金魚鉢の中身

生崎 鈍

姿なき熱帯魚

「そこに座っててくれたまえよ」


 ただでさえ狭い古めかしい木製の部室の細長い机の上に置かれた空の金魚鉢。透明な丸い硝子の中には湿っぽい空気しか詰まっているものはなく、私の前で金魚鉢を挟み、彼女はそう言うと瞳の奥で妖しい光をチラつかせながら、鞄から取り出したペットボトルの水で金魚鉢を満たしてゆく。


「前にこの部室はいろどりに欠けると話はした気がするが、金魚を飼うとは聞いていないな」

「そんなものを飼う気はないよ。一種の実験だと思ってくれたまえ。私達はオカルト部なのだから一々やる事なす事に意味を見出す必要はない」

「ならそれはただの無駄と言うのではないかな?」

「無駄から何かが生まれたら、それこそ素敵な事ではないかね?」


 金魚鉢に水を注ぎ終え、水の残るペットボトルを彼女は静かに机に置いた。透明な世界を覗き込む彼女には何が見えているのやら。冷たい硝子の肌に浮かぶのは、『歴史ある』とでも言えば格好がつくのだろう年季の入った木製の部室の壁くらいのもので、オカルト部だからと不思議なモノが映り込む訳でもない。


「覗いてみるといい」


 そううながされて金魚鉢へと顔を下げて見つめるが、透明な世界は透明なまま。金魚鉢の中を回遊する何モノの影もない。


「さあ何が見える?」

「……君の顔しか見えないとも」


 覗く金魚鉢のその先で、同じく金魚鉢を覗く彼女の顔。透明な世界を通して漂う少女の瞳は、悪戯っぽい輝きをまたたかせると、そっと唇を金魚鉢の肌に押し付ける。


 彼女の唇から零れる熱に当てられてか、僅かに踊る透明な世界に目をまたたいていると、彼女はそっと金魚鉢を持ち上げて窓辺の棚の上に置いた。


「さて、今日からこれを飼うことにしよう」


 それだけ言うと、彼女は一度も振り返る事なく、迷いない足取りで部室を出て行ってしまう。飼うもなにも金魚鉢の中には何もいない。透明な世界が窓辺で陽射しを浴び輝いているだけである。


 部室に残されたのは金魚鉢と私だけ。彼女の出て行った扉を一瞥いちべつし、そっと席を立って金魚鉢の前へと足を向けた。


 彼女の唇が触れていた硝子の肌の上を親指で軽く撫ぜ、ため息を吐きながら机の上に残されたペットボトルを手に取り残りの水を注ぎ込む。


 彼女の熱が泳ぎ回っているだろう金魚鉢へ。少なくとも干上がってしまわぬように。


「……一体何を飼う気やら。私に世話を押し付ける気だな」


 金魚鉢の中を漂う彼女の想いがどんな成長を見せるのか、どうにもそれは私次第になりそうだ。

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金魚鉢の中身 生崎 鈍 @IKUZAKI_ROMO

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