傘隠し

タイロク

第1話

 兄さんはうなりました。


 むぅ、と眉間にしわをよせ、おでこを指でぐりぐりとおしています。




「うーん……」


 首をひねって一生懸命考えているようですが、いつまでたっても表情は和らぎません。


「わからん……」


 兄さんはポツリとつぶやきました。


「大丈夫ですか、兄さん? すこし休まれてはどうですか?」


「いや、大丈夫だよ」


「でも、もう三冊目ですよ。目も疲れているのではありませんか?」


 朝が弱いにもかかわらず、兄さんは早起きして本屋に行ってきたのです。それからずっと読んでいるのですから、疲れていないわけがありません。




「すこしな。でも大丈夫。もうちょっとでわかりそうなんだ」


 そう言うと、兄さんはふたたび本に目をおとしました。すると今度は、正面からため息が聞こえてきました。幼馴染さんです。


「あんた、本ばっかり読んでないで勉強したら? いくら勉強ができるからって調子に乗ってると、痛い目見るわよ」


「問題ないね。それにいま大事なところなんだ。途中でやめるわけにはいかないんだよ」




 そう。兄さんがいま読まれている本は推理小説。ほかのジャンルよりも、覚えておくべきことや、考えなければならないことの多い本です。途中で読むのをやめてしまうのは、あまりお勧めできません。


「それに、おまえどうせ俺がやったのを写す気だろ? それじゃ力にならないぞ」


「うっ……そ、そんなことないわよ……」


 幼馴染さんはバツが悪そうに黙りこむと、ふたたびノートに目をおとしました。


 しかし、兄さんは容赦なく追撃をかけます。


「ちなみに、そこの問二まちがってるからな」


「えっ」


 兄さんたちは明日からテストのようで、幼馴染さんはその勉強にきています。正確に言えば、幼馴染さんの勉強を兄さんが見ているのですが……。




「ど、どこ? どこがまちがってる? 使う公式から違う?」


「自分で考えろ」


「教えてくれたっていいじゃないケチ」


 さきほどからあまり進んでいないようです。それにともなって、兄さんの読書スピードもいつもより遅くなっています。仕方ありません。ここはわたしが一肌脱ぎましょう。


「幼馴染さん、よろしければわたしがお教えしましょうか?」


「え……い、いいわよべつに。気持ちだけうけとっとく。いくらなんでも年下に勉強教わるのは……私にもプライドあるし」


 でもこのままじゃ、兄さんはいつまでたっても本を読み進めることができません。それじゃかわいそうです。




「あ、犯人わかった。でもってトリックは……」


 兄さんが目を輝かせたのを見て、わたしはホッと胸をなでおろしました。


「うぅ……もうイヤになってきた。テストなんてこの世から消えてなくなればいいのに。大体こんなのができたからなんだっての。よく『この公式は地球の裏側でも使える』とかいう教師いるけど、そんなの意味ないじゃない。ブラジルで数学の公式使うってどんな状況よ」


 やけになったのか、幼馴染さんがブツブツとつぶやき出しました。なんだかお経みたい、と思ってしまったのは秘密です。




「うるさいな。ブツブツつぶやくなよ。お経みたいだぞ」


 どうやら、兄さんも同じことを思ったみたいです。やっぱり兄妹、似ているところがあるんだなぁ、と思うと、うれしくてつい口元が緩んでしまいました。


「だって、本当にそうじゃない。ああ、ゆううつ。明日学校行きたくない」


「まあ、それには同意だな。明日は雨らしいし」


「あ、そっか。明日雨なんだ……。ふふっ、それはちょっと楽しみかも」


 はにかみながら言う幼馴染さんを見て、わたしと兄さんは顔を見合わせます。




「なにかあったな? 雨なんて日には、いつも文句言うのに」


「まあね。このあいだ、新しい傘買ったからさ。使うのがちょっと楽しみなのよ」


「あ、そう。じゃあ、気持ちよく傘を使うためにもしっかり勉強しろよ。……お、やっぱりこいつが犯人だったか。トリックも思った通りだ」


 兄さんが目をキラキラさせて言いました。推理を的中させて得意げになっている兄さん、やっぱりかわいいです。この笑顔を見るためなら、わたしはなんでもしてあげたくなっちゃいます。


 子供のように目を輝かせる兄さんを見て、わたしもつい笑顔になってしまうのでした。








 次の日は、天気予報どおりあいにくの空模様でした。


 シトシトとふる雨が、人の心まで曇らせているかのようです。でもわたしの心は、ねぼすけ兄さんを見て晴れやかになりました。ぼーっとしている兄さんもかわいいです。思わず頭なでなでしちゃいました。



