? 必ず生まれることが出来るのでは無かったのか?」


「あぁ、まだ話していませんでしたね。大抵の人は上手くいくのですが、中には弾かれてしまう人もいるのです。理由はよく分かりませんが、あなたなら大丈夫ですよ。ここまで待ったのですし、きっと生まれ変われます」


説明したことで、より男の顔が険しくなった。生まれ変わるのも生まれ変われないのもどちらも不安であろうが、これ以上どうすれば何と言えばいいか分からない。ただ、事実を言ったのだ。それだけで十分だろう、ここまで来たら選択肢など無いに等しいが、あとは男次第だ。


「それは信じていいのか?」


「あなたは本当に疑い深い。信じるものは救われる、です。それにここまで来たら引き返すことも出来ないでしょう。やっと待ちに待った生まれる機会を手に入れることが出来たのに手放すなんてことを、あなたはしないのでは?」


「分かった、その言葉を信じるよ」


舟から降り、朱色に塗られた橋を渡っていく。満月が見えるところまで行くと、一旦立ち止まりこちらを振り向いた。


「じゃあ、行ってくるよ」


私は深く一礼し、男に別れを告げる。


「それでは、いってらっしゃいませ」


男は、勢いよく飛び込んだ。最初の方は、見えていた男の姿も次第に見えなくなり、湧き出てくるのは泡だけであった。しばらく、その様子を眺めていたが、深い湖の底など見える筈もなく、男が無事生まれることが出来たのか、またあそこに戻ってしまったのかなど私は知らない。


 相変わらず、霧が濃く全ての時間が止まったような世界で、湖だけは唯一動いていた。人や葉っぱや蝶。ありとあらゆるものが飲み込まれていく。湖は飲み込むだけだった。今度は何を飲み込んだのか、それとも中からの合図なのか。波紋は広がり続けていた。

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