第11話 エピローグ

 数日後、夕夜はどこか緊張した面もちで指導教官の部屋の前に立っていた。その脇には黒い艶を湛えた、年代を感じさせる古い木箱が抱えられている。深呼吸をし、目の前の白い扉をノックする。直ぐに中から、入れ、というコトリの声が返ってきた。

 ドアノブを回して入室した夕夜を出迎えたのは、コトリのにやりとした笑みであった。

「よお、ご苦労だったな。で、どうだった?」

 夕夜が無言で手にしていた木箱を差し出すと、彼女は待っていたとばかりに身を乗り出す。

 彼女の指が触れる寸前、夕夜は木箱を引っ込めた。眉間に皺を寄せながら夕夜を睨みつけ、不機嫌そうな声を出した。

「早くそれを見せろ。マリーアントワネットの懐中時計か、それともまさか原始の砂時計とやらか? 砂時計ならどうせ偽物だぞ。あんなのは唯の与太話だからな」

「やはり、知ってたんですね」

 夕夜が嘆息しながら木箱を開くと、中は空だった。

「何のつもりだ?」

「俺は確か、親御さんからの依頼で行って来いと言われてたんですがね。先生は別の目的があったんですか?」

 コトリは何も答えず、夕夜の言葉の続きを待っている。常人ではつい目を背けてしまうほどの怒気をはらんだ視線を受けつつも、夕夜はまっすぐに見つめ返す。

「やはり時計が狙いでしたか。マリーアントワネットは手元にはありません。どこかに置いて、忘れてしまいました。修士号を取得できたら、どこに置いてきたか思い出すかもしれませんが」

「それは脅しか?」

「いいえ。取引、でしょうか。先生に何か疚しいことがあるなら、脅しに感じるかもしれませんね」

 しばし睨み合う。時計の秒針が進む音だけが聞こえる室内には、目に見えない火花が飛び散っていた。

 夕夜が緊張に耐えきれずに唾を飲む喉が鳴ると、コトリは頬をゆるめた。彼女は顔に手を当てながら天を仰ぎ、大声で笑い出す。

「いやいや、やられたよ。私も辛抱が足りないな。欲しいものがあると思考が短絡になってしまう」

 ひとしきり笑い、視線を夕夜に戻したコトリの目尻には、涙が浮かんでいた。

「依頼の件はな、あながち嘘でもないんだ。言って来たのは向こう親御、つまり時津方宗善氏だな。娘が年頃だから身持ちの堅そうな学生を紹介しろって言われたのさ。だからお前を行かせたんだ」

「そうですか。残念ですが破談ですね。で、どうするんですか? 俺は土産話なんてする気はありませんよ」

「ああ。お前はちゃんと進級できるよ。その反骨精神に十分楽しませて貰ったからな」

「ありがとうございます。でも、まだ思い出せませんね。きちんと修士号を受け取るまでは何があるか分かりませんから」

「そう警戒するな。寧ろ飛び級で博士号をやろう。来年からはポスドクで雇ってやる。それに時計に関してはな、私も手を打ってはあるんだ」

 コトリは満面の笑みで手元の受話器を取ると、内線にかけた。電話に出た相手に、すぐに部屋に来るようにと告げて電話を切る。

 夕夜がいぶかしんでいると扉が小さくノックされた。

「入れ」

 扉が開くと、そこには事務服を来た女性が立っていた。栗色の髪を一つに纏めて右肩に垂らし、太い黒縁の眼鏡をかけている。

「先生、何かご用でしょうか。 って、あれ? 夕夜さんじゃないですか」

 入ってきたのは小夜だった。夕夜は彼女を見て己の失策を悟り、額に手を当てた。

「紹介しよう。昨日付けで私の秘書になった野村小夜だ。いや、紹介の必要は無かったか。向こうではずいぶん世話になったんだろうからな。彼女は元々うちの大学に在籍してたんだがな、昨日付けで退学届けが受理されていた。ちょうど秘書が欲しかったんでな、雇ったんだ」

