猫様はご機嫌がよろしいようで。

そーだすい

第1話

 使い終わった筆を水に浸す。透明なコップが茜色に染まった。

 ふぅ、と息を吐いて再び空を見ると、空は紺色になっていた。夕焼けから陽が落ちるまでの時間が日に日に短く感じる。そういう季節。もう1年の終わりも見えてきた。長いようで、あっという間なのだろう。

 汚れたエプロンを脱いで、慣れた手つきでベランダから引っ込む。カーテンを閉めて、道具を洗おうとお風呂場に入った。

 お風呂場には我が愛しき主がうとうとしながら、窓に寄りかかっていた。

「みー様、水を出させていただくので退出したほうがよろしいかと。」

いつものように話しかけるとみー様は「みやぁ」と一鳴きして、走り去っていった。

「水が嫌いなのにどうしてここで寝るかな…」

 主人への不満を漏らしながら、絵の具を洗い流していく。排水口が詰まると大変なので、最低限の配慮はしておく。色とりどり、透明な水が白い床をつたって流れて、川をつくった。

 一通り洗い終わると、とっくに夕飯の時間になっていた。急いでみー様のご飯を用意しなくては。

 今日も思った以上に長く描いていたようだ。一人で生活するようになった途端、絵を描く時間が長くなっていった。近くの絵画教室にも顔を出して勉強はしているが、一向に上手くなった気がしない。私の中で、絵を描く時間と、上達度はうまく比例していかない。

 みー様はリビングでご機嫌だった。喉をゴロゴロと鳴らしながら、つけっぱなしのテレビを見ていた。つくづく人間らしい。

 みー様の目の前にご飯を出せば、勢いよく食べはじめた。すぐ無くなりそう。あ、無くなった。みー様は「おかわり」とでも言いたいのか、つぶらな瞳をこちらに向ける。これ以上食べられると困るんだけどなぁ、と言うと、シュンとしてお皿を前足で蹴った。いらない、というつもりらしい。

 素晴らしい、人語を理解していらっしゃる聡明な方だ。その上飢える民に理解を示してくださるとは。みー様をひと通り称えると、みー様は満足したのか、またさっきのように喉を鳴らしながらテレビをご鑑賞なさる。本当に人なのかもしれない。

 さて、自分のご飯を作りますか。

 みー様のお皿を洗いながら、冷蔵庫の中身を思い出す。あ、冷凍チャーハンしかない。しょうがないから、チャーハンでいっか。

 食生活も自堕落的なものになっている。バイト先を増やそうかな、まかない料理つきのところにするか。もう既に本屋でのバイトも慣れたから、ある程度は上手くやっていけるだろう。少しみー様のお側を離れる時間が多くなるだけ。聡い王の事だ、きっとわかってくれる。おばあちゃんからのお小遣いも切り崩しながらなんとか画材を買って…いつか、自分の個展を開く。そのために頑張る。よし、明日も頑張ろう。

「みやぁ」

 みー様が足元で鳴いた。構って欲しいのか、それとも水が欲しいのか…冷凍チャーハンが温まるまで、とりあえず構ってあげるか。

 みー様のお気に入りのおもちゃを取り出して、目の前で振ってみる。みー様は見向きもしなかった。

 みー様がボロボロにしてしまったぬいぐるみを目の前に出す。みー様は前足でそれを除けただけで、また見向きもしなかった。

 水を入れた皿をみー様に献上すると、みー様はそれをペロペロと飲み始めた。水が欲しかったのか…

「みー様が人語を理解できるなら、私が質問をして、イェスなら『みゃあ』、ノーなら『グー』って鳴いてくれたら楽なんだけど。」

冗談めかして言う。なんだっけ、物語の中のアリスもおんなじこと言ってた気がする。

「みー様が人語を喋ったらなんておっしゃるんだろう。貴族みたいな話し方とかされたら面白いのに。」

 みー様は、ある日突然私の家の玄関の前に現れた猫だ。弱っているわけでもなく、猫好きだけれど飼うのはなぁ…と渋った私は、無視しようとして玄関を開けたが、素早い動きで、土足で、家を踏み荒らしてくださった。どうやらなぜか気に入られたらしい。

 みー様の体を洗わせていただいて(その時はとてもおとなしかった)、部屋を綺麗にしたところで、私はみー様と「私の言うこと聞く」事を条件に同じ部屋を共有する運びとなった。

 「私の言う事を聞く」という条件を果たしてちゃんと呑んで下さったのかは分からないが、今のところ大したトラブルもなく過ごしている。部屋を荒らされたりされないし、私の絵を描く邪魔もしてこない。この方、本当に猫なのかも分からない。そのうち、本当に喋り出すんじゃないかと思う。

 手続きなどをして分かっているのは、みー様は雑種であること、オスであること。歳は人間で言うところの20歳ぐらいだという。けれどもその立ち振る舞いは人間の20歳とは遠くかけ離れたものであるので、敬意を表して私は「みー様」と名付けた。

 友人を自宅に招いた時も、みー様は静かに佇んでらした。まるで貴族のようだった。みー様は誰にでも基本態度は崩さない。唯一、水をかけられるときは普通の猫だ。よっぽど苦手なのだろう。それ以外は人間に完全に理解を示している。おかしい。猫ってこんなに…人間くさかったっけ?

「みやぁ〜」

おまけにバラエティー番組でどっとウケたタイミングでみー様も鳴く。もしかして笑ってる?とすら思う。

「みー様、ご相談があるのですが」

みー様のテレビ観賞の邪魔にならぬように、そっと隣に侍る。そして小声で相談を始めさせていただいた。

「私めは、今非常に生活が困窮しておりまして。大学を卒業してからもこう…じ、自由に、バイトとかして…現在の生活を享受させていただいていたわけなのでございますが、最近、主人様のお世話もありましてちよっと…その…」

言い淀む。何で言えば良いんだろう。人間じゃないし、言い聞かせるつもりもないけれど、この空間ではみー様が私の主人(みたいな設定)でやってきているので、それに従って、一応…みー様にも理解を示して頂こうとおもったんだけど…

「みゃ〜」

みー様はこちらを見て、ひと鳴き。「続きを話せ」と言っているようだ。そういう風に思ってしまう私自身に呆れながら私は続ける。

「バイトを、増やそうと思っております。この家にいる時間が…みー様と過ごす時間がだいぶ短うなってしまい、大変心苦しゅうのですが…」

「みゃお、みゃあ」

「…よろしいのですか?この部屋など荒らしまくって下さいませんね?」

「ミュヴ〜」

酷い鳴き声してる。これは怒った時の鳴き声だな、謝っとこう。

「もちろんみー様の今までの態度などを見させていただいて、みー様が私めの言うことをきちんと聞いて、理解をしていただいているのは分かりま、す。ただ、その…みー様は猫でございますので…一応、本能に負けられると私が困りますから…」

「みゃー…」

しょん、としてみー様はトイレに行く。そういえば最初からちゃんとそこでトイレしてたよなぁ。うちのご主人様は賢いなぁ。

「みー様、本当に猫?もしかして魔法で猫に変えられた王子様とかだったりして…」

「みゃーー?」

「ま、おとぎばなしだよね!カエルの王子様じゃあるまいし。」

笑いながら、テレビのチャンネルを変える。みー様が不機嫌そうに鳴いた。どうやら先程の番組がお気に召したらしい。

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猫様はご機嫌がよろしいようで。 そーだすい @uta_agedofu

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