瑣事

清野勝寛

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瑣事



 朝起きて、うんざりする。ああ、まだ続くのか。

ぐしゃぐしゃの頭を掻きながら、布団から出た。冷気が足下から押し寄せてきて、身震いする。閉じきったカーテンを開けるようなことはしない。もう長いこと閉じたままだ。こんな汚くて暗い部屋に、今さら光や新鮮な空気を与えたって、破れた半紙に墨で文字を書くようなものだろう。

「随分自分勝手だね」

 いつからか私の耳元で囁く声。今日も聞こえてくる。それはそう、もう、今さら過ぎてなんと返答すれば良いかも分からないような指摘だ。

「……おはよう、おはすみ。静かにしていて。出来れば一生」

 顔を洗い、タオルで濡れた顔面を拭いながら返す。足の踏み場がない。次のゴミの日は明後日だ。やる気も出ない。誰に見せるわけでもない。別に良いじゃないか、それで誰かが損する訳じゃない。

「自分を肯定するのだけは、本当に上手くなったよね。いや、肯定ではなく、正当化、か。言い訳とも言うね」

 着替えようとして、靴下を洗濯していなかったことに気が付く。ああ、まあ良いか。誰に見せるわけでもない。形骸だ。何日か前に多分履いたそれの中に足を突っ込む。

 それの何がいけない。分かってほしいとも思わない。理解し合えるとも思わない。理解できるとも思わない。なら、お互い傷がつかなければ、それでいいじゃないか。

「知ってる? どんなに巧みに人を騙して、嘘を吐いて、取り繕っても、自分自身を騙すことなんて、出来やしないんだよ」

「おはようございます」

 扉の鍵を閉めると、大家が声を掛けてくる。頭だけ下げて、ボロボロのコンクリートの上を歩く。靴紐がほどけているのが気になって結び直す。乾いた風が上着の裾を羽ばたかせる。鬱陶しい。

「これ以上、一緒にいたくない」

 唐突に聞こえるその声に苛ついて、頭を掻き毟る。乱暴にポケットに手を突っ込んで舌打ちする。しまった、イヤホンを忘れたか。

車が行き交う。信号が変わると、当然車は停まる。皆一様に、ルールには抗えない。苛々した顔を車の中からこちらに見せている。きっと舌打ちでもしているだろう。あと五秒早くお前が朝目覚めていれば、この信号は通過できたかもしれないが。

「詭弁だ。だって信号は他にもある」

電車がホームに滑り込んでくる。それらに自分が飛び込んだ瞬間を想像する。上手いこと痛くないように逝けたら良いのだが、どうなのだろう。先にそれで死んだ人に聞いてみたいものだ。

 死んだ瞬間に声を失くし、言葉を失くし、交流を失くすとは、ずいぶん冷たいじゃないか。生前はあんなに、人との関わりが大切だとか宣うくせに。

「知ってるよ、死んだら終わりなんだろ」

 皆まで言うな。終わりなんだよ、蝋燭の火が燃え尽きてしまえば、そこから存在こと溶けて消滅してしまうかのように、終わり。

「終わりたくないの?」

 分からない。正直、生きていたいとは思えない。本当に、他に一切の形容もないほどに、無意味だから。生きれば生きるほど、惨めになっていく。這いつくばっている自分が、何事もなせない自分が、愛することもできない自分が、愛されようと努力することさえできない自分が。誰よりも私自身が、私に飽いている。

「おはようございます」

 バイト先に辿り着くと、そう声をかけられる。私はやっぱり会釈だけして、とっとと自分の作業に取り掛かる。私がスイッチを押せば、どこからか流れてきた泥々のものを機械が押し潰し、何かしらを形成する。そこに頭を突っ込めば、見事私もあれらの仲間入りが出来るだろう。

「じゃあもうこんなこと続けるのやめようよ、惨めなだけだよ。恥を晒すだけだよ」

 確かにそうだ。蟻の一匹や二匹、死んだって誰にもわかるまい。それでもここでこうして呼吸をし、ゴミみたいな給料でゴミみたいな飯を食って生き長らえている私は、一体どうして生きているのだろう。

「それじゃあもうおやすみ、こっちも丁度疲れてきたところだ。毎日飽きもせず同じことばかり考えやがって」



だって、一度くらい。



「この世界に生まれてきて良かったって、思いたいじゃないか。幸せだったって、恵まれていたんだって、最高だって思って、死にたいじゃないか」


「みんなが当たり前だと思っていることが、私にとって当たり前じゃないことに、何か意味や理由が欲しいんだ。私がおかしい、じゃなくて、ただ私が特別だっただけだって、そう思いたいじゃないか」


「そのせいで失ってきたんだ。そうなれない自分のせいで、愛したい人ともいられなくなった。一人でなければいけなくなった。それを、皆、全部、私以外のせいにしたいんだ。ああ、私が特別だったから全部全部上手くいかなかったんだねって、諦めたいんだ」



 気が付くと、一日が終わる。

「お疲れ、また明日」

 頭を下げる。くだらない生き方をしているな、お前。クズには何も出来ないよ。一体幾つまで、物語の主役を気取っているんだ。

「そんなつもりはないよ、ただ一人でいるべき人間だったというだけ。それに納得のいく理由があれば、すぐにでも私はビルから飛び降りるよ」

 いいや、お前は死なないね。蛆のように蝿のようにずっと惨めに、腐敗した何かにしがみついて生きるんだ。美化し続けている思い出とか、神格化されている小さな小さな優越感とかにな。

「顔をあげると、夕焼けが両目を焼いた。未だに信じられない。星がまわっていることも、あれが気の遠くなるほど遠いところにあるものだということも」

 そこにないものを否定する人間は少ないから。妄言だろうと狂言だろうと、本人がそれを信じるなら、真実なんだ。お前の中ではな。

「くだらない。そろそろ黙ってくれないか」


そう言って乱暴にポケットに手を突っ込む。

ああくそ、そうだ。今日はイヤホンを忘れたんだった。

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