 普段ならもっと兄さんを見ているところですが、あいにく今日は日直の仕事があるので、はやめに出なくてはなりません。それに、幼馴染さんがすでにきているので、兄さんにもはやく準備してもらわなくてはいけません。ふと窓の外を見ると、雨は止んでいるようでした。これを逃す手はありません。わたしはすべきことをすますと、学校へむかうのでした。




 兄さんがわたしに話しかけてきたのは、学校から帰宅したときでした。


「妹よ。ちょっといいか?」


「はい。なんですか、兄さん?」


「じつはな、ちょっとした事件に遭遇したんだ」


「事件、ですか?」


 兄さん曰く、今朝学校に行くとき、玄関先に見なれない傘が立てかけてあった。しかし、帰ってきたときにはそれが無くなっていた、とのことです。




「しかも、その傘は新品同然で、ついさっきまで使っていたかのようにぬれていたんだ。でも、うちの傘でないことは間違いない。うちにはあんな傘ないからな。ないはずのものが立てかけてあって、帰ってきたらなくなってたんだ。不思議な話だろ?」


「はい。一体、どういうことなのでしょうか?」


「うーむ……」


 兄さんはあごに手をあてて考えこみます。その横顔はすこし楽しそうに見えました。




「とりあえず、今朝を再現してみよう」


 実況見分を行うため、わたしたちは玄関先へと移動しました。空はいまだ曇天、いまにも雨が降り出しそうです。まるで、いまのわたしたちの状況を表しているかのようでした。


「今朝はたしかに、ここに立てかけてあったんだ」


 兄さんが指をさしたさきには、ちいさなちいさな水たまりができていました。雨にぬれた傘を立てかけていた証拠です。どうやら、ここに傘があったのは間違いないようです。




「ちなみに、兄さんが見たのはどんな傘だったんですか?」


「女の子っぽい傘だよ。傘の色は白だけど、模様はピンク色だった」


 兄さんは傘のことをきちんと覚えていました。観察力もさることながら、記憶力もいいなんてさすがわたしの兄さんです。




「なあ、ちょっといいか?」


「はい、兄さん。どうかしましたか?」


「おまえ、今日ビニール傘使ったか?」


 兄さんは傘立てを見て怪訝な顔をしています。


「どうしてですか?」


「ビニール傘が一本無くなってる。つまり使ったってことだろ? でも俺は使ってない。おまえはどうだ?」


「……はい。使いました。今朝、壊れているのに気づいて仕方なく。雨が止んでいたのでつい忘れてしまいました」


「そうか。なら、新しいの買わないとな」


「はい。このあいだ、かわいい傘を見かけたのでそれを買おうかと思ってます……兄さん?」




 兄さんはなにかに気づいたような顔をすると、うつむいて何事かを考えはじめました。一度こうなった兄さんは、途中で話しかけても気づいてくれません。なのでわたしは、兄さんの考えがまとまるまでじっと待ちました。やがてわたしに言います。


「妹、あいつに連絡をとってくれ」








「そもそも、今回の事件はぐうぜん起こったものだったんだ」


 二人きりのリビングで、兄さんが言いました。わたしはお茶を入れると、音をたてないように気を配りながら、兄さんのまえに置きました。




「今朝は雨が降っていた。土砂降りってほどじゃないが、傘が必要になるぐらいにはな。『なぜ傘がぬれていたのか?』その答えは簡単、雨が降っていたからさしたんだ」


「では、どうしてその傘がうちの玄関に立てかけられていたのでしょうか?」


 兄さんはお茶を一口すすってから答えます。


「その答えも簡単だ。今朝はたしかに雨が降ってたが、でも途中でやんだだろ?」


「はい。わたしはその隙に学校に行きましたから……あ、もしかして……」


「そう。雨がやんだから、傘を使う必要がなくなったから、あそこに傘を立てかけたんだ」


 兄さんは一度息を吸い、呼吸を整えてから事件の核心に迫ります。




「つまり、傘を立てかけた人物は、家を出たときは雨が降っていたため傘をさしていたが、ここについたときには雨は上がっていた。そのままでは荷物になると思い、玄関に立てかけておき、そして、家に帰るさいに持ち帰った。そんなことができるのは一人しかいない。