「ここって夕夜さんの研究室だったんですね。これからよろしくお願いします。ところで、先生とはどんな関係ですか」

「野村秘書、もう戻っていいぞ。私は夕夜と話をつけないといけない事があるからな」

「いえいえ、どうやらお二人は研究以外で何かお話されていたご様子。私も夕夜さんとは知らない仲ではありませんし、お話に混ぜてください」

「知らない仲とはどんな関係だ?」

「さて。ご想像にお任せします」

「おい、泥棒猫。言っておくが私はお前の雇い主だぞ」

「いえ。私のお給料は大学からいただいてます。先生が私を解雇したいのであれば大学側も考慮するでしょうけど、それなりの理由が必要でしょうね」

 口だけの笑顔を浮かべて言い合う女性たち2お蚊帳の外から眺めつつ、夕夜はため息をついた。一歩でも動けば自分に矛先が向けられると感じているのか、夕夜はその場から動けないようだ。

 彼の存在を忘れたように、コトリと小夜のやり取りは白熱していく。

 それを聞き流しながら、夕夜の目は遠くを眺めるものになっていた。彼は胸中で、小夜と雪の中で交わした約束を後悔しているようだった。



 夕夜と小夜は雪の中に並んだまま、救助の到着を待っていた。ここ数日の吹雪が嘘のように空は澄み渡り、鳥のさえずりさえ聞こえている。背後には崩壊した館が鎮座しており、流れ出た大量の砂がそよ風に乗って輝く帯を形成していた。

 周囲に厚く積もった雪と風に舞う金色の砂という終末の景色と、降り注ぐ陽光という牧歌的な要素が混じり合い、アンバランスな、ある種の狂気を感じさせる光景となっている。それは館の祈祷室に通ずるものがあった。

「夕夜さん、どうして私の父親が野村じゃないと気づいたんですか」

 小夜はぽつりと、隣で紫煙をたなびかせている夕夜に問いかけた。

 彼はその声が聞こえていないかのように煙草を吸っていたが、顔を反らせたまま答える。

「お前は、俺の事を『お父様』に聞いたといっていた。だが、野村は俺の事を知らなかった。それとお前は悪ふざけで、葵の真似をして俺に声をかけた。お前と葵の普段の口調はかけ離れているから気づきにくいが、同じようにしゃべれば血縁を疑う程に声音が似ていた」

 夕夜はそこで一度大きく煙りを吐くと、小夜に顔を向けた。

「お前が何を狙っていたのかは分からなかったが、初対面でしつこく研究を訪ねてきた時点で警戒心を抱いていた。お前は野村の計画も、館のカラクリも全て看過した上で、自分の望み通りの結末になるように立ち回っていた訳だ。例えば、『チャイム』の事は狩羽氏には隠していたんだろう? 彼の持っている知識があれば、すぐに真相が知れてしまうからな。そして彼に研究について野村の前で話をさせ、野村が彼を危険だと気づき自発的に殺害するように導いた」

「分かっちゃいましたか。夕夜さんがいつまでも動かないから、ヒントを出し過ぎちゃいましたね。私を警察に突き出します?」

「いや、俺は研究の取っ掛かりを得た礼をするだけだ。お前は全ての罪を野村にかぶせ、時津方の遺産を相続しようとしていたようだからな。その望みを叶えてやるよ」

「私は、酷い女でしょうか? 実の父と育ての父が死んだのに泣けない、悲しくない。私は、おかしいですか?」

「さあな。興味がない」

「それって、女性に対してあんまりにも失礼じゃないですか?」

 小夜の言葉は夕夜を詰るものであったが、その顔には軽薄な笑顔が張り付いている。

「お前は、原始の砂時計とやらを見たことがあるか?」

「気になります? 夕夜さんって意外とオカルトとか好きな人ですか?」

 夕夜の問いを小夜はちゃかすが、彼は真剣な表情を崩さない。じっと見つめられ、小夜は根負けした様子でしぶしぶと答えた。

「一度だけ、見たことがあります。私がまだ小さい時でした。お父様に呼ばれて部屋に行くと、机の上に古い砂時計があったんです。大きさは手のひらに乗るくらいで、神秘的な雰囲気の砂時計でした。中に詰まった砂は砂金というか金の小さな粒みたいで、金色でキラキラしていました。ただ、その落ち方がすごく奇妙だったのを覚えています」

 手にした煙草を吸うのを忘れるほど、夕夜は彼女の言葉に聞き入っていた。小夜はよほど印象的な体験だったのか、目の前にその砂時計があるかのように、うっとりとした目をしている。

