#50 ハイデガーと仏教、そして科学


 ハイデガーの『時間と存在』を読んでいる。ハイデガーによれば、現代までの哲学において「存在」というものは一度も正しく問われてこなかったのだという。存在とは、それ単体ではなく他の存在との関わりの中で捉えられなければならないらしい。飛翔している野球のボールについて語るならば、それを打ったバット、バットを揮ったバッター、ボールを投げたキャッチャー、ボール工場の作業者といった存在を忘れてはならないのだという。人間(ハイデガーはこれを現存在と呼んでいる)が自分自身の実存について考えるときも同じだ。自分が存在するために誰がどのように関わっているのかを忘却してはならない。誰かが助けてくれているかもしれないし、自分の行動によって誰かが幸福になったり迷惑を被ったりしているかもしれない。これを忘却した状態を、非本来的な生き方というらしい。反対に、人々との関わりの中に自分が存在しているのだと意識して生きることを本来的な生き方と定義している。

 ここまで読んで、仏教の因果や縁の考え方と似ているなと思った。すべての存在者は関わり合っているとか、本来的な生き方とか。キリスト教をもとにした哲学から仏教的な世界観が生まれてくるというのは不思議なものだ。

 では逆に、仏教の哲学から西洋の科学的思考が生まれてくることはあり得るのだろうか。

 私がよく考えるのは、科学という思考法・科学というシステムは西洋でしか生まれ得なかったのだろうかということだ。東洋やアフリカでは、もともと持っていた世界観からは絶対に出てこない運命だったのか。単純に間に合わなかっただけのか、

 日本の神道、神道の土台であるアミニズムから科学を生み出すことは可能か。いずれはSF的に思考実験をしてみたい。


2022年1月30日

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100~1000字くらいのエッセイ鮮魚コーナー 丸井零 @marui9

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