 そう、幼馴染だ。


 あいつは昨日言ってたろ? 新しい傘を買ったって。あれがその傘だ。さっき聞いたら認めたよ。『なぜ傘が新品同然だったのか?』の答えがこれだ」




 兄さんは一息に話し終えると、ふう、と息をついてお茶をすすりました。


「……すごいです、兄さん。あっという間に解いてしまうなんて」


「いやぁ、それほどでもあるぜ」


 兄さんはうれしそうに笑います。その顔は幸せそうで、見ているわたしの顔も自然と笑顔になりました。推理をして、自慢げに笑う兄さん……なんてかわいいんでしょう。


 やっぱり、この笑顔を見るためなら、なんでもしてあげたくなっちゃうわたしなのでした。








 わたしは、ふぅ、と息をつくと、鉛筆を置いてノートを閉じました。


 机の電気を消してベッドに座り、今日の報告をするために携帯で電話をかけます。相手はスリーコールで出てくれました。


「幼馴染さんですか? 妹です」


『ああ、どうしたの? なにか用?』


「はい。うまくいったので、報告しておこうと思いまして……」


『いいわよ、べつに。興味ないもん』


「いえ、そういうわけにはいきません」


『ふーん、律儀なのねぇ。でも妹ちゃんも物好きよね……』


 幼馴染さんは感心しているような、でもどこかあきれているような口調で言いました。




『あいつを喜ばせるためだけに傘の事件を仕組むなんて』




 幼馴染さんはため息交じりに続けます。


『しかも私まで巻きこむし。まったく、なんで私があいつのためにせっかく買った傘をかさなきゃならないのよ……せっかく自慢しようと思ってたのに……』


「ふふっ、そんなこと言いながら毎回協力してくれるじゃないですか。ひょっとして、兄さんのこと好きなんですか?」


「なっ! そんなわけないでしょ!? どこかのブラコン妹と一緒にしないで!」


「人聞きの悪いことを言わないでください。でも、作戦は大成功ですよ。兄さんは喜んでくれましたから」




 そう。今回の傘の事件は、すべてわたしが仕組んだこと。兄さんは無類のミステリオタク。推理小説を読むことはもちろん、自分で推理をすることも大好きな人です。そんな兄さんに喜んでもらうため、わたしは今回の事件を思いつきました。


 まず、いつもどおり兄さんをむかえに来た幼馴染さんに傘を貸してもらい、玄関に立てかけておく。幼馴染さんにはビニール傘を渡して、急な雨にも対応できるようにしました。そして、兄さんが帰ってくるまえに傘を回収しておけば、今回の事件の完成です。




「ふーん、ま、どうでもいいけど……こんなことばっかりして、いつかバレるわよ?」


「大丈夫ですよ。手を変え品を変えやってますし、今回のことを忘れないように、日記に書いておきましたから」


「日記なんてつけてたの?」


「ただの日記じゃありません。兄さんのことを書いておく日記です」


「……あ、そ」


 いつもはきちんと返事をしてくれる幼馴染さんが、ものすごくそっけない返事をしました。その声色は呆れかえっているかのようです。……わたしはなにかおかしなことを言ったでしょうか?




「まったく、そんなの書いて……。もし読まれたらどうするつもり?」


「大丈夫です。兄さんは人の日記を勝手に読むような人じゃありませんし、もし読んだとしてもわからないように書きましたから」


 実際、読んだとしても本当にわからないと思います。だって、『わたしはすべきことをすますと学校にむかうのでした』としか書いていませんから。以前、兄さんに貸してもらった推理小説が役立ちました。


「……本当にあいつのことが好きなのね」


「はい。大好きです」


 わたしは笑顔でそう答えます。だって、これだけは胸を張って言えることですから。それから改めてお礼を言い、傘は後日お返しします、と言って通話を終了しました。




 それから部屋を出ると、階段を下りてリビングに向かいます。ドアを開けたとたん、なにやら音声が聞こえてきました。理由はすぐにわかりました。テレビがつけられていたのです。


 しかし、兄さんの姿はどこにもありません。いったいどこに行ってしまったのでしょう。


「兄さん? どこですか? にい……ふふっ」


 わたしは思わず笑ってしまいました。兄さんはソファーで寝息を立てていたのです。推理小説を一日に三冊読んだり、幼馴染さんの勉強を見たりと、昨日の疲れが残っていたのでしょう。大好きな刑事ドラマを見ながら寝てしまうなんて。


 でも、こういうときのことも考えて、録画予約をしていたわたしに死角はありません。


 兄さんは、起きたら喜んでくれるでしょうか? 喜んでくれるといいなぁ。


 わたしは静かに寝息を立てている兄さんの頭を愛おしげになでると、耳元で静かにつぶやくのでした。






「おやすみなさい、お兄ちゃん」

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