「金の砂は、流れ落ちているようにも、逆に登っているようにも見えました。砂時計の下側に溜まっていくはずの砂も、減っているようで増えているようで。見つめていると自分の周囲の時間がデタラメな動きをしているんじゃないかと錯覚してしまうような、本当に不思議な動きでした。何かそんな錯覚を起こさせるような仕掛けがしてあったんでしょうけど」

「原始の砂時計、か。あるいは、宗善氏はそれを造りたかったのかもしれないな」

「どういうことですか?」

「流れ落ちる一方である砂を、この館は大がかりな仕掛けで逆流させている。食堂にかけられた時計は、大砂時計の上部にある砂の残量に連動していたんだろう? クロノス像の台座には、砂時計の上半分、つまり三、四階部分から流れ落ちた砂を巻き上げる装置が仕込まれていた。その騒音をごまかすために『チャイム』なんて迷惑な仕組みも導入してあった。そして、砂が全て流れ落ちると」

「館は崩れます」

 小夜は、呆れたちゃいますよね、と疲れた微笑みを浮かべた。

「祈祷室は大砂時計の砂面なんかじゃありません。砂時計の上に被せた蓋みたいなものです。上半分に砂が十分にある間は、祈祷室の床を支える柱は砂で固定されています。でも砂が減るとその柱を支えられなくなり、蓋が落ちるように祈祷室が落ちる仕組みです。お父様は、石像にある砂の昇降機を動かす為に、毎日お祈りなんて言って祈祷室に行ってた訳ですね」

「食堂の時計はデタラメな時間を刻み、時間が跳躍したり巻き戻りったりする。そして、宗善氏の人生の新たなステージが始まる時、つまりは雲隠れして逃げたい時に崩れ落ちて消える。これはシアトリカ、大がかりな舞台装置で造られたトリックだった訳だ。時計を収集していたのもどうせ、札束よりもかさばらないからだろう。非正規に取得した物品なら持ち出そうが誰も分からないからな。そう、お前が懐に忍ばせているように、な」

「あはは、バレてましたか」

「あの二人はどうした」

「エティアさんと秤さんですか? 一応、崩れるから逃げるように言いましたよ。二人ともクロノス像に必死になってしがみついてて、聞こえてなかったかもしれませんけど」

 悪びれた様子も無く答えると、それはそうと、と話題を変えた。彼女の胸中にどんな感情が宿っているのか、張り付けたような笑顔の下に完全に隠されている。

「この時計を換金するルートを探さないとなんですけど、夕夜さんどこか知りませんか?」

「一介の学生がそんなもの知ってる訳ないだろう」

「ですよね。ま、口座残高もたくさんあるようでしたし、それを相続すればしばらくは大丈夫です。ゆっくり探しますね」

 小夜はカラカラと軽い声で笑う。夕夜はそんな彼女を非難することはなく、興味が尽きたように視線を外していた。

 小夜は笑みを消し、顔を俯かせる。何度か横目で夕夜を見るが、彼は気にした風でもなく、無限遠方に焦点を合わせているような視線を前方に投げているだけだった。

 小夜は何かを言い掛けては口を閉ざす仕草を繰り返している。

 そして両手を堅く握ると、夕夜に体を向け、大声で彼の名を呼んだ。

「夕夜さん!」

「うるさい。そんな声を出さなくても聞こえる」

 淡々とした彼の答えに一瞬怖じ気づいたようだったが、彼女は言葉を続けた。

「私、どこにいけばいいのか分からないんです。その、夕夜さんの近くに居てもいいでしょうか? 今回はちょっと黒幕的な感じでしたけど、夕夜さんは裏切りません。この時計に誓います」

 彼女は名前を呼んだ大声とは一転して小さな声で話すと、懐から金の鎖に繋がれた豪奢な懐中時計を取り出して彼に差し出した。それはプラゲ160、通称マリーアントワネットの懐中時計と呼ばれる至高の作品。

 夕夜は貴金属とクリスタルの織りなす輝きに目もくれずに、頭を下げて時計を差し出している小夜の姿を一瞥すると、つまらなそうに鼻をならした。

「そんなものに興味はない」

 その言葉に、小夜の手から力が抜け、時価二百億円とも言われる時計が落ちそうになる。

「だが、どこに居ようがお前の勝手だ。好きにすればいい」

 小夜は顔を上げた。美しく跳ねた栗色の髪と陽光を受けて輝く瞳が、彼女の本心を垣間見せていた。

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砂のシアトリカ 木山糸見 @kymaitm

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