君の幸せを

篠岡遼佳

君の幸せを


 炎。


 耳鳴りがおさまらない。

 目の前には、燃えさかる炎に包まれた蠢く人影。

 隣の彼の、あまりにも強く握りしめたこぶしから、血の赤が床にいくつも垂れている。


 熱と、驚嘆と、焦げた匂い。

 彼女、桜城さくらぎ潮路しおじは、それを、時々静かに思い出す。


 実は、その事件のことは、彼女の記憶としては曖昧だ。


 教えられている事実は三つ。

 自分と彼、日名瀬ひなせあきらが、その男に誘拐されたこと。

 男に魂を喰われそうになったこと。

 そして、それにあらがい、彼が魔力を爆発させたことだ。


 犯罪者は火だるまになったが、命は取り留めたと後になって聞いた。

 しかし彼は。

 こちらに向かうはずだった刃物を腕で受け、そして、何事かを絶叫し、魔法の使い方も知らず魔力を暴発させた彼は――。


 

 遠い遠い、ずっと昔。

 神よりも先にこの世界に訪れた、最初の変革。

 それは滅亡しようとしているふたつの世界の出会いだった。

 

 姿さえ保てなくなっていた片方の世界は、もう一つの世界の魂との統合を選んだ。

 その結果、魂は魔力そのものとなった。

 誰もが魔法の一端を使えるのは、そのためだ。


 あの日、魔力の使い方もわからず、怒りにまかせて起こした爆発。

 それは、彼の髪の色と目の色が持っていかれるほどの影響を彼に与えた。



 そして――現在。



 潮路は慣れた手つきでノックをし、「うぐ……」という鳴き声を聞いてから、ドアを開けた。

 目を閉じたまま、雪のような白銀色の髪をした少年が、布団から脱出しようとあがいている。床には何故か、A4の紙が散乱している。

 いつものように、潮路は声をかけた。

「おはよう、暁。朝だ、起きてほしい」

「……ねむいからやだ……」

「暁はいつまで経っても、朝が弱いな」

「潮路は何で、そんなに早起きができるのさ……」

「そういう風にできている、いいから朝ご飯を食べないと、また貧血になるぞ」

「ふぁふ……」

 大あくびでそれに応えると、彼の瞳が開いた。

 片方は、薄いグレー。

 もう片方は、橙と藍色のハーフ。夜明け前の空の色だ。

「今日は何曜日だっけ?」

「金曜だ。召喚基礎概論のレポート提出日だ」

「うう……間に合った……」

「どこにあるんだ? プリントアウトはしたか?」

「したよ……そこに落ちてるはず……」

 散乱している紙を、潮路はテキパキとまとめ、自前のホチキスで綴じた。

「召喚、なんていったら、クロが怒るんじゃない?」

 目をこすりながら起き上がり、ベッドに腰掛けて暁が問う。

「彼は今、眠りのフェーズに入っている。それに、自分が普通の召喚で呼ばれていないこともわかっているから、どちらかというと得意げだった」

「うん、なるほど」


 爆発を起こした彼の魔力。

 もちろん、命を脅かされた潮路も、同じように魔力を放出していた。

 しかし、それは攻撃ではなく、異なる世界から従者を呼び出すこと――召喚として機能した。

 普通は、短呪でも、魔法陣でもなければ呼ばれないような存在。

 それは――悪魔だった。

 見た目は巨大なオオカミだが、紫のオーラを纏う漆黒の姿は、この世のものではない。

 従者としての役割は果たすが、かなりの自由意志を持ち、なおかつ元いた世界に還る様子もない。

 『おまえらは危なっかしいからな。我が見届けてやるとする』

 潮路が、クロ、という名前をつけて以来、それが彼の口癖である。



 暁は身支度を整えていく。

 途中、いつものように顔を洗って、じっと洗面台の自らを見つめた。

 失われた色。腕の外側の白い傷。

 独り言のように、タオルを持ったまま暁はつぶやく。

「――さあ、あとどのくらいなんだ、おれは」

 まばたいた瞳は答えない。


 彼は知っているのだ。

 魔法ではなく、魔力を使ったことによる後遺症。

 それは、体の変化だけではない。

 直接を削ったということだ。


 未来への、諦めのようなものを、彼は感じ続けている。

 つまり、――自分の寿命は、さほど長く残されてはいないということを。



 その事実を、ごく少数の人間は知っている。

 もちろん、潮路もだ。

 けれど、潮路は諦めていない。

 必ず彼の魂を元に戻す。

 その手立てがどこにあるのかわからなくても、自分を守ってくれた彼を、決して見放さず、生きていかせるのだ。


 

 日名瀬暁、桜城潮路。

 二人の春は、そうして始まろうとしている。






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君の幸せを